3.陰陽師
いつもの通学路は、商店街や町中を進むのだけれど、遠回りの方は住宅地を抜けて公園へと出る道になる。
公園周囲をぐるりと回っても学校には着くが、それではさすがに時間がかかる。いくら余裕があるとはいっても、遅刻ギリギリになってしまうのはいただけない。それで、公園の中をつっきって行く形になった。
犬の散歩をする人、ジョギングの人――のどかな風景が広がっていた。
公園だからもちろん、木や茂みもあり、朝露の香りを爽やかな風が運んでくる。おいしい空気を吸い込んだあと、胡桃は克海を見上げた。
「えっと、陰陽師が科学者って?」
並んで歩きながら問いかけると、克海は軽く肩を竦めた。
「映画とか小説では、呪術師とか特殊能力者みたいなイメージだろ」
「違うの?」
「そういう部門もあったみたいだけど、全員がそういうわけじゃなくて。陰陽寮には、天文や医学、文学とか、当時の最先端の知識が集まってるわけだ。加えて、政治の中枢にいる。現代で例えるなら、文部科学省みたいな」
「文部科学省」
陰陽師や古い時代の話には、縁遠い単語だった。別次元の話として捉えていた胡桃にも、ぐっと現実味が増してくる。
「でも、安倍晴明とか。あの人見てると、やっぱりお化け退治のイメージが」
「だからそれは物語だって」
素朴な疑問をぶつけると、克海が唇に苦笑をにじませる。
「よく、晴明には邪を払う能力があったとか言われてるけど、おれはちょっと違うと思ってる。当時、妖に取り憑かれたとかされてる人の、大部分は精神疾患の患者だったんじゃないかなって。で、晴明は深い洞察力で悩みを解決し、正常へと導く。今で言えば、凄腕の心理学者ってところなんじゃないかな」
「うぅん」
克海の説明はとてもわかりやすく、また理に適っているとは思うのだけれど、だからこその疑問が湧く。
「実はうちってね、平安時代から続く家柄で、ご先祖さまが陰陽師だったらしいの」
祖父が語ってくれたのは、ただただ怖く、気味の悪い話だった。
けれど系譜を見せてもらったこともあり、離れにある蔵にはなにやら古めかしい文書類があるので、話自体を疑ったことはない。
「お家はもちろん何回も建て直してるんだけど、土地は変わらないらしくて。辻? だっけ。よくわかんないんだけど、霊の通り道になってるんだって。それで殿さまから、陰陽師であるご先祖さまに、霊を鎮めながら暮らしてくれっていうか重石になってくれって意味で、あの土地を下賜されたんだって」
「へぇえ」
昔、よく聞かされた話を思い出しながら、ぽつぽつと語る。克海はかなり、興味津々の様子だった。
「でね、おじいちゃんが言うの。代々陰陽師をやってた家系には、そういう能力が血で受け継がれるって。おじいちゃんもちっちゃい頃から、よく幽霊とか見てたんだって。自分もそうだから、霊感が強い人って見れば大体わかるらしいんだけど……あたしもけっこう強いんだって」
「ああ、なるほどね」
胡桃がため息を洩らすのと、克海が納得の声を上げるのがほぼ同時だった。
「そりゃあ、小さい頃からいわく付きって言われてる土地に住むことになれば、怖い気持ちにもなるよな。ましてお前は見えるかもしれない的なことを言われてたらさ。風が吹いてなにかが揺れただけでも、お化けを見たって思うのも無理ないのかも」
感想じみて呟かれた台詞は、とても現実的だった。
幽霊の正体、枯れ尾花――そう言われれば、そんな気もする。
祖父宅を苦手だったのは、物音や気配めいたものを感じていたからだ。それらが、怖い気持ちが見せていたものと思えば納得できる。筋も通っていた。
だが、おかしな点もある。
「でもね、お化けはそれで説明できるかも、なんだけど……昨日の夜はね、金縛りにもなったの」
自分の意思で体を動かせない現象は、決して気のせいではなかったはずだ。
「金縛り?」
「どうせ草野くんは信じないんだろうけど」
意図せず発した恨みがましい口調に、いやいやと苦笑された。
「信じないことはないよ。金縛りって現象があるのは、否定してないし。科学で説明できるから」
「金縛りが?」
陰陽師が科学者だと言われたときと、同じくらいの驚きがあった。オウム返しに問うと、首肯が返ってくる。
「これも脳の働きなんだけど。メカニズムとしては明晰夢と一緒。頭は起きてるけど、体は寝てるわけ。だから頭は動こうとするけど、眠ってる体は動かない。焦るだろ? 怖いな、なにか出るんじゃないかな、とか思うわけだ」
「あー……」
思い当たる節はあった。金縛りは前兆で、このあと怖いことが起こるんじゃないかと心配した矢先に、僧侶たちが現れた。
あれは、恐怖心が見せたものだったのか。
納得しかけて、無視できない感覚のことを思い出す。
「でもね、お化けに触っちゃったとき、ものすごーいヒヤってしたの。とてもじゃないけど、気のせい、なんて思えない」
あの、背骨を駆け降りた悪寒。
背筋だけではなく、心臓まで凍りつくかのような嫌な感触は、現実以上に現実感があった。
「だから、明晰夢だろ?」
神妙な面持ちになる胡桃に対し、克海の口調は軽かった。なにを今更、とでも言いたげな、呆れの色も見える。
きょとんとしたあと、ハッとなった。
「そっか、明晰夢!」
夢なのに現実としか思えないほどリアルな感触がある、と説明してもらった。
実際に、少女の血液や風に吹かれた感覚を体験している。僧侶の列が通り抜けていったあの感触も、同じ原理によるものだったのだ。
まして、明晰夢と金縛りのメカニズムは一緒だという。
なら、目が覚めたと思っていたけれど実はまだ夢の中、それも明晰夢の真っ最中だったとすれば、謎は氷解する。
「全然不思議じゃない。怖い話じゃなかった! よかったー!」
心底からの叫びに、頭上からくすくすと笑い声が降ってくる。
ふと横を見上げると、克海が軽く肩を竦めた。
「幽霊とか本気で怖がってそうなのに、住んでるところがいわく付きって面白いなと」
「面白がってる場合じゃないもん」
「大変そうだなーとも思うけど」
むくれて見せると、悪びれた風もない笑顔が返ってくる。まぁいいけど、と胡桃も軽く笑った。
正直、変な話をしたと思うのに、しっかり真面目に聞いてくれた。面白いとは言うが、心配してくれたのもわかっている。
なにより、胡桃が経験した「怖いこと」に、科学的な答えをくれた。かなり、気が楽になったのは言うまでもない。
だからこその疑問が浮かぶ。
「でも草野くん、やけに詳しすぎない?」
夢診断がどうのと説明してくれたとき、出てきた人名らしき横文字を、まったく知らなかった。それがさらりと自然に口をついて出たのは、よほど身についているからだろう。
そもそも、明晰夢というものも初めて知った。「聞いたことない?」と訊かれたところをみると、さほど一般的でもないのだろう。
質問に、克海がああ、と苦笑する。
「おれのおじさんといとこが、心療内科医なんだ。そのいとこと仲が良くてさ。話聞いたりしてるうちに興味もって、ちょっと調べたりしてたんだ」
「そっか。だからいろいろと詳しいのね」
「とは言っても、雑学のレベルだけど」
「そうなの?」
聞いている限りでは、雑学レベルなどではなく、かなり詳しく思える。それとも謙遜なのだろうか。
見上げる先には、困ったような笑みがあった。
「だからそのまま、まるっと信じられると困るけど――まぁ、参考程度にでもなれば」
別に解決策を求めて話したわけではない。流れでなんとなくそうなっただけだ。
むしろ気休めでもなんでも、原因らしきものに説明をくれたのだから、感謝以外はない。
「あれ」
ありがとう。胡桃が口にするよりわずかに早く、克海が首を捻る。
「広瀬、それ……」
克海の視線が、胡桃の制服に向けられている。つられて、自分の身体に目を落とした。
白いブラウスにキャメル色のブレザー、茶を基調としたミニスカートとハイソックス。別におかしなところはない。
襟元を見ていたから、リボンが歪んでいるのかとも思ったけれど、それもなかった。
「どれ?」
「あー……いや、なんでもない。たぶん見間違い」
眉を歪めた、自嘲気味の笑みだった。
ごまかされたとは思わないけれど、歯切れは悪い。とはいえ、追及するほどの問題でもない。
結局はうやむやのまま、「そう?」「うん」と短い会話でこの話題は終わった。
「胡桃ーっ!」
名前を呼ばれて、振り返る。教室の、自分の席についてすぐのことだった。
「香織ちゃん、おは……」
よう、と続けるより先に、近づいてきた香織にガバッと抱きしめられる。長身の香織に引きずられるような形で立ち上がった。
「ど、どうしたの」
突然のハグに、驚かないはずがない。問いかけが、狼狽のために震える。
少し体を離し、正面から見つめてくる香織の瞳が、やけにキラキラと輝いていた。
「見たよ! 草野くんと一緒に来てたよね?」
なんだそのことか。軽く息を吐く。
向かう場所が同じだから、別に離れて歩く必要はない。目的だった話が終わったからと、じゃあねと別れる理由もなくて、教室まで一緒に歩いてきた。
いたって普通の行動のはずなのに、なぜこんなにも盛り上がっているのだろう。
「いつの間に仲良くなったの? っていうか、つきあってるの!?」
「は?」
あまりの突然の質問に、きょとんとしてしまう。なぜそういうことになるのか、まったく理解できなかった。
「つきあってないよ? それに、特別に仲がいいってわけでもないし」
昨日と今朝、電車が一緒になっただけだ。話を聞いてもらったのは事実だけれど、克海だから話したということでもない。
また、克海も胡桃だから聞いてくれたわけでもないだろう。互いに話しやすい相手だったのはあるかもしれないが、それだけの話である。
「わかった! これから、仲良くなりたいのね?」
相変わらずキラキラした目で見つめられて、返答に困る。
そんなんじゃないってば! と慌てて否定しては、克海を嫌っているようだ。彼に対して好意的なのは間違いないのだから、それでは誤解を与えてしまう。
かといって頷けばまた、違う誤解をされかねない。
「わかるわかる! 草野くんって、かっこいいよね!」
口ごもっていると、香織はひとり、うんうんと頷いている。
言われてみれば、と克海へと目を向ける。
こちらからは自分の席に座り、友達と談笑している姿が見えた。
特別に目を引く美形とか、群を抜いてのハンサムだとかではない。
それでも顔立ちは整っている方だし、清潔感もあって、爽やかさもある。おおむね、好印象を抱く人が多いのではないか。
改めての観察に、あっ! と内心で声を上げた。
どうして今まで気づかなかったのだろう。彼は、ある人物に似ているのだ。
知り合いではない。弟がしているスポーツの、試合の応援に行って見かけただけだ。
一方的に知っている、憧れの人。
その人に、そっくりというほどではないが、雰囲気というか印象が似ている。
だから初めて会ったときから、既視感のようなものを覚えていたのか。
納得するのと同時、そっくりと言うなら夢の中の彼だと気づく。見つめ合い、誰かに似ていると思ったけれど、今の今まで気づかなかったのだから鈍い話だ。
様子を見れば、二人が恋人同士なのは疑いない。現実では言葉も交わしたこともない憧れの人と、夢の中で恋人になっているなんて。
変身願望と言われてもピンとはこないが、もし彼の恋人になりたいかと訊かれれば、答えは当然――
「――っ!」
急激に恥ずかしくなって、両手で顔を覆う。「夢は願望の表れ」という言葉が浮かべば、尚更だった。
触れた頬が熱くなっているからきっと、赤くなってもいるだろう。
「可愛いーっ!」
じたばたするのを気力で我慢していると、また香織にぎゅーっと抱きしめられた。
「大丈夫! 胡桃もとっても可愛いんだし! きっとうまくいくって、応援するっ」
先ほど以上のキラキラした目で見つめられて、どうやらさらに誤解を強めてしまったことに気づく。
「えっ、いや、違う違う」
そうじゃなくてと続ける間もなく、恥ずかしがらなくていいから、とさらに力を込めて抱きしめられる。
――これは、誤解を解くの大変そうだなぁ……。
なんとなく疲れて、はう、と軽いため息が洩れた。