24.涙
なぜ、気づかなかった。
背骨を、じわじわと嫌な感覚が這い上がってくる。暑くもないのに、妙な汗が肌の表面を覆っていた。
顔も見たくないのに、目をそらすことができない。せめて気持ちで負けぬよう、丹田に力を入れて睨み返すだけで精一杯だった。
ずっと、違和感はあったのだ。
だがそれは、月龍の記憶が戻ったか、戻りかけているせいで、感情が揺さぶられているのだと考えていたのだ。
まさかこんな、最悪の事態になっていようとは。
気力を振り絞り、唇の片端をつり上げて見せる。
「久しぶりだな――月龍」
名を口にするだけで、声が掠れる。心臓が痛いくらい、激しく高鳴っていた。
なぜ、思い到らなかった。自分の身に起こったことが、相手の身にも起きる可能性を。
克海が――月龍が、ゆっくりと目を細める。
「今更か。随分と鈍くなったものだな」
鋭い目つきのまま、唇の端に皮肉をひらめかせる。
――嫌になるほど、覚えのある表情だった。
烈牙の内にある蓮の感情が、怯えているのだろうか。心臓が凍りつき、身が竦むのを感じる。
だからこそ、ハッと強く笑声を吐き捨てた。
「悪ぃな。克海だと思って、完全に油断してたぜ。――しっかし、うまく擬態したもんだな、え?」
軽い語調を気取るのは、内心に抱えた恐怖心を悟られないためだった。
「確かにおかしなところはあったけどよ。まるっきり克海みたいだったぜ? 役者顔負けの――ってか、演技がうまいのは、今に始まったことじゃねぇか」
月龍は不器用な男だった。愛嬌もなく、上官に対してうまく立ち回ることもできない。
そんな男を評するのに、「演技がうまい」とはおかしな話だ。
当人も疑問に思ったか、皮肉のためとはいえ吊り上げていた口の端を下げる。
反比例するように、烈牙は思い切り笑みを刻んだ。
額に浮いた汗と、頬がこわばっているのは自覚済みだった。
「だってよ、蓮はすっかり騙されてたぜ? 出会った頃の純朴そうな顔を――蓮に心底惚れていそうな態度をな。公主に取り入るための演技だと気づけてりゃ、あんなことにはならなかったのによ!」
「――っ!」
最後には、叫ぶように吐き捨てる。月龍の顔色が、変わった。
本当に、わかりやすい男だ。
不意に覚えた懐かしさが、胸に痛い。表情はあまり変わらないのに、怒りの感情がすぐ、目に表れる。
「そういや、昔っからお前の常套手段だったか? わざと怖がらせてすがらせるってのは。だからわざわざ、こんな物に乗せたんだろ? 相も変わらず、姑息なこった」
「なっ……」
「おっと、図星さされて怒ったか?」
思わず、といった風に腰を浮かした月龍を前に、身構える。
「認めろよ、月龍」
自らを鼓舞するため、無理に刻んでいた笑みが消える。
たったそれだけの虚勢でさえ、厳しくなっていた。
「その方が理解できる。最初から身分が目当てだったって……蓮のことなんざ、なんとも思ってなかったってな」
「なぜそう決めつける!? おれは――」
「こんなにも蓮を愛しているのに」
言葉を継いだ形にはならなかった。予測して口にした台詞が、月龍ときれいに重なる。
「聞き飽きた台詞だな」
蓮の記憶が、完全にあるわけではない烈牙でも容易に思い出せるほど、よくその台詞を吐いていた。
きつく抱きしめながら、あるいは強く殴りながら、幾度も繰り返された言葉。
絶望と恐怖が、蓮に口を閉じさせる。なぜ、と問うことが、どうしてもできなかった。
――けれど、今なら。
「じゃあ訊くけどよ。蓮を愛してるというなら、なぜ殴る? 惚れた女泣かせて、なにが楽しいんだ」
「お前こそ槐を――」
「ああそうだ、散々泣かせたさ。だからこそわかる。泣いてる姿を見るだけで、抉られてんじゃねーかってくらい胸が痛かった。わざわざ泣かせて喜ぶお前の気持ちが、どうしたって理解できねぇ。ハナから想いがなかったって言われた方が――」
「うるさい!」
影が、動いた。
そう思った時にはすでに、遅かった。
観覧車の中など、ほんの半歩で向かいの相手にたどり着く。
ハッと目を上げる間もなく、衝撃に襲われた。
「――お前に、なにがわかる」
目の前に、月龍の顔があった。
その瞳にも、声にも、克海ならばありえない凶悪な色が満ちている。
ギリッと鳴ったのは、かみしめた奥歯か。
その間から洩れた低い囁き声と――手首に走った、痛み。
両手を後ろの窓に押さえつけられたのだと気づいた瞬間、恐怖より、悲しさより、無性に虚しさが沸き上がってきた。
「ハッ! またこれかよ」
短く、笑声を吐き捨てる。
「都合が悪くなればすぐ、力ずくで黙らせる。腕力にモノを言わせて、言うことを聞かせる――あの頃と変わってねぇ。結局お前はその程度の――」
「黙れ、と言っている」
地の底から聞こえるような、低い声。
克海の声はもっと、耳に心地よく、爽やかに聞こえる。同じ声帯を使っていたとしても、話し方、声の出し方でこれほど印象が変わるのか。
「なんでおれが、てめぇの言うこと聞かなきゃならねぇんだよ。おれは蓮とは違う。力に屈服なんざ……!」
しない。叫び返すと同時、跳ね飛ばすつもりだった。
なのに、ビクともしない。
状況が、理解できなかった。
克海と烈牙であれば、間違いなく烈牙の方が強い。相手が月龍だったとしても、烈牙の膂力ならば張り合えるはずだった。
こんな、押さえられた手をわずかに浮かせることもできないなど――
「なにを驚く」
予想外の出来事に、狼狽が顔にも表れていたのだろう。月龍が、微かに目を細める。
「おそらく、おれとお前、元の腕力は拮抗している。ならば、あとはこの身体の差――克海とその子の差になる。だとしたらこの結果は、当然だろう?」
――完全に、烈牙の失敗だった。
この、狭い密室に男と二人きりになることに、警戒を抱かなかったわけではない。だが克海が、胡桃を害するとは思えなかった。
ひとつめの誤算は、これだった。相手がまさか、月龍の記憶を取り戻した克海ではなく、克海の身体に宿った月龍になるとは。
月龍とわかってからは、確かに身構えていた。
それでも、どこかで油断していたのだろう。たとえ月龍が暴力に訴えてきたとしても、自分ならば勝てると。
慢心していたのだ。生きていた頃――自身の肉体であった頃、どんな屈強な男相手でも、力比べで負けたことはない。
胡桃の身体であっても、悠哉を驚かせるほどの力が引き出せるのだから大丈夫だと、安易に考えてしまった。
「――くそっ……」
どうにか抜け出せないかと、渾身の力を腕に込める。月龍がそれに気づかないはずもない。さらに力が加えられ、手首にかかる圧力が増しただけだった。
痛みに、顔が歪む。
抵抗すればするほど、月龍は力を入れてくるだろう。
烈牙が苦痛を覚えるだけではない。元に戻ったとき、胡桃にもそれが残るかもしれなかった。
そもそも胡桃の身体が耐えられない。現に今でさえ、押さえつけられた手首が悲鳴を上げている。
これ以上の力で圧迫されれば、胡桃の細い骨は折れてしまうのではないか。
ちょうど膝の上に乗る形で体重をかけられ、足の動きも封じられている。蹴り上げることもできず、ただわずかに身動ぎすることしかできなかった。
圧倒的な優位に、細められた月龍の目が、残忍に光る。
深い湖の底を覗きこんだときのような、引きこまれそうな感覚に背中が寒くなった。
「――で? これからどうする気だ」
抗いようのない腕力に屈する、恐怖。
自身では経験のないことだったが、散々この想いを味合わせられた蓮の記憶が、実感を伴って思い出される。
蓮はその恐怖に耐えきれず、泣いた。それすら通り越し、終いには涙すら出てこなくなった。
心が死んでしまった蓮に、月龍はなにをしたのか。
――同じ男だからこそ、許せない。
「殴るか? それとも犯すか。蓮にやっていたように」
強い力で押さえつけられ、すぐ間近で見上げる男の顔が、これほどまでに怖いとは知らなかった。
恐怖心に飲みこまれてしまわないように、一度は消した虚勢を張る。
だが、口の端をつり上げた表情は、笑みよりも泣き顔に近いのではないか。
「頭いいよなぁ、お前。死なねぇ割に心身に与える打撃はデカい。弱らせ、気力や判断力を奪っていうことを聞かせるには、うってつけだもんな」
「――黙れ」
「ああ、でももう、それほどの時間はねぇな? 頂上は過ぎた。こんな短時間じゃ、さすがに無理か。いくらてめぇが早くても……っ」
暴言に他ならないことは、自覚していた。
それでも、悪態をつくのをやめられなかった。月龍を怒らせることを承知で――だからこそあえて、だろうか。
だが、言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。押さえつけられた手首が、痛む。
ただ押さえつけるだけではない。おそらく、痛みを与えようとして、力を加えたのだ。
「――望み通り、その口をふさいでやろうか」
唇に――むしろ喉元に噛みつかんばかりの近さと、威圧感だった。
――ああ、これだ。
月龍はいつもこうやって、力と言葉で脅しをかける。
その度に蓮が覚えた恐れと絶望感は、これだった。
怖い、悲しい――憎い。
なのに、嫌いになれない。
「なんで――お前なんだ」
ぽつりと、恨み言が洩れる。
「亮殿下がいた。蒼龍だっていた。なのになんで、蓮はお前じゃないと駄目だったんだ……?」
王族の姫だった蓮は、望みさえすれば他のどんな男の元にでも嫁ぐことができたはずだ。
なのになぜ、よりにもよって自分を最も不幸せにする男を選んだのか。
逆もまた、言える。
身分のある女は、他にもいた。公主ほどではないにせよ、出世の足掛かりにできれば、問題はないはずだった。
月龍は見目もよく、優秀でもあった。女からの受けもよく、引く手あまただった。なのになぜか、蓮に執着した。
惚れてくれるそこそこの身分の女と一緒になっていれば、あの惨劇にはならなかったのに。
互いに、もっとも選んではならない相手だったのではないか。
「――なんでお前も、蓮だった? なんで――……」
月龍と、蓮の話だ。
なのに目前にある克海の顔に月龍が重なり、さらにはその奥に、槐の面影が見えた。
「なんで、槐はおれだった……?」
槐は徹頭徹尾、烈牙を想い続けた。その一途さに応える形で、二人は結ばれた。
ずっと、不思議だった。
槐の周囲には草薙を始め、魅力的な男たちがいた。そんな中なぜ、あそこまで烈牙を想ってくれたのか。
幸せにしてやれた自信はない。むしろ最期は――
「――なぜ、だと?」
月龍が、うっすらと笑みを刻む。口元だけが吊り上がった、嘲笑に類するものだった。
「簡単な話だ。槐にはおれの――月龍の記憶があった」
ハッと息を飲む。
嘘だと思いたい。けれど、突っぱねられるだけの理由はなかった。
まさかとやはりの間で、感情が揺れる。定まらぬ視界の中で、月龍の笑みが深くなったように見えた。
「お前の言う通り、おれは蓮に決して、優しくはなかった。だがそれをお前が言うのか? お前こそ、槐に乱暴したことがあるではないか」
事実、だった。
当時の烈牙は、完全に自信を喪失していた。そのようなとき、槐が草薙や烈牙の兄と親しげに接している姿を見てしまった。
他の誰に見捨てられても、槐だけは傍にいてくれると思っていた。
その槐が、離れて行ってしまう。
焦燥感に我を見失い、抗う槐を力でねじ伏せて、無理に奪った。
だからこそ、理解できないのだ。
槐を傷つけたことを、死ぬまでずっと、後悔していた。一度の過ちを悔い続けた烈牙から見て、日常的に繰り返し痛めつけた月龍の気持ちなど、到底わからなかった。
けれどその記憶があったから――蓮に対し、非道を行った自覚があったから、烈牙がつれなく接しても待つことができた。想い続けることができた。
烈牙が、蓮だったから。
「よくもおれを非難できたものだな。その手で槐を殺したくせに」
吐き捨てられた言葉に、全身の力が抜けるのを感じた。
否定したいのに、できない。この手に――胡桃の身体であるにもかかわらず、まだ残っているからだ。
槐の身体に刃が入っていく感覚、血にまみれてぬめる、あの感触を。
「一途に尽くした男に、最後には斬られ――槐も浮かばれまいよ」
見下ろす目、にやりと歪んだ口元、すべてに侮蔑が表れていた。
ふざけるなと、激昂することはできなかった。
月龍の言葉は、すとんと腑に落ちた。得心がいってしまった。
――ああ、槐はおれを恨んで死んでいったのか。
目頭が、熱い。
もうそれを、堪える気にもなれなかった。
ただそっと、目を閉じる。




