1.異変
帰りの電車を待つホームで、洩れかけたあくびをかみ殺す。
今日は始業式で、学校は半日で終わりだった。睡眠不足気味の胡桃には、嬉しい限りだ。
嬉しいと言えば、クラス割りにも恵まれた。
担任は去年と同じで好きな先生だったし、なにより、中学時代から仲のいい香織と同じクラスになれた。
もっとも、今までは香織と一緒に登下校していたが、それはできなくなってしまった。祖父宅が、元の家とは学校を挟んで逆方向なのだから、仕方がないのだけれど。
香織が乗った電車に手を振って見送ったあと、軽く嘆息する。
電車がくるまで五分、最寄り駅まで約十五分。
さほど長い時間でもないが、することがなければやや手持ちぶさただった。
明日からは本でも持って来ようかな。
何気なく視線を巡らせていて、見覚えのある顔を見つけた。
昨年に引き続き、今年も一緒になったクラスメイトだ。一八〇センチくらいはあるのだろうか。身長が高いので、人混みの中でもやや目立つ。
草野克海くん。
斜め後ろから、本を読む横顔を眺めて首を捻る。
特に親しいわけでもないが、「克海」を「かつみ」ではなく「かつうみ」と読む珍しさから、なんとなく覚えていた。
体格がいいせいか、黙っていると少し怖そうにも見える。けれど、昨年同じ委員になったこともあるので、意外に気さくなのは知っていた。
視線に気づいたのだろう。読んでいた本から目を上げ、振り返る。当然目が合ったのだが、気まずく思うよりも先に、にこりと笑ってくれた。
こんな感じだから話しやすいんだよね。思いながら、笑顔を返す。
実は入学式のときから、妙な親近感があった。中学校が違うので初対面のはずなのに、初めて会った気がしなかったのだ。
とはいえどこかで会った記憶もなく、彼もそんな素振りは見せないから、きっと気のせいだろうけれど。
「あれ?」
ただ、なんとなく目が合っただけだ。特に用事があるわけでもなく、彼もすぐに手元の本に目を落とし――
ふと、なにかに気づいたように振り返った。
「広瀬」
「はい?」
なんだろうと思っている間に、並んでいた列を抜けて寄ってくる。首を傾げられて、つられて同じ動作をした。
「お前、逆方向じゃなかったっけ?」
質問に、ああと納得した。
委員会の帰り、駅が同じだから離れる理由もなく、一緒に帰ったことがあった。そのとき、先ほどの香織とそうだったように、ホームのあちらとこちらに分かれたのを覚えていたのだろう。
「春休みの間に、お引越ししたの。お家の事情でね」
答えると、克海の顔に驚きが浮かぶ。それから、申し訳なさそうに眉を歪めた。
「あー……ごめん。立ち入ったこと、訊いた?」
謝られて、きょとんとする。立ち入ったことを訊かれた覚えもなければ、気まずそうにされる必要もない。
「あっ」
そこまで考えて、思わず声を上げる。つい、くすくすと笑ってしまった。
「ごめん、そんな大げさな事情じゃないから」
「引っ越し」と「家庭の事情」を合わせて考えれば、両親の離婚などを思い浮かべたのは想像に難くない。気遣いを申し訳なく思う反面、人柄の良さを見た気分でほっこりする。
「お父さんが県外に転勤になっちゃったの。けど、今までひとり暮らしなんてしたことない人だし、お母さんが心配してね」
「まぁ、確かにそうかもなぁ」
「でしょ? で、家族で引っ越すとなると、あたしと弟は学校があるし。二人だけこっちに残るとなると……」
「そんなにお父さんの心配する人が、子ども達だけにするわけないか」
「そうそう。だからね、近くにおじいちゃん家もあるし、お母さんはお父さんについて行って、あたしと弟はおじいちゃん家に住むことになったの」
そこまで心配される必要はない、ひとりでも大丈夫だと父は言っていたけれど、過保護気味の母には受け入れられなかった。
母曰く、四十年ほども誰かに家事をやってもらうのが当たり前だった人が、ひとりでまともに生活できるはずがない、のだそうだ。
母が不在時の昼食で、インスタントラーメンを作るのにも苦労していた。その姿を知っている胡桃と弟は、母の提案に頷いたのである。
付け加えれば、父の転勤自体も長くて二、三年、短ければ一年で帰って来られるのだそうだ。
ならばやはり、この案が最良だった。
――胡桃が、祖父の家と相性がよくないことを除けば。
「そうなんだ」
推測よりもずっと軽い「事情」だったのだろう。首肯する克海の顔に、笑みが戻る。
いい子だな。
心遣いに、顔が自然にほころんだ。
――偽善者が。
「えっ」
吐き捨てる声が聞こえて、反射的に振り返る。
下校時刻だけあって、たくさんの人がいた。けれど、こちらに注意を向けている人物は見当たらない。
「どうかしたか?」
話していた相手が、脈絡もなく振り向けば疑問にも思う。訝しげな克海に、口ごもった。
そもそも、本人が状況を把握できていないのだ。説明などできるはずがない。
結局は、なんでもないと曖昧に言葉を濁すしかなかった。
――気のせいだ。
そっと、胸に呟く。
聞こえたのは、囁くような低さだった。
なのに、あれほどはっきり聞こえた。耳元すぐ近くで発せられなければ無理だ。
だがもちろん、そんな不審者はいない。
まして、頭の中に直接響いたようにさえ感じられたのだから、気のせいに決まっている。
きっと、そうだ。
漠然とした不安を飲みこんで、自分自身に言い聞かせた。
柔らかな風に乗って、花の香りが届く。
雨上がりなのだろうか。微かに、湿った土の匂いも混じっている。
――ここはどこだろう。
ゆっくりと見渡す先は、一面の花畑だった。
どれだけ記憶を探ってみても見覚えのない風景なのに、ひどく懐かしい。
声が聞こえた。なんと言ったのか聞き取れないのに、自分が呼ばれたのだとわかる。
振り向くと、花束を抱えた男性が立っていた。
少し距離があるにもかかわらず、随分と長身なのがわかる。
日本とは違う着物を纏っていた。歴史の知識のない胡桃は、映画で観た三国志の服装に似ているから昔の中国かしらと、なんとなく考える。
ゆったりとした衣服の上からも発達した筋肉が見て取れた。やや薄めの唇をきりりと引き結んだ表情のせいもあり、どこか無骨な印象がある。
けれど――ゆっくりと歩み寄ってくる姿は、優雅だった。
通った鼻梁は繊細さを秘め、鋭い切れ長の目が特徴的な美丈夫である。
目前で足を止めた彼が、すっと手を伸ばしてきた。
右頬に触れた指先の皮膚が、硬い。軍人なのだろうか。促されて上げた視線の先で、彼がほんのわずか口の端を上げる。
はにかんだ微笑みに目を奪われていた。あまり表情が豊かではない彼に、この笑みを刻ませたのが自分だと思えば、なお嬉しい。
見惚れるように見つめ――ふと、誰かに似ている気がした。
誰だろう。
探るためにその瞳をじっと見つめ、深い湖を思わせる暗い輝きに気づいた。
――ああ、この人は昨夜の……
炎から庇ってくれた人だ。そして状況から想像すれば、きっと助からなかった。
だからこそ、胸が痛い。
今、目前にある笑みが幸せそうであればあるほど、穏やかな時間が長くは続かないと知っているから。
そうだ。これは刹那の――まやかしに過ぎない。
不意に、頭の中で声が響く。警戒と敵意を含んだ低い囁きに、ハッとなった。
なぜ、気づかなかったのだろう。見つめてくる漆黒の輝き、その美しい光に潜む、狂気の色に。
怖い。
反射的に逃れようとするも、男が動く方が早かった。
たった今までは優しかった、頬に当てられた手に力がこもる。張り倒された形になって、愕然と目を上げた。
日中の花畑にいたはずなのに、周囲が闇に包まれていた。
倒れた先も草花の上ではなく、寝台のようだ。背を襲うはずだった痛みは軽減されるも、安堵できる状況ではない。
馬乗りになった彼が、手を伸ばしてくる。
先ほどのように、柔らかく頬を撫でてくれるのではない。伸ばされた両手は胡桃の喉を掴み、強い力で圧力をかけてくる。
――首を、絞められている。
痛みよりも、苦しさの方が強かった。
なにより、悲しかった。
命懸けで守ろうとしてくれたことを知っている。壊れものに触れるような優しい手付きも、ほんの僅かだけれど幸せそうに浮かべられた笑みも。
なのになぜ今、殺されようとしているのだろう。
なぜこれほどまで、憎まれたのか。
問いかけたくても、喉を締め上げられていては声も出せない。助けを呼びたくても、悲鳴すら上げられなかった。
なにかを叫ぶ、男の口元が見えた。怒気を孕んで歪んだ唇、けれど目元には――
意識が途切れ、暗転したはずの視界にぼんやりと光が入ってくる。
スタンドランプの、淡いオレンジの光だ。
昨夜目が覚めたときに、夢か現かとっさに判断がつかなかった。暗闇の中で嗅覚に頼るよりはと、間接照明だけ灯しておいたのだ。
正解だった。おかげで昨日よりは早く、現実だと認識することができたのだから。
もっとも、現実だとわかった上でもなお、不安は拭えないのだけれど。
夢の中で、これはまやかしだと言った声には覚えがある。なのに、誰の声なのか思い出せない。
やり場のないもやもやに、溜息が込み上げてくる。
夢のことも、声の主のことも気になるのに、解決の糸口すら見いだせない状況は、気持ちのいいものではなかった。
この状態で眠ればまた、同じ夢を見るかもしれない。
ふと、本でも読めば気分転換になるかもしれない、と思いつく。
途中で眠たくなっても、気分が変わっていればきっと、同じ夢は見ない。
よしそうしよう、と本をとるために起き上がりかけて、動きを止める。
――正確には、動けなかったというべきか。
体を起こそうと力を入れた指先だけが、ぴくりと動く。
それだけだった。その指先さえも、もはや動かない。
えっと……これって金縛りってヤツかしら。
のんびりと考える。焦ってもなにがどうなるわけでもないと思うあたりが、よく人にずれていると言われる理由かもしれない。
どうせ隣の部屋には弟がいるし、もしかしたら異変に気づいてくれる可能性もある。
それでなくとも、朝になって胡桃が起きてこなければ、祖父が様子を見にくるだろう。
ああでも、それまでずっと金縛りのままなのはイヤだなぁ。
オレンジの光に照らされ、見えた時計の針はまだ三時を指している。起きる時刻まであと二時間もこのままなのは、さすがに辛い。
さらなる心配も、当然あった。奇異が金縛りだけで終わる保証はない。
むしろ、よく聞く怪談では前兆に過ぎないことが多くなかったか。
――ほら。タイミング悪く、不気味な声が流れてくる。
男の声だ。高く低く、一定のリズムを刻み、幾重にも重なっている。
読経の声だと気づくのに、数分かかった。
悪趣味な。
さすがに、非難の感情が湧く。深夜に集団で経を唱えて回るなど、非常識にもほどがあった。
そう、非常識だ。現実に、ありえるはずがない。
そんな連中はいないと言っているのではなく、そんな集団がいれば当然、苦情は出る。
それが一切ないのは、胡桃にしか聞こえていないと思うのが自然ではないか。
そもそも、声のする方角がおかしい。大通りに面した方ではなく、逆方向、弟の部屋から聞こえてくるのだ。
見た目の割に古風なところがある弟だけど、夜中に読経したり、お経のCDを聴いたりはしない。
なにより、声は段々と大きくなっている。ということは、近づいてきているではないか。
まさかという否定と、もしかしてとの不安。
これ以上はないほどの嫌な予感を覚えながら、金縛りの中、唯一動かせる目をそちらへと向ける。
家具も置いていない、出入口がある壁面とも違うから、なんの変哲もない木目の壁があるだけだ。
影が、見えた。
目深に笠を被った、僧侶。
ひとりではない。僧侶が口々に経を唱えながら、列を成して入ってくる。
――木目の壁を、するりと抜けて。
人が壁を通り抜けるなど、トリックのあるマジック以外ではあり得ない。ならば彼らは――
正体を、言葉として認識したくなかった。
まして、考える余裕もない。僧侶たちはなおも、硬直する胡桃に近づいてきているのだから。
恐怖のために上げようとした悲鳴は、喉の奥に貼りついたまま。
声を出すこともできず、なんとか振り絞って出せたのは震える吐息だけだった。
このままでは――ぶつかる。
「――っ!」
衝撃はなかった。
僧侶たちはベッドも、胡桃の身体もすり抜けていく。
先ほどの壁と同じく、まるで存在しないかのように、平然と横切った。
そのときの、ひやりとした感触。
心臓が凍りつくとは、こういうことか。したくもない実感に、恐怖も募る。
金縛りも続く中、逃げることもできない。ならばせめて、早く終わってほしい。
この世の者ならざる存在が自分の身体を通り抜けるという、生きた心地もしない体験の中、ただただ祈る。
ようやく、最後尾の僧侶が通り過ぎた。
これで、終わる。
ホッとしてその僧侶の背中を見送り――
そちらを見たことを、心底後悔した。
他の男たちは、胡桃をまったく意識していなかった。別次元を進んでいる様子だったのに、最後尾の僧侶は違っていた。
ベッドに面した窓を出て行くとき、振り返ったのだ。
深くかぶった笠を、軽く持ち上げる。
その下に見えたやや若い顔が、口元を歪ませた。
はっきりと胡桃の顔を見て、笑ったのだ。――ニヤリと、薄気味悪く。
冷たいものが、背中を一気に駆け降りる。
ゾクリとした瞬間、胡桃の身体は唐突に軽くなった。