13.告白
陽光を浴び、軽く汗ばむほどの気温だった。
けれど今、背中をじわりと濡らすのは、種類が違う。
冷や汗だ。背骨に沿って這うように、寒気がじわじわと体を蝕む。
なぜ、気づかなかったのだろう。
電車に乗りこんだ瞬間や、ケーキを買って悠哉の部屋に戻ったとき、今と同様の寒気を覚えていた。決まって胡桃が傍にいるとき――それも、様子がおかしい時に限って、だ。
そして先ほど、ルーズリーフを手紙と断言した。つい十数分ほど前までは、呪いのお札ではないかと怖がっていたのに。
驚いたり怖がったりする必要もないのは、「それ」がなんなのか知っているからだ。
なぜ知っているのか。
それは、誰が用意したのか知っている、もしくは自分自身が用意したからではないのか。
導き出される、結論は――
「――お前は、広瀬じゃない」
克海が提唱し、一度は悠哉に否定されたあの、可能性。
解離性同一性障害――いわゆる、多重人格。
胡桃らしからぬ言動、能力、抜け落ちる記憶。
それらはすべて、彼女の中にある別人格の仕業だったのではないか。
決して詳しいわけではない。だがその拙い知識の中でも、他の人格が表に出ているとき、本人ではありえない能力を発するらしいのは知っている。
性格や口調はもちろん、か弱い女性なのに、別人格である男が出ていれば、重い荷物を軽々と運んだりもできるそうだ。
ただ、別人格が生まれるには、相当のプロセスがある。幼少期の虐待が原因となる場合が多いらしい。
「今、この酷い目に合っているのは、自分ではない」だから、「自分」は無傷でいられる。自己防衛本能が働くのだと、考えられていた。
そう考えると、珍しいほどに無垢な胡桃の性格は、別人格に辛さを押しつけているからこそ、かもしれない。
――否、おかしい。
胡桃はそもそも、「酷い目」とやらには合っていないはずだ。克海の知らないなにかが隠されている可能性は否定しないが、聞いている限りでは原因らしきものはなかった。
だからこそ納得もする。胡桃の周辺に、問題は見えない。多重人格発症の要因が見当たらないからこそ、専門家である悠哉は可能性を否定したのではないか。
克海の断定を驚いたように見上げ――胡桃は、ぷーっと噴き出した。
「もう、あたしじゃない、なんて、なんの冗談? びっくりしちゃった」
ころころと笑い転げる姿はいかにもおかしげだったが、つられて相好を崩したりはしない。むしろ、嫌悪感は増したくらいだった。
ただ、じっと鋭い目で観察する。
「――感じから言うと、男か?」
くすくす笑いがぴたりと止まる。
無表情になった胡桃の目が、すぅっと細められた。凛と背を伸ばした威圧感が、見えない壁となって克海の胸を押す。
――ああ、これだ。
この、雰囲気だ。背筋に走る寒気をこらえ、踏み止まる。
胡桃の眼光が、鋭い。色素が薄く、べっ甲のような瞳は日の光を受け、まるで金色の輝きだった。
怖いけれど美しく――そしてどこか、懐かしい。
「――ふっ……くくっ……はははっ」
長く続くかと思われた睨み合いを、「胡桃」が打ち破った。
最初は低い忍び笑い、最後のは高らかに哄笑を響かせる。
突然の高笑いは、驚きよりも不気味さがあった。額を押さえ、顔を仰向けて笑う姿に、半歩退く。
「ああいや、悪い。お前が意外に鋭いんでな。驚いた」
開き直ったのだろうか。「胡桃」が吐き出したのは、彼女自身とはまるで違う、ぶっきらぼうな男言葉だった。
口元にニヤニヤとした笑いを貼りつけ、ひょいっと肩を竦める。
「ご名答だ。おれはこいつ本人じゃねぇ。もちろん、男だ。しかしまぁ、懲りねぇ男だな、お前も。投げ飛ばされたのはもう、忘れたのか?」
まだ近づく気かよ。呆れるというよりは、小馬鹿にした口調だった。思わず、ムッとする。
「じゃああの、感じ悪いのはやっぱりお前だったんだ」
問いではなく、確認だった。
思わず「感じ悪い」とつけてしまったのは、出すつもりのなかった本音だが、相手はその部分に噛みついてくる。
眉を歪めたまま、口の片端だけが吊り上がった。
「感じ悪いのはお互い様だ。おれはお前なんざ、大嫌いなんだしな」
今までこいつにも散々忠告してやったのに。小さく口の中で呟かれたのは、ため息混じりの愚痴だった。
「なっ……でも、放っておけるわけないだろ⁉」
「鬱陶しい男だな。当の本人であるこのおれが、放っとけって言ってんだぞ」
「おれが心配してるのは、お前じゃなくて広瀬だ!」
すでに背を向けて歩き出していた「胡桃」が、叫ぶ声に足を止める。肩越しに振り向き、こちらを上目遣いで睨みつけ――
やがて、はん、と鼻を鳴らした。
「そりゃあ、お前がこいつの世話を焼いてくれたことは知ってるさ」
視線はそらしながらも、半身で振り返る。声のトーンも、幾分落ち着いていた。
「悠哉を紹介してくれたことは、実際に感謝もしてる。あいつに会うまで、一瞬ならともかく、おれは表に出ることもできなかった。中から外を見てて、もどかしくてならなかったからな」
「会うまでって、じゃあ悠兄も、お前のこと知ってるのか?」
「当然だろ。お前が見抜いたんだ。あいつにわからないはずねぇだろ」
気分を害したのか、鼻にしわを寄せる。その言い分はもっともではあった。
もしかしたら、専門家であるが故に気づかなかったのかもしれない、とは思ったのだ。解離性同一性障害は、症例としては珍しい。
複雑なプロセスを踏むことが前提となっているから、それに当てはまらない胡桃を除外して考えるのも、無理はなかった。
――そう思っていたけれど、「胡桃」が言うには、悠哉も彼を認識しているらしい。
事実をそのまま克海に話さなかった理由は、わかる。胡桃の――「患者」のプライバシーに関わることだから、守秘義務の精神が働いたのだろう。
問題は、もっと別のところにあった。
「なんで悠兄は、お前を出したまま家に帰すなんて真似、したんだ……?」
克海を投げ飛ばしたこと、話し方、表情、どれをとっても粗暴なのは見て取れた。そもそも別人格には、反社会的な性格のものが多いと聞く。
態度を見る限り、敵対者の可能性が強いこの男を、そのまま放置するなど危険すぎる。
片眉を上げ、呆れを隠す気もない表情が、克海を見据えた。
「お前、阿呆だろ。これからのことを思えば、おれが今の環境に慣れる必要がある。ついでに、まだ暗くはなかったが、女ひとりで帰すよりも、おれの方が安全じゃねぇか」
「それは、信頼できる相手ならって話だろ。お前が広瀬にとって有害か無害か、まだわからないのに」
失礼な物言いは、承知の上だった。俄然、怒りに目をむくかと思われた「胡桃」は、フンと鼻先で笑い飛ばす。
「有害か無害か、だと? どちらも外れだ。おれはこいつにとって、有益なんだからな」
余裕を刻んだ笑みが、無性に癪に障った。憎まれ口をたたく。
「お前が勝手にそう思いこんでるだけだろ」
「いいや、認めてるヤツがいるぜ? 悠哉だ。でなきゃ、おれのまま帰したりしねぇだろ」
ぐうの音も出ない、正論だった。ぐっと窮する。
「おれとあいつの間には、長年培ってきた絶対の信頼、ってヤツがあるんだ」
「長年って、お前なに言って――」
「質問はなしだ。説明しても、どうせ信じねぇよ。合理主義者なんて、そんなもんだ」
遮って、一方的な否定を告げると、「胡桃」は再び校舎に向かって歩き出す。
「ちょっと待てって。話はまだ終わってないだろ」
「ほんっきでうるせぇ男だな。しつこいと嫌われるぜ?」
放っておけるはずがない。咄嗟にあとを追い、腕を掴もうと手を伸ばす。
手を振り払われたのか、そもそも掴むこともできなかったのか。
判別できないくらい、一瞬のことだった。
「――っ!?」
くるり、と小さな体が反転した、と思ったときには、腹部に激しい衝撃が走った。
なにが起こったのかもわからないまま、痛みのために文字通り膝を屈する。片手で腹を押さえ、芝生の上に蹲った。
目前にある小さな拳を見てようやく、殴られたのだと理解する。
「へぇ、吐かなかったか。上等だ。ま、手加減はしといてやったけどよ」
腕を組みながら、くすくすと笑う声は意地の悪いもので――胡桃の声で聞かされるのは、違和感しかなかった。
「一度目は投げられ、二度目は殴られ――さすがに懲りただろ。これ以上痛い目見たくなかったら、もうおれたちには関わるんじゃねぇぞ」
「そういう……わけには、いかないだろ。おまえがこんだけ暴力的なら、なおさらだ」
けほん、と小さく咳きこんで、顔を上げる。
いくら、急所に小さな拳がはまりこんだとはいえ、到底胡桃の腕力で出せる威力ではない。
激しい痛みに、これが潜在能力だとしたら、恐怖すら覚える。
呼吸を整えようとするも適わず、咳きこむ克海を見下ろす目が、冷たい。
「ったく、現代の男ってのは軟弱なんだな」
呆れを隠しもせぬ様子に、冗談じゃないと内心で呟く。
克海は空手もしているし、当然鍛えてもいた。軟弱と言われるほどでは、決してない。
「そんなざまで、こいつのことが心配、守ってやりたいってか? なんとまぁ、自意識過剰なこった」
ひょいと肩を竦めて、ふと、自分が手に持っていたコーヒー缶に気づいたらしい。
ずいっと克海の目の前に突きつけてきた。
「おい、お前、これ潰せるか?」
「なんだよ急に。アルミ缶じゃあるまいし、できるわけ――」
ないだろう。言いかけた克海を遮ったのは、言葉ではなく動作だった。
缶の上下をそれぞれ手で押さえたかと思うと、軽くひねりながら合わせる。
さして力を入れた風にも見えないのに、缶は「胡桃」の手の中で、きれいに平らになっていた。
それだけではない。平面になった缶の底を持つと、さながら紙のコースターでも曲げるように、あっさりと折り曲げたのだ。
――それも、左手の指先だけで。
胡桃のような少女にできる芸当ではない、というレベルではなかった。おそらくは、屈強なプロの格闘家でも不可能だろう。
「胡桃」は潰した缶を、ぽん、と克海の前に投げ捨てた。
「こいつの心配をする、その気持ちだけはありがたくもらっといてやるよ。けどな、守りたいってんならせめて、これくらいはできるようになってから言いな」
じゃあなと言い置くと、ようやく邪魔されずにすむとでも言いたげな、清々しい表情をさらして踵を返す。
残されたのは蹲ったままの克海と、尋常ならざる力で潰された、缶のなれの果てだった。




