12.顕現
月曜日の朝、いつもと同じホームの、同じ場所で待っていた。
――心境はとても、いつも通りとは言えなかったけれど。
土曜日、あのまま帰途に着く気にはなれず、悠哉の元へと引き返した。
事の次第を話すと、悠哉は頭を抱え込んでしまった。
その態度が非常事態を示しているように思えて焦ったけれど、すぐに苦笑まじりで説明してくれた。
まずひとつめ、胡桃に睡眠療法を試してみたこと。
意外でもなんでもなかった。心療内科の治療としては珍しくない。話を聞くだけでは、やっぱり原因がわからなかったんだと思っただけだ。
次に、可能性として考えられるのはその、催眠術がちゃんと解けていなかったのでは、ということだった。
「術者が素人や未熟であった場合、中途半端にかかってしまったり、解くのもうまくいかなくて残ってしまったり、ということはある。――おれは素人じゃないと自負しているし、変な暗示をかけたつもりもないが、可能性はゼロじゃない」
自分の失敗かもしれない。思うからこそ頭を抱えたのだとは、理解できた。
でも、納得できないこともある。
「身長で三十センチ、体重だってたぶん、倍近いおれを軽々と投げ飛ばすなんて、物理的に無理じゃない?」
「それ、本当に投げ飛ばされたのか?」
質問に、質問形式で返ってきたことに、そしてその内容に驚いた。どういうことかと目で問うと、肩を竦める。
「単に驚いて、手を払っただけじゃないのか? 急に腕を掴まれればびっくりもするし、怖いかもしれないぞ」
「いやいやいや! 確かにあれは粗忽だったし、怒られれば謝るしかないけど! それにしたって――」
「掴んでいた手を払われてバランスを崩し、勢いもあって、変な体勢になってすっ転んだ……とかじゃないのか?」
おれは現場を見てないからわからないけれど。
つけ加えられて、黙りこんでしまった。
一瞬のことで、状況を把握できなかったのは事実だ。合理的に考えれば、悠哉の説明が一番もっともらしかった。
ましてつい先日、胡桃に対して「火事場のバカ力」の原理を説いたのは、他でもない克海である。同じ状態だったと言われれば、頷かざるを得ない。
――けれど。
「うぅん……」
「克海」
納得はいかない、けれど他に説明もできない。
板挟みで唸る克海を呼ぶ声が、真剣なものになった。
「胡桃ちゃんが住んでる家が曰く付きなのは、知ってるだろう? それで最初、ちらっと変な夢を見た。本来は変な夢なんて、珍しくもないんだけどな」
眉を歪めた苦笑に、同意を示すために頷いた。
「土地柄、なにか意味があるんじゃないかと気になる。気にすればまた見る――悪循環だ。要するにストレスが原因だから、一朝一夕になくなるはずもない。自傷に走ることはたぶんないと思うが……もしかしたら、おかしな言動があるかもしれない」
だからもし見かけたら、フォローしてやってほしい。
続けられて、なにを当然のことをと思った。協力を仰いだのは克海の方なのだから。
ただ、問題は胡桃の方にある。克海に対して、態度は冷淡だった。
一過性ならいいが、もし本格的に嫌われでもしていたら、協力もなにもあったものではない。
さしあたっては次に会う時、胡桃がどのような表情を見せるか、だ。
その初対面がもうすぐに迫っているのだから、緊張しないはずがない。
ホームに電車が入ってきてドアが開き――車内に、足を踏み入れる。
「おはよー」
まったくいつも通りに笑う胡桃に、拍子抜けの感は否めなかった。
一昨日のように冷たい態度をとられるかもしれない。
否、避けられているならそもそも、いつもの登校時間すらずらされるのではないか。
考えて当然の心配事は、杞憂だったのだろうか。
どことはなしの緊張を貼りつけたまま、向かいに座る。
「あの、一昨日のことなんだけど――」
「あ! うん、ありがとね!」
先日は取りつく島もなかったけれど、今日はちゃんと話ができそうだ。そう判断して、それでも少し怖さもあって、おずおずと声をかける。
返ってきたのは、問いを遮る勢いの感謝だった。
「悠哉さんを紹介してくれて。すっごい気分が楽になった……気がする!」
にこりと笑われて、おう、と曖昧な返事しかできなかった。
なんで一昨日、おれのことを振り払ったの?
っていうかやっぱり、なにか怒ってたの?
質問すれば、今ならば答えてくれそうな雰囲気ではある。だがそう口にした途端、また機嫌が悪くなったりはしないだろうか。
そもそもなぜこうも、何事もなかったように振る舞えるのか。
「どうかした?」
「いや、あの……」
なにからどうやって尋ねていいのか口ごもっていると、小さく首を傾げられる。
ぽやんとした顔で克海をしばらく見つめ、あっと急に声を上げた。
「ごめん、もしかしてあたし、変なこと、した?」
口元に手を当てた、申し訳なさそうな表情になる。
その反応で、ようやくひとつの可能性に気づいた。
「って訊くってことは、もしかしなくても覚えてないの?」
「うん」
気まずそうに眉をハの字に曲げて、上目遣いで俯く様が、叱られた小動物のようだった。
「覚えてるのは、悠哉さんが数を数えてて、意識が遠のいていくところまで、なの。次に気づいたのは、夕方、自分の部屋の中で」
その間の記憶がまったくないのか。だから克海とのやり取りも忘れ、普段通りの対応だったのだろう。
ハッ、と息が洩れた。
不機嫌だった理由を知ることができなくて、残念だったのもある。だが圧倒的に、気まずさの原因そのものが彼女の中から抜け落ちていることへの、安堵が強かった。
「悠哉さんからお電話もらって。考えられる状況? っていうのも教えてもらって。全部解決したわけじゃないけど、なんとなくもう安心かなって気分になってたんだけど……」
違ったのかな? 最後には少し、不安そうな表情になる。
「いやいやいや! 大丈夫だって」
ストレスが原因で問題が起こってるかもしれない相手を、わざわざ不安にさせる必要はない。
「悠兄がついてるんだし、さ」
「だよね。今日もね、放課後おいでって言ってくれてるし」
「そうなんだ」
ホッとしたように笑う胡桃とは逆に、克海は不安になる。
悠哉は働いているのだから、当然時間に余裕はない。平日の夕方なんて、よほど急いで帰らなければ家には戻れないだろう。克海も、基本的には休みかその前日、夜に泊まりに行くくらいだ。
それを押してなお胡桃と話をしようというのは、よほどの事が起きている証拠ではないのか。
考えすぎかもしれない。むしろ杞憂であってほしい。
けれど――微笑む胡桃の目の奥に、なにかチラリと影のようなものが見えた気が、した。
「――草野くん」
胡桃が、どこか怒ったような顔で声をかけてきたのは、四時間目が終わってすぐだった。
「お昼、付き合ってほしいんだけど」
「おれはいいけど……」
提案は、別に断る理由もないものだった。むしろ、いつも香織と一緒の胡桃の方こそ大丈夫なのか。
チラリと視線を向けた先で、香織が満面の笑みで手を振っているのが見えた。
気にしないでいってらっしゃい! とでも言いたげな表情に、まだまだ誤解されてるままなんだな、と苦笑する。
「じゃあ行こう」
克海が立ち上がるのとほぼ同時、胡桃に腕を掴まれる。そのままずんずん引っ張られ、されるがままに教室を出た。
背中には、様子を見ていたクラスメイトからの冷やかしが飛ぶのに、お構いなしだ。
これはきっと香織だけじゃなく、他にも相当誤解されただろうなと内心では焦るも、至極真剣な胡桃の顔を見ては言い出せない。
結局、無言のまま中庭まで引っ張られてしまった。
中庭にはいくつものベンチがある。もちろんそこのひとつに座るのだろうと思っていたのに、胡桃はスタスタと芝生のところまで歩いて行った。
「ベンチじゃないの?」
敷物も敷かず、芝生の上にぺたんと座る胡桃に問いかける。うん、との首肯は、今にも泣きそうな表情でなされたものだった。
「だって、向こうには人がいっぱいいるし……」
ということは、人には聞かれたくない話なのか。
まぁ、そんなところだろうなとは思ったけど、とは口に出さない本音だった。
「あのね、これ、見てほしいんだけど」
隣に座る克海に、数冊の本が差し出された。
本といっても、書店に並んでいるようなものではない。ザラついた和紙が表紙の、古めかしい本だった。
「えぇっと……明王呪術、指南書?」
「こんな古い字、読めるの!?」
一番上にあった本の題名を読み上げると、心底驚いた顔を向けられた。
「まぁ、完璧にとは言えないかも、だけど……」
いくら古いとはいっても、日本語だ。しっかり見れば、大体わかる。
まして、克海は興味があって、陰陽道や修験道を調べていた。歴史を探る中で、古文書にも目を通したことがある。
「でもなんでまた、こんなの持ってきたんだ?」
胡桃の家が、古くから続く陰陽師の家系だとは何度も聞いた。祖父宅の敷地内に蔵があって、古い本やよくわからない道具がある、と聞いたこともある。
だからこういった本自体が手元にあるのは不思議ではないが、学校にまで持ってくる必要はなかった。
「持ってきたんじゃないもん。勝手にカバンに入ってたんだもん」
「そんなはずないじゃん」
ぷーっと頬を膨らませる胡桃に、苦く笑い返す。
まず間違いなく、胡桃本人がカバンに入れたのだろう。覚えていないのはきっと、まだ半覚醒のときだったからではないか。
もっとも、不必要なものを持ってきた理由は依然として不明だけれど。
「――あれ?」
ふと、手触りが妙なのに気づく。表側は少々頑丈な和紙なのに、裏側はつるりとしていて、使い慣れた薄くて良質な紙の感触だった。
手の中でひっくり返すと、ルーズリーフが一枚、裏表紙にくっついている。
これは胡桃のノートだろう。書き殴ったような文字が見えるけれど、読むのは気が引けて、なるべく紙面に目を落とさずに差し出した。
「本に混じってたぞ?」
「えっ、おかしいな。あたし、バインダーに挟まないことなんてないのに……」
ルーズリーフを受け取るために伸ばした手を止め――胡桃がまた、半泣きになった顔をこちらに向ける。
「――これ、あたしのじゃない。こんな古い字体、書くだけじゃなくて、読むこともできないんだけど」
古い字体、と言われて、改めてルーズリーフを見る。
確かに一見、表紙の文字と同系統のようではあった。けれど筆形状のもので書かれているという類似点はあるものの、克海にも読むことができない。
ところどころ、読み取れなくもない文字はあるが――
「これって、記号とか暗号とか?」
「の、呪いのお札、とか……?」
もしかしたらものすごく下手なだけだったりして。冗談半分の言葉は、涙声に遮られた。
そんなバカなと笑い飛ばすには、表情が真剣すぎて憚られる。こりこりと、指先で頭を掻いた。
「これ、見てる限りじゃ筆ペンで書かれてるみたいだし。なにより、ルーズリーフだろ? 呪術とかならさすがにもう少し、本格的な道具を使うんじゃないかな」
「あ、そっか」
安心させたくて言ったのは間違いないのだけれど、あっさり納得されて苦笑する。
「いや、呪術じゃないにしても、誰がなんのために、どうやってお前のカバンに入れたのか、まったくわかってないんだから」
「あ、そっか」
台詞自体は先ほどと同じだが、ニュアンスがまるで違っている。はう、と嘆息が落ちた。
気分を変えるためか、ここに来るまでの間、学食前で買った缶コーヒーを開けて飲む。それから、「誰が」「なんのために」「どうやって」を考えてでもいるのか、目を閉じ――
再度、はーっと長いため息が洩れた。
ぱちりと目は開けられたものの、なにか思いついた顔ではない。
ちらっ、ちらっと辺りを見渡し、当然克海と目が合ったのだけれど、なぜかぴくっと身を震わせる。
「――とりあえず、食べようか」
言った笑顔が、少しひきつっている。
まぁ、無理もない。結局なにもわかっていないし、けれど考えても答えも出そうにない。
本人も言うように、「とりあえず」としては一番、建設的な意見だった。
相変わらずちゃんと手を合わせて挨拶したあと、昼食のサンドイッチに豪快にかぶりつく。いい食べっぷりだよなと見惚れていても仕方がないので、克海も持参した弁当の蓋を開けた。
――気まずいなぁ。
一昨日、ファミレスで食事をしていたときには、急いで食べながらも会話はあった。なのに今日は一言も口を利かず、目線すらこちらに向けず、胡桃はひとりで黙々と食べている。
そのせいか食べ終わるのも前より断然早く、克海とほとんど同時だった。
ごちそうさまでしたと手を合わせてから、やっと克海を見てちょこんと笑う。
「食べながらちょっと、考えてたんだけどね。思わず焦っちゃったけど、よく考えたらあとで悠哉さんに会えるんだよね」
残っていたらしいコーヒーを、くいっと一気に呷ると、そそくさと荷物をまとめ始める。
「さっきのお手紙のことも、本のことも、悠哉さんに相談してみる。付き合わせちゃってごめんね?」
じゃあ、と笑顔を向けられるも、目も合わない。えっ、と戸惑う克海を華麗にスルーして、すくっと立ち上がった。
「そんなに慌てて行かなくても」
ひとりでさっさと戻るつもりなのは、目に見えていた。急いで弁当箱をしまい、立ち上がる。
「でも、教室まで一緒に行くと、みんなに変に思われるだろうし」
主張は、まっとうなものだった。同時に、そんなことを気にするくらいならば、腕を引っ張って教室を出て、二人きりになるような状況など作らなければいいのに、とも思う。
否、そもそも胡桃は、その手のことに気が回らない。単に、克海を退ける言い訳としか思えなかった。
「今更だろ。それに、別れて戻った方が変に思われるんじゃないか? ほら、痴話ゲンカ的な」
一昨日の展開を彷彿とさせる胡桃に、内心ではヒヤヒヤが止まらない。口にした、それこそ言い訳も、理屈は破綻していないよなと頭の中で反芻したものだ。
は、と疲れたため息を吐いた胡桃が、顔を上げる。
「そうだね。じゃあ、教室まで一緒に」
仕方がない、とでも言いたげな口調だった。少し眉を歪めた笑みは、困っているようにも、申し訳なさそうにも見える。無理に作った笑顔なのは、すぐにわかった。
もしかしたらやはり、なにか怒っているのではないか。
一昨日と同じ不安を抱え、感情を読み取りたくて胡桃の目を見つめる。
見つめられ、訝しく思っているのかもしれない。小首を傾げ、見上げてくる瞳をさらに覗き込み――
突然、それに気づいた。
「お前――誰だ」
滅多に見せない険しさを、自覚する。表情が消えているのが、自分でもわかった。
「誰って……ヤだ、なに言ってるの、草野くん。急にあたしのこと、忘れちゃった?」
質問の意図を理解しかねたのか、胡桃の顔に動揺が見える。ひきつった笑みがどこか、白々しかった。
胡桃をひたり、と見据えて、違うと呟く。
「――お前は、広瀬じゃない」




