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冥合奇譚  作者: 月島 成生


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11.変容


 玄関の前でひとつ、深呼吸する。

 悠哉が指定したケーキ屋は、店内に広めのイートインスペースがあった。

 ケーキやクッキーなどの菓子類だけでなく、軽食メニューもある。コーヒーの美味しさにも定評のある店なので、男がひとりで入るのにも抵抗はない。

 ケーキ三つ分よりもかなり多い金額を渡されたのは、そこで時間をつぶせという、暗黙の指示だった。

 通常の診療で、大体一回につき一時間程度と聞く。ならばそれくらいだろうと、漠然と考えていた。


 実際、悠哉から帰ってきて大丈夫、と連絡があったのは、ちょうど二杯目のコーヒーを飲み終わる、一時間余りが過ぎた頃だった。


 急いで戻り、いざ部屋の前に立つと妙な緊張に襲われる。

 二人は今、どんな表情でいるのだろう。自分がいない間、どんな話をして、そして――どれだけ親しくなったのだろう。


「ただいまー」


 必要のない緊張を振り払うため、あえて大きな声で言いながらドアを開ける。

 瞬間、体がひやりとした。

 たとえるなら、廃屋などの冷暗所に入った、じめっとした肌寒さ。あまり心地良い感触ではない。


 おかしな話だった。


 今日は天気もよく、開けられた窓からは爽やかな風が流れている。

 百歩譲って肌寒さはあっても、湿気とは無縁のはずなのに。

 もっとも、身震いするほどの不快さは一瞬で、今はわずかに立った鳥肌以外に名残はない。


「すまないな、ありがとう」


 声をかけられて、我に返る。目を上げると、振り返ってこちらを見ている悠哉が、軽く首を傾げていた。

 それほど広い部屋ではない。玄関からまっすぐ行ったリビングまでは、数秒だ。

 なのにタイムラグがあれば、訝しくも思うだろう。

 克海が歩き出すのと、悠哉が立ち上がるのがほとんど同時だった。


「用意するから、座っててくれ。紅茶でいいか?」


 店でコーヒーを飲んできたのを見越した質問だろう。気遣いが嬉しかった。


「大丈夫。手伝うよ」

「そうか? じゃあ、ケーキを出してて」


 悠哉に続いてキッチンに立ち、ケーキの箱を開ける。中を覗いた悠哉が、「これなら紅茶はなににするかな」と呟く口調が、やけに楽しそうだった。

 口調だけではない。軽く鼻歌まで出ているから、明らかに上機嫌だった。


 話してみて胡桃の状況がわかったのかもしれない。解決策が見つかり、肩の荷が下りた気分なのだろうか。

 どうなったのと訊いてみたくはあるけれど、話せる内容であれば、きっとあとで教えてくれるはずだ。

 とりあえず今は、言われた通りの準備をする。ケーキを皿に置き、トレイに乗せて運んだ。


「どれがいい?」


 買ってきたのは、モンブラン、チョコレートケーキ、チーズタルトの三つ。誰が最初に選ぶべきかは、考えるまでもなかった。

 問われた胡桃は、ちらりと克海を見上げてからケーキに目を落とす。

 一つひとつ眺めている横顔は、まるで難問を突きつけられたような渋面だった。


 そんなに真剣に悩むことか?


 苦笑まじりに言いかけたとき、ふわっと甘酸っぱい香りが届く。


「――そうだな。甘いのがよければ、これかな」


 紅茶を運んできた悠哉が指さしたのは、チョコケーキだった。

 じゃあこれで、と胡桃は皿を持って、そっと手元へ引き寄せる。


「克海は?」

「えっと、じゃあモンブラン」


 残ったチーズタルトが、悠哉となる。買うときに、なんとなく思い浮かべて選んだ通りになったのが、少し面白かった。

 ソファに座る。出る前に座っていたのと同じ、胡桃の横だ。

 と、胡桃が一旦腰を浮かせて座り直す。


 その仕草が、不自然だった。

 ただ単純に座り直したというよりも、端へ寄ったように見えたのだ。

 まるで、克海から距離を置くために――


 まさか。

 感謝されて当然だとは思わないが、嫌われることはなにもしていない。


「いい香りがする」


 思わず向けた疑惑の視線に、気づいていないのか気にしていないのか。胡桃は目前に置かれたカップに目を落とし、ぽつんと呟く。

 いただきます、ときちんと手を合わせたものの、遠慮はまったく見せずに手を伸ばした。

 淹れたての香りをすうっと吸い込んだあと、カップの縁に口をつける。


「少し、甘い……木苺?」

「正解。まぁ、正しくはそれだけじゃなくて、他のベリー類も入った、ベリーティーだけど」


 にっこりと、悠哉が笑みを刻む。

 木苺でももちろん正解だけど、ラズベリーと言われる方が馴染みがあるのは、克海だけだろうか。


「うん、ベリーティー美味しい」


 子どもが学習するように呟くのが面白かったのか、悠哉がくすりと笑う。

 フォークの縁でチーズタルトを切る彼の仕草を見ながら、胡桃も同じくフォークでケーキを口に運んだ。


「――なっ!?」


 どこかそわそわした不安げな表情が、一瞬にして消し飛ぶ。ガバッと上げた顔が、驚愕に満ちていた。


「これ……っ!」

「美味しいよね、ここのチョコケーキ」


 一体何事かと愕然とする克海をよそに、悠哉は微苦笑しながら応じる。


 って、美味しすぎて驚いたってこと?


 初めてケーキを食べたような驚きっぷりもさることながら、その反応をさも当然のように受け止めている悠哉も悠哉だ。

 彼がとる予想外の言動は、さらに続いた。


「こっちも食べてみる?」


 提案自体は、普通だった。けれど、うんと目を輝かせて頷く胡桃に、自分のフォークでケーキを切ると、はいあーんと差し出したのだ。


 それ、初対面の女の子にやる?

 そもそも、女の子のひとくちには大きすぎない?


 ドキドキと見守る克海をよそに、戸惑う素振りも見せず、胡桃は大きく口を開ける。


「――っ!」


 差し出されたケーキを頬張ると、口を押えて俯く。

 表情を見れば、美味しかったのだと一目瞭然だった。興奮のあまり頬を赤く染め、目にはうっすらと涙まで滲んでいる。

 チョコケーキといいチーズタルトといい、あの店のケーキはたしかに美味しいけれど、そこまで衝撃的ではないはずだ。


 なのになぜ、と見やる先で、胡桃と目が合った。縁が少し赤くなった横目が、ちらりとモンブランの上に落ちる。

 思わず苦笑した。


「こっちもよかったら」


 さすがに悠哉がやったようにはできない。皿を差し出すと、ん、と遠慮がちにフォークを突き立てる。

 少し、意外だった。むしろ、そっちもちょうだい? と首でも傾げて口を開ける方が胡桃らしく思えた。


「んんん……っ!」


 モンブランを一口食べて、唸り声を上げる。口を押えて小さくジタバタする姿は、悶絶としか言えない。


 いや、だからそんなに?


 ツッコミを入れるべきか迷っている間に、深く嘆息しつつ「幸せ……」とハートのつきそうな語調で言われて、なにも言えなくなった。

 くすくす笑う悠哉の声は、好意に溢れている。言葉通り、幸せそうにケーキを食べ始めた胡桃を見る目は、恋人でも見守るかのような、愛しさのこもったもので――


 なんだろう。やっぱりなにか、もやっとする。


 克海はそっと、自分の胸元に手を当てた。




 本人を前にできる話でもなく、結局胡桃の状況にまったく触れないまま時間が過ぎた。

 じっくり味わっているのか、もぐもぐと咀嚼しながら食べていた胡桃の皿が空になるまで、十分あまりだろうか。

 余韻に浸っているようにわずかの間目を閉じ、はぁと感嘆めいたため息が落ちる。カップを手に取ると、くいーっと中身を飲み干した。


「じゃあ、今日は帰ります」

「えっ、もう?」


 あまりに唐突に言い出したものだから、驚きの声が洩れる。

 ソファの横に置いていた荷物を持つと、胡桃はさくっと立ち上がった。


「うん。話も大体終わったし」


 話が終わった。ということはやはり、状況がわかったのか。

 思わず振り向くと、眉を歪めた悠哉の微苦笑があった。

 今は訊くな。意味深長な目付きに言われた気がして、口を閉ざす。


「どうする? 送っていこうか」


 質問は、胡桃に向けられたもの。悠哉なら問いかけの形ではなく、「送って行こう」の方が自然な気がする。

 軽く伏せた視線を横に流し、考える素振りのあと胡桃は首を左右に振った。


「せっかくだし、少し歩きたいかも」


 なにが「せっかく」なのだろう。

 当然のはずの疑問を抱いた風もなく、悠哉は「そうか」と頷いた。


 引き止められる意思はまるでなさそうな胡桃は、すでに玄関に向かって歩いている。

 正直戸惑いを隠せないけれど、呆然と座っているわけにもいかず、見送りに立つ悠哉に倣い立ち上がった。

 玄関先でなぜか、自分のサンダルを数秒見つめた胡桃が、ああとひとり納得した様子で足を通す。


「あ、ここで大丈夫……です」


 同じく靴を履こうとした悠哉が、下まで見送るつもりだと察したらしい。笑顔で制し、彼を見上げた。


「じゃあ、今日はありがとうございました。――草野くんも、ありがとう」


 悠哉と克海、二人の返事も待たず、踵を返してドアを開ける。ひらりと舞ったスカートが、やけに目に鮮やかだった。

 そこで、はっと我に返る。


「あ、おれも帰る! 途中まで――」


 一緒に行こう、とは最後まで言えなかった。まったく聞いていないのか、聞こえていなかったのか、パタンとドアを閉ざして出て行った。


「あー……本人も大丈夫だって言ってたし」


 呆気に取られていると、慰めるような声をかけられた。眉を下げた困り顔を見上げて、たしかにその通りなんだけど、とは思う。

 思うけれど、妙な胸騒ぎがするのも事実だった。


「おれ、やっぱり送ってく」


 心配性だと我ながら思うが、なんとなく放っておけなかった。


「じゃあ、その……気をつけて、な」


 帰り際にする「気をつけて」の声かけは、自然なものだった。

 なのになぜか、声音に違和感を覚える。

 とはいえ、考えている暇はない。靴を履くと、胡桃の後を追った。




「広瀬!」


 胡桃の後ろ姿を見つけて、声を上げる。

 彼女が出て行って、五分も経っていなかったからすぐに追いつけると思っていた。なのに、玄関を開けたそこに、胡桃の姿はない。


 もうエレベーターに乗ってしまったのかとも考えたが、違う。上部の階数表示が止まったままなので、稼働していない。

 もしタイミングよく乗れたとしても、一階に着くほどの時間は経っていなかった。

 もしかしてと思いつき、廊下の突き当りから階段を下りる。急いで駆け下りる自分の足音が、忙しなく響いた。


 そして――重なる、もうひとつの足音。


 やはり、階段を使ったのか。

 ここは六階である。昇るのはもちろん、下りるときだって普通はエレベーターを使うのではないか。


 不思議なことが、更にもう一点。

 胡桃は歩きにくい、厚底サンダルを履いていた。歩幅も狭く、普段から歩くのは早くない。並んで歩いていても、ともすれば置いて行ってしまいそうになる。


 なのになぜ、急ぎ足の克海が追いつくのに、こうも時間がかかるのか。


 結局追いつけたのは、胡桃がマンションのエントランスを抜け、自動ドアが開いたときだった。


 呼びかけに足を止めることもなく、胡桃はそのまま、マンションを出て行ってしまった。

 悠哉の部屋を出て行くときと、まったく同じだった。


 無視された?


 浮かんだ考えを否定する。――否定、したい。

 さらに後を追いながら、やはり疑問を禁じ得なかった。

 後ろから見てもわかる。胡桃は別に走ったり、早歩きをしているわけではない。

 ならば普通に歩くだけで追いつけるはずなのに、一向に距離は縮まらなかった。


「ちょっと待ってくれ、広瀬」


 結局、走ってようやく追いつき、隣に並んだ。

 さすがにそこまで来て気づかないはずもなく、胡桃がちらりと目を上げる。


「なに?」


 驚いた風もなく、無感動な目が向けられる。

 無感動、というよりは、不快げな眼差しにすら見えて、思わず怖気づく。


「いや、えっと……送って行くよ」

「ありがとう。でも大丈夫」

「でも――」

「大丈夫」


 取りつく島もないとはこのことか。こうやって話している間も、足を止める気配すら見せない。

 さすがに、これはおかしい。


「――おれ、なにか悪いことした……?」


 胡桃の場合は、良くも悪くも素直だから、なにか癇に障ることをしてしまったのなら、そう言ってくれる。嫌なことを腹にためて、ため続けて嫌われるよりは、その場で注意してくれた方がよかった。

 足も止めないまま、わずかに顔をこちらに向けた胡桃の横目が、心底嫌そうに見える。

 はぁ、とため息が洩れた。


「そんなことないよ。なんで?」


 口の端に、ちょこんと可愛らしい笑みも刻まれた、半ば期待通りの返事。

 けれど、胸騒ぎはむしろ酷くなる。

 なにせ、口元こそ笑みの形になっているが、目がまったく笑っていない。全身で拒絶を示されたままで納得できるほど、鈍くなれなかった。


 実際、「なんで?」と疑問を投げかけながら、すでに顔はこちらを向いてもいない。

 思わず立ち止まり、また距離を開けられそうになって、慌てて足を速めた。


 懸命に走るわけでも逃げられているわけでもない地味な追いかけっこは、とても気まずかった。

 悠哉の家を出てから、十分ほどか。行きの半分ほどのペースで、待ち合わせをした、駅前の公園に差しかかる。


 気まずいまま別れたくない。

 なにかあるなら、ちゃんと話し合いたい。たとえそれが、耳に痛い話だったとしても。


「待ってくれ!」


 引き止めようと、胡桃の手首を掴む。

 その、瞬間だった。ふわりと体が軽くなるのと同時、視界がぐるりと回った。


「気安く触るな!」


 地面に背中を打ちつけ、怒鳴られてもすぐには状況が把握できなかった。痛みと驚きで、一瞬息がつまる。

 その後、ようやく投げ飛ばされたのだとわかった。


「あっ……」


 克海と胡桃、我に返るのが早かったのはどちらか。

 仰向けに倒れたままむけた視線の先で、しまった、という風に口元を押さえる胡桃を見る。

 すぐさま踵を返し、今度こそはっきりと逃げる後ろ姿を呆然と見送って――


 再度、ハッとなるのと同時、慌てて辺りを見渡した。

 他人に見られると気まずい上に恥ずかしく、下手をすれば痴漢とでも間違われそうだ。

 幸い、近くに人はいない。安堵して、次には混乱に襲われた。


「――なんだ……?」


 立ち上がり、服についた埃を払って目を上げると、胡桃の背中はもう、豆粒ほどの大きさになっていた。

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