1 村松拓郎、高レヴェルの次元へ
つくづく思う。俺は能力を持て余していると。それは特に通っている護摩沢大学のレヴェルの低い講義を聞くたびに感じることだ。一時間半もこんな講義を聞くなんてあくびが止まらない。
そもそも俺は順当にいけば東王大学に入れていたんだ。日本一の学力が集結する東王大学に───。それがあのいやがらせ問題の数々だ。俺が切り捨てていた箇所ばかり出題しやがって。俺という巨大な戦力を逃したのは、東王きっての失態だろうな。
さっきも言ったが、護摩沢の講義はレヴェルが低い。俺の頭は教授が言いたいことを勝手に先に導き出してしまう。授業が俺に追い付いていないんだ。俺だけが未来を見ている状態で会話している感じだ。すでに知っているから説明も聞かないしそこに新しさなんてない。だからこそ、俺に合わないレヴェルの講義はことごとく切り捨て、厳選を続けてきた。
そうしたら四年目の春に単位足らずと学生課で。本来ならばスーツを着て就職活動をしているはずの俺は、ここへきてレヴェルの低い講義を無理やり受けてもう一年多くの学生生活を送る羽目になってしまった。親は信じられないというような顔をしていたが、一番信じられないのは俺だ。
まさか護摩沢でもう一回三年生をやる羽目になるなんて……。夏休みが明けた今でも信じられない。これも全てこの大学のレヴェルが低いせいなんだ。お前たちが遅いから俺はッ!
「ーーーーくん。村松拓郎くん」
「!!」
突然講堂内に響き渡る俺の名前でハッとなる。マイクを持った教授が俺を睨んでいるではないか。周囲の生徒たちも俺に意識を向けている。どうやら俺は授業の進行を止めているらしい。
「村松吾郎君。講義中に居眠りとはどういうつもりかな? 今回の内容は次回のテストにも出題される箇所だ。君だけだよ。お気楽気分なのは」
そうだこいつ、いちいち寝てるやつをたたき起こして公開処刑するタイプの教授だった。この場に何百人の生徒がいると思ってんだよ。一々授業を止めやがって。てめえの授業がつまらないからつい居眠りこいちまったんだろうが。なんなんだこのハゲ頭!
と、言いたい気持ちを抑えた俺には「あ……いや」という声が漏れるのみだった。
「学生番号134S23145番。村松拓郎。覚えましたからね」
教授の糞野郎はそう言い捨て、授業を再開した。俺は何も言えず、ただ俯くのみ。ああ腹立たしい。将来確実に叩き落せる相手にここまでの屈辱を味わされるなんて。はらわたが煮えくり返る思いだ。
残りの講義時間は寝なかったが、この教授と護摩沢大学への怒りを脳内で吐き散らかしながら過ごした。
※
屈辱の講義の後、俺は食堂で遅めの昼食をとっていた。
俺にとっての護摩沢は概ねクソという評価だが、学食の味だけは評価できた。特にから揚げ丼は、カラッとした衣にタルタルソースがかかっててとても美味しい。値段も五百円と、学生食堂ならではのものだ。
それにしてもさっきの講義は本当にふざけていた。ダラダラと資料に書いてあることを読み上げるだけ。そのくせ感想文などこちらに要求する課題はやたらに多い。教授が性格の悪い証拠だ。あのハゲ散らかした頭と黒縁メガネの奥に見るたるんだ眼を思い出すだけで、せっかくのからあげ丼の味も悪くなる気がした。
まあ単位を取るためだけに受けている授業だ。それ以下の感情を持ち合わせるだけ損だな。そう自分に言い聞かし、から揚げを口に運ぶ。
単位───か。
大学生活は主にこの単位有無が生活の基盤となる。単位が問題なく取れていれば安泰。遊んでいようがバイトしていようが誰からも文句を言われることはない。逆に取れていない者は時間をフルに使って授業を受けまくり、単位を稼がなければならないし、場合によっては俺のように人生を一年無駄にしてしまうこともある。
大学生とは、基本的に単位という概念に支配されているのか?
俺の思い描いていた大学生活はそんなものではなかった。自由な時間を使って自分のやりたいことに熱中でき、それが評価される身分。それが俺の「大学生らしさ」だった。
なのに今の俺はどうだ? 朝一番から講堂に集まり、レヴェルの低い講義を受けてその感想文をまとめ、安いから揚げ丼の味に満足し、また講義を受ける。
この大学は講義だけでなく人間のレヴェルも低いため、俺と気の合う友人も中々現れない。あいつとあいつが付き合っていてだとか、どこどこの服屋が品ぞろえがいいだとか、本当にどうでもいいことばかりだ。最初こそ友達を作ろうとなにかレクリエーションに参加してみたりしたが、少し話すだけで親密な関係には至らなかった。
だから大学が終わった後に友人とどこかに行くだとか、空いている日になにかの活動に勤しむだとか、そういったこともない。俺は孤独───いや、孤高を行き過ぎていた。
だからこそ、今の俺には「単位を取る」という誰にでもある目的以外のものが存在しない。これは自分が思い描いていた大学生のイメージとは大きくかけ離れているものだった。
大学生という立場でなにか活動をしてみたい。という思いがないと言えば噓になる。むしろ四年目を迎えて焦りだしたのか、日に日にその思いは強くなってきているのを感じた。
では何をしようかとなるとまた難しいものだ。ボランティアなんかはもってのほかだ。人に奉仕するばかりで俺の利益にならない。経験値などという精神的なものではなく、きっちりとした報酬がないと我慢ならない。
アルバイトも違う。俺は人を動かす側が向いているはずだ。年ばかり食った幼稚な大人にサルでもできる簡単な仕事を次々指示させるなんて耐えられない。みんなよくできているなと感じる。
なにか自分の力が存分に発揮でき、なおかつ相応の利益を作れる活動はないものか。
俺はからあげを口に放り込みながら、自分で言っていても都合の良すぎる理想に思いを馳せていた。
その時だった。
「村松君、ひとり?」
頭上で声がする。聞きなじみのある女性の声だった。目の前で渡辺蓮実が立っている。
「あ……えあえ」
白のブラウスと栗毛のショートボブにブランドのショルダーポーチ。彼女はこの大学の中でひと際大人びている。
小さくうなずいた俺を見てにこりと笑うと、彼女は対面に座った。
「お昼にしては遅いね。さっきまで授業だった?」
「あっ……うっす」
「大変だね。でも君の学力ならそうでもなかったり?」
「へへっいや、まあ」
「あー今余裕って顔したー。さっすがー」
「あいええふひ……っあ、そっちは……?」
「私? 私は授業じゃなくて……こっち!」
渡辺は俺に自身のスマートフォンを見せ、人差し指でとんとんと叩いた。彼女は学生という立場でありながらビジネスマンでもあるのだ。
具体的な内容は聞いたことがないが、学生でもスマホ一台で稼げる副業のようなものらしい。
「あ、やっぱり……忙しいの?」
「最近は特にね。私のアップの人が優秀だから。聞いているでしょ? 須藤さんの話」
「まあ……高い車買った人って」
「そうそう! 二十五歳月収十八万の時にハンボルギーニだよ!? 本当にすごいよね。それでお金払うために“これ”を始めたっていう……あーあ。すごいなあ」
「これ」といった時にまたスマートフォンを叩いた渡辺。彼女は須藤という男の武勇伝を早口に語り、うっとりとした表情を見せた。
そこにあるのは、須藤という男への憧れ。俺は胸の奥がチクリとなるのを感じた。
「───ねぇ。村松君」
彼女はうっとりした顔を引き戻し、真剣な面持ちで俺へ向き直る。
「今、私たち……忙しいの」
彼女は困ったという目でこちらを見てきた。これを言うために俺の正面に座ったということか。
渡辺はこの学園でもダントツで優秀な女だ。彼女は今を生きていない。未来に生きている。それは彼女と同じレクリエーションで出会った時から感じていたことだ。
ーー村松君。将来の自分の状況って分かっている? 定年を超えて、その先のこと。
ーー年金って年々もらえる額が減ってきているの。なんと三万円よ。そう、本当に足りないの。
ーーだからプラスアルファのことをしなきゃいけないの。このまま真面目に働いて、それでも意味がなくて老後もまた働いてなんて嫌でしょ?
彼女と初めて会ったその日に交わしたディベートを思い出す。
彼女の意見に俺は以前から共感を示していた。年金だけでは将来安定に暮らせないことも、今のまま真面目に働くだけでは未来がないことも。その点でいえば、俺と彼女は近い存在だ。
近い存在だからこそ、彼女は俺を見抜いたのだろう。
やはり須藤という男め、自分で抱えた仕事を捌ききれなくなっているな。やる気があるのは結構だが、それはしっかり自分のキャパシティー内に収めてなんぼというもの。やりたいことが先行しすぎてそれを制御できないなんてことは、やる気に満ち溢れた若い者が特になりやすい現象だ。
これはもう一人、上手く状況をコントロール出来る参謀───ブレーカーが必要かもしれないな。
「具体的にはその……何をやっているんだ?」
「え、村松君興味あるの!?」
渡辺はわざとらしく驚いてみせた。そのリアクションはもう間に合っている。
寧ろ遅いくらいだと思った。あれだけ濃密な議論を交わしておいて、俺の発想、理論、信念に何もインスピレーションを受けなかったのかと。何度か失望したことすらあった。
だが、結局は俺を頼った。元からそうするつもりだったのか、本当に危機なのか分からないが、今現在一足先に社会人として活躍している渡辺が、俺の力を必要としているのだ。
そうとあらば、俺も相応の態度で対応するしかあるまい。どれ、再びのディスカッションといこうじゃないか。
「以前から聞いていたけど、今わ、ワタナベサンが何をしているか聞きたいと思って」
「そうだよね。まぁ、簡単に言えば物売りとスポンサー業……かな? とりあえず一回セミナー来てみない?」
「せ、セミナー!? そんな事をやっているのか?」
「ウチは結構な頻度でやってるよ。今が成長の時だってアップの人たちは躍起になってる。だから私も忙しいの? どう? もし来てくれるなら私としては大歓迎だけど」
「じゃ、じゃあ……行こっかなぁ〜」
「ほんと!? さっすが村松君! 村松君なら絶対来てくれると思った! 一緒に聞きに行こう!」
まさかセミナーなんてものをやるほどに本格的な集団だったとは。余程意識の高い集団なようだ。おもしろい。つい臨戦態勢になってしまうところだった。あぶないあぶない。
だがまあ、そういうことならばここで根掘り葉掘り聞く必要はないだろう。相手のフィールドに赴き、彼らの言う理想の稼ぎ方とやらに耳を傾けてやろうではないか。
もしその時になにかおかしなところがあれば、そこで初めてディスカッションすればいいだけだしな。ここで本気を出す必要はどこにもない。
俺は心に棲む好戦的な自分をぐっと堪え、渡辺の誘いに乗ることに決めた。そこからはトントン拍子に集合場所と時間を伝えられ、この場は解散となった。