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王女クラウディアは、幼い頃より残酷姫と呼ばれていた。
もちろん、小国とはいえ、一国の王の一人娘であったから、その二つ名はひそやかに囁かれたものに過ぎない。
しかしながら、本名よりもよほど国民に浸透した名でもあった。
王女ゆえ、周囲には決まった侍女しかいなかった。
彼女たちは、最低限の口しか利かず、いつも頭を下げ、目は合わず、無表情であった。
唯一多く口を開くのは、侍女頭のアナスタシアだった。
彼女は公爵家の次女であり、本人も幼少時より気位高く育った上、王女の御付きとなったことでより身分に敏感になる。
「姫様、姫様は誰よりも尊いのでございます。
陛下以外に頭を下げることはなく、お望みを叶えられないことはない、高貴なおかたでございます」
幼いクラウディアにそう言い聞かせたのは、自らの身分を高く見積もるためでもあっただろう。
しかし、不幸なことに、それはまた事実でもあったのだ。
アナスタシアの言う通り、クラウディアの望みは全て叶えられた。
父である、ヒルディガルド国王、ウィーリス・ヴィス・ダリウスは、娘の我儘を全て叶えた。
それだけの権力と財力があり、正しいことよりも娘の言い分を優先する人物であった。
結果、小さな暴君が誕生し、やがて残酷姫と呼ばれていくようになる。
「お前、気に入らんな」
「この食事は口に合わぬ」
「この中にわらわの欲しいものがない」
一言そう言えば、侍女も食事係も問答無用で処分された。
髪をくしけずる途中でうっかりひっかける者があれば、死罪を賜ることもあった。
そうした者は少なくない。
全てはクラウディアの気持ちの赴くままである。
そんなクラウディアの人生が一変したのは、15の時だ。
隣国への輿入れが決まったのだ。
隣国とはいえ、実のところ、このヒルディガルド王国は島国であり、荒々しい海で他国と隔てられていたため、交流はほとんどなかった。
それがどうした塩梅か、一人娘である彼女が嫁ぐことになった。
国民どころか、国の重鎮でさえ寝耳に水である。
隣国は、大国であった。
ナナビア帝国と言えば、大陸では知らぬ者のない、そして植民地をいくつも抱えた強国である。
例え海峡という天然の要塞をもってしても、戦端が開かれればあっという間に占領されてしまうだろう。
そんな強国が、なぜクラウディアを求めたのか?
訳も分からないまま準備を整え、輿入れしても、その答えを得ることは出来なかった。
それどころか、ますます困惑することになる。
「なぜ俺が、お前のような女を迎えねばならぬのだ」
苦々しく言い捨てたのは、まさに、婚約者である隣国の王太子だった。
それで、この未来の夫が求めたのかもしれない、という予想は消えた。
彼のクラウディアに対する嫌悪感は、隠しきれるものではない。
残酷姫という名は、この大きな帝国の調査でとうに知れ渡っていたのだ。
「この悪女め……!
我が国に入り込めたと思うなよ、そなたに自由は与えぬ」
王太子は、目をぎらつかせながら吐き捨てた。
「こいつを部屋に連れていけ。一歩も出すな。交代で見張るんだ、いいな」
その言葉の通り、クラウディアは婚約期間である一年、監禁された。
一日に二度の最低限の食事、三日に一度の入浴、それ以外は全てが禁止だった。
本を読むことも、誰かと会話することも叶わず、もちろん手紙も許されない、ただひたすらに窓際の椅子に座り続けた。
窓からはわずかだが景色が見えた。
大きな木のそのこずえの間に、季節の花が移り変わるのを、ただ黙って見ていた。
時折、人が通りかかることもあった。
もちろん、王宮の庭であるから、誰というのは庭師か、あるいは王族に限られている。
そのほとんどは、婚約者である王太子だった。
彼は、傍らにいつも美しい少女を連れていた。
互いに微笑み合い、腕を組み、時に額を寄せて笑う。
なるほど、彼がクラウディアを忌み嫌う理由の一端が理解できた。
そうして一年の後、正式に婚姻が結ばれた。
ここを訪れた日以来、初めて部屋から出ることが出来た。
その日。
クラウディアは、人を殺した。
相手は、夫となった男の父である、ナナビア帝国国王、ルシウス・ネヴァジスタ。
「なぜだ! 俺が憎ければ俺を殺せばいいだろう! なぜ……!」
むせび泣きながら剣を抜く夫に、クラウディアは言った。
おそらく、彼に向けた初めての言葉である。
「お前に抱く感情など、何一つない」
心底から本気だと伝わったのだろう。
夫は、戸惑いと憎しみ、そしてその奥にわずかな怯えを見せた。
そして、そうやって怯んでしまったことを覆い隠すように、剣をふりかぶる。
肩から腹までを斜めに深く斬りつけられ、クラウディアは倒れた。
血が流れ、そして死に至るまで、随分と長くかかったような気がする。
いくら後に伸びようと、死は確かにやって来る。
夫と、王妃の泣き叫ぶ声を聞きながら、クラウディアはゆっくりと死んだ。
翌日から、ナナビア帝国は喪に服す。
国王逝去の鐘が鳴り響き、人々は嘆き悲しむ。
その一方で、クラウディアを悼む者は、世界に誰一人いなかった。
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「とまあこのように、姫様はこの国でも隣の国でも、ひたすら忌み嫌われて死んでいくのです」
ひとつも救いのない未来の話に、クラウディアは黙り込むしかなかった。
しかし、立ち止まっていては何も進まない。
ショックなど受けておりません、という顔をして、エリアナに質問することにした。
「お前は」
「エリアナ、でございます、姫様」
「……エリアナはなぜ、過去や未来が分かるのだ」
「はい、お答えいたしましょう。私は……未来からきたのです」
「……」
一体、本気なのかどうか、全く読めない。
しかも、このエリアナという侍女、クラウディアと同じくらいに表情を変えずにいることができる。
もちろん、高位貴族の娘であり、必要な教育は十分受けているだろうが、その姿勢といい表情といい、二十代とは思われないほど板についている。
「おま……エリアナはなぜ、わらわを助けようとするのだ」
「使命です。私は、女神さまより、姫様をお助けするべく、未来からここへ送り込まれたのです。
ですから、この命に代えてでも、姫様の破滅を回避するために尽力する所存ですわ」
「世迷言を……」
もちろん、この国が女神信仰を基本としていることは知っている。
女神のもたらす奇跡も、確かに存在する。
しかし、一介の侍女がそんな使命をおびているなど、荒唐無稽だった。
「つまりお前は、わらわの質問にまともに答えるつもりはないのだな?」
「このエリアナ、いつだって本気でございます。
姫様の過去、現在、未来、どれも間違いはありませんでしたでしょう?
一体、ただの小娘が、姫様の心の中までのぞけるものでしょうか。ありえませんわ。普通なら」
「普通でない神の力が、お前にそれを可能にさせた、と」
「他に説明しようがありません。けれども姫様、言葉ではなく、もっと分かりやすく証明してみせますわ」
そういうと、エリアナは、右の掌を上向けた。
音もなく、光が立った。
クラウディアは息をのむ。
小さな光は、渦巻くように揺れ、やがて水球が生まれた。
それはみるみる大きくなり、ぱしゃんと弾けて、クラウディアの膝を濡らした。
普段なら、無礼者と怒鳴り、平手打ちをしているところだ。
けれど、今は驚きで一杯だった。
「どういうことだ。魔法はすでに廃れたと聞いた」
「ええ、この国では。
他国ではまだ、その血に魔力を宿した者が、多くはありませんが存在します」
「そのような話は、教師からも聞いておらぬ」
「当然ですわ、姫様。他国が自国より優れている点は、知らしめなければないものと同じです」
意図をもって隠されている、と侍女は言っているのだ。
当然、それは王家の仕業ということになる。
「……怖いもの知らずだな、お前は。その発言ひとつで、あっという間に首をはねられてもおかしくないのだぞ」
エリアナはにこりと笑い、もう一度てのひらを上向けて、軽く振ると、クラウディアの服はあっという間に乾いてしまった。
「そうですね。相手が姫様でなければ」
「侮っているのか?」
「いいえ。姫様はすでに私を信じていらっしゃる。
そうでなければ、とうに牢へ入れられていたでしょう」
否定はできない。
その理由は、初めてエリアナに出会ったその夜の、不愉快な夢にあった。
詳細は覚えていない。
ただ、クラウディアは夢の中で、確実に殺された。
斬りつけられた痛みや、血の匂い、弾けるように熱くなった傷口が濡れていく様を、夢だというのにまるで現実のように感じた。
同時に、その時の絶望や諦めすら覚えている。
不可思議なのは、そこにどこか、安堵の気持ちが混じっていたことだ。
夢だと言えばすむ話ではある。
それでありながら、クラウディアにはどこか、それがただの夢だと言い切れないほどの『記憶』があった。
あれは、本当にあったことなのではないか。
そっと、エリアナの顔を盗み見る。
やはりその顔は無表情で、内心を読み取ることは叶わない。
この侍女が、未来から来たというならば、すでにクラウディアが死刑になった世界があるということだ。
果たして、そんな世界の記憶が残っているといえば、笑われるだろうか。
いや、笑われるに違いない。
だがその反面、目の前の侍女が過去も未来も知っていて、あまつさえ、魔法さえ操るというのは、否定できない事実なのだ。
「いいだろう。わらわはひとまず、お前の話がありうるものと考えよう。
で、あるとして」
クラウディアは、ソファに座り、ぶらぶらしそうな足を子供用の踏み台に揃えた。
背中を預け、ゆったりと座りながら、扇でエリアナを指す。
「お前はまず何を成す気だ?」
エリアナは、背筋を伸ばした美しい立ち姿のまま、にこりと笑う。
相変わらず、なにか威厳すら感じるほどの笑みの作り方である。
「まずは、姫様をまっとうにお育てすることです」
「……無礼者め」
「そして、そのための一番の障害になるのは」
その時、ノックがあった。
エリアナは、すっと壁際に下がる。
戸惑いつつも、クラウディアが『入れ』と許可を出すと、大きく扉が開かれる。
入って来たのは、三人の侍女だった。
「姫様! アナスタシアが参りましたわ!
まあまあ、本日も王妃様に似てお美しくございますわね。
さあ、私と一緒に、お茶を召しましょう!」
「……これから歴史の授業のはずだが」
「不要ですわ! あのような下賤の生まれの者が教師を名乗るなどおこがましい。
正しい歴史ならば、このアナスタシアが話してさしあげましょうとも。
今日は、私が王妃様と過ごした日々について、お聞かせしますわ!」
侍女頭であるアナスタシアは、侍女とメイドの差配が仕事である。
本来ならば、彼女に与えられた仕事部屋で待機していなければならないはずだ。
だが、あちこちに出歩いてはお茶だ社交だとやっている。
彼女の父親は、王宮勤めである。
しかも、財務担当官としての地位を持ち、かつ、公爵位を与えられていた。
その影響力は王宮全体の知るところであり、ゆえに、娘であるアナスタシアがなんらかの咎めを受けることなどありえない。
「そこのお前。翠の庭園に茶席の用意をなさい。急いでね。
さあ姫様、参りましょう!」
扇で指されたエリアナは、かしこまりましたと頭を下げ、早足で先行して部屋を出て行った。
「あのような者が姫様の専属侍女だなんて、一体、宰相は何を考えているのかしら。
たかが伯爵の娘が、試験の結果が良かったからといって、いきなり姫様の御傍に侍るなんて!
よろしいですか、姫様、少しでも粗相があれば、すぐさま私に教えてくださいませ。
すぐに首をはねて差し上げますわ。
姫様にはそれが許されるのですもの。
このアナスタシア、姫様にはいつでも、居心地よく、楽しく、何もおつらいことのない暮らしをお約束いたしますわ!」