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ピペリスはクラウディアの最も嫌いな野菜である。
だが、王家の娘、すなわち唯一絶対の王女として、弱みを見せることはなかった。
ではどうするのかと言えば、ただ、気に入らぬと伝えるのだ。
料理が不味いと呟くのだ。
そうすれば、直ちに皿は下げられ、嫌いなものを食べずに済むというわけだ。
もちろん、そのやり方では、永遠にピペリスを避けることは出来ない。
今朝もまた、何度目かのお目見えである。
しかし、クラウディアは困らない。
いつだって同じ、不味い、と言うだけだ。
「ま」
「姫様」
耳元ほんの5㎝の位置で、優し気に、しかし鞭打つように短く呼ばれ、クラウディアは飛び上がった。
「ピペリスには非常に有用な栄養素が含まれております。
その一つがビタミンでございます。代謝を高め肌を美しく保ち、病の予防にもなります。
また、食物繊維も豊富であり、腸の働きを助け、老廃物を排出します。すなわちこれも、美しさに必要不可欠でございます。
もちろん、姫様はご存じのことと思いますけれど」
クラウディア、6歳。
その年頃にしては賢く、聡く、神童と呼ばれてはいるが、人生経験は浅い。
目の前の専属侍女が一体何歳なのか、おおよそ二十代であろうということしか分からない。
そしてその侍女が放つ、殺気にも似た本気の忠言に、どう言い返したものかなど思い浮かびもしないのだ。
「も、もちろん知っておる」
せめてもそう言い放ち、ぷるぷると震える手でフォークを持ち直し、ピペリスを上品に刺し貫く。
そして決死の覚悟で口に運び、苦みに耐えながら噛みしだき、飲み込んだ。
全身の毛が逆立つかのように、カタカタカタッと震えたが、なんとか食べ切る。
「なんと素晴らしい、とっても偉い子ですわね、姫様」
「うううううむ。くるしゅうない」
「さあ、お口直しに召し上がれ」
侍女が取り分けた、小さく赤い、甘い果物をつるりと口に入れる。
鼻に残った嫌なにおいを、爽やかな香りが押し流していった。
「姫様が不味いと一言おっしゃったならば」
さっきまでとは違う、小さな囁き声で侍女が言う。
他の誰にも聞こえないよう、音量が調節されている。
「コック達は皆、クビになり、王宮をクビになった彼らは、料理で生きていくことは出来ません。
その人生の末路がどんなものか……そしてその原因となった姫様をどう思うか……」
ひくっ、と喉がひきつり、たった今のみこんだ甘さと、耳に流し込まれる現実の苦さの差に、眩暈がするほどだ。
「賢い姫様なら、お分かりでらっしゃいますわね?」
そんな。
そんなつもりはなかった。
知らなかった。
いや。
本当はこうだ。
どうでも良かった。
コックの人生など、クラウディアには何の関係もない。
髪をひっかけたメイドを不要と切り捨てたその先が、一体どうなったかなど、興味がない。
お父様に贈られた大切な髪飾りを落としたメイドが、今はもうこの世にいないことなど、何一つ関係がない。
はずだった。
しかし、もしかしたら違うのかもしれない。
今のクラウディアは、ほんの少しだけそう思っている。
王女として何不自由なく、誰に頭を下げることもなく、最も尊い少女であるという自負に、ほんの少しだけ波紋を広げたその考えは、この専属侍女がもたらした。
「この調子で生き残りましょうね、姫様」
にこりと笑う侍女が、初めてクラウディアの前に現れたのは、ほんの一カ月ばかり前のことだった。
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その日、5歳のクラウディア付きになったという専属侍女は、伯爵家の娘とだけ聞いていた。
名は聞かない。
侍女の名前など、クラウディアは知る必要がなかった。
「お前」
そう呼ぶ。
それで全てが事足りる。
なぜなら、彼女はこの国の王女であった。
ゆえに、その侍女が、クラウディアの視線を受けて、窮屈な靴を脱がせにかかった時、まさか話しかけられるとは思いもしなかった。
それも、到底、王族に向かって言う言葉ではない話。
「姫様。このままでは、姫様は16歳でお亡くなりになります」
クラウディアは、表情を変えなかった。
視線すら動かさない。
そのように教育されていた。
5歳でありながら、クラウディアはすでに、母である王妃のコピーであった。
そもそも、そんな世迷言をまともに聞くつもりはない。
ただ、ここへ配属されたということは、それなりに高位であるとともに、人格や知性についてしつこいほど調査が入っているはずなのにと、不思議ではあった。
そこを追及するつもりはない。
いや、そんな猶予がない、ともいう。
この侍女は今日限り、クラウディアの命により解雇になるからだ。
クラウディアはその旨伝えるため、他の人間を探した。
他の侍女たちは、ついさっき脱がされた豪奢なドレスを片付けるのに忙しい。
護衛騎士は、入り口に直立不動でいる。
侍女の囁き声が聞こえているのは、クラウディアだけだ。
大声を出すことに慣れていないせいで、他の人間を呼ぶタイミングが遅れた。
その隙に、目の前の侍女は言葉を続ける。
「お信じにはなられないでしょう。どんな出来事も、今の姫様の御気持ちを動かすことは、出来ません。
そのように教えられておられる」
侍女の手つきは確かだった。
両の靴を脱がせ、絹のストッキングを取り去り、暖かい湯で絞った布を足裏に当てる。
その心地よさと、得体のしれない侍女の言葉に、クラウディアは珍しく困惑した。
「私は未来を知っております。同時に、過去も知っております」
指先を拭き、布を換えて、反対の足を持ち上げる。
その手つきは、今までのどんな侍女よりも優しい。
「姫様。日記をしまっておられる引き出しの底の右隅が、少し欠けていますね」
ぴくり、と足先が跳ねてしまう。
けれどまだ、表情は変わっていないはずだ。
「でも黙っている。その欠けた形が、王冠の形みたいで可愛いから」
ほんの僅か、目が見開くのを止められなかった。
過去の出来事など、どこからでも知りえる。
未来の出来事さえ、工作員にかかれば作り出すことができる。
けれど、クラウディアの『心』は違う。
王女たるもの、内心を打ち明けることなど論外で、気取られることさえ嫌ってきた。
侍女はそれを、言い当ててみせた。
これはどこからの情報だろう。
まずはそう考える。
しかし、侍女はさらに言葉を継いできた。
「熱が出て鼻が詰まると、不思議に葡萄の香りがする……気がする」
もはや、全身を硬直させ不自然に固まることしか、驚きを隠す術がなかった。
引き出しの欠けは目に見える分、推測が不可能とは言い切れない。
けれどそれは。
不思議なその、熱に浮かされた日の、浮かんでは消える幻のような感覚は。
「さあ姫様、お手を」
少し大きな声に変え、侍女はクラウディアの両手を上げさせた。
すっぽりと寝間着がかぶせられ、柔らかなガーゼの毛布にくるまれる。
あっという間に寝かしつけの体制に持っていかれ、思わず見上げた先で、侍女は奇妙に優しく微笑んでいた。
「このエリアナが、絶対に姫様を生かしてみせます。
どうぞ、お健やかにお育ちになりますように──」
昨日まで見知らぬ人間であった侍女の、慈しむような声に引かれ、クラウディアは眠りに落ちていく。
そして翌朝、ひどい夢を見て目が覚めたクラウディアは、一番に専属侍女を呼んだ。
「お前が過去を知っている証拠を見せよ」
その問いに、彼女は、クラウディアと父、すなわち国王しか知らない二人の会話を完全に再現して見せた。
「お前が現在を知っている証拠を見せよ」
その問いに、彼女は、クラウディアの語学教師がローテーションでつけてくる三種類のクラバットの色を、完璧に当てて見せた。
「お前が未来を知っている証拠を見せよ」
その問いに、彼女は、三日後のクラウディアの生誕祭に、誰がどんな贈り物をするのか並べ立てて見せた。
その答え合わせが済んだ日、クラウディアは侍女をほんの少し信じてみることにした。
全てを嘘だと断じるには、あまりに知りすぎている。
だとすれば、16歳で死ぬという話だけが嘘だと言うのは、願望が過ぎるというものだ。
それにあの夢──。
「なんとかせよ、エリアナ」
クラウディアが生涯で初めて、人の名を呼んだ日だった。
「はい、姫様、お任せください!
まずは、残酷姫というあだ名をなんとかいたしましょうね!」
力強い彼女の言葉に、クラウディアは表情を変えないまま思った。
え、わらわ、残酷姫って呼ばれてるの?