8.婚約者がやってきた
エイルがジフリエル侯爵家で働き出して、1ヶ月が過ぎた。
記憶力もさることながら、様々な場所で意外に動けるエイルに、皆驚いていた。
学生時代から様々なアルバイトをしていたので、当たり前であったが、皆はそれを知らない。
エイルが、同僚の家人達の顔と名前も一致し、仕事もようやく覚えて来た頃、リシャールがジフリエル侯爵家にやって来ることになった。
エイルは、リシャールの事を忘れていた。
正直、本当に忙しくて忘れていたのだ。
すぐ連絡すると言って、覚える事が多く、新しい環境も楽しく、すっかり忘れていた。
切り替えの良さで、貴族のリシャールとはもう接点はないと思っているせいもあった。
今回はただの訪問で、軽いお茶会をするらしい。
朝礼時に、リシャールが昼過ぎにくると聞いて、エイルは少し憂鬱な気分になった。
更に
『エイル、タジハール公爵家のお世話になっていたのでしょう?同席を求められているから、ゲストとして粗相がないようにしてくださいね』
と言われたのだ。
そのあと、何か言われていたが全く耳に入らなかった。
大丈夫?とアシャに言われて、自分の顔色が悪くなっている事に気付いた。
「どうしたの?タジハール公爵の息子にいじめられていたのよね?」
「まさか。とてもいい人よ」
「そう、なの?」
そんな顔に見えないエイルを怪訝そうに、アシャは見つめる。
「ええ。リシャール様は、とても綺麗だから、皆びっくりするかもね」
「噂では聞いたことがあるけど、ジフリエル様一人しかいないお屋敷には、まだ社交界デビューされていないリシャール様はいらっしゃっらないから。エイルがいるから来るのかしら?」
「心配性だから、見に来るんでしょうね」
顔色悪く、軽口をたたくが、覇気はない。
さすがに、婚約者でしたとは言えない。
タジハール公爵の縁故で入ったのは皆知っているが、今平民であるエイルが嫡男の婚約者だったなんて、知られたらリシャールの傷になってしまう。
それに、忙しさにかまけて、リシャールに連絡していなかった。
リシャールは結構、執念深い。
過去にリシャールの誕生日を忘れたことがあって、1ヶ月位言われ続けたことがあった。
それも、当日ではなくて、まだ誕生日ではない日に、いつだったかしら?と軽口で聞いただけだ。
婚約者の誕生日を忘れるなんてと、毎日毎日、朝の挨拶時にリシャールの誕生日の日付を言ってきた。
そんなに誕生日プレゼントが欲しいのかと思ったが、当日は、エイルにお金なんて出させられないと言って、料理を作らされた。
コンラッドたちにしか作ったことないし、料理の内容も、下町の食堂の奥さんから教えて貰った庶民的な料理だ。
大貴族のリシャールの口には合わないだろう。
それでも、リシャールは子供のように笑って、美味しい美味しいと言ってくれたが。
リシャールは貧乏婚約者の事を、よく分かっている。
リシャールは、仲間外れを嫌がる。
ねちねち皆が居ないところで、連絡しなかったことを責められるかもしれない。
一応、弟たちに住所や仕事場の事を言ったが、暇になったら連絡してくれよと、あっさりしたものだったのに。
リシャールに伝えておいてと言ったが、彼らの事だ、言い忘れているだろう。
おじ様から聞いて、居場所は知ってるから、今日来ることになったのだと思うけど。
何故、わたしも同席なのかしら?
もう、関係ないのに。
仕事が出来なくて、辞めさせられちゃう?
エイルはそわりとした。
なんだか、とても嫌な予感がする。
その様子を見て、周りの人間たちは、やはりエイルはタジハール家の嫡男であるリシャールにいじめを受けていたのだと推測した。
それならば、辞めさせられないように、護ってやらなけれは。
年長の侍女たちは、青ざめているエイルを見て、そっと心の中で決意した。
エイルの心の嵐をよそに、時間だけが過ぎていく。
上の空であったが、エイルは茶会の準備で走り回った。
「リシャール様がみえられました」
その言葉で、家人達がぴしりと配置についた。
エイルは、少し沈んだ顔をして、執事の隣についた。
「エイルっ!」
聞きなれた声が正面から聞こえた。
エイルが緊張した面持ちで、前を向く。
正面玄関から入ってきた少年の姿に、全員が目を奪われた。
コートを脱がぬまま、エイルの前に駆け寄った貴族の少年。
息を飲むほど、美しかった。
人間と認識出来ないくらい、美しい整った顔をしていた。美し過ぎて、異質にさえ見える。
プラチナブロンドはまるで輝く滴のように肩から溢れ落ち、青い大きな瞳は強く揺れている。
まだ少年の姿だったが、青年に変わる色気が体躯から見える。
だが、麗美な外見とは裏腹に、まるで獲物を見つけた獣のように、ぎらぎらとしていた。
リシャールは、供よりも先に玄関に入り、足早にエイルの前にいる。
「・・・・ようこそ、おいでくださいました。リシャール様」
いち早く、正気に戻った執事が頭を下げると、周りも一斉に下げる。
エイルが、気まずい気持ちを圧し殺し、リシャールの正面に立つ。
「リシャール様、ご無沙汰しております。今日は、わざわざ来ていただき、ご足労をおかけいたします」
綺麗な笑みを浮かべ、エイルが背筋を伸ばしリシャールを見た。
「エイル?」
わなわなとリシャールが震えた。
エイルが私に、よそ行きの言葉をしている。
『リーシャ』て、呼んでくれない。
何故?
エイルは私の家族で、婚約者なのに。
「エイル、帰ろう」
リシャールは頭を下げる家人達に目もくれず、エイルだけを見つめている。
リシャールに追い付いた従者と思われる青年が、二人の姿を見て躊躇するように見つめていた。
「帰る?もう、帰るの?忘れ物?」
エイルがキョロキョロと、どうしていいか分からず執事を見た。
執事が止める前に、リシャールはエイルの手を握った。
「エイルが、私の屋敷に帰るんだよ。その服は制服?ひらひらして、とても似合って可愛いね。気に入った?部屋に、それと同じものも用意してあげる。ジフリエル侯爵家に就職するなんて、聞いていなかったよ。すぐに迎えに行きたかったけれど、父上に止められてしまってね。2、3件、汚職をでっち上げて、父上を攻撃しようとしたら、会うことを許してくれたんだ。遅くなってごめんね」
「部屋?え?汚職?攻撃?」
不穏な言葉に、慌てているエイルは、何が起こっているのか理解できない。
「うん。勝手にエイルを連れていった罰だ。大人なんだから、ちゃんとエイルを止めなきゃいけないのに。だから、弱味を反対勢力にあげようと思ったんだ」
にこにことリシャールは笑っている。
決して瞳は笑っていない。
「だ、ダメよ。そんな事」
「うん。父上の側近の一人を失脚させた位で許してあげたよ。だから、父上が茶会をセッティングしてくれたんだ。早くすればよかったね。私はエイルが頑張ってる姿を、目を焼きつけなきゃいけないのに」
うっとりとエイルを見つめるリシャールには、周りの人間は映っていない。
この人、ヤバい。
エイル以外の同室にいた家人たちは、正しくリシャールを認識した。
全く感情が籠っていない言いぐさに、エイルしか見ていない瞳。
後ろに控えている従者たちは、どことなく虚ろげで、うっとりとリシャールを見つめ、リシャールを妄信しているようだった。
耳聞きのいい声は、狂気さえも圧し殺す。
そのくせ、まるで当たり前のようにその場所にいる。
まるで、魔物だ。
「リシャール様、部屋に、ご案内致します」
「エイル、家に帰ろう」
執事の声が聞こえていないのか、当たり前のように、リシャールはエイルの腰をつかみ、抱き上げた。
「ひゃっ!?ねえ、どうしたの?え?ねえって?」
エイルはきょとんとしたまま、されるままになっている。
軽く混乱している。
しばらく見ないうちに、美貌に拍車がかかり、身長が伸び、大人の男性のようになってしまったリシャールに、エイルがどまどきする。
肉親以外で、こんなに詰め寄られることはなかったのだ。
顔が真っ赤になり、自分がどんな事になっているのか、わかっていないようだった。
歩き出したリシャールに、エイルが逃げようとするが、腰をがっちり捕まれて動けない。
そして、抱き上げた。
「リシャール様!?何をなされますっ!?」
慌てて執事がリシャールを止めようとした。
「あ、あの、大丈夫ですっ。ちょっと、リシャール様と話してきますっ。すぐ戻りますっ」
エイルは慌てながらもはっきりと答えた。