3.おじ様は苦労性
「おじ様、保証人の署名ありがとうございました。あと、そちらの書類は、全部揃っていますか?確認してください」
ダジハール家の当主の書斎には、重厚な黒いソファと机が置かれている。
棚には大量の書類が綺麗に並べられている。
エイルは、ソファに座り、ダジハール公爵と向かい合わせに座っていた。
リシャールが成長したら、こうなるのだという美丈夫ぶりに、エイルはいつもため息しかでない。
夫人もダジハール一族の遠縁と聞いているので、一族全員、美貌の人なんだろう。
長いプラチナブロンドを無造作に後ろで結び、切れ長の青い瞳はまるで氷のように人を見つめている。
完成された美貌がそこにあったが、冷たい外見とは裏腹に、非常に涙もろく、愛妻家で子供を溺愛していることをエイルは知っている。
ダジハール公爵は、煮え切らない返事をした。
「う、うん・・・・。別に職場の保証人はいいんだけどね。婚約解消の手続きは、ちょっと」
「書類に不備がありましたか?商会の経理の方にチェックしてもらったのですが」
エイルは、ダジハールにいつも他人行儀な態度を取る。
ダジハールにとって、それはとても切ないことだった。
「え、経理の子も知ってるの?じゃあ、ちゃんと口止めしなきゃ」
そのまま握り潰そうとしたのに、書類を知ってる人間をピックアップしなければ。
タジハールは冷や汗をかいたが、そんな様子をおくびにも出さず、ゆったりとエイルに微笑む。
エイルは微笑みかえした。
「大丈夫ですよ。婚約自体も、皆、虫除けだって知っていましたから」
「そんなこと・・・・」
タジハールは、これで息子がこの上ないくらい怒り狂う事を思い憂いた。
目の前のエイルは、リシャールが望んでいるなんてつゆほども思っていない。
知ったら逃げる可能性もあるから、虫除けだと思わせていたのが、裏目に出た。
エイルは、仕事を邪魔してしまったようで、少し慌てたように立ち回るタジハールを、感慨深げに見つめている。
夕食の後が良かったかしら?
そう思ったが、書類関係は昼間がいいだろうと思い直す。
リシャールは、幼馴染の自分に対しては、懐いてくれていると思う。
弟たちもリシャールを、少し変わった兄みたいな幼馴染位に思ってるだろう。
本の虫だったリシャールを連れ出して、野山を駆け巡り、よく熱を出させていたような気がする。
リシャールは、何も言わなかったが、いつも子犬みたいについて来てくれた。
頭がよくて綺麗な可愛い弟。
だから、居候の半分平民の血が入った準貴族でもない女が、彼の出世の邪魔をするわけには行かなかった。
「おじ様、リーシャとの婚約の件は、本人達の意思でいいと言ってくださいましたね?それは片方の意思でよかったですよね」
「そうだが・・・・エイルは、リシャールが嫌いなのかい?」
「まさか。とっても出来のいい〝弟〟です。わたしにはもったいないです」
「弟。弟なのか・・・・」
残念そうにダジハールは呟いた。
「後ろ楯のないわたしに、リーシャはとても優しくしてくれます」
エイルはにっこりと微笑んだ。
ダジハールは、エイルたちを溺愛してくれる。
本当の息子リシャールと同じくらい。いや、手がかかないリシャールよりも、よほど気にかけてくれているだろう。
『おじ様』と自分を呼ぶように言ってくるので、エイルはその通りに呼んでいた。
まるで、本当の子供のように、接する事がエイルにはむず痒い。
タジハールは、親友の子供たちの本当の親になりたがった。
当初、『お義父様』と呼んでほしいと言われて、どうにか断ったのだ。
公爵夫人も『お義母様』呼びをさせようとして、母に断られて落ち込んでいたのをみた。
亡くなった父と、母は、二人にとって、かけがえのない親友だったらしい。
母が苦笑しながら教えてくれた。
お二人ともとても優しいのだが、ぐいぐい来るのは生粋の貴族だからだろう。
それでも、ダジハール公爵家のタウンハウスに、住まわせて貰ったのは感謝しかない。
心が弱ってしまった母は、夫人の話し相手として夫人付きの侍女をしている。
婚約解消だって、エイルが準貴族になった時点で、自動的にリーシャとの婚約も解消される予定だったが、ダジハール家の強い希望でそのままになっていた。
解消の書類は、当人同士が16歳以上か、両家の親の署名が必要だった。
ダジハール公爵は、わざわざ見捨てる書類にサインはしないと言っていたけれど、このままでは、リーシャの経歴に傷が付いてしまう。
公爵は、アラベスタ家の復興を願っているのだと。エイルはそう思ってる。
だから、弟達を平民に落とす訳にはいかなかった。
こほんとダジハールが咳をした。
「婚約解消の件は、後でリシャールに確認してサインして貰うよ」
「はい、よろしくお願いいたします」
「あと、引っ越しなんだけど・・・・エイル、本当に本当に居ていいのだよ」
「おじ様、ありがとうございます。コンラッド達を、どうかよろしくお願いいたします。私は貴族籍が失くなります。ここに住むのは不適切でしょう」
「エイルが良ければ、すぐにアラベスタ伯爵家を復権させると言ってるだろう」
宰相でもあるダジハール公爵家には、アラベスタ家の内政は手出し無用と伝えていた。
没落貴族に下手に手を出して、政治の弱味にしてほしくなかった。
わたしは、貴族籍には興味はない。
けれど、何もわからない弟たちには、貴族籍の復活をさせたい。
後ろ楯のない自分に出来るのは、お金だけだ。
「ええ、いざとなったらお願いするつもりです。それまでにできるだけ返済する分を貯めようと思っています」
「・・・・・・」
もし、弟たちが将来、平民に落ちた姉を邪魔に感じるなら、王都出ることも考えなければいけないだろう。
「よいご縁があれば、おじ様にすぐにお返しできるのですが」
曲がりなりにも、自分は貴族の容姿をしている。
黙っていれば、金色の髪に、深みのある青い瞳に、細い手足、愁いたような眼差しは、貞淑な令嬢に見えるだろう。
貴族マナーも頭に叩き込んでいる。
女中として働いていれば、誰か目に止まるかもしれない。
亡くなってすぐに、訳ありの縁談が何件か来たのは、事実だ。
年老いた貴族の後妻か第二夫人でも、お金を融通してくれるならなっても良かった。
ただ、その時もダジハールに止められてしまったが。
「・・・・そんな事は、望んでいないよ。もし、そんな事になったら、私は絶対反対するし、相手のエロジジイを潰すよ」
ダジハールは、困った顔をしてはっきりと言った。
「ありがとうございます、おじ様」
エイルは頭を下げた。
タジハールは、他人行儀なエイルの仕草に切なそうに目を細めた。
エイルはタジハールに対して、とても恩を感じている。
だから甘えてしまったら、本当に弱い自分が出て頼りきってしまうのがわかっている。
エイルは、タジハールに父を重ねる事で、父を忘れてしまう事に怯えていた。
エイルはまだ子供だ。
父が亡くなった事で、大人にならざる得なかった。
だから。
がむしゃらに働いて。
何も考えられないくらいに働いて、心を空っぽにしたかった。
幸いにして、読み書きが出来たので、昔、父が世話をしていたつてで、商会の経理の手伝いが出来た。
学園には必ず通うように言われたから、昼まで学園に行って、昼から商会に行って、早朝と深夜にミルクや花の配達をした。
午前中しか通えなかったけれど、成績上位を条件に、試験は受けさせて貰えた。
融通を効かせてくれた学園長とおじ様には感謝しかない。
貴族学園の就学証明書は、高官や城勤務を目指すものにとってとても有利になる。