2.婚約者はとても可愛い
学園から戻り、エイルはダジハール邸の玄関をくぐった。
勿論、ここまで徒歩だ。
エイルは、ダジハール邸の別館にて続く中庭を歩いている。
きちんと刈り上げられた庭木と、薔薇や様々な花が咲き乱れる花壇は、微かに甘い花の香りを燻らせる。
ダジハール邸は、家族を大事にしている当主の方針で、側近や嫡男の側近たちが、立ち入る事を禁止している。
家族以外には、執事とメイドしか居ない。
仕事を持って来るのが煩わしいそうだ。
そのくせ、自分で書類の束を持ち込んでいるので、一人になりたいだけかもしれない。
エイルに、後ろから声がかかった。
「エイル」
変声期途中の中性的な声。
けれど、美声であった。
「エイル」
もう一度、呼ばれ、振り向くとまるで女神のような美しい美貌が目に入る。
輝くようなプラチナブロンドがさらさらと滝のように揺れ、大きな青い瞳が、泉のように潤んで見つめている。
大人の姿ではない。けれど、強かな瞳の強さは、外見とは裏腹に食えない貴族の重鎮の印象さえ与える。
「リーシャ、お帰りなさい。今日は早かったのね」
返すと麗しい外見の美少女は、ますます嬉しそうに笑う。
子犬のように、美少女もといダジハール家の嫡男は駆け寄った。
ここ一年で、あっという間に自分の背を追い抜いてしまったが、まだ男性というより無性の聖霊のようだ。
もっと成長したら、当主と同じように美しい青年になるのだろう。
女の自分が霞むわあと、内心苦笑いをする。
幼馴染みで婚約者という立場だからこそ、こんなに気軽に話していられるのだろう。
リシャールの事を『リーシャ』と呼んでいるのは、エイルだけだ。
子供の頃の言い方が、そのままになってしまった。
元に戻そうとしたが、リシャールが他人みたいだと嫌がったので、そのままにしている。
本当に婚約者の特権よね。とエイルは思った。
「ただいま。うん。エイルに会いたかったから。今日は仕事はない日でしょう?」
「よく知ってるわね」
「エイルの事なら、なんでも知ってるんだ」
エイルは昼から近所の商会で、アルバイトをしている。
毎日でも働いて良かったが、週に四回と決められていたので、他の時間で配達も手伝っている。
居候元のダジハール公爵は、何でも揃えてくれる。善意とわかっているが、エイルは微弱ながら、返金している。
今日は、卒業間近のせいか、強制的に出勤日を減らされ休みだ。
学生なのだから遊べとは、いかがなものか。
市場でも行って、単発の売り子でもしようと思っていたのだが。
リシャールはにこにこ笑って見ている。
「エイル」
「ええ、どうしたの?」
「今から、コンラッドたちと茶会をするんだ。勉強会も兼ねて。エイルも一緒に教えないか?」
弟たちは、体よくリシャールを家庭教師がわりにしているようだ。
「え?また、コンラッドたち、リーシャに我が儘を言ったの?リーシャは忙しいのに。ごめんなさい。わたしが教えるから、休んで大丈夫よ」
まだ、社交界デビューしていないが、リシャールは父親の仕事を手伝っているし、密かに事業にも手を出しているのを知っている。
「い、いや、大丈夫だっ。お茶もしたかったから。片手間だし、丁度いい休憩になる。だから一緒に・・・・」
慌てて言うリシャールに、エイルがごめんねと頷く。
「ええ、いいわよ。ごめんね、コンラッドたちが我が儘言って」
「大丈夫だよ。僕の大切な義弟になるのだから」
少し誇らしげにリシャールが言う。
「そんなに年齢は変わらないでしょ。あの子達も、リーシャみたいに落ち着いたらいいのに」
一歳ほどしか変わらない。
弟たちは、双子で、勉強より走り回ってるのが好きなようだ。
騎士になるといって、武術に手を出していると聞いた。
近く、騎士の寄宿舎に行く予定らしいが、リシャールの落ち着きを、少しくらい見習って欲しいものだ。
「コンラッドたちは、エイルの小さい頃みたいで可愛いよ」
「あんなに、お転婆じゃなかったわよ。兄貴風吹かせちゃって」
「うん」
リシャールが嬉しそうに微笑む。
近頃、リシャールは何か良いことがあるのか、楽しそうだ。
まるで子犬のようにエイルを見つめ、横に立つ。
リシャールは初めから肉親に対しても、大人びた対応だった。
同年輩の子供とは、口を聞かない。
周りが聞けなかったのかもしれない。
容姿も頭脳も、ずば抜けて良かった。
そして、皆、リシャールを大人か神様のような扱い方をする。
エイルには、それがどうにも我慢出来なかった。
可愛い弟が無理やり大人の対応をされているようで、嫌だった。
だから、勉強の間に無理に連れ出した。
弟たちと一緒に遊んで、リシャールも懐いてくれたと思う。
リシャールは、物怖じしないエイル達が珍しかったのだろう。
まるで本当の姉のように、懐いてくれた。
「エイル」
「なに?」
リシャールは、もじもじしたように下を向いた
まるで、美少女がはにかむような姿に、エイルは悶えるように可愛い!と思ってしまう。
それに、リシャールからはいつもとても良い匂いがする。
近づかないとわからない位の仄かな香りだが、花のような瑞瑞しい若葉の様なうっとりする香りだ。
街でも市でも嗅いだことがない香りだから、リシャールだけのために調合された香水なのだろう。
上流貴族は子供でも、こんないい香水を嗜むのね。と、エイルはいつも思ってしまう。
はにかむリシャールはとても可愛い。
きっとこんな姿に、皆は心を撃ち抜かれるのだとエイルは思っている。
リシャールのこういった姿を見たことは、エイルしかいないのだが、エイルは知らなかった。
「エイルが、お茶を一緒に飲んでくれるのは、久しぶりだ」
「そう?」
「そうだよ。いつも働いてるし。僕の婚約者なんだから、働かなくていいのに」
拗ねたようにいうリシャールに、エイルが微笑む。
リシャールはよく婚約者という言葉を口にする。
「エイルと、ゆっくりお茶を飲みたかったんだ」
「そうね。こんなこと出来るのも、あと少しだし」
「あと少し?」
「卒業しちゃうでしょ?来月」
「うん。制服や本はどうするんだ?」
「後輩にあげちゃったわ。教科書、見たかった?」
「いや、いらなかったら、エイルの卒業記念に貰おうと思って」
書き込みし過ぎてよれよれになった教科書は、後輩たちは有効活用してくれるかしら。
意地悪な令嬢たちは、物質的な証拠を残さないように教科書やノートは隠す位だったので助かった。
「ふふ、リーシャったら。使った物は、本人が記念にするものよ」
残念そうなリシャールの顔を見て、普通の学園生活が送りたかったのかしら?とエイルは思った。
「学園生活、一緒にいたかったなあ」
リシャールは学園を飛び級で卒業してしまったから、校舎の思い出はほとんどない。
「一緒に居ても、勉強しかしてなかったから、面白くないわよ?リーシャと違って、勉強は付いていくのが精一杯だから」
「・・・・エイルは、とても頭がいいよ。主席だし、応用力がすごいもの」
「ふふ、ありがとう」
「エイル、来週、式があるのだろう」
「卒業式?」
「式が終わったらさ。ダンスパーティーがあるよね。パートナーは僕でいいよね」
上目遣いに言われたが、エイルは流す。
「行く必要はないわ。わたし、ドレス持ってないし、エスコート役も居ないから」
「僕がするよ」
「何時に参加出来るか、分からないから」
本当は出る予定はないが。
首席だったせいか、代表挨拶を頼まれたが蹴ってきた。
当日、面接が入っているのだ。
すでに証書はもらっている。
仮で、ダジハール家に頼ってしまったが、ぎりぎりまで、エイルは就職活動をしていた。
それを言ったら揉めそうなので、エイルはダジハール家の面々には言っていない。
親たちが式やダンスパーティーに参加すると大騒ぎした。平民に落ちるのに、宰相夫妻が親枠で来るなんて嫌だと必死に止めて、屋敷で小さな晩餐会をするとこで落ち着いた。
母も勿論行く気だったので、慌てて止めた。
思いだし、渋い顔をしたエイルに、リシャールはにこにこと笑いかける。
「エイル、卒業記念に、お揃いの腕輪とか用意しよう。後で、エイルが換金出来るように、名前は入れないから」
リシャールはエイルがお金を貯めている事を知っている。
「やだ、記念の物を換金なんてしないわよ。それにそれは、公爵家のお金でしょう。無駄遣いしちゃ駄目よ」
「していいよ。僕のお金だもの」
「いえいえ」
エイルが苦笑いした。
「学校が終わったら、暫く家でゆっくりするのだろう?どこかに出掛けない?田舎でゆっくりしてもいいね」
勿論、僕のお金だから、大丈夫。そう言って、リシャールは花のように微笑む。
リシャールは、宰相補佐をしているし、何か事業もしているらしい。
首を突っ込んだら、リシャールに変に組み込まれて、面倒な事になりそうなので聞いたことはない。
「行かないわよ。それに、早く新しい部屋に荷物を運ばないといけないから。」
「新しい部屋?」
「言ってなかったかしら?わたし、引っ越すのよ」
その言葉に、リシャールの顔色が変わった。
「え?聞いてない。どういうこと?」
「働くのよ。貴族籍も無くなるから」
「・・・・・・出て行くの?」
「ええ。平民が公爵家に住むってありえないでしょう?」
何でもないようにエイルが答えた。
「エイルは僕の婚約者だから、貴族のままだよ。それに、卒業したら、僕の仕事手伝ってくれるのだろう?」
「宰相補佐の仕事を、小娘が手伝えるわけないわよ」
「・・・・じゃあ、家の管理をすればいいよ。母上は、優しく教えてくれる」
「ふふ、わたしが女主人の真似なんて、考えられないわね」
おかしそうにエイルが笑った。
リシャールの顔は強ばったままだった。
「貴族じゃなくなるから、もうリーシャを呼び捨てに出来ないわね」
「そんなっ。エイルは特別だよ!」
「リーシャ、社会に出たら、もう子供じゃないんだから」
軽くいなすエイルに、リシャールはがりっと自分の爪を噛んだ。
「リーシャ、駄目よ。爪が割れちゃう」
「・・・・じゃあ、妾になればいい」
「え?」
リシャールが、いいことを思い付いたように微笑んだ。
「正妻になれないなら、僕の妾として屋敷にいればいいよ。エイル以外に側に置くつもりはないから」
リシャールは楽しそうに言った。
「体裁が悪いと言うなら、ずっと家にいればいいよ。僕がちゃんと相手するし、家で仕事も出来るから」
「・・・・それは、私が嫌よ」
リシャールは常識が通じない。
俗世に興味がないのだと思う。
黒か白しかないし、きっと貴族と平民の差も解らない。
「エイルは妾になるのは嫌い?」
「そうね。わたしだけを好きになってくれる人がいいわ」
リシャールはぶんぶんと頷いた。
「僕は、エイルだけだよ」
「ふふ、今はね」
リシャールが大人になって、社交界を経験し、広い世界を見たとき、美しい貴族の女性の手をとるだろう。
「・・・・エイルは、僕の屋敷以外知らないものね。結婚するまでの間は、羽を伸ばすのはいいことだと思う」
うんうんと小さな声で呟くリシャールに、エイルは曖昧に頷いた。
「そうね?落ち着いたら、コンラッドたちにも会いにくるわ」
「僕は?僕にも会いたいだろう?」
そうね、とエイルは頷きながら微笑んだ。