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水城三日の作品

ヒトリナツヤスミ

作者: SSの会


 ソイツはなんの前触れもなく現れた。


 夏休みも後半に差し掛かり、退屈で平穏な日々が続くある日。


 することもなくいつものように惰眠を貪っていた私は、ふと何かの視線を感じて目が覚めた。


 お母さんがまた勝手に部屋に入って来たのかと思った私は、頭の中で怒鳴る準備をしてから勢いよく上体を起こした。


「ちょっと、勝手に入って――」


「やぁ」


 しかし、そこにいたのはお母さんでも、ましてやお父さんでもなかった。


 そこにいたのは私と同じ制服を着た男の子。


 その男の子が、私の目の前でにこやかな笑みを浮かべて手を振っている。


 ふわふわと浮かびながら。


「ぎゃあああぁぁぁぁぁっっ!」


 事態を理解するよりも先に私は叫び声をあげながら枕をぶん投げていた。運動神経なんて皆無に等しい私が投げたとは信じられないほど、投げた枕は綺麗にそいつの顔面を捉えた。


 けれど、それはそのまま彼の頭部をすり抜け、目標を失った枕は私の本棚へと突っ込み、雑誌の山を巻き込みながら床に落下した。


「乱暴だなぁ」


 枕の行く末を見守っていたそいつは他人事のように呟いてまたくるりとこちらを向く。


「え……?」


 その顔に、私は既視感を覚えた。さっきは驚いてよく顔を見ていなかったけれど、私はこの人を知っている。


 知らないわけがない。


「あ、あのさ」


 おそるおそる声をかける。


「もしかして、牧原、くん?」


 おそらく牧原くんらしき浮遊体はふわふわと漂いながらやっぱりにこやかに微笑んで、

「僕のこと知ってるの?」

 と、言った。


 やっぱりそうなんだ。


「そりゃあ、ね……」


 牧原ハル、といえば今や校内で知らない人間なんていない。


 だって。


「学校の屋上から飛び降り自殺した人なんて忘れるわけがないよ」




 * * *




 三学期の最終日のことだった。体育館で校長先生の大してタメにもならない長話を聞いているときのことだったと思う。


 いきなり、体育館の鉄扉が思い切り開いて一人の先生が息を切らせながら校長の元に駆け寄った。耳打ちでなにかを聞いた校長は私たちをその場に待機させて体育館を出て行った。


 それからしばらくは大人しくしていたけれど、数人の男子生徒がトイレと偽って様子を見に行ってしまったらしい。彼らは青い顔で体育館に駆け込むと同時に。


「飛び降りだぁ!」


 と、叫んでしまったのだ。


 慌てて止めに入る先生たちと動揺する生徒たち。その先は地獄だった。情報は伝播していく。


 どこで飛び降りたのか。死体の状態。なぜ、飛び降りたのか。


 誰が、飛び降りたのか。


 その名前を聞いたとき、私たちは納得した。


 牧原ハル。彼は、この学校の闇だったから。




 * * *





「それもそっか」


 校内の闇を一身に背負った彼はしかし、とても飛び降り自殺をはかったような雰囲気を微塵も見せず、あっけらかんと笑って見せた。


 そんなんでいいのか。もっとこう、幽霊であるべき姿勢みたいなものがあるんじゃないの?


「まぁ、死んだら全部終わりだからね」


 まるで心を読まれたかのような彼の言葉に私は慌てて目を逸らす。


 表情に出てた?


 よく、何を考えているのかわからないって言われるんだけどな。黙っているだけで、なんでそんな不機嫌なのって言われたりする。


 こっちはそんなつもりはないのに。


 そんな内情にはさすがに気付くはずもなく、牧原くんは話を続ける。


「いやぁ、死ぬまではいろいろあったんだけどね。いざ、死んでみたら楽なもんだよ。悩みどころか明日のことも考えなくていいしさ」


 嘘を言っているようには見えなかった。生きていく上で少しずつ増えていくいろいろなもの。そのすべてを置いてきたんだ。身体と共に。


 羨ましいと思う。本当に。


「あ、でも」


 何かを思い出したかのように彼は手のひらをパンと叩いた。


「直近で解決しなきゃいけない問題があってね」


「問題?」


「そうそう」


 彼はおそらく自身が入ってきたであろう窓を指差した。


「ここから、出られないんだよね」


「は?」


 唖然とする私に彼は今まで以上ににっこりと微笑むと、

「僕、地縛霊になったみたい」

 そんなふうにのたまったのだった。





 * * *





「佐倉さんの家って広いんだね!」


「まぁね」


 テーブルに無造作に置かれてたコンビニのサンドイッチを手に取る。いつもならちゃんと朝食を作り置きしてくれていたのに、今日は珍しくメモの一つも置かれていない。


 おそらくもう、二人とも仕事に行ったのだろう。リビングには誰もいなかった。お父さんの飲みかけのコーヒーと一切手を付けていないトーストだけが置かれていた。


 ソファーに身体を投げ出してテレビをつける。


 画面には人気の女子アナと有名な芸人が今世間を騒がせている男子アイドルグループの不祥事について語っていた。


 なんでもグループのリーダーが率先してメンバーの一人をいじめていたということらしい。なぜか、そのリーダーの写真や名前の部分が黒く塗り潰されていてよく見えないけれど、最近のニュースはずっとこれだ。


 よっぽど裏で圧力があったのか、出演者の人たちが彼の名前を話す瞬間にノイズが走って聞き取れない。


 朝から暗い話は勘弁して欲しいんだけど、それでも無音のままでいるよりかはよっぽどマシだ。


「ねぇねぇ」


 特に、今のこの状況では。


 後ろから聞こえる声を無視して、ペリペリとサンドイッチの包装を剥がしながらテレビに集中する。


 今のこの現実に目を向けたくない。


「げ……」


 一口、サンドイッチを食べてから私はすぐに違和感に気付いて吐き出した。


 トマトが入ってる……。


 包装紙を見ると、そこにはトマトサンドと印字されていた。嫌いだから買って来ないでっていつも言ってるから、まさか買ってくるなんて思ってなかった。


 パンに挟まれたトマトだけ綺麗に外して包装紙の中に入れていく。


「トマト、食べないの?」


「嫌いなの」


「美味しいのになぁ」


 テレビに目を向けてるから彼が今なにをしているのか知らないけれど、おそらく困った笑みでも浮かべながらぷかぷかとそこらへんを浮遊してるんだろう。


 思わずため息が出る。


 結局、彼がこの家から出ることは出来なかった。


 すべてのドアというドア、窓という窓には目の前に壁が出来ているように彼の進行を妨げていた。


 もちろん、私は普通に通り抜けられるから、彼が空間を叩いている仕草はさながら目の前でパントマイムでも見ているかのようだった。


 とにもかくにも、このままではこの幽霊はこの家で暮らしていくことになってしまう。


「これからどうするの?」


「どうしようかなぁ」


 だと言うのに、背後から返ってきた声には緊張感の欠片もない。


「出られなくて正直ちょっと焦ったんだけど、よくよく考えたら別に困ることはないんだよね。外に出たところでなにか出来るわけでもないし」


 それに、と牧原くんは続ける。


「佐倉さんと一緒にいた方がいろいろと楽しそうだしね」


「私が困るのよ……」


 のほほんと笑ってる牧原くんを見て、また一つため息が漏れた。


 さっきみたいに毎日のように枕元に立たれたら困る。というか、そもそも死んでるとはいえ、異性を家の中に置いてはおけない。私にだってプライバシーの一つや二つはあるんだ。


「大丈夫じゃない? 僕のことが見える人なんて君くらいのものだよ」


「私があなたを認識してるのがまずいのよ」


 最後の一欠片を口の中に投げ入れて、包装紙とトマトをゴミ箱に投げ入れる。そういえば、今日は燃えるゴミの日だった気がする。いろんなことがあって、ゴミを捨てるの忘れちゃったなぁ。ちょっと生臭いし、帰ってきたらお母さん怒るだろうなぁ……。


 また一つ憂鬱な未来が増えてちょっと落ち込む。


 リビングを出ると、後ろから牧原くんもふよふよと着いてきた。


「どこ行くの?」


「自分の部屋に戻るの」


「遊びに行かないの? せっかくの休日なのに」


「行かないよ。こんなときに」


 それに、外に出たところで別段行きたいところもない。私の居場所はいつだって自分の部屋だけだ。


 階段を上がって自分の部屋へと戻る。ドアを閉めると、その先から牧原くんがニュニュッと顔を出した。


 電気を付けると、薄暗い部屋が明るくなる。正直、部屋の中はぜんぜん整理されてないから人を入れるのはかなり恥ずかしい。人ではないんだけど。


 ベッドに腰掛けて牧原くんに向き直る。


 牧原くんはやっぱり変わらずにニコニコとしながら部屋を見回している。なにがそんなに楽しいのかわからないけれど、現状に対してなんの不満も抱いているようには見えない。


「改めて見るとすごい部屋だね」


「そうかな」


「こんなに誰かを一途に愛せるのはすごいことだと思うよ」


 そう言って、牧原くんは積み上げられたスクラップブックを眺める。私の好きな俳優さんの記事をまとめたものだ。雑誌から新聞記事、果ては小さなイベントの張り紙まで集められるものはすべて集めた。


 スクラップブックだけじゃない。彼が出演している番組やラジオを録画したBD。ポスターやらグッズも部屋に隙間なく置かれている。


 お母さんもお父さんも私がこういうことをしていることに難色を示していたけれど、私にとってこれはとても大きな救いになっていた。


「あ、ありがと……」


 だから、牧原くんが私のこんな趣味を認めてくれたことが素直に嬉しかった。


「私、そんなこと言われたの初めてだ」


 それどころか、馬鹿にされた。家族にも、友達にも。ストーカーじゃんってどん引きされた。


 悔しかった。馬鹿にされたことよりも私がそのことに恥ずかしさを感じてしまったことが。その日から、私は自分の部屋に人を呼ぶことを止めた。


 私の王国に人が入ることを拒絶した。


「そういえば、なんで私……」


 牧原くんが部屋の中に入ってきてもなにも感じないんだろう。お母さんが入ってきただけでも、気持ち悪くなるくらいに嫌悪感があったのに。


 彼が私の趣味を認めてくれたから? でも、それとはまたなんか違う気がする。


「あ、これ懐かしいなぁ」


 じんわりと滲んだ疑問に気を取られている間に、牧原くんは机の上に置かれた小説を見ていた。もちろん、彼は物を触ることが出来ないので表紙を眺めているだけだ。


 牧原くんが見ていたのは、私の好きな俳優が主演を務めた映画の原作だった。


 死んでしまった主人公が自分の生きてきた軌跡を辿っていく話。辿っていく自分の人生の中で一つだけ選択を変えることが出来る権利を神様から得た主人公は、人生を顧みながら変えたい人生を吟味していく。


 号泣必至の名作。映画も観に行ったけれど途中から涙で画面が見えなかった。


「牧原くんも読んだことあるんだ」


「うん。話の中身が気になってね」


「こういうのが好きなの?」


 私も俳優目当てで買ったものだけど、この話はとても心に響いた。もしかしたら、牧原くんとは本の趣味が合うのかも。


 そう思っていたけれど、牧原くんはふるふると首を横に振った。


「うーん、別に好きでもないかな。これを読もうと思ったのも、死んだらどうなるのか気になったからだし」


 死んだらどうなるのか。


 その言葉を牧原くんから聞いて、改めてこの人が生者ではないこと。そして、彼は自ら命を絶った人だということを思い出した。


「そういう本は、前からずっと読んでいたの?」


「そうだね。死んだ後のことが気になったから、そういった類の本はだいたい読んだかな」


「……死ぬことは、怖かった?」


 ふと、私はそんなことを口にしていた。


 我ながら馬鹿らしいことを聞いたと思った。そんなこと当たり前のことなのに。


 でも、常に笑顔を浮かべている彼を見ると、とてもそんなふうには思えなかった。この人は逃げるために死んだのではなく、新しい幸せを求めて旅立ったのだと思ってしまう。


 そう、信じたかった。


「怖くないわけないじゃない」


 牧原くんはやっぱり笑顔で答えた。


「怖くて悲しくて悔しくて惨めで、そんないろんな感情すべてが混ざってでも、それでも僕をここまで追い込んだ人たちに対する憎しみが上回って」


 彼から目を離すことができなかった。変わらず笑顔で明るい口調で喋る異質さに。


 そして、彼が話す言葉は私が聞きたくなかった、目を背けていた現実そのものだったから。


「そんなドロドロの感情を抱えて僕は死んだんだよ」


 腹の底に溜まっていたヘドロのようにどす黒いものを吐き出してなお、彼の表情は変わらない。


 そこでようやく気付いた。


 彼が、笑顔以外の表情を作れなくなってしまっていることに。


 そして、彼が私の家に現れ、ここに縛り付けられている原因に。


 私も、彼と同じだからだ。





 * * *





 違和感を覚えたのは、春休みに入ってすぐの頃だった。


 普段、仲良くしてくれる友達からラインが返ってこなくなった。既読も付かなくなって、最初はてっきり忙しいんだろうなと思っていた。


 そもそも、牧原くんの自殺で私たちの心は揺れていた。だから、今は学校のことを思い出したくなくて連絡を取りたくないと思っていた。


 けれど、春休みも明けて最初の日。私の居場所は無くなっていた。


 クラスの中に出来た三つの大きな輪の中から、なぜか私だけが省かれていた。


 なにかしたのだろうか。私はクラスで数少ない友人に事情を聞こうとした。けれど、それすらも叶わなかった。


 まるで、未知の病気に感染してしまったかのように、私に触れるどころか近付くことさえも許されなくなっていた。


 ニュースで報道されるような決定的ないじめだという証拠はない。じわじわと私を閉じ込めた箱から酸素を抜き取るように、ゆっくりと、でも確実に殺していく。


 牧原くんが飛び降りてまだ一ヶ月も経っていないのに。いや、経っているからこそ、それはさらに狡猾なものへと変化していた。


 校内では、彼の死をきっかけに『いじめを無くそうキャンペーン』なんてものが始まった。


 教師、生徒会、クラス委員を中心にアンケートを取ったり、そういった人がいたら助け合おうというものだった。


 もちろん、『そういった人』の中に私は含まれていなかった。アンケートにも書いた。けれど、私に救いの手が伸ばされることはなかった。


 初めて、人間が気持ち悪いと思った。


 人を人と見ることが出来なくなっていった私は、次第に登校する日が減り、今では外に出ることも出来なくなっていた。





 * * *





「そんなことがあったんだ」


 牧原くんの告白に感化されて、気付けば私も吐き出していた。


 牧原くんは笑顔で私の話を聞いてくれた。でも、今ならわかる。牧原くんは怒ってる。


 彼は、未来の私だ。私と同じだから、彼の心がくっきりと見える。


「辛かったね」


「牧原くんに比べたらだいぶマシだけどね」


 牧原くんに対するいじめは壮絶だった。それこそ、暴力、喝上げ、パシリ。噂では犯罪に手を染めるような行為をさせていたと聞いたこともある。


 彼が数人からリンチに遭っている現場を目撃したことだってある。まるで彼をサッカーボールかなにかのようになんの躊躇もなく横腹を蹴飛ばしていた。痛みに唸って転がる様を見て、彼らは大爆笑していた。


 実際にいじめはあったのだ。


 それでも、彼をいじめていた生徒になんのお咎めもなかった。今も当たり前のように学校に来ては暴力で作り上げた権力の上にのさばっている。


 彼をいじめていたグループのリーダー格の両親が市議会委員だったからなんらかの力が動いたって話をどこかで聞いた。


 大人達の都合でねじ曲げられてしまった真実。牧原くんの自殺の真相は、深い深い闇の中へ永久に閉ざされてしまった。


 実際はきっともっと、悲惨だったに違いないのに。


「いじめに大小なんてないよ」


 それなのに、牧原くんはそう言ってくれる。私は彼を助けることなんてしなかったのに。自分に火の粉が降りかからないように見て見ぬふりをしていたのに。


「ありがとう、ごめん」


 絞り出すように声を出す。今さらもう遅いけれど。


「別に君が悪いわけじゃないんだよ、気にしないで。それよりも、ようやくわかったよ。僕が君に出会った理由が」


「理由?」


「うん。僕はきっと、君を助けるためにここに呼ばれたんだ。僕と同じ思いをしている子を助けるために、今までずっと現世を漂っていたんだ」


「私を助けてくれるの……?」


 思わず、私は牧原くんの方へと手を伸ばす。牧原くんも同じように伸ばしてくれる。私の手は牧原くんの手と重なり、通り抜けた。その瞬間、私はたしかに牧原くんの熱を感じた。


 冷たくて、なのに暖かい。


「ありがとう、牧原くん……」


 もう味方なんていないと思ってた。誰も私の手を取ってくれる人なんていないと思ってた。けれど、まだいたんだ。私のことを本気で考えてくれる人が。


「でも、どうやって助けてくれるの?」


 素朴な疑問を口にすると、牧原くんはさも簡単なように答えた。


「僕と違う道を進めばいいんだ」


「違う道?」


「そう。僕はこの選択をいまだに後悔してる。被害者が死んで、加害者だけが生き残ってる。生きていたときはこれが一番正しいことだと思っていたけれど、それは違う。彼らこそ罰せられるべきなんだ!」


 力強く叫ぶ牧原くんに少し動揺する。


「で、でも……。それが出来ないから私たちは」


「出来ないことなんてなにもないんだよ」


 遮るように牧原くんが言う。


「僕たちに足りなかったのは勇気だ。けれど、最後の最後、どうしようも出来ないところでようやく僕は勇気を与えられた。けれど、その使い方を間違った。だけど、君にはまだその勇気が残ってる。あの小説のように、君にはまだ一度だけ選択し直す権利がある」


「どうすればいいの……?」


 そう尋ねた瞬間、牧原くんはにたりと笑った。表面上はいつもと変わらない。けれど、もっと深く重い、陰湿な笑みだった。


「簡単なことだよ」


 彼は私の喉元に指を置いて、ゆっくりと横に撫でた。


「殺してしまえばいい」





 * * *





「ねぇ、本当にこれだけでいいの?」


 横に浮く浮遊霊に尋ねる。


「大丈夫だよ。というか、他にどうやってやるのさ」


「それもそうね」


 洗い場に放り投げられてた包丁を拾い上げる。使ったあとにそのまま放置してたものだから、赤黒い汚れがびったり張り付いてしまっていた。


 部屋から持ってきたリュックに入れる。抜き身のままだからちょっと心配だけど、まぁ大丈夫だろう。


「あの人達は普段、知り合いが経営してるカラオケ店にたむろってるみたいだよ」


「そうなんだ」


 彼はなんでも教えてくれる。奴らがどこにいるのか。どうやって殺せばいいのか。私が取るべき行動はなにか。


 私の道しるべに彼はなってくれている。


 今まで悩んでいたのが馬鹿みたいだ。


 天啓を得たかのように、私の頭は冴えきっていた。今ならどんなことでも出来そうな気がする。


 リビングを通って廊下に出る。


 視界の隅が暗い。窓から光が差しているはずなのに上手く前が見えない。


 さっきから私の周りを虫が飛んでいる。手で払っても払っても少ししたらすぐに戻ってくる。


「気にしないで」


 それでも、彼がそう言ってくれるだけでなにも気にならなくなる。闇が一向に深くなろうとも、私の周りを虫が飛ぼうとも、それを普通のことだと思える。


 ようやく理解した。


 私にとって彼は神様だ。私だけの神様。正しい道へと導いてくれる光だ。


 だって、彼はすべて正しい。私が通っていたかもしれない間違った道を通ってくれたからこそ、彼の正しさは立証される。


 彼が間違ったからこそ、彼の示すもう一つの答えは必ず正しい。そうでないといけない。


 ふらふらと歩いていたから、足に何かがぶつかった。


 今日は資源ゴミの日だったのか、雑誌が積まれて結ばれている。お母さんが私の部屋から勝手に持ち出した雑誌たちだ。


 そういえば、これで昨晩は大喧嘩をしたんだった。私の部屋から勝手に持ち出して、不要だと決めつけて、さらにどこから話が飛んだのか、不登校になった原因は私がふがいないからだと酷く罵った。


 そこから先はよく覚えていない。気が付いたら、私は自分の部屋で寝ていて、牧原くんがいた。


 ぼんやりする頭で考えてもなぜかそこだけ白くモヤがかかって思い出せない。


 あの人に捨てられかけた雑誌の紐を解く。


 表紙には、牧原くんにそっくりな俳優さんが写っていた。というか、牧原くん自身だ。


 牧原ハル。


 私の好きな俳優さんで、彼の出演するテレビだけはかかさずチェックしていた。どんなに学校が辛くても、彼を見ているだけで頑張ろうと思えた。


 けれど、彼は先日引退した。牧原くんが所属しているグループでかなり酷いいじめがあったとグループ内から告発があり、その中心人物が牧原くんだった。


 その問題を皮切りに、未成年の女性との飲酒問題、暴力事件、数え上げればきりがないほどの悪事が世間に公表された。


 その責任を取って、彼は会見に姿を現すこともなく芸能界を去って行った。


 信じられなかった。テレビの前で笑顔を向けてくれる彼がそんなことをするなんてとても思えなかった。


 なにより、彼は私のすべてだった。彼がいたから今まで頑張ってこれたのに。彼は私を裏切った。

 そう思ってた。最初は。


 でも、それは違った。彼はこうして、私の前にやってきてくれたのだから。彼が笑ってくれるだけで勇気が沸いてくる。


 あれ、そういえば牧原くんは同じ学校の同級生じゃなかったっけ。彼はいじめられてて、それから。


「気にしないで」


 牧原くんが、また耳元で魔法の言葉を囁いた。そうだ。そんなこと今はどうだっていい。余計なことは考えなくていい。


 牧原くんは私の同級生で有名な俳優で、私の神様だ。


 彼がたとえ私が作り上げた幻だったとしても、それが揺らぐことはない。


「さぁ、そろそろ行こうか」


 彼が私の手を取って玄関へと引っ張ってくれる。


 いつぶりかもわからない靴を履いて、二人一緒にドアノブを開く。


 久しぶりに感じる真夏の暑さと共に、私の長い夏休みはようやく終わりを迎えた。







(終)

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 この作品はSSの会メンバーの作品になります。


作者:水城三日

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