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仮称「四季」  作者: 赤原 藤尾
開戦
17/19

第2章「承ー2010年5月」 4 トップウオーター

 四             トップウオーター


               一


 翌朝。まだ夜が明けきらない琵琶湖は東と西でまったく違う表情を見せていた。西の空は深い青。東の空は滲むようなマゼンダが薄く広がり、その境界がゆっくりと混ざり合いながら“夜”と“朝”の境目にある一瞬の色を描き出していた。

 トップウォーターでよく釣れると言われるポイントに四人は静かに姿を見せた。湖面はまだ“暗い”と言って良いが、ほんの少しだけ光が差し始めている。その微妙な明るさが逆に水面の気配を際立たせていた。

 源太と遠藤は既にビッグバドを投げている。源太の手にはクラシックスタイルの丸形ベイトリール。竿は驚くほど柔らかく、キャストのたびにしなやかに弧を描く。それに対して遠藤は最新型の低重心ベイトリール。源太よりは少し硬めのロッドを合わせ、キャストの軌道もどこか鋭い。

 キャストの回数は圧倒的に遠藤の方が多いが、自分の釣りに集中していない。キャストはしているし、ルアーも動かしているが、視線は常に横へ流れていく。

 源太のルアーの着水点。雄介のスピニングの動き。山崎のぎこちないロッドワーク。自分のルアーよりも、“家族の釣り”が気になって仕方がない。雄介と山崎は初心者らしくスピニングリールに小さめのルアー。まだ暗い湖面に控えめな波紋を作って遊ばせている。その姿を見て、遠藤はふっと笑った。


 ――今日は勝負じゃない。今日は“教える日”だ――


 そんな気持ちが、自然と手元をおろそかにしていた。源太は、そんな遠藤の様子に気づいているのかいないのか、ただ静かにキャストを続けている。


 夜明け前の空気は冷たく、湖面は静かで、四人の時間だけがゆっくりと流れていた……


 雄介が何か言いかけた瞬間、遠藤は一本指を口元に当て、そっと制した。声を出すな――という合図。バスは音に敏感だ。誰か一人でもはしゃげば、釣れるものも釣れなくなる。

 元々、子供の扱いが得意ではない遠藤だが今日は驚くほど自然に雄介を導いていた。“教える”という役割がいつの間にか板についてきたのだろう。それに比べて山崎は釣りたい気持ちが先に立ち、雄介のフォローが完全におろそかになっている。


 ――これでは山崎を連れてきた意味が無い――


 遠藤は呆れながらも雄介に小声でアドバイスを続けた。山崎や雄介の糸が絡まるたび、遠藤はすぐに駆けつけ、切れた糸を結び直し、新しいルアーを付け替える。トップウォーターは本来ロストが少ない。だが初心者ゆえにどうしてもトラブルが多い。その様子を源太は少し離れた場所から見ていた。そして、ふっと微笑んだ。


 ――今日は、雄介に“釣る姿”を見せたい――


 そんな思いが源太の背中から伝わってくる。雄介の面倒は遠藤に任せ、自分は“釣ること”に集中している。


 そして――しばらくすると源太の様子が変わった。キャストしたロッドの先端に全神経を集中させている。風が止んだのか、湖面が一瞬だけ静まり返る。ビッグバドが、“チャプ……チャプ……”と水を叩く音だけが薄明の空気に響いた。

 遠藤は、雄介の糸を直しながらも源太の“気配の変化”に気づいていた。


 ――来る――


 そんな確信めいた空気がまだ暗い湖面にゆっくりと満ちていく。息を飲む源太。その横で遠藤もわずかに動きを止めた。


 次の瞬間――水面が割れた。


 源太のビッグバドに、バスが勢いよくかぶりついた。


 トップウォーター特有の派手な捕食音。暗い湖面に白い飛沫が上がり、その一瞬だけ世界がそこに集中する。雄介は思わず声を上げそうになったが、遠藤が素早く一本指を口元に当て、静かに制した。


 ――声を出すな――


 その仕草が妙に板についている。子供の扱いが苦手だった男とは思えないほど自然だ。


 バスは水面で暴れたあと、深く潜り込んだ。源太はロッドを立て、わざとらしいほど大げさに応戦する。


「おいおい……」


 遠藤は横でニヤけた。大物感を演出しているのが丸わかりだ。山崎は口を開けたまま見守り、雄介は目を輝かせて跳ねるように喜んでいる。


 さすがにこれ以上引っ張るとバレると思ったのか、源太はタイミングを見て一気に引き寄せ、バスを水面から釣り上げた。


「すごい、すごいよ!」


 雄介が声を上げる。遠藤は慌てて「シー」と制したが、その顔はどこか嬉しそうだ。源太は釣り上げたバスを雄介に見せつけるように掲げ、


「こいつは絶対、酒飲みだな」


 と戯けてみせた。五十センチには届かない。だが源太はまるで“記録級”を釣ったかのようなリアクション。遠藤は苦笑しながらも、その大根役者ぶりにどこか安心していた。雄介は興奮して笑っている。その笑顔こそ源太にとって何よりの薬だった。


「案外、この時期でもトップウオーター釣れるんだな。もっと暑い時だと思っていた」


 遠藤はわざと悔しそうに言った。だが、その演技も源太に負けないほど大根だ。源太はニヤリと笑い、

 遠藤は肩をすくめる。


 ――こんな朝が、あと何度あるだろう――


 そんな思いが遠藤の胸をかすめた。その後も少し釣りを続け、時間が来ると一同はホテルへ戻り、朝食をとることにした。


               二


 ホテルに戻った四人はバイキング形式の朝食をとっていた。雄介は相変わらず上機嫌で、さっきのバスの話を何度も何度も繰り返し、遠藤や源太に身振り手振りで説明している。


 ――よほど楽しかったのだろう――


 食事のペースも早い。次の行動が待ちきれないのが見ていて分かる。


 ――早く釣りがしたい――


 その気持ちが全身から溢れていた。その姿が嬉しいのか、源太も上機嫌だった。孫が楽しそうにしている――それだけで、源太の表情は驚くほど柔らかくなる。

 やがて雄介と山崎は先に食事を終え、席を外した。と言うより、遠藤が裏で山崎にそう指示していた。源太と二人きりで話したかったのだ。


 レストランのざわめきの中、テーブルには遠藤と源太だけが残った。コーヒーの湯気がゆっくりと立ちのぼる。窓の外には、朝の光が琵琶湖を薄く照らし始めている。しばらく二人は黙っていた。


 遠くから聞こえていた雄介の笑い声が少しずつ消えていくと、


「次は赤野井かな?渉、雄介にワーム、教えてやってくれ」

「俺が?」

「ああ。俺はここ数年、いや、十数年かな? ワームで釣った事が無くてな。

 さすがに雄介がボウズって訳にはいかないだろ?

 ギルでも何でも良い。何か釣らせてやってくれ」


 黙って肯くと少しの間、源太の顔を見る遠藤。


「親父、疲れてないか?」

「いや、大丈夫だ」


 少し様子を伺った後、


「やっぱり午前中、部屋でゆっくりしたらどうだ?顔に疲れが出ている」


 黙る源太。日焼けのせいで顔色は読み取りにくいが、目が少しトロンとしているのを遠藤は見逃さなかった。


 ――熱がある――


「ここで無理をするな。中田さんからも言われている。

『体力の消耗は合併症に繋がるから絶対に無理はさせるな』って……」

「……」

「ここで何かあったら”行ける”所にも”行けなくなる”ぞ。

 雄介を連れて行くんだろ、和夫の所に……」

「……」

「昼から合流すれば良い。

 それまでには雄介にワーム、マスターさせるから……

 俺に任せろ」


 源太は黙って頷いた。その頷きには反発も虚勢もなく、“息子に預ける”という静かな信頼があった。


 遠藤は源太を部屋へ連れて行き、山崎に事情を説明すると、すぐにフロントへ向かった。チェックアウトの時間を延ばしてもらうためだ。事情を話すとホテル側は快く応じた。遠藤がこのホテルを何度も利用しているからだろう。常連客として扱われているのが分かる。


 部屋に戻ると山崎を念のために源太のそばに残し、遠藤は雄介だけを連れて釣りに出た。


               三


 数時間後、昼食の時間になって部屋へ戻った遠藤と雄介は、扉を開けた瞬間に足を止めた。ベッドには源太が横になり、その横で山崎が静かに座っていた。


「調子はどうだ?」


 遠藤が声をかけると、源太はゆっくり身体を起こしながら、


「ああ、大丈夫だ」

 と答えた。その横で山崎が黙って頷く。朝よりも声に張りがある。


「飯、食えるか?」

「問題ない。それより……お前らの顔、真っ赤っかだな」


 源太が笑う。その笑顔を見て、遠藤もようやく表情を緩めた。


 ――思っていたより深刻ではない――


 その事実に、胸の奥がふっと軽くなる。雄介の顔を見ると、昨日よりさらに日焼けしていて、サングラスの跡がくっきり残っている。遠藤自身も同じだった。


「じゃ、飯でも食いに行くか」


 源太が頷くと、四人は手早く支度をして部屋を出た。

 廊下を歩くあいだ、源太と雄介は手をつないで先を歩く。その後ろで遠藤は、源太の足取りをずっと気にしていたが、その歩みは朝と比べてしっかりしている。午前中の熱っぽさはもう感じられない。


 ――午後からの行動は大丈夫だ――


 遠藤はそう判断したが、その判断には、“父を守りたい”という気持ちと同時に“源太に今日を楽しませたい”という気持ちが静かに重なっていた。


               四


 食事を済ませ、ホテルをチェックアウトした四人は赤野井へ戻った。源太もすっかり元気を取り戻したようで、陸っぱりの釣りを楽しんでいた――正確に言えば、楽しんでいるのは三人で、遠藤だけは別の意味で“集中”していた。サングラス越しに、絶えず源太の様子を確認している。濃い色のサングラスは、こういう時に便利だ。視線の向きを悟られない。そのおかげで、源太に余計な気を遣わせることもなく、周りはみんな、ただ釣りを楽しんでいるように見える。

 雄介は午前中の勢いそのままに、次々とブルーギルを釣り上げてはしゃいでいた。ギルであれ、魚が釣れるという事実が嬉しいのだろう。その姿を見て、源太も上機嫌だった。孫の笑顔が、何よりの薬になっている。


 しばらくすると、源太は遠藤に声をかけた。


「雄介の仕掛け、ギル用からバス用に変えてやれ」


 更なるステップアップが可能だと判断したのだろう。だが、仕掛けを変えた途端、釣果は伸び悩んだ。源太は雄介を連れて、二人で場所を変える。


「俺はボウズだ。昨日はあんなに調子が良かったのに……」


 取り残された遠藤がぼやく。だがこれは、横にいる山崎へのリップサービスだ。元々、釣る気などまったく無い。山崎も笑っているが、彼もボウズだった。事実、遠藤は自分の竿先を一度も見ていない。ずっと源太の背中を追いかけていた――それが正しい。

 源太が雄介を連れてさらに奥へ移動すると、遠藤たちも目が届く範囲で、しかし近すぎない距離を保ちながらついていく。


 ――どうしても、雄介にブラックバスを釣らせたい。


 源太の背中がそう語っていた。


 しばらくして糸を上げると、遠藤が山崎に声をかけた。


「山崎……少し良いか?」


山崎は軽く頷く。その声で、近くのギルが散ったかもしれない。


「悪いが来週、俺の引っ越しの手伝いを頼む」

「え、引っ越すんですか?」


予想外の言葉に、山崎は目を丸くした。


「ああ。これからは親父の部屋で寝泊まりしようと思う。元々そのつもりだったが……

 松下への引き継ぎが終わってからでもいいと考えていた。

 ただ、さっきの様子を見て、まさかここまで体力が落ちてるとは思わなかった……

 今後、親父を一人にするのは危険だなって」


遠藤は山崎の目をまっすぐ見た。その表情は冗談ではない。完全に“本気”だった。


「分かりました。確かにそうですね。沼田さんにも頼みますか?」

「ああ、そのつもりだ。悪いが頼む」

 

山崎が頷くと、遠藤は竿を上げ、源太の方へ向かった。山崎もそれにつられて竿を上げる。向こうでは、源太と雄介が笑っていた。どうやら雄介が三十センチほどのバスを釣り上げたらしい。

 二人が近づくと、雄介は誇らしげに魚を掲げて見せた。遠藤は素直に喜び、山崎は悔しそうに唇を噛む。


「おい、雄介……」


源太が雄介を呼び、山崎を指差した。


「そこの兄ちゃんにもバスの釣り方、教えてやってくれ」


戯けて言うと、雄介は大きく頷いた。


「絶対、釣って見せますよ」


山崎も負けじと戯けて返す。


 遠藤はしばらく、雄介と山崎を二人きりにさせた。その間、源太が遠目に雄介を見つめながら、静かに言った。


「渉……見たか、あの雄介の顔」

「ああ」

「似てきたな、和夫に……」


遠藤は黙って頷いた。そして源太と同じように遠くで笑う雄介の姿を見つめていた。



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