第2章「承ー2010年5月」 2 ロイヤルオークにて
二 ロイヤルオークにて
予想していた時間より大幅に遅れた二人は、慌ててホテルにチェックインした。軽くシャワーを浴び、日焼けした肌を冷やすようにタオルで押さえながらジャケットとスラックスに着替える。鏡に映る二人は、さっきまで湖上で本気の勝負をしていたとは思えないほど“きちんとした大人”の姿だった。だが、首元から覗く日焼けの赤みとサングラスの跡だけは隠しようがない。エレベーターで一階に降り、鉄板焼きレストランへ向かう。
壁に飾られた写真や装飾からして、ここはロイヤルオークホテルなのだろう。係の者に案内され、琵琶湖が見える席に通された。だがこの時期だと陽はすでに西の山に沈み、窓の外に残っているのは“夕焼けの名残”というより夜景に近い淡い光。右手にはテールランプの帯がゆっくりと流れる近江大橋。正面には大津の街の灯りが静かに瞬いている。
――どうやら予約の時間には少し遅れたらしい――
遠藤が係員に軽く頭を下げた。その仕草は昼間の勝負師の顔とは違い、どこか柔らかい。席に着くと係員がメニューの確認に来た。真っ赤に日焼けした二人は、どこか照れたように笑いながら、とりあえず白ワインを頼む。グラスに注がれた冷えた白ワインが、琵琶湖の夜景を受けて淡く光る。
源太が一口飲み、遠藤も続く。
――昼間の勝負の熱気が、ようやく身体から抜けていく――
しばらく二人で雑談をしていると料理長が鉄板の前に立ち、挨拶をしようとした。
「親父です」
遠藤が軽く紹介すると料理長はすぐに姿勢を正し、名刺を差し出して丁寧に頭を下げた。
「本日は“親孝行”ですか?」
「いや、今日はバス釣りで賭けをしましてね……今日は私が勝ったので、親父のおごりです」
二人は笑いながらワインを口にした。
――どうやらこの料理長は、遠藤の“指名”らしい――
逆に言えば、指名できるほど遠藤はこの店に通っているということだ。
「おまえ、ここもよく来てるのか?」
源太が料理長の仕草を見て直感したのだろう。問いかける声には”呆れ”が見え隠れしている。
「ああ、ここも松下らとよく来ている」
遠藤は戯けたように肩をすくめてみせた。
鉄板焼きの醍醐味は味だけではなく、料理人の“おもてなし”が料理そのものを引き立てる。この料理長は話術に優れ、客の空気を読み、その場の雰囲気を自在にプロデュースするタイプだ。遠藤が何度もここに足を運び、そして彼を指名する理由はその“話術”を盗むためでもある。
ポートレート撮影において話術はひとつの武器だ。被写体の緊張をほぐし、自然な表情を引き出すための技術。私が知る限り、ポートレートの上手いプロは、例外なく“話が上手い”。
鉄板の上で焼ける油の音、ワインの香り、窓の外の夜景……、そのすべてが二人の時間をゆっくりと溶かしていく。
「本当は、この時間帯が一番釣れるんだがな……」
料理長との会話がひと段落したあと、源太はワインを口にしながらポツリと呟いた。負けたのが悔しいのか、それとも夕暮れの終わりが名残惜しいのか、視線はずっと窓の外の琵琶湖に向けられている。
「仕方ないさ。ここの予約があったから……」
勝者の余裕なのか、遠藤は上機嫌で微笑んだ。
「ああ……」
源太はまだ遠藤の目を見ない。この貴重な時間と外の光景を目に焼き付けようとしているのかも知れない……
メインディッシュが終わり、デザートを待つ静かな時間。源太は残っていた赤ワインをゆっくりと口に含み、グラスを置くと、急に声のトーンを変えた。
「お前に話しておかないといけない事があってな……」
その瞬間、空気が変わった。静かな緊張がテーブルを包む。デザートが運ばれてきたが、スタッフは空気を読んだのか、そっと距離を置いて下がっていった。
源太は、遠藤の目を見ずに続けた。
「色んな意味で白黒ハッキリさせておかないと……」
その言葉は、昼間の“勝負”とはまったく別の重さを持っていた。
「釣り以外で?」
遠藤は少しトボけてみせたが、源太が“本気”だと分かると、わずかに間を置き、グラスのワインを一気に空けてから静かに言葉を足した。
「それは俺の事か? それとも和夫の事か?」
源太はワインに口をつけ、遠藤の目をまっすぐに見た。
「その両方だ。お前の親の事も……」
料理長は空気を読んで席を外した。
「今更、親の話を聞いて何になる?
俺に今からその人に“親孝行”でもしろと言うのか?」
遠藤はあえて視線をそらすように少しトボけた。ニヤけて言うが遠藤の表情には笑みがない。その温度差が逆に場の緊張を際立たせた。遠藤は間をつくるように追加のワインを注文した。
「お前、知りたくないのか?」
「……ああ。今更、それを知ってどうする?」
その返事は驚くほど冷静で、まるで“もう通り過ぎた話だ”と言わんばかりだった。源太は、その落ち着きにむしろ驚いた。遠藤は淡々と続けた。
「今の俺にはもう、それを知る必要も無い……
確かに若い頃は何でも知りたかった。
十代の頃は逢いたくて、逢いたくて仕方が無かった……
自分が一体何者なのか知りたくてな」
声は静かだが言葉の奥には長い年月の重みがあった。
「二十代になって逆に逢いたくなかった。
と言うより、逢うのが怖かったと言うのが正解かな?
溜まっていた物が一気に爆発しそうで……」
源太は黙って聞いている。遠藤の言葉は、どれも“本音”に近い。
「三十代になると何とも思わなくなった……
そして今は、向こうが希望するのなら、
一緒に酒を飲んでやっても良いかなとも思っている……
ただ、親子としてではなく、一人の男として……」
そこで一度、水を口にして呼吸を整えた。
「さすがにこの歳になると、
知らない方が良い事もある事ぐらい分かっている。
事実、今更それを知っても何の意味も、何の得も無い……」
落ち着いた表情で語る遠藤。だが、その言葉がどこまで本音なのかは誰にも分からない。半分は本音で、半分は――自分を守るための言葉かもしれない。
源太が静かに問いかける。
「それでいいのか?」
「ああ、それでいい。
そのまま墓場に持って行くんだな。
それに、ここじゃ人に聞かれているしな……」
遠藤は軽く笑ってみせたが、その笑みの奥には、触れられたくない痛みが確かにあった。
「それより聞きたい事がある」
遠藤が話を切り替えた。今度は遠藤が“本気”だ。攻守が逆転したような空気がテーブルに落ちる。源太は、間をつくるようにワインを飲み干した。
「親父が考える最後のロケは、やっぱりあそこか?」
遠藤には心当たりがあった……。余命宣告を受けた時に源太が「冬まで持たないか?」と言った事を耳にしていて、その言葉の意味が分かるだけに、源太の答えはおおよそ予想できる。
「ああ」
「……」
「俺はまだ、”あの事件”が終わったとは思っていない……
まだあの地に足を踏み入れていないが、
行って、”あの事件”にケリをつけたい……」
「……」
「和夫は墓で眠ってなんかいない。
あいつはあそこにいる……」
「行ってどうする?」
遠藤の表情が変わった。さっきまでの冷静さがゆっくりと剥がれていく。
「ああ……俺はアイツが何故、あそこを死に場所に選んだのか……
それが知りたい……」
「そこに答えがあると思うのか?……」
「……」
「雄介を連れていくのか、あの地に……」
「ああ、それが俺の”最後の責任”だと思っている……」
「まさか”命日に行く”なんて言うんじゃないだろうな?」
「ああ、そのつもりだ。あいつの命日でないと……」
源太は無表情で答えた。その淡々とした声が逆に重い。
「無茶を言うな。普通の人間であそこの冬は危険だし、
第一、体力的に無理だ」
「……」
「夏にどうだ? 夏のあの山も良いと思うが……
それに盆だったら、あいつも帰ってきているよ」
「あいつの命日に行きたい……。
そして、あいつが最後に見た景色を見てみたい……
あいつがどんな思いで死んでいったのか……
夏に行っても意味がないだろう?
これは和夫に対しての俺のケジメだ。
俺の最後の旅……
そうでないと死んでも死にきれない………」
「馬鹿な事、言うな」
「……」
「悔やむな。悔やんでもあいつは帰ってこない。
あれは”事故”だ。それで良いじゃないか?」
「いや、そうじゃない」
「忘れろ。誰も喜ばない。和夫もな」
「……」
源太は首を横に振った。その動きは小さいが、決意は固い。
遠藤はしばらく黙り、深く考えた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「親父、聞いてくれ……
行くか行かないかの最後の判断は俺に任せてくれないか?
出来るだけ親父の思い通りにさせてやりたい。
確かにそう思う……
だが無理な物は無理だ。その時に体力が残っているか……
行くか行かないかは、その時に考えよう」
源太は黙って考えた。その沈黙は、反発でも諦めでもなく、“息子の言葉を受け止めようとする父”の沈黙だった。
「それと明日からは酒を止めてくれ。行きたいんだろ?
行ける物も行けなくなってしまう。いいな」
源太は静かに頷いた。そして、少し間を置いてから言った。
「あと、もう一つ……」
遠藤はその声の揺れで、何を言おうとしているのか察した。
「おかんの事か……」
「ああ。そうだ。お前に頼みがある」
源太は言いづらそうに、言葉を探していた。遠藤は下を向いたまま、その続きを待つ。
「母さんを許してやって欲しい」
その言葉は遠藤の胸に深く落ちた。以前にも同じことを言われた。その時は「俺が口出しする事じゃない」と答えた。だが態度は正直だった。貴子を許していなかった。
今回は、遠藤はしばらく考えた。そして顔を上げ、短く答えた。
「ああ、分かってる」
その声は静かで、どこか遠かった。遠藤はしばらく完全に暗くなった外の景色を見つめていた。
琵琶湖の夜景がゆっくりと滲んで見えた……




