第1章 「起ー 2010年四月」 10 翌日
七 翌日
一
松下を乗せた黒のマークXはどんよりとした曇り空の下、オフィス街の一角でハザードランプを点滅させながら停車していた。昼間だというのに光は弱く、街全体が薄い灰色の膜に覆われている。車線の多い幅広の車道が”この場所”が一等地であることを無言で示していた。
人通りは絶えず、誰もが急ぎ足で、どこか落ち着きがない。
運転席の窓を少し開け、松下は一本のタバコを指に挟んだまま、煙を外へ逃がしていた。
吸う度に胸の奥がざらつく。
――今頃、遠藤は床に額を擦り付けて土下座してる頃だろう――
容易に想像できてしまうだけに気持ちを切り替えようとしても上手くいかない。煙を吐き出す度に胸の奥の重さはむしろ増していく。
――遠藤は変わった――
二人だけでやっていた頃は好きな仕事しか選ばず、好き勝手に暴れ回っていた。だが松下が結婚し、子どもが生まれた頃から、変わったのはむしろ遠藤の方だった………
人を雇い、会社を大きくし、背負うものが増えた。その責任の重さの為か、以前なら絶対に避けていた泥臭い仕事にも手を伸ばすようになった。松下の目には今の遠藤が“スタッフの生活を守るために自分を押し殺している”ように映っていた。
――元々、遠藤が経営者向きの性格ではない事は自他共に認めている――
事実、彼が目指していたモノは”一流のカメラマン”になる事で”一流の経営者”ではなく、彼のカメラマンとしての腕前は兎も角、経営者としての遠藤は”凡人”であると同時に未だ”修行中”と言う有様である。それでも少しずつ経験を積み、周りの協力もあって”それなり”に”社長らしく”なったとも言え、今では遠藤無しでは会社が機能しない状況になっていた。
立川の仕事が上手く行けば会社の未来が大きく開ける。だからこそ――あの仕事を逃した事が悔やんでも悔やみきれない。
曇り空の下、松下はタバコの火を見つめていた……
松下は遠藤が立川の事務所が有る建物から出て来たのを確認すると、ハザードランプを点滅させたまま車をゆっくり前に進ませ、遠藤の横に着けた。どうやら直ぐ手前で待っていたようだ。遠藤は助手席のドアを開けると中に座り込み、閉めると同時に車は走り出した。
「思っていたより早かったですね」
松下が微笑みながらハンドルを握っている。この台詞は嫌みなのか、それとも本心なのか?
「そうか? 俺はもっと早く出てくるつもりだったが……」
シートベルトをセットした遠藤は直ぐに煙草に火を点ける。
「あのオッサン、もっとしつこいと思ってましたよ」
「ああ、十分にしつこかった」
遠藤は機嫌が良さそうで、つい先ほどまで土下座をしていた男とは思えない。
「十分に怒らして来ました? 先生なら『立つ鳥、跡を濁す』とばかりに、
きっと火に油を注いでくると思ってたんですが……」
松下は茶化す時に限って遠藤の事を「先生」と呼ぶ。
「期待してた?」
「ええ、部屋と言う部屋に油をバラまいて、大惨事にしてから帰ってくると……」
松下の最高に口の悪い賛辞だった。
「ああ、それも考えたが何しろ五月蠅かったから……
最後だからそう言ったサービスをしても良かったかな?」
「ええ、きっとその方があそこの人間から喜ばれたと思いますよ。
どうせならあのオッサンの頭の血管をブチ切ってあげた方が、
あそこの社員の為だったんじゃないですか?」
「俺も暇なら、そうしたんだけどな。生憎、親父から呼び出されていて……
悪いがこの車、親父の事務所まで頼む」
「解りました」
そう言って車をターンさせる松下。
――何故だろう?――
ヤケに機嫌の良い二人だった。きっと二人にとって立川は間違いなく嫌なヤツで、その彼と縁が切れたのが嬉しかったのかも知れない。
だが、少し冷静ななったのか、暫く会話が途切れた後、
「遠藤さん……、本当に良かったんですか? あの仕事……」
少しマジな表情で確認する松下。
「ん?」
遠藤の表情は明るい。
「いや、本当に……」
もう一度問いかける松下。煙草に手をかける。
「こんな時、悔しがった方が良いかな?」
遠藤は相変わらず脳天気な表情だ。
「……」
「悔しがってあの仕事が手に入るなら、ナンボでも悔しがるんだけどな……」
「確かに……」
「ま、あのオッサンが仕切る限り、あの仕事はこっちには回ってこないだろうな」
遠藤を見て少し笑う松下。
「笑うな! 人が悪いぞ。俺が凹んでるって言うのに……」
「全然凹んでる感じ、してないですよ。逆に、『清々した』って感じに見えますが……」
「そう見えるか?」
ネクタイを緩めながら少し笑顔を見せる遠藤。
「ま、あのオッサン、そう長くは無いさ。
結構、敵が多いって話だし、あまり良い話を聞かないからな」
松下にはその台詞が強がりに聞こえたが、あえて聞き流した。
「しかし遠藤さんのスーツ姿、いつ見ても似合わないですね」
「ほっとけ。俺も着たくて着てるんじゃない。
親父が連れていきたい所があるからスーツ着て来いって……
昼からちょっと、行ってくるわ」
「立川さんに謝る為じゃなかったんですか?」
「どうせ、あのオッサンとは縁が切れるんだ。何着て行っても同じだろ?
元々あの仕事の話が無かったら、あんなオッサンには近づかないさ」
「本音が出た」
笑う二人。
「しかし、何処に連れていくつもりなんでしょうね?
親父さんは……」
「多分、大道さんのところだろな……あの『オオミチ』の……」
遠くを見る遠藤。その姿を見て松下は会話を止めた。
二
事務所内で普段通り仕事をする貴子と洋子、そして沼田。
「おはよう」
「おはようございます。今日は?」
沼田が予想外の遠藤に登場に驚いたのか、慌てて問いかけた。正直、沼田にとっては遠藤の登場は有り難かったのかも知れない。
「親父に呼ばれてるんだ」
「お・は・よ。何か悪い事でもしたの、その姿?」
スーツ姿の遠藤を見て少し微笑む洋子。昨日と違って薄化粧だ。
「さっき、松下にも言われたよ、似合わないって……」
「松下さん、来てたの?」
「ああ、ここまで送ってもらった」
「だったら顔を出せば良いのに」
少し不満そうな顔をする洋子。遠藤は少し微笑んだ後、沼田の顔を見た。
自分が別れた後、洋子と二人きりになったはずで、その後の二人の事が少し気になったが、それを直接聞くのは気が引けたのか、あえて口にはしなかった。
「親父は?」
「もうすぐ帰ってくる。コンビニにでも行ったみたい」
そんな時に中に入ってくるスーツ姿の源太。どうやら着替えてきたみたいだ。源太のスーツ姿に一同驚く。
「スーツに着替えてきたの?」
「ああ、行く所があってな。渉、来てたか。
お前、もう少しマシなスーツ、無かったのか?」
「……」
「まあ良い。母さん、ちょっと渉、連れてくよ」
「ええ、どこに行くの? そんな姿で……」
久しぶりに聞く「母さん」のセリフに一瞬、思考回路が止まる貴子。感慨深い物を感じながらも普段通りに接する。
確かに離婚後、源太はたとえ遠藤や和夫が居てもあえて「母さん」とは呼ばず「専務」と呼んでいた。この二日間で「貴子」と呼ばれる事も有り、それはそれで感慨深かったが、「母さん」はそれ以上だった。 久しぶりに聞くその台詞に、かつて家族として一緒に暮らしてきた頃の思い出が頭をよぎる
「大道さんに昨日の晩、連絡を入れたら、『今日、来てくれ』って……」
「いきなりね」
「ああ、まさか今日とは思わなかった。 あ、そうだ、沼田、お前も来い」
「俺もですか? このかっこでも良いんですか?」
「ああ、お前は運転手だ。そこにある荷物、車に積んでくれ」
机の上の荷物を指さす源太。三月に撮った肖像画だった。それを沼田が持つと、
「じゃ、行ってくる。
夕方には帰るつもりだが、俺たちの帰りが遅かったら、待たなくて良い」
そう言って外に出る源太。遠藤と沼田が慌てて後を追う。
「いってらっしゃい」
三人を見送る貴子は「母さん」の言葉の余韻に浸っていた……




