第1章 「起ー 2010年四月」 9 ファミレス
九 ファミレスにて
一方、沼田は完全に洋子に捕まったようだ。
捕まったと言う表現が正しいのかどうかは別として、二人はファミレスの席で向かいあっている。
沼田は、テーブルの上に置かれた水のグラスを指先で軽く回しながら、自分の胸の奥に渦巻く“迷い”をどう扱えばいいのか分からずにいた。向かいの席では、洋子がどこか楽しげにメニューを閉じ、店員が去っていくのを満足そうに見送っている。
「後、何注文する?」
ほとんど独断で注文を済ませた後の確認。
その声には、今日一日の重さを忘れさせるような明るさがあった。
「ま、とりあえずそんな感じで……」
沼田は店員にそう伝え、店員が去ると同時に、胸の奥のざわつきがまた戻ってきた。
沼田は今でも迷っていた。その迷いは先ほどの洋子の「私たち」という台詞が発端なのは確かだが、仮に彼女が沼田に対して異性としての好意を持っていたとしたら嬉しいが、それはそれで彼にとって難しい問題になる。
彼女と上手く行けばともかく、上手く行かなかった時には事務所内での自分の立場すら危うくなるからである。かと言って必要以上に彼女に対して距離を置く事も今となっては難しい。
それを想定出来る沼田は有る意味、非常に冷静な男なのかも知れない。
「そう言えば、沼田君、タル兄、どうだった?」
「思っていたより話し易い感じかな? ただ……」
「ただ?」
洋子の「ただ?」という問いかけは、まるで沼田の胸の奥に隠している“本音”をそっと引きずり出そうとするような響きだった。
沼田は、ほんの一瞬だけ視線をテーブルに落とした。ファミレスの明るい照明が、彼の迷いを隠すには少し強すぎる。
「……ただ、ちょっと意外だったんです」
「意外?」
洋子が首を傾げるが、その仕草が妙に自然で、沼田の心の防御が少しだけ緩む。
「以前に、あの人の撮った写真を見た事があって……。
あの人の名前が書いてあるファイルが事務所にあるから……。
その時の印象と全く真逆な感じ……、そんな印象かな?」
洋子の顔から笑みが消え、その代わりに「予想外」と書いてある。
確かに別れ際の沼田と遠藤との会話は、初対面とは思えないほど自然で、気心が知れた昔からの知人か友人のようにも見えていた。それだけに「想定外」のコメントだったのだろう。
洋子の動揺を察した沼田は、
「いや、悪い意味じゃ無いから安心して」
優しくなだめる。洋子の表情が少し和らいだのを見て話を続ける沼田。
「いや、もっと固い人かなって思っていた。
嫌な言い方をすれば、神経質な人かな? 」
「神経質?」
――神経質?――
「ああ、ただ今日の印象じゃ、そんな感じには見えなかった……」
「何でそう思ったの?」
「あの人の写真、あまりにもストイックでスキが無かった……
観る人間を追い詰めるような写真……観てて息が詰まった………」
黙って肯く洋子。
納得のいく答えを的確な表現で聞けたのか、洋子の表情は少し元に戻っていた。
「あの写真を観て、あの絵を撮った遠藤さんって、どんな人なんだろう?って思っていた……。
正直、あの絵だけで遠藤さんの人物像を想像して、それが先入観になっていたみたいだ」
「……」
「でも今日会った本人は、思ってたよりずっと話しやすくて……
優しい感じがしたんです。だから、ちょっと意外で」
洋子は黙って聞いていたが、その目はどこか遠藤を思い浮かべているようだった。
「それって、ハズレじゃないかも……。タル兄って有る意味、二重人格なのかな? って……」
黙る沼田。
「人に接する時は割と大ざっぱなフリをするけど、結構ストイックな所、有る感じ…… 」
「具体的には?」
それを話そうとした時に店員がビールを二つ持ってきて、とりあえず乾杯をする二人。その間が少し洋子を冷静にさせたのか、
「ま、いずれ解るでしょうね」
――今は言わない方が良いかも――
洋子はそう感じたのかも知れない。ただ、端から見れば思わせぶりな表現だ。
「洋子さんらしいな」
「……」
「少し気になったんだけど、洋子さんと遠藤さんって従姉妹なんですよね?」
沼田は切り口を変えるために届いた料理に手を付けながら話題を変えた。
「ええ」
「歳、離れてません?」
沼田は少し前のめりになり、ビールを追加した。
「そうね……。十五ぐらい離れてるもんね。
でも貴子おばさんとお母さん、八つ離れてるし、私と姉も五つ離れてるから……」
「洋子さんのお母さんも末っ子で、洋子さんもまた、その末っ子なんだ」
何となく解ったような気がした沼田。洋子に甘え癖が有るのには、そう言った理由が有るのだろう。
「ただ遠藤さん、何で『遠藤』さんなの? 婿養子?」
――ヤバい――
続けて軽い気持ちで聞く沼田。ただ聞いた瞬間、洋子の表情の変化から地雷を踏んだ感覚を覚え、少しデリカシーが無かったかと後悔したが、ここでその問いを引っ込める事が良いのか悪いのかが解らない為、トボけるように出てきた料理を遠慮無くガツガツ食べ始める。
「んんん……、少しデリケートな話なんだけど……」
「別に言い難かったら言わなくて良いよ。
と言うか、洋子さんに聞くより遠藤さんに聞くべきだったかな?」
沼田は意図的に食べる事に集中しているそぶりを見せながらそう答えた。
彼なりの気の使い方なのだろう。こう言った時は下手にリアクションするよりも、デリカシーの無い男を演じ続けた方が話を流し易い。
「タル兄……、養子なの。
元々孤児で、小学校三年の時におじさんに引き取られて……」
「ごめん。やっぱり聞かない方が良かったかな?」
「どの道、直ぐに解る事だから……」
「いや、何となく解っていた……。多分、そうじゃ無いかなって?」
「……」
「だって遠藤さん、社長と専務のどちらにも似てないし、
それにあの下手な関西弁……
専務も社長も関西弁は使わないし……
ま、聞かなかった事にするよ、その方が良い」
沼田の言葉に肯く洋子。
「ただ、これ以外でもデリケートな話があるの。聞く人と質問の内容、気をつけてね」
「具体的には?」
沼田の目は真剣だ。洋子は明らかに何かを迷っているようだが、沼田の目を見つめた後、少し考えて、
「和兄の事…… 」
「和兄? 和夫さんって言う人の事?」
「ええ、タル兄の兄さん……。同じ歳の兄弟。あの二人の本当の子供だった人……」
「だった人……。確か、その人、亡くなったんだよね。
今日の中田さんと遠藤さんの会話の中で『三回忌』がどうとか言っていた」
「ええ」
「何か問題でも?」
「……」
洋子の表情にまた地雷を踏んだ事を悟った沼田は
「ま、聞かない方が良いだろう。他には無い?」
と話を切り替える。
「ええ、とりあえずはそれだけ……」
「解った。約束する」
沼田はそう言って洋子の目を見て頷いた後、雰囲気を変える為に話を完全に切り替え、前の会社での失敗談を事おかしく話し始めた。それに微笑む洋子。
それ以降、二人は三島家の話を話題にする事は無かった。




