*8 年月
――――シュレミナは……生きていた。
アザラン侯爵家の大切な大切な姫は、火の点いていない暖炉の奥に、隠される様にいた。
暖かい毛布にくるまれたシュレミナは、眠っていたのである。
運良く、惨劇を見ずに済んだのか、それとも目撃してしまい気を失ったのかは定かではない。
ただ、見つかったシュレミナの頬には、真新しい涙の後が残されていたのであった。
*・*・*・*・*
――――その惨劇から、1年。
アザラン侯爵家の屋敷は綺麗に改装された。
惨劇などなかった様にまったく姿を変えていたのだ。跡形がないといってもいい。
外壁はそのままだが、血で汚れた壁や床には、新しい壁紙や絨毯が貼られ、見たことのない絵画や花瓶や調度品が新しく、そして数多く飾らていた。
元のアザラン侯爵家の様な、質素ながら趣味の良い雰囲気は全くない。元の姿など微塵もなく、上品とは些か遠い。
すべてのモノが明らかに値の高い物に変わり、豪華絢爛という言葉はこの屋敷のためにある様なものだった。だが、絨毯や壁紙、調度品には統一性は感じられず、豪華で高ければ良い……と主が考えているのが良く分かる屋敷と変わり果ていた。
その屋敷の中に、侯爵家で唯一生き残ったシュレミナ姫は、ひっそりと暮らしていたのであった。
そう……父のファイル=アザラン侯爵が亡くなり、爵位を引き継いだ父の弟で叔父のゾット=アザランに、良くも悪くも引き取られていたのであった。
彼は兄ファイルが領民のためにと蓄えていた財産を、湯水の様に使い、あっという間に家族で食い潰してしまった。
金が無くなると次は領民達に、今まであり得なかった高額の税金を納めさせ、再び贅沢で堕落した悠々自適な暮らしていたのだ。
その一方で、この屋敷の本来の主とも云えるシュレミナには、とある一室に押し込め、外部には一切姿を見せる事はなかった。
*・*・*・*・*
―――シュレミナの安否は誰も知れず、死んだと思われていた。
【2年後】
夏は涼しく冬はよく冷える場所。屋敷には複数点在するが―――
―――その1つ、とある場所に使用人らしき女が向かっていた。何かをのせた木製のトレイを持ち、石の階段を面倒くさそうに降りていく。
そして、とある寒気のする場所に着くと扉の前に立ち止まった。
「……食事だよ。お姫さま?」
部屋の外でクスクスと笑う声と同時に、人が通れない小さな扉が、ドンと乱暴に開いた。
小さな扉とは、扉の下にあるコップが通せる10cm程高さの穴の事である。そこからトレイに乗った食事が、ガシャンと無造作に置かれたのだった。
肉や野菜などの具は幾ばくも入ってはいない、スープとは名ばかりの汁だけの物。昨日かその前から残っていた様な固いパン。そして少し臭いのある水が、欠けたグラスに入っているだけ。質素ともかけ離れた食事でああった。
「……あり……が……とう」
扉の奥では、姫様と揶揄されたか細い少女の声が聞こえた。
そう……この扉の奥には、唯一の生き残りであり、この屋敷を本来継ぐはずだったシュレミナがいた。
彼女は力のない声で言うと、それを受け取った。いや、拾い上げたのである。
本来はお礼など言う必要は何処にもないのだが、何も言わなければ余計な反感を買うので、口にしたのである。
「声がちっさいけど……まぁ、いいよ。今日はそれで許してあげる」
気分がいいからね……ケラケラと嘲笑し使用人は去って行った。
以前の使用人達の扱いとは、雲泥の差であった。彼女達は亡くなった使用人達に換わり、新しく主となった弟ゾットが雇った使用人である。
ゾット侯爵達は、兄ファイルとは全く違い。使用人=奴隷と勘違いして扱っていた。それ故に、些細な事でも気に入らないと、使用人達を棒や鞭を使い折檻していた。
死ねば替えはいると、云わんばかりの扱いだったのだ。
その蓄積された鬱憤を、使用人達は何も関係のないシュレミナにぶつけ、不満を解消していたのであった。
「げほっ……ごほっ」
スープらしき物を、シュレミナは口に含んだ途端に噎せ返った。
途端に外の扉の近くにいた使用人達の笑い声が聞こえる。去って行った様にみえた使用人達は、シュレミナがスープを飲んで、どんな反応をするのか聞き耳を立てていたのであった。
死んでしまうと困るのか、いたぶる時間を長引かせたいのか、毒こそは直接入っている事はない。だが、こうやってスープには大量の塩が入っている事もしばしばあったのだ。
酷い時は、砂や虫が入っている事さえもあった。
それを与えて、彼女が苦しむ様を見たり聞いたりして喜んでいたのである。
こんな食事がほぼ毎日なので、シュレミナは仕方なく、臭いのあるグラスの水だけで過ごす日々も多くなっていた。
それすらも、怖くて飲めない事も普通にあったのだ。
こんな囚人より酷い生活を強いられたせいで、艶やかで綺麗だった髪は、大した手入れも出来ずボロボロに。卵の様に張りのあった肌は、栄養失調からかガサガサに変わってしまった。
身体は痩せ細り、あんなにキラキラしていた瞳にも、日に日に輝きが失われていた。
辛く苦しい生活が、シュレミナの性格さえ変えてしまっていたのだった。
――――コンコン。
ベッドに戻りかけた時、部屋の奥に唯一ある、小さな小窓を叩く音がした。
シュレミナは音に気付くと、辺りをキョロキョロし、1つしかない椅子を運んでその小さな小窓に向かった。
小窓にはガラスはないので、寒い冬は吹き抜けの様に冷たい風が入り込む。だが、逃げられはしないのだ。何故ならば、鉄格子がついてあったからである。
―――そう、ここは……部屋とは名ばかりの、地下牢と云える場所だったのだ。
窓は半地下の地下牢に、僅かだけ光を引き入れる小さな小窓だけ。後は周りは冷たいレンガ、足下は石畳である。
朝も暖かくなる事はなく、毎日が冬の様に寒い牢獄の様な場所であった。
6畳もない部屋には、壊れかけているベッド、小さなテーブル、そして今持っている椅子のみがある部屋。
世間体と、何かの時に使えるかもしれない……という理由だけで引き取ったシュレミナに、この場所を与えていたのである。
以前はワイン樽を保管していた小さな部屋に、押し込め生かしていたのである。それは……彼女にとって、ただ気まぐれで生かされるだけの牢獄なのであった。
―――コンコン。
椅子を小窓に運ぶと、再び優しいノックの様な音がした。
「姫……大丈夫ですか?」
その窓には虐める使用人ではなく、父に遣えていた庭師の息子だったクリスが顔を覗かせていた。
彼もまた、あの惨劇で両親を失い、シュレミナ以外で唯一の生き残りだったのだ。
ゾット侯爵達はその事を知らない。彼はシュレミナのために、その事は言わず雇われていたのである。
「……大丈夫よ」
小さく小さく微笑んだ。彼の声にホッとしたのだ。
シュレミナは何度死のうとした事だったか。
だが、そのたびに彼に励まされ、いつの日かのためだけに細く生き長らえてきたのであった。
「グラスをこちらへ……」
「うん」
クリスはシュレミナの水の入ったグラスを、果物の入ったグラスと取り換えた。
使用人達は、残飯以下の食事を彼女に与えていたのを、彼は知っていた。
だが、鉄格子が邪魔をしていてスープは上手く渡せない。グラスだけは入るので渡せる。だが、グラスは増えても怪しまれる。だから、こうやって取り換えていたのである。
「後……果物を持って来たよ。……皮は見つかるといけないから……剥いておいた」
「うん……ありがとう」
「後は……干し肉。好きじゃないだろうけど、頑張って食べて」
果物を入れてあるグラスと干し肉を、シュレミナは受け取った。リンゴやブドウ等、グラスには入るだけの、果物がぎっしりと入っていた。
干し肉は固くて臭くてあまり好きではなかったが、生きるために必要だと少しずつ食べていたのである。
彼だってしっかりした食事は、与えられてはいないだろう。しかし、彼女のために工面しこうやって持って来てくれるのだ。贅沢も文句も言える訳もない。
最低限に生きるために必要な水は、携帯用の水袋で渡した。
水袋は服の中に隠せるので、渡せたのだ。風呂にも入れて貰えず、小汚くなってしまったシュレミナを、使用人達は触る事はない。見つかるリスクがあまりないのである。
「いつも……ごめんなさい」
シュレミナは謝っていた。この行動が見つかればクリスも、折檻を受けるのは間違いないからである。
「姫……そこは、ありがとうだよ?」
クリスは優しく笑った。
「ありがとうクリス」
シュレミナは改めてお礼を伝えた。彼のおかげで今があるのだ。
僅かに心が壊れないでいられるのは、彼の……クリスが励ましてくれるおかげだから。
「クリ――ス!!」
遠くから彼を呼ぶ、使用人の声が聞こえた。
「姫。俺は行かなくちゃいけないけど……」
「うん」
「必ず助け出すから、俺を信じて待ってて」
クリスは名残惜しそうに、シュレミナの小さな手に触れた。
少女は、彼の言葉を信じていた。だが、同時に諦めてもいた。難しい事は理解していたし、正直自分がいない方が彼は自由になれるのでは……と嘆いてもいたのだ。
「―――クリース!!」
怒鳴り声に近い声が、近付いて来た。
「はーい!! 俺はここにいまーす!!」
信じて待っててね? とクリスは再び言うとバタバタと走って行った。
それをシュレミナは複雑そうに見ていた。クリスを開放してあげたい。だが、彼を置いて死ぬと言うこと……それは、クリスを信じていなかったと伝えるみたいで、死ねなかったのだ。
「何をやっているんだ、お前は!」
バシンと激しく頬を叩く音がした。
「申し訳ありません。野良猫かタヌキが入り込んでいたもので―――」
クリスはシュレミナの部屋とは、違う方向を指し嘘で誤魔化していた。こんな事がバレたりしたら、自分はおろか大切なシュレミナにまで危害が及ぶからである。
「まぁ、いい。マリア様がお呼びだ。早く行け!!」
使用人はクリスを急かすと、今度は頭をバシンと叩き、走らせて向かわせたのだった。
マリアとはゾット侯爵の娘である。クリスと歳が近いせいか、彼の見目が良いせいか、やけに気に入っていっていたのである。
「チッ」
クリスが去ると、その使用人は盛大に舌打ちをし、面倒くさそうに歩き出した。クリスの事は気に入らない。だが、ゾットの愛娘マリアが気に入っているため、クリスには大した手が出せず苛ついていたのだ。
クリスがマリアにいらぬ事を伝え、解雇されるリスクもあるというのに……である。
シュレミナは、ビクビクとしながらも、鉄格子から外の様子を見ていた。大して見えはしないが、クリスの事が心配で仕方がなかったのだ。
何も見えたりはしないが……目の前には、あの名の知らない花がいっぱい咲いていた。
クリスが以前、自分のために植え増やしてくれたあの花だ。蒼と白の花びらを持つ不思議な花。
その花を見ると、クリスがいなくてもクリスの温かさを感じた。
―――だから、彼のためにも、もう少しだけ頑張ろうと思ったのであった。