*6 不穏
優しく流れる時間の中、アザラン侯爵家の花、シュレミナは素直でとても可愛らしく育てられていた。
両親はもちろん屋敷の使用人達からも、とてもとても愛され、使用人達からはいつの日からか【シュレミナ姫】と呼ばれている。
「どうしたんですか?」
リスト副隊長が、心配そうに訊いた。
ガイド隊長が顔をしかめていたからだ。
「いや……雨が降りそうだな……と」
「もしかして、目が痛みます?」
雨の日は勿論、天気が悪くなる前には、気圧や湿気の変化で古傷が痛むと聞いた事があったからだ。
ガイド隊長も古傷は多いが、特に右目は酷い傷を負った過去がある。
盗賊を蹴散らした時に、たまたま居合わせてしまった一般人を庇って斬られた。その傷は、季節の変わり目や雨が降る前に、ジクジクと痛んだりするらしかった。
「一雨降るんだろう。交替する時間を短くした方がイイな」
「ですね」
雨に濡れて身体が冷えきる前に、交替した方が警護の質が落ちなくていい。万が一にも賊に入られても、身体が温かい方が瞬時に行動に移せるからである。
そんな話をしていると、パタパタと可愛らしい足音がしてきた。
「ガイドたいちょ~、きょうもいちにちごくろうさまです!」
門扉の前にいた警備隊隊長のガイドに、シュレミナはいつも通り元気良く声を掛け敬礼しに来ていたのだ。
「シュレミナ姫も見廻りお疲れ様です」
ガイド隊長達は、そんなシュレミナを微笑ましく思い、同じく敬礼して見せた。
侯爵令嬢である少女が、たかが警備隊の自分達に、わざわざ会いに来てくれるなんて普通ならまずない。その上にこんなに可愛らしい挨拶など、疲れも吹っ飛ぶくらい嬉しい。
「なんかね。あめがふりそうだから、おうちにはいろう?」
雲行きが怪しくなって来たので、心配したシュレミナは皆に屋敷に入る様伝えに来てくれた様だった。
「大丈夫ですよ。雨ガッパもありますし、しっかり交代して身体を休ませますから」
風邪を引いてはいけないと、心配さえしてくれる、可愛い侯爵令嬢を皆は愛して止まなかった。
「でもね」
「さぁ。姫は雨が降る前に、お家に入りましょう」
まだ何か言いたさげな小さなシュレミナを、ガイド隊長は抱き上げ、左肩に乗せた。
「きゃ~あ」
シュレミナは楽しそうな声を上げる。
視線が高くなって、いつもより見える景色がくるりと変わり、楽しかったのだ。
「すぐ戻る」
ガイド隊長は手を挙げると、門扉の他の警備に向かって言った。
シュレミナを屋敷に連れて行って来るとの事だった。
「あ~。姫様が拐われた~」
「姫様逃げて~」
それを見た警備の人達の、わざとらしくも楽しそうな声が、ガイド隊長の背に掛かる。
「きゃあ。にげなくちゃ。たすけて~」
シュレミナ姫も、楽しそうに声を上げる。
「わっはは。もう逃げられんぞシュレミナ姫」
ガイド隊長もわざとらしく、悪党らしく言ってみせた。
勿論本気モードで言ったりはしない。怖がらせない程度に控えめに言ったのだ。純粋で素直なシュレミナが、可愛らしくて仕方がなかった。
「ガイド隊長、隙ありー!」
脇からリスト副隊長が、どこからか拾ってきた木の枝を、ガイドに向かって振り上げた。
「ぐはっ!!」
避けられたに違いないが、わざと当たってゆっくりと倒れてみせる。斬られたらしい腹を押さえつつ、シュレミナに怪我がない様に、地面にゆっくりと降ろした。
「ガイド~!!」
シュレミナも笑いながら、心配している様に抱き締める。
いつもの、楽しい寸劇の始まりである。
「ハハハ。シュレミナ姫は俺様が貰って行く!」
そんなシュレミナを、今度は優しくリスト副隊長が抱き上げていた。ふわふわとした姫はいつも可愛らしくて、リスト副隊長も構いたくて仕方がない。
「きゃ~たすけて~」
シュレミナは再び、パタパタと手足をばたつかせ楽しそうな叫び声を上げた。
いつも通りの下手な演劇が楽しくて仕方がないのだ。
そんな2人の前でクサ過ぎる茶番劇を、数歩離れ呆れて見ている主人がいた。
「毎回思うが、ナゼこの屋敷には悪人しかいないのかね?」
いつもの習慣で、シュレミナを迎えに来ていたのか、アザラン侯爵が複雑そうに笑っていた。
迎えに来る度に思うが、いつも誰一人として愛娘シュレミナを助けてはいない様に見えた。何故、ここにはヒーローはいないのかと。
「「あっ、そうですね!」」
隊長達は、頭をボリボリ掻いて笑っていた。
言われてみると拐う隊長から、さらにかっ拐う副隊長。誰も少女を助けるヒーローはいなかったのだ。悪党しかいない。
「あっ! おとうさま。おかえりなさ~い!!」
シュレミナは嬉しそうに、両手を広げて迎えた。
父のファイル=アザランが仕事から帰り、自分を迎えに来てくれたのだ。両手を広げる娘を、副隊長の腕から抱き上げた。
いつもの様に、花の様に可愛らしく笑うシュレミナが、屋敷にいなかったので捜しに来ていた様である。
「ただいま。私の可愛いシュレミナ姫。いい子にしていたかな?」
娘をその胸に抱きしめながら、父アザラン侯爵は優しい笑顔を向ける。仕事が忙しく辛くても、愛娘をこの胸に抱ければ疲れも吹き飛んでいた。
50近くに生まれたシュレミナは、目に入れても痛くないくらいに可愛い。それは母リリースも、兄アレンも同じ。やることなすこと、すべてが愛おしかった。
「いいこにしてた」
父の腕の中で、小さく花の様に笑ったシュレミナ。
「え~? 走り回って、ガイド達を困らせてたよね?」
同じ様に捜していたのか、後から来た兄アレン笑っていた。
「俺達は困ってませんけど……ね」
ガイド隊長達は、顔を見合わせクスッと笑っていた。
実際困った事はなかった。それすらが楽しくて愛おしい時間だったからだ。むしろ、来ない方が寂しくて仕方がない。
少しばかりお転婆なシュレミナは、毎日使用人達に挨拶するため走り回っているのだ。使用人達は、その日課を実に楽しそうに迎えているから、困らせてはいないのをアレンも知っていた。わざとらしく言ってみせたのである。
「むぅ」
シュレミナが頬をプクリと膨らませた。
「走り回ってもいいが、程ほどに……な?」
そんな可愛らしい娘の頬を、アザラン侯爵は優しく優しく撫でた。
ケガをしてはいけない……と、やんわり注意しておく。使用人達を信用しているから、あくまでもやんわりだ。
それを待つ使用人達もいるからである。
「は~い」
父に抱きつくシュレミナ。
だが、多分また走り回るに違いない。皆はそんな少女を微笑ましく見守りながら、ケガだけはさせない様に大切にしようと誓う。
「さぁ。食事に致しましょう」
いつの間にいたのか、後からのんびりと捜しに来ていた、母リリースは手を優しくポンと叩いた。
この小さなやり取りすら、楽しかった。侯爵家と使用人達、皆の楽しい一時である。
このアザラン侯爵は、貴族の中でも異例なくらいに、使用人達にも優しかった。奴隷の様に虐げる主人も多い中、この方と家族は皆暖かく優しい貴族だった。
使用人の誕生日には、ささやかなプレゼントを贈り。その使用人に病床の家族がいれば、貴族専属の医師にも見せてくれたのだ。
使用人達さえも大事な家族だと、アザラン侯爵は大切に扱ってくれている。だから使用人達は皆、命を懸けてでもこの侯爵家家族を護ろうと結束していたのである。
*・*・*・*・*
―――そんな楽しく幸せな時間が、ずっと続いていくのだと誰もが皆思っていた。
その日は朝から雨だった。
今日で3日目。豪雨と言ってもおかしくないくらいだった。
「お館様! バナー村の川が氾濫しそうだとの報告が!!」
そんな昼過ぎに、領地の川の様子を見に行っていた自警団の1人が、慌てた様に屋敷に飛び込んできた。
昨日から続く豪雨。アザラン侯爵領の南の小さな村が、川の氾濫で堤が決壊しそうだ……との報せが舞い込んできたのだ。
「ガイド!」
「はっ!」
「街の自警団を束ね早急に現地に向かえ! 私達は避難して来る村人達を受け入れる準備をしておく。村の人達全員を無事救助し、ここに迎え入れるんだ」
それを知ったアザラン侯爵は、隊長であるガイドを呼びつけると、街にいる自警隊に加え自分の屋敷の警備隊の1部をも、その村の人達の救出に向かわせる事にした。
残る人達には、避難して来る村人達を迎い入れる準備を指示する。
「父上、叔父上には?」
アレンは父に、援軍も一応必要では……と声を掛ける。
領地は隣になるが、近くにいる父の弟ゾットにも援軍を貰った方が効率もいいハズだからだ。
「アイツは駄目だ。雨が降り始めた時に、警備隊をよこす様に伝えたが、全く音沙汰がない」
だが、父の話に寄れば援軍処か、無関係とばかりに無視をしているらしかった。
「あの方は……お金にならない事は一切しないのよ」
母にリリースは、軽蔑した様に洩らしていた。
そうなのである。父ファイルとは正反対の人で、領民など奴隷か何かの様に扱う貴族であった。
父である兄ファイルに連絡を寄越す時は、決まって金の無心だった。
それでも、もしかして……とアレンは思っていたのだが、それは無駄な考えだった様である。期待するだけ馬鹿だった。
「ガイド、道中危険だと思うが頼んだぞ」
アザラン侯爵は、ガイドに自分の指輪を渡した。
これがあれば、自警団も動かせる。街の人で救助に向かう有志も集う事が出来るだろう。
「承知! リスト! その間、この屋敷の警護を任せたぞ」
ガイド隊長は早速遠征に向かう隊を従え、準備をするため屋敷を出て行った。副隊長のリストに権限を渡してからだ。
「お気を付けて!」
任された副隊長のリストと、残された警備隊20数名はガイド達に敬礼する。
「たいちょ~みんな~がんばれ~!!」
シュレミナの元気な声を活力源にし、皆は向かったのであった。