【下】
「ごめ〜ん、橘さん。時間があればで良いから〜」
そう言って、熱を出した子どもを迎えにいく女性社員は早退していった。終わらない仕事を穂波に引き継いで。
(……わかってる、あの人が悪いわけじゃない。子どもが熱を出すのは当然のことだし、こういうときに迎えにいくのはたいてい母親だから。それに、未婚者である私の代わりに少子化に貢献してくれてるし、何だったらその子が将来は私に年金をくれるかもしれない。でも--)
帰宅してからも育児や家事に追われて、職場で愚痴を言うのが唯一の発散方法なのかもしれないが、正直なところ、手よりも口のほうが動いている。
雑談をするのが悪いわけではないけれど、その時間に少しでも仕事をしてくれれば、この書類の山はだいぶ減ったのではないだろうか。
(……まあ、世の中は助け合いだからね。未婚で子どものいない若者に仕事がまわってくるのは当然だし、いろんな人がいるのが組織なんだから。一億総活躍社会)
でも、はたして、それで幸せなのだろうか。
このまま結婚もしないでお局と化して、もやもやした気持ちを抱えながら過ごしていくことが--
(……幸せの形は人それぞれでしょ?)
どこかの自己啓発本で読んだような台詞を脳内で反芻しながら、穂波はパソコンのキーボードを打つ指の速度を上げた。
〜*☆*〜
「橘さん……?」
帰宅途中にすれ違った人から声を掛けられ、穂波は思わず振り向く。
そこには、いつぞやか「遊園地に行こう」と誘ってきた男性が立っていた。
「あ……」
名前を呼ぶべきかとも思ったが、名前が出てこない。
もうあれからだいぶ経っているし、穂波からすれば大勢の中のひとりなのだから。
「ねえ、なんで連絡くれなくなったの?」
「え……?」
「アプリ、ブロックしたでしょ。俺、ずっと待ってたのに」
「あ、そうだったんだ……」
「俺のせい? それとも、好きな奴でもできたの? ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんないじゃん。俺だって、高い金払ってパーティーに参加したんだよ?」
「ご、ごめんなさい……」
「だいたい、こっちだって気を遣ってたんだよ? 橘さん、全然楽しそうじゃないし、時間ばっかり気にしてるし。どうせ、今まで男と付き合ったことないんでしょ? 男なんか、みんな馬鹿だと思ってんでしょ? な〜んか、お高くとまってるもんな〜。そんなんじゃあ、一生、結婚できないよ?」
……なんで、そこまで言われなければならないのだろう。たった一度、お茶を飲んだだけの人に。
確かに、何の返信もなくブロックしてしまったのはマナー違反だったかもしれない。
でも、何て言って断れば良いのかがわからなかったし、正直に言うほうが傷つけるのではないかと思ったのだ。それに、こうやって声を掛けてくるほうがアウトではないだろうか。
(どうしよう、声が出ない……)
いくらでも反論できるのに、なぜか口が動かない。
怖い、怖い、怖い。
頭が真っ白になって、目の前が--
「そんなことないよ」
突然、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。
驚いて見上げると、そこには颯が立っていた。
「穂波ちゃんは結婚できなくなんてないし、優しい子だよ。ただ、君みたいな男とは付き合わないってことをはっきり突きつけなかっただけ。相手の自宅付近で待ちぶせするような男なんかと、誰も付き合いたいとは思わないでしょ?」
にっこりと人当たりの良さそうな笑みを浮かべて、颯が辛辣な言葉を吐く。
心なしか、その瞳の奥は笑っていないように見えた。
「俺の親父、警視庁の人間なんだ。その中でもわりと良い肩書きだから、これ以上、穂波ちゃんに付きまとうなら法的措置も考えるよ? 振られてプライドが傷ついたのかもしれないけど、きっと君には君に合った人がいるよ。それなのに、こんなことで人生を棒に振りたくないでしょ?」
警察という単語か、それとも颯の迫力に圧されたのか、男の顔色が見る見るうちに青くなっていく。
そして、引きつった顔で「ご、誤解だよ……」などと言いながら逃げるように去っていき、穂波はその間抜けな後ろ姿を見てほっと安堵の息を吐いた。
「穂波ちゃん、大丈夫?」
「あ、はい……。すみません、ご迷惑をおかけしました」
「災難だったね。世の中、ああいう男ばっかりじゃないけど、男って馬鹿でプライドが高い生き物だから。穂波ちゃんが無事でいてくれて、本当に良かった」
社交辞令ではなく、心からそう思っているというような優しい微笑みに、穂波の中で何かがぐらりと傾いた。長年、錆びついて動くことのなかった何かが。
「……穂波ちゃん、ちょっと付き合ってくれない?」
「え?」
「穂波ちゃんに見せたいものがあるんだ」
そう言って、颯は無理やり穂波の手を引いて走り出す。
そして、そのままマンションの自分の部屋へと引き入れていった。
「--見て!」
真っ暗な部屋の中で、颯が何かのスイッチを入れた。
すると、たちまち辺りが紺碧に彩られ、無数の白い光が美しく瞬いた。小さな光に大きな光、川のように伸びる光の道筋など、真下に立つ二人を包み込むようにひとつの世界が広がっている。
それは、何の変哲もないマンションの一室とは思えない、幻想的な光景だった。
「これって……」
「プラネタリウム。家庭用のヤツだけど、結構、イケてるでしょ?」
確かに、あまりに質が高くておもちゃとは思えない。しかも、静止画ではなく、星が動いたり流れたりしているのだ。家庭用にしては、なかなかの完成度だろう。
「これ、俺が作ったの」
「え!?」
「俺、こういうのを作る仕事をしてるんだ」
思いがけない告白に、穂波は目を丸くする。てっきり、フリーターなのかと思っていた。
「俺の家さあ、結構、厳しくて。親父がエリートだから、やれ勉強しろだの、恥をかかせるなだの。家にいてもまともに息ができないから、よく河原で星を眺めたりしてたんだ。それで、俺みたいに居場所がない人たちに、自分の部屋とか車の中とかで、少しでも嫌なことを忘れて楽しんでもらえたら良いなって作り始めたんだよね。まあ、まだ本物には程遠いけど」
天井を見上げてそう語る颯の横顔には、いつものおちゃらけた雰囲気はなかった。ただ、真摯にこの星空と向き合って、自分の夢を追いかけている。それは、穂波の知らない顔だった。
「穂波ちゃんにもあげたいと思ってたんだ、プラネタリウム」
「え……?」
「俺、何度か穂波ちゃんのこと見かけてたんだけど、いっつも眉間に皺を寄せててさ、ちょっと近寄りがたいな〜って思ってたの。でも、野良の子猫がマンションの入口で座ってたとき、穂波ちゃんがとっても優しい顔して笑ってて、『あ〜、この子ってすっごい頑張り屋さんなんだろうな〜。俺が守ってあげたいな〜』って思っちゃったんだよね。だから、仕事とか人間関係で疲れちゃったら、これを見て元気出してほしいし、俺のことももっと知ってほしい。駄目かな……?」
今まで誰にも言われたことのない台詞に、穂波の心がどくんと跳ねる。
それは、隣人や友人としてではなく、恋愛対象として颯を見てほしいということだろうか。「遊園地に行こう」と言われただけで別れるような恋愛不適合者に。
(……あれ……?)
その呪いのような言葉を反芻して、ふと気づく。
あの男に言われたときはあんなに嫌だったのに、相手が颯かと思うとそんなに嫌ではない。多少は面倒くさいと思うが、ある程度は楽しめそうだし、帰りたくなったら遠慮せずにそう言えそうだ。
(つまり、デートをするのが嫌なんじゃなくて、好きじゃない人と一緒にいるのが嫌だった……?)
少し不安げな顔でこちらの反応を窺う颯を見る。
その瞬間、穂波の中で何かがすとんと落ちた。
「穂波ちゃん……?」
目を見開いたまま固まっている穂波に、颯がおそるおそる声を掛ける。
もうその顔を見ても苛つくことはないし、話しかけられても癇に障らない。颯は軽い男だ、穂波は恋愛に向いていない女だ、さっきまでそう思っていたのに--
「私、星のことはよくわかりません」
はっきりとした返事に、颯の表情が陰る。
「でも……こんな私でよければ、欠点だらけの不完全な人間でよければ、これから教えてください。星のことも、栗生さんのことも」
はにかむ穂波に、颯は顔を綻ばせる。
その雲の晴れた青空のような笑顔は、閉じこもっていた扉から顔を出した穂波を温かく照らしてくれた。太陽の下へと誘うように。
そして、そんな二人の頭上では、天の川の対岸へと橋を渡すように、大きな流れ星が駆けていった。