悠木碧のツイッター発言から考える
声優の悠木碧(若手女性声優)がツイッターで以下の発言をしたというのが話題になったらしい。以下はネットニュースからの抜粋だが…
「熱愛報道とかで世間がザワザワすると、いつか私にも恋人ができたら、裏切ったと言われるんだろう、なんて考えてしまう」
「傷つくくらいなら独りのまま…とも思う。でも親は孫欲しがるし、私も誰かを愛したい。もう26歳。同級生は子供を産んでおめでとうと言われている。私、どこで間違ったんだろ」
という風になっている。で、ファンは温かいコメントを投げかけたらしい。悠木碧はその後のツイートで
「独身を間違いと言ったのではなく、おめでとうと言われないような自分の生き方を振り返ったんです」
とも言っている。
自分は悠木碧という声優が好きなのだが、悠木碧が「どこで間違ったか」というのを、自分の視点から考えてみたい。声優ファンから叩かれるかもしれないが、続けてみる。
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今の世の中の問題というのはなんだろうか。それは、「別に誰が悪いというわけでもないし、誰かが法律違反したというわけでもないけど、なんとなくおかしな事態が起こっている」という風に言えると思う。これは色々な事に言えるが、悠木碧の問題に絞ったほうがわかりやすいだろう。
悠木碧という声優はアイドル活動をしている。見た目は良いし、頭の回転も速いし、芝居もできるし、歌も歌えるし、という事で、アイドルをするにはもってこいの人材と言える。事務所なんかも利益を出す為に、悠木碧という素材をできる限り引き伸ばして使いたいだろう。ファンも「あおちゃん」を心から応援している。ここで、別に悪い人というのは見当たらない。倫理違反をしている人はいないように見える。
しかし、問題は(「わたモテ」の所でも書いたが)、ファンが望む「あおちゃん」を演じる事が、悠木碧本人にとって本当に良い人生かどうかわからないという事にある。また、事務所にとって、利益を生む存在としての「あおちゃん」もまた、悠木碧にとって本当に良いかどうかはわからない。悠木碧は、アンチも少ないだろうし、熱心なファンが多いだろう。みんな「あおちゃんあおちゃん」と言ってくれる。だが、それに応えよう、みんなの愛情に応えようという事が少しずつ本人を蝕んでいく。
ここでは、悠木碧は彼氏を作るとか、男と結婚するとかへの不安を表明しているのだが、これに対してファンが「いいよ 男を作っても!」と言っても、根本的な問題は解決しないと思う。というのは、結局、ファンは善意と愛情で、悠木碧というあるイメージを自身の中に作り上げているのであって、悠木碧も自然とそのイメージに吸い寄せられていく。そこで、いくらファンが彼氏を作る事を許しても、ファンが自分達の中に作り出したイメージを悠木碧が裏切ったという事実は消えない。例え表面的に悠木碧の結婚を祝しても、彼女の人気の理由の一因に「彼氏がいない」という事がある以上、イメージを裏切ったという事実は消えない。
声優の神谷浩史が結婚していたというのがスクープされた事もあったが、あの時、自分は「神谷浩史は批判されてもしかたない」という風に見ていた。というのは、神谷浩史が結果的には、「童貞」のイメージで、商売をしていたのは否定できない事柄だったからだ。この場合、神谷浩史本人が悪い人間だったという事は考えられない。事務所は神谷浩史をアイドル的に売り出したほうが良いと踏んでいたのだろうし、ファンはただ欲求に従って神谷浩史を応援していただけだ。神谷浩史はそれに応えていたが、内心では自己分裂していた事だろう。その自己分裂がスクープという形を取って、外に現れた。
(一応、フォローすると、自分は神谷浩史も悠木碧も好きだし、本人は良い人だろうし、友達になったら楽しいタイプだと思う。しかし、問題はそれを越えた構造的なものなので、本人が「良い人」だからどうにかなるというものではない)
問題は、この自己分裂は現在の状況では避けようがないという事にある。この分裂は、タレント活動をする上では必ず起こってくる。そこで演者は、自分の中でバランスを取らなければならないが、どこでバランスを取るのかは難しい。
最近、人気が出た「声優」のジャンルは特にそれが難しいと思う。声優は、女の声優なら男の匂いがしてはいけないし、男の声優なら女の匂いがするのは好まれない。女同士ーー百合、男同士ーーホモ、の路線が好まれるのだが、これは人間そのものがまるごとフィクション化した現象と言える。つまり、現代では、我々は一人の人間をまるごとステージに乗せて、その存在そのものを消費する。これはあくまでも「消費」だ。ファンはタレントを嫌いになれば、捨ててしまえばいいが、タレントは全てのファンから見捨てられても自分である事をやめられない。ステージの上で、他者の視線を受けている時だけに価値があると信じられていた個人は、その視線が消えた時、「自己」をどこに見出すのだろうか?
悠木碧に戻ると、悠木碧が「どこで間違ったか」と問う時、その答えは彼女が真面目で賢くて、「みんなの期待に応えよう」と思った時だと思う。これは残酷な話だが、致し方ない。彼女が「みんなの期待に応えよう、みんなの好きな自分でいよう」と思った時から、自分という存在が分裂していき、悠木碧は賢いが故に、その分裂を痛切に感じざるを得なかった。そのように自分は見る。これをファンが「優しく支え」ても、問題は解決しない。突き詰めれば、結局、タレントは偶像であり、虚像でしかない。いくら経済的利益が生まれようが、いくらたくさんのフォロワーがいようが、真実ではなくて虚像だ。「ワンピース」や「君の名は。」が大ヒットするとは、人々が真実ではなく虚像を求めている事の証拠になるだろう。
悠木碧本人に悪い部分はどこにもない。事務所は、利益の為に、(表皮的には)ファンの為に動いている。ファンは好みに従って、悠木碧を応援しているだけだ。ファンが「悠木碧が男と付き合ったら、悠木を処罰する」と明言したり、そういう抗議運動を起こしたわけではない。ファンは悠木碧に彼氏ができたら、そっと離れるか、内心がっかりしつつも応援を続けるかだろう。誰も悪い人間はいない。しかし、どこかで何かがズレている。何がズレているのだろうか。
そのズレは、はっきり言ってしまえば、悠木碧一人が「犠牲」にされれば修正される。事務所もファンもそれを望むだろう。悠木碧が「いつまでも若くて可愛くてオタクで男はいなくて、百合百合していて…」くれればいい。しかし、人というのはそういうものではないし、悠木碧も年を取る。そこに矛盾があるし、悠木碧が四十になれば、興味をなくしたファンは「そろそろ男でもつくれば…」と言うのかもしれない。しかしそこに充実感はあるだろうか。自分は人々の望む自分を演じきったという、達成感はあるだろうか。
ここにおいては、現代の問題が横たわってると思う。つまり、人々の欲望は無限であるが、現実は有限だという事。画面の中に固定された個人は、そういう存在である事を要請され続ける。画面の向こうの無限の欲望に従って、自分を演じ続ける。しかし、「自分」というのは有限だ。
現代社会は、経済学の力も借りて様々なものを「数」に還元した。端的に言えば「金」であって、貯蓄高は無限に増やす事ができる。株価も、ツイッターのフォロワーも無限に増やす事ができる。しかし、人間は有限で、自然も現実も有限だ。人は年を取り、自然は破壊されれば再生は容易ではない。
人々の無限の欲望、意識のあり方に従えば、同時に金銭も無限に増えていく。ここに、この社会は楽園のような状況を生もうとするのだが、実際には、人は楽園的なものではない。人は人であって、だから、アイドルやタレントがいかに無数の人に取り囲まれて、日々賞賛と愛情を送られていようと、誰も「その人自身」を見ている人はいないという状況は有りうる。というか、「自分」というのが何者か、わからなくなってしまうだろう。
現代では、別にアイドルやタレントでなくても、そういう自己分裂に現代人はさいなまれるだろう。クラスでリア充を装っている人が、人には言えない悩みを持っているなど…。ましてや、それが金や力と結びつき、世界に流布されれば、取り返しがつかない。声優の一人が男と付き合ったかどうかなんて、基本どうでもいい問題だ。しかし、それを商売と結びつけて、流通させてしまえば、個人の感情や人間関係まで他者に縛られたものになっていく。
市場は広がっている。金はいくらでも増やす事はできる。人々の欲求は無限だが、現実の個人は有限で情けない、普通の生き物だ。人はどこかで、この有限性に腹をくくらなくてはならないのではないだろうか。その時、悠木碧はみんなに好かれる「あおちゃん」ではなく、「悠木碧」という単独の自立した人間になるだろう。自分はそんな風に感じる。そしてその事は、利益の喪失や、人々の失望を買うかもしれないが、避ける事はできない。人間はいまだかつて、人間でなかった事はない。それでも、人は他人を自分の見たいと思うイメージで見る事はやめない。そこに様々な幻想が生まれるが、結局、幻想は幻想でしかない。その事は、いつか暴露されざるを得ないだろう。