マリーはいない
各地から年頃の貴族の子女たちが集う、王立学園。
この学園には、不思議なことにマリーと呼ばれる女性がいない。一人もいない。
マリア、メリーアン、マーリーン、マール、マーレイネ、マリリン、マルヴァイナ、メアリー……。
愛称でマリーと呼ばれる名前を持つ女性は、毎年入学するがとあるエピソードを聞くと皆こう周囲にお願いした。
「気分が悪くなるから、他の愛称で呼んで頂戴」と。
婚約破棄を宣言する!
国内でも有数の貴族や王族たちが招かれる、王立学園の卒業パーティー。
入口から遠い檀上に現れたのは、この国の王子だった。
会場中の注視を浴びる中、王子は婚約者の名を叫ぶと間髪入れず、婚約破棄を宣言した。
パーティーも中盤、ほろ酔い気分になった卒業生や在学生、その保護者達は浮かべていた笑みを凍りつかせ檀上にくぎ付けになっていた。
灯りにきらめく金髪をなびかせた王子の傍らには、赤い髪を結い上げることなく垂れたままでいる美しい少女。王子の婚約者であるローズ令嬢とは、似ても似つかない柔和な面持ちをした少女である。
少女に目を止めた学生たちの一部から、非難がこもったざわめきが起こる。
身分的にも素行的にも、到底王子の傍に侍ることが許される者ではなかったからだ。
あるいは、王子と少女を守るように立つ若者たちへの嘆きから、来るものかもしれなかった。
頭脳明晰と評判の宰相の子息に、王国一と名高い剣の使い手。前髪が目の辺りを隠し、表情が見えにくい魔法師の愛弟子。
その他にも、社交界や巷で必ず名が挙がる美男子たちが、王子と赤毛の少女の周囲に立ち並んでいた。
在学生たちが雑談を楽しんでいた一角へ、彼らは鋭い視線を投げつけた。
鋭いというより、親の仇を見るかのような険悪な眼差しに、着飾った少女の何人かが涙ぐみ始めた。
「これは、殿下。ご機嫌麗しゅう………ではないようですわね」
凛と澄んだ美声とともに、黒髪を結い上げ悠然とした足取りで彼女は出てきた。
水も滴るばかりの艶々とした黒髪が、すっと斜めに傾く。王子の婚約者たる公爵令嬢が首を傾げたのだ。流れるような所作に、子女たちの間から感歎の息が漏れる。
七色羽鳥の羽根飾りがついた扇を、口元に持ってくると公爵令嬢は目を瞬いた。
「このような余興を始められるとは、酔狂にもほどがありますわ」
「酔狂だと!この者たちの怒りを感じ取れないのか。愚かなっ」
目じりを吊り上げ、澄み渡る海のように美しいと評された青い瞳を燃え上がらせ、美貌の王子は憤激した。
「可哀想なマリーに対して、人道に劣る行為を行っておきながら、それを忘却するとは。人をないがしろにしてもいい加減にしろ!マリーの尊厳を貶める噂を立てるのはまだしも、毒虫入りの茶を出させるとは下劣なっ」
赤毛の少女はその時のことを思い出したのか、王子の胸に額をなすりつけるとすすり泣きを上げた。
あまりの自然な様子に、何人かが公爵令嬢に疑念を抱いた。
「それで、そもそもの話。殿下のおっしゃるマリーとはどのマリー様のことを言われているのかしら。殿下のマリーは多すぎて、わかりませんの。教えていただけませんか」
公爵令嬢は、手にした扇を軽く振った。
すると傍らから、執事風の壮年の男が慌てることなく、姿を現した。ローズの従者だ。
マナーにおいて、身分上の者には発言する前に深々と礼をするため、従者も檀上の者達へ頭を下げた。
ローズのお気に入りの理由の一つである、張りのある声で持参していた書類を読み上げていく。
ローズのどのマリーかについての応えである、王子のマリーについて述べていく。
王宮に勤める女官は母親と同じぐらいの年増から、一番の年下は見習い女官まで、王子と関係を持ったことを会場の人々へ知らせていく。
それだけではない、避暑地の別荘にいる馬飼の少女に、王宮御用達の商家の娘、同じく商人の娘の付添の少女。地方貴族の未亡人。デビュタントのために出仕した伯爵令嬢。建国祭りで出会った高級娼婦。バザーで売り歩く旅商人の娘。
ある少女は、亡き母の愛称だから呼び名にしたいといわれ、それ以降そう呼ばれたと。
ある者は、気高い薔薇のマリーに雰囲気がにているから。
別の少女は、髪の色が似ているからと。またまた、ある者は名前のスペルから無理矢理呼ばれ。
この国に限らず、男尊女卑が当たり前の世界。それでいても、成人して間もない男がこれだけの相手と愛を交わしていれば、いい話の種になるのは避けられない。
会場内の熱気は冷め、気温とは別の種類の冷ややかさが漂いはじめている。
「いつから遊び始めたのかしら。成人の16あたりかしら」
「ええ?この一年でしょう」
「一年で50人ははげみすぎよ」
「そうかしら、相手を聞く限り、一日に励めばー」
「下品すぎますわよ。……………それに50人ではなくて70-」
「そうかしら、60人ぐらいだったような。あら?」
会場のあちらこちらで、似たような会話がされていた。
どのみち、王子の一年百人切りの称号は死ぬまで外れることはない。
「それで、殿下。私はどのマリーをいじめたことになっているのでしょうか」
まさか知らないと思っていた婚約者からの暴露に、王子はあたふたと右手をさ迷わせた。
阿呆め。
顔色一つ変えることなく、内心罵倒する。
王子が戯れに声をかけた連中の大半は、彼の本当の身分をしると身を引いた。
高貴な身分に怖気づいた少女、騙されたことに怒りを抱いた少女。弄ばれたことに精神を病んだ少女もいた。
残りの大半は――――――――――――調子に乗った。そう、最高の地位の男の寵愛を得たと思い上がり、喧嘩を売ったのだ。
身の程知らずにも、公爵令嬢たる彼女に。
きりきりと鳴る音に、はっとする。無意識に奥歯をかみしめていたようだ。
いけない、敵を目の前にはしたない真似をしてしまった。
見てくれだけはいい王子だが、中身は下賤な傭兵どもと同じだ。
護衛で雇われ、数日の間接した傭兵たちの様子を思い出し、ローズの顔が思わず固くなる。
どれだけ賊を殺したか、賭け事で出し抜いたかを大声で喋る連中にはどれだけ辟易したか。あのケダモノ達と身ぎれいな王子たちとの差を、ローズは見つけることができなくなっていた。
「うっとおしい」
艶めかしく光る紅唇から零れ落ちた罵倒は、会場を埋めるざわめきに消されていった。
これくらいの口答えは許してほしいくらいだ。どのみち、ローズの評判は落ちた。社交界にいようといなくなろうとも、この醜聞は彼女に付きまとうのだ。
一生!
「殿下、どうやら確認が必要なご様子。申し訳ありませんが、私も気分がすぐれぬゆえ、失礼いたしますわ」
そういうと、ついぞ赤毛の令嬢に目をやることもなくローズは身をひるがえした。
王子は。
最初から最後まで、婚約者たる彼女が名前を呼ばなかったことに気付かぬまま、茫然とした面持ちで見送った。
それからの出来事は、長く語り継がれることになる。
令嬢が退場した後も、騒ぎは収まらず主催者側である生徒会や学園上層部は、打ち切りを発表し卒業パーティーは閉会した。
海外の重鎮もよんだ大々的なものであったため、口止めも強くできるわけでもなく、この椿事は国内だけでなく海をも越えた。
いけ好かない支配者階級の醜聞に、鬱憤がたまった庶民たちは喝采を上げ、思い思いの注釈をつけ面白がった。酒場や路上の、一時の立ち話で済まなかったのだ。
常に新鮮な話題に飢えていた庶民たちは、熱狂的に受け入れた。登場する人物の名を変え、身分を変え、面白おかしく見世物にした。中核都市の屋外劇場に、季節ごとに住居を変える流民劇団、旅芸人の流行歌。
人の口に上る全ての娯楽に、王子の婚約破棄は姿を変えた。
幸いなことに、噂が広まるにつれ尾びれ背びれがつき、起きた事実はほんの一部しか伝わらなかったことだろう。
哀れな公爵令嬢は、卒業パーティー以降、全く世間ー王国の貴族社会ーに出ることなく床に臥せてしまった。そのことに憂いた公爵家と国王は彼女を、大陸の端にある強国へ療養させることを決定した。
そのあんまりな決定に、身分関係なく心ある者は憤慨したという。
激情をなだめたのは、かの令嬢が強国へ渡り一年とたたないうちに、国王に見初められたという吉報だった。
「マリー、良かったわね。学園入学できるなんて!おめでとう」
「ありがとうございます。先生の絶え間ないご指導のおかげです」
そう言ってほほ笑む女生徒に、教師は涙ぐみかける。確かに、自身の指導もあるが、それについてきた彼女の努力があるのだ。
特待生とはいえ、その門は狭い。
学園に入れば更に困難が降りかかるだろうが、彼女なら大丈夫だろう。
「そうそう、貴女のあだ名だけど、マギー、リーとか他に何があったかしら」
「先生、どうかされましたか?あだ名が、何か?」
不思議そうに首を傾げる女生徒に、教師は「大したことではないんだけどね」と前置きをし、かの出来事を話し出した。
夕方、女生徒は軽やかに廊下を歩いていた。
教師との打ち合わせが終わったのだ。これから、入学に向け準備に入らなければならない。高揚した気分に水を差された部分もあったが、彼女は幸せの絶頂にいた。
そんな彼女を呼び止める声が。
同じ教室の子だ。
「マリー!聞いたんだけど、学園に合格したって本当?」
駆け寄ってきたクラスメイトに、申し訳なさそうに微笑むと、彼女は言った。
「あのね。お願いがあるの。――――――――――――――マリーと呼ばないで」
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登場人物の名前は、一名だけ。さくっと読める短編。そんな縛りで書いてみました。それでも、まとめるのに、半年かかりました。遅筆すぎる、自分…。
王子
無事に即位しました。他に有力な王子もなく、戦争での指揮で大敗を喫したわけでもないので。
ただし、封建時代が崩壊した後も、漁色家のTPO3として有名になりました。フランスの太陽王や徳川家斉といった感じです。
赤毛のマリー
作中に名前はありませんが、便宜上マリーとします。
事件後、両親は田舎から飛び出し、彼女を修道院に放り込みます。彼らとしては愛人となり、多少の支援を…のつもりが、おっそろしく格上の令嬢に、公衆の面前で恥をかかせ喧嘩を売ったわけです。
再会したマリーは随分と驚いたようです。まあ、夏季休みから半年後の両親の姿が祖父母並みに老けていれば当然ですね。
放り込まれた彼女は、当然おとなしくしているわけでもなく、数々の騒動を起こした上に、修道院を放り出されます。その後は生死不明です。
その他の貴公子達。
実家で肩身の狭い思いをしていましたが、それぞれ婚約者と結婚しています。
ただし、例外なく恐妻家として社交界に知られていきますが。
奥様方が公爵令嬢の熱狂的なファンなのは、偶然です。たまたまという、偶然です。