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勝手な人

作者: うわの空


蒼々とおいしげった草木に、点々と赤い血が、日光の下で鈍く輝いている。

その赤い水玉に彩られた草の影に一人の女が倒れていた。

いやよく見れば、女とは少し離れた場所にももう一人男が横たわっている。

女が、これは赤い塗料を全身ひっかけられたように血まみれで動かないのに対し、男はうめきながらも今、地に手をついて起きあがろうとしていた。

男はふらふらとしながらも立ちあがると、離れた場所に倒れている恋人の姿を見つけた。

足を引きずるようにして、女のもとへ近よると、しばらく無表情に、横たわった恋人の身体を見つめていた。そのよどんだ眼に、女の身体の周りに散らばった、破れた布や、血に塗れた剣等が映った。

そのうち、男の顔の皮膚に痙攣が起きたように激しくゆがみ、眼には激情の色が浮かんだ。

こらえきれない涙をこぼしながら、男は言葉にならない呻きをもらした。それは慟哭というにはあまりにも静かな悲しみであった。しかしそれだけに、男の感傷の波濤を偲ばずにはいられないほどであった。

しばしのあいだ、男のうめく声のみがあたりを漂っていた。

そのうち、男は女の身体を肩で支えて立ちあがると、女を背負ったまま街道の方へとあるいていった。

まだ若干たよりない足元ではあるが、男の顔は前をみつめ、迷いのない動きをしていた。その眼にはもう悲嘆の色は無かった。男の眼の奥にあるのは、深く暗い淀みだけであった。男は歩んでゆく。照りつける太陽のかがやきのしたで、その姿は陽炎のように霞んで、背に負った恋人の身体とともに徐々に見えなくなっていった。



虫の声が夜の闇をとおして聞こえてくる。

戸口にあいた隙間からもれる光が建物の像をうかびあがらせていた。

屋根の藁がところどころむしりとられた様に禿て、日に焼けて変色した石壁はひびだらけの家屋である。

明りがもれていなければ人が住んでいるとは思えない有様であった。

そのぼろぼろの一軒家の中に、三人の男の姿があった。

男たちは入ってすぐの部屋で、明りを中心に置いてそのまわりに座り、なにやら話し込んでいた。

「しかしあのままにして、誰かにばれやしねえですかね」

と、一人の男がいった。

するともう一人の大柄な男が、

「なに、道からそれたあの場所なら人目につくこともあるめえ。当の二人ももうこの世にゃいねえしな」

「それもそうだ、ちぇっ、つまんねぇこと気にしちまった」」

男たちは目の前にある酒の注がれた杯を手にして笑った。

酒をぐいっと飲みほして口から熱い息をを吐きだすと、「うん?」、といって三人目の男に目をやった。

その男はさきほどから黙り込んでいて、注がれた酒にも手をつけず、ずうっと考え込むようにうつむいていた。顔が細くいかにも繊細な面をしているので、ふつうの顔をしているだけでもどこか哲学者らしい翳りのある男であったが、それがいつも以上に暗鬱としていた。

大柄な男がその様子をみて、「どうした、いつになく暗いじゃねえか、ええ」と、いうと、

「二人はよくそんな呑気に酒なんか飲めるな」

三人目の男は長い顔をあげて二人の仲間を責めるようにいった。

「へへっ、奴さんとうとう癇癪をおこしやがった」

「ったく、気の弱いやろうだよ、おめえは」

二人がそういって笑って、男をからかってふざけても、男の気分は晴れなかった。

自分たちのやったことが何か、とてつもない破滅を引きよせるような予感がしてならなかった。

そう思えば思うほど、二人の能天気さにじれったさを感じるのだった。

二人のからかう言葉に何もいわずだまりこんでいると、一番目の男が、

「なに考えてるかしらねえが、やけに気にするじゃねえか」

「……」

「偽善つらすんじゃねえぞ。おめぇもいっしょなんだぜ。」

「ち、ちがう。わたしは……」

三人目の男は顔をふって否定した。

「なにが違うってんだ。たしかにおめえは手を出さなかったよ。それでも止めもせず、見ていたろ。だいいち、いまさら人殺しを……」

「そこまでにしとけ」

と、そこまで二人の会話を黙ってきいていた大柄の男が静かに、だがよく通る太い声でいった。

最初の男はなにかいいかえそうとしたが、相手の顔をみると、結局「ちぇっ」、とだけつぶやいただけであった。

そして急に立ちあがると、戸口まで大股に歩いていった。

「おいおい、どこへいくんだ」

大柄な男がそう問いかけると、

「ちっと外で涼んできまさあ」

しかめ面をしていうと、鼻息あらく外に飛び出していった。


家から出てきた男をじいっと見つめる四つの眼があった。

その廃屋から少し離れた、建物の影になってみえにくい暗い場所に、二人の男女がいた。

男女はいつからそこにいたのか、音もなく佇んで、しばらく出てきた男の姿をみつめていた。

男は二人のいる場所とは反対の方へ去っていった。

それを見おくると、二人のうちの男の方が、女の耳もとに口を寄せると、何事かをささやいた。

ささやかれた方の女は、二度三度うなずいた。そして笑顔になってなにかいったかと思うと、家から出てきた男が歩いていった方へと道を駆けていった。

一人残された男はそこにぽつんと突っ立っていた。

その顔は、月明りの影のなかに、どこまでも暗く静かであった。


廃屋から外へ出た男は、どこにゆくでもなくぶらぶらと、目的もなく歩いていた。

木々をとおしてふく風がここちよい。聞こえるものは虫の羽音と、時折届く鳥の鳴く声のみ。

月光を灯りとして道を進んでいると、そのとき、

「もし」

と、声がした。

男は立ちどまって、あたりを見回した。

男の歩いてきた道、数メートル後ろにある木の陰から、女が一人出てきた。

女は落ち着いた足取りで男に近寄ってきた。

「ちょいとにいさん、こんな寂しいところでなにしてるんだい」

男はやってくる女を見つめた。

年は二十代後半ぐらいだろうか。薄暗く月明りに照らされた中、色は定かではないが、長く伸ばした頭を後ろでまとめてくくっている。そこからのぞくうなじや、切れ長の眼のまつげ、やや肉厚の唇がなんとも色香にあふれている女であった。

その女が艶のある声でささやいてきたのだ。男はだらしのない顔になってしまった。

「な、なに、すこしむし暑いんで、涼んでたんだ。おめえこそ、俺になんぞ用かい?」

「なに、用ってほどかしこまった事でもないんだけどね」

そういって、女はにっとほほ笑んだ。

「あんたが寂しそうにしてるもんだから、ちょっかいかけてみたんだよ」

そして、男の手をとると、顔を寄せながら、

「どうだい、暇なものどうし静かなところで、さ……」

言葉とともに甘い匂いのする息が男の顔にかかる。男はとろけたような顔つきになって、女に手をひかれるまま、道のはずれの藪のなかへといっしょにはいっていった。

──数分後、藪の幕のむこうから、男と女の細やかな吐息や声がきこえはじめた。

二人は熱気の靄のなか、体液にまみれた身体で抱きあって、周りのことなど眼にはいらないように、恥ずかしげもなく痴態にのたうちまわっている。

いつしか二人の上に、二つの眼が薄くひかっているのを、当人たちは感知しない。

その眼に狂的な光がかすめた瞬間、闇をさいて白い線が走った。

地上の二人の男女が、身体をのけぞらせて何事か叫んだ。

二人の身体は一本の剣で地面に縫いとめられていた。剣の柄をにぎった手がそれをひきぬくと、ふたたび突きさしていた。数回、十数回と身体をつらぬく白刃がいつしか血に塗れ、その輝きを隠してしまった。二人の男女は弱いうめきをもらしながら、かすかにうごめいている。女の身体の下で苦痛にうめきながら、男は顔をあげて見た。

血を滴らせた剣を手にさげて、こちらをみつめている人の陰を。

「だ、だれだ……こんなことして、てめえ、どうなるか……」

陰の主が近づいてきた。倒れた男を足元に見下ろすような位置で立ちどまった。

そのとき、月の明かりが頭上からさしこんできた。ほんの弱い光ではあったが、人の顔を認識するには充分であった。

明かりにてらされた相手の顔を見た瞬間、男は「あっ」と心の内でさけんだ。

地を見下ろしているのは、若い男であった。着ている服はいたるところが破れ、泥の汚れか、あちこち黒ずんでいる。怪我をしているのか、腕や足、首に布をまいている。そんな人物が血刃をたらしてこちらを見つめているのは恐ろしい光景であった。

いや、それよりもこちらを見つめている若い男の、深く冷たい憎悪の眼に男は恐怖した。

「おまえ……くたばってなかったのか」

それはたしかに自分たちが始末したと考えていた人物であった。その男がここに生きて、自分を殺しにくるのは理解できた。しかし。

「てめぇ、か、かんけいねえ女まで手にかけやがって……」

男が自分のやったことを棚にあげて、相手を責めるようにいった。

若い男は、その言葉が耳にはいらないように、ただ地上でうめく男をみつめていた。女の姿など眼に映らないように、じっと男だけを観察している。そして、男と視線をあわせたまま、女を足で蹴って転がすと、黙ったまま、静かに剣の刃を男の胸に突きおろした。

心臓を刺された男は、しばらく身体を痙攣させていたが、そのうち絶命した。死骸の顔は苦悶でゆがみ、凄まじい形相であった。

その死体をかついで、若い男はさっていった。

月のみが見つめ、夜よりほかに聞くものもない世界に、女の死骸だけが一人のこされた。



次の日の朝、ある山へとむかう街道を、二人の男が歩いていた。

一人は身体の大きい、いかにも人相の悪い顔をした男で、もう一人は顔の細長い、気の弱そうな男であった。

この二人は先の夜、廃屋で話をかわしていた男たちであった。

あのときは、三人であったが、いまは二人だけで行動しているのはどういうわけか。

「くそ、だれか知らねえが、なめた真似しやがって」

身体の大きな男がいまいましそうにいった。

「……」

顔の長い男は黙ったまま、落ち込んだように蒼ざめた顔をうつむけて歩いている。

しかし、大柄の男のいった言葉が耳に入ってないわけではなかった。それどころか、彼がさきほどから思いつめたようになっているのは、そのことであった。

今朝、廃屋の中で目覚めたとき、部屋の中に二人しかいないことを不審に思った。

昨日の夜、家から出ていった仲間の一人がまだ帰ってきていないのだ。あのあと、遅くなったら帰ってくるだろうと、出ていった男を待たず、そのまま眠ってしまったのだ。

しかし、朝になっても姿は見えない。早くも不安を覚えながら、家の中を探してみたがどこにも人の姿は見えなかった。

昨日はすこし酒が入っていたから、酔ってそこらの道端で寝てるかもしれない。そう思って、外に出てあたりを見渡してみた。すると、家の横に立った木の下に、血痕がついているのが眼にうつった。その血痕はどうやら家のうしろ側につづいているらしい。だれか怪我した奴がここを通っていったらしい。跡をたどりながら、裏手の方へまわっていった。高まる不安とある予想のために、足が震えている。血痕は、裏手に生えた藪の後ろへと消えていた。ひときわ強くなる血の匂いに吐き気を覚えながら、おそるおそる藪にちかづき、草木をかきわけて中へとはいっていった。

そこには、こちらを見つめていにごった眼があった。

「ぎゃっ」

おもわず、叫んで、後ろへ尻から倒れていた。

仲間の男はそこにいた。いや、男の一部分というべきか。藪の中にあったのは男の頭だけであった。

質の悪い半紙のような白い顔を、苦痛にひきつっている。

藪のうしろはさらに凄まじいものであった。

地面に敷かれた血の床のうえに、男の身体の部位が点々ところがっていた。

あまりの恐怖に声もなく、這うように廃屋へと戻ってきた。まだ眠っているもうひとりの仲間の男をおこし、見てきた事をつたえた。

事情をきいた大柄の男は、すぐさま現場へとかけていった。さすがに胆の太そうなこの男も、言葉もなく呆然と立ちすくんでしまった。

しかし、すぐに顔をひきゆがめて凄まじい怒りの表情になったが、そのまま家にもどってくるなり、荷物の支度をはじめた。

そして有無をいわさぬ強引さで出立し、こうして朝早くから二人であるいているのだった。

「強盗の類じゃねえ」

前をゆく大柄な男が突然いった。

その言葉に、面の細長い男が顔をあげた。

後ろの連れに話しかけるでもなく、独り言のように男は続ける。

「金や物が目的なら、あんな風にばらす必要がねえ。それにあいつが盗人にそう簡単にやられるとは思えねえ」

「し、しかしげんにあんな風にころされて──」

「遺恨だな」

大柄な男は歯がみして、つぶやいた。

「遺恨? 恨みで殺されたって?」

「分からねえ。分からねえが、そういう事は覚えがねえわけじゃねえだろ、俺たちはよ」

「…………」

顔の長い男は、再びだまって青い顔をうつむけてしまった。

大柄な男もそれっきり黙りこんで、会話もなく、黙々と歩みつづけている。そのうち、道の両側に林立した木々がとぎれ、川に掛かる橋のたもと近くまで来ていた。

彼らが住処としている山が近くみえる。

橋を渡ろうとしたとき、顔の細長い男が、連れにいった。

「悪いが、すこし気分がよくないんで、川で顔をあらってくる。」

「ちっ、しょうがねえ。じゃあさきにいってるぞ」

大柄な男はそういって、橋をわたっていった。

顔の長い男は、橋の下へおりて、川辺に近づいていった。

川の水で顔を洗うと、持っていたてぬぐいを水にひたしてから、首や腕をふいていった。

それから手ぬぐいをしぼって立ちあがると、先をいった男のあとを追いかけようとした。

その時、川の上流から流れてくる物が見えた。

それは物ではなく、どうやら人間が流されているらしい。小さい子供がもがきながら、溺れているようだ。

そうとみた瞬間、顔の長い男は川の中へと入っていった。

水をかきわけながら、子供をつかまえようと近づいていった。

水の流れが思っていたより早く、足を取られながらも、流されてくる子供に手をのばした。

服の端をつかんで、こちらに引き寄せようとした瞬間、男の頭は水に沈んだ。

どうやら川の中心だけが深くなっているらしく、子供をつかんだまま、男は頭を浮き沈みさせながら流されていった。

必死で子供をつかみながら、もう一方の手で水をかきながら、何とか岸にもどろうともがいた。

しかし、水の勢いが強く、片手の泳ぎでは少しも進むことができず、むなしく二人は流されつつ沈んでゆく。

そのとき、川のながれる音に混じって、人の叫ぶ声がきこえた。

上流の河原の方から走ってくるひとの姿が、頭が浮き沈みしつつも、断片的にみえた。

河原を走ってくる男は太い縄を、流されている二人の先へ放りなげた。

子供をつかんだ男は、流されながらも、必死に縄をつかみとった。縄がつよくひっぱられた。しかし一人は子供とはいえ、二人分の重さの人間をこの流れのなか、岸へひっぱるのはむずかしいらしい。河原で縄をひっぱる男は必死に力をこめているらしいが、このままではどちらかが縄から手をはなしかねない。

男は、つかんだ子供の服を、歯で噛んではさみ、両手で縄を伝っていった。

岸に近づくと、足がついたので、縄から手をはなして、子供を抱いて、よろけるように河原へとあがってきた。岸へ子供をひきあげると、男は河原へあおむけにたおれた。

「す、すまない。たすかった……」

顔の細い男は寝そべったまま、息をきらしつついった。

おぼれていた二人を助けた男は、だまって、じっと助けた相手の顔をみつめている。

「そ、そうだ。子供は大丈夫か。」

荒く息をはきながら、男はきいた。

「ながいこと水につかっていたから心配だ。すまないが、調子をみてやってくれないか?」

しかし、相手の男はだまっている。相手が何も答えないことに不審をおぼえた顔の長い男は、身体をおこそうとした。

その瞬間、男のあたまに強い衝撃が走った。にぶい音が耳の奥から直に聞こえたように感じた一瞬、思考の空白が生まれた。

頭を打たれたことに気がついたのは、その数秒後であった。しかしその後に、いくつかの疑問がうかんできた。

なぜ自分がおそわれるのか? おそったのは誰か? 襲ったのはあの自分たちを助けてくれた男なのか? それならなぜおぼれている自分をたすけたのか?

頭にうかんでくる謎に気をとられていた男は、そのとき自分の身体のうえにかかる影にきづいた。

縄をなげてたすけてくれた男が、血に塗れたこぶしほどの大きさの石を手に、こちらを見おろしていた。

やはりこの男が犯人だったか。頭から血をながしながらうめく男は、そう考えつつ、血の幕がかかった視界に男の姿をなんとかとらえた。

弱弱しく呼吸をしつつ、呆然と相手をみつめていた男の眼がかっと見ひらかれた。

「あ、あんたは……」

頭から血を流した男の言葉を無視して、手に持った石を投げすてた男は、河原にある巨大な石を、両手でかかえて持ってきた。

そしてそれを、地上にのたうつ男の頭に落とした。

こもった低い音がして、石のしたから血がひろがっていった。頭を石でつぶされた男は、手足を何度か震わせた後、うごかなくなった。

死体の傍らにたった男は、顔をふりむけて、橋のむこうの山を見上げた。

そして、人を殺したというのになんらの表情の変化もみせずに、山の方角へと去っていった。

死体のちかくに寝かされた子供のことは、すでに男の頭にはなかった。


5  

男が一人、河原に立っていた。

男の足元には、頭をつぶされた死体がひとつ横たわっていた。

「くそ、よくも……」

体躯の大きな男は悪態をついたが、その言葉はどこか気の抜けた弱弱しいものであった。仲間の男が川へ降りていったきり、戻ってこないので、彼らが本拠としている山の小屋までもどった大柄の男は、ふたたび連れを探しにもどってきた。そして、河原で無残な死骸へとかわった仲間の男を発見したのである。

「殺されたのは、奴とこいつ……」

大柄な男はだれにいうでもなくつぶやく。

「そして最後は、俺ってわけか、ふざけやがって」

内心の怯えを誤魔化すようにはきすてて、男は足元にしゃがみこんだ。

「ちゃんと埋葬してやりてえが、いま時間がねえ」

死体をかつぐと、川のなかへ死体とともに入っていった。

そして、川の中ほどまでくると、流れの強いところへ、死体をおしながした。

浮き沈みしつつ、死体はあっという間に流れさっていった。

そして男は、山の中の彼の住処へと、早足でもどっていった。仲間がここで殺されたということは、犯人は近くにいるはずだ。しかも、殺されてからそう時間はたっていない。つまり、殺人者はいまもどこかで自分をみていないともかぎらない。

想像が膨れるほどに、不安はますばかりである。

山の中の小屋には、彼の妻となる女が一人いた。

犯人の目的はおそらく、自分たち三人だろうと、男は考える。

しかしすでに犯人は残酷なやりくちで二人を殺している。標的の身内に手をかけないとはだれがいえよう。

はやる足が速度をあげつつ、なれた山道とはいえ、けわしい自然の中をどんどんすすんでゆく。

小屋が近くみえるまでに近づいてきた。男はさすがに息をきらしながら、家の戸まで進んでいった。

歩いてゆきながら、小屋のなかの妻へと声をかける。しかし返事がない。強まる不安をおさえながら、ふたたび声をかけつつ、家のなかに入っていった。

入口からみえる部屋には異常はなかったが、しかし人の姿はみえなかった。

妻をさがすために、男は奥へと入っていった。

「おうい、いねえのか」

妻の返事を期待しつつも、緊張のためか震える声になって、男はいった。

そのとき、入口の方から音がした。

突然の物音に、跳びあがるほど驚いた男は、それでもすぐに気を取り直すと、入口へと戻っていった。

そこには誰もいなかったが、さっき開けたままにしておいた戸が閉まっているのに、男は気がついた。

男は扉を引いたが、戸は開かなかった。閉じ込められたと知ったとき、奥の方から煙がながれてくるのを見た。

建物に火をつけられたと気づいたとき、男は扉に力をこめて引っぱった。しかし、扉はびくともせず、閉じられている。自分一人の力では戸を開けるのは無理だと、諦めた男は別の脱出を考えた。

入口のあたりに置かれた鉈のような山刀を手にもって、比較的うすい壁の部分を壊しはじめた。こうしているあいだに、火の気配と煙はどんどん入口に近づいてくる。

壊れるほどに刃を叩きつづけると、ようやく壁に小さい穴ができた。

もう少しだ。男はさらに強く壁をたたく。火がもう男のいる部屋のほうまで及んでいるのをみて、男は空いた小さい穴を広げようとあせった。

腕がむこうに通る程度に壁が壊れると、男は壁に身体をぶつけていった。二度三度と骨も折れよと必死の力でぶつかっていった男は、突然壁にあたったまま動かなくなった。

火がすでに炎と変わって、部屋全体をつつんでいるのに、男は少しも動く気配をみせなかった。

だれも見るものもいない朱い部屋のなかで、男の背中からつき出した銀色の光は、怪しく明滅し、徐々にその輝きを失っていった。



焼け落ちて、まだ煙のあがっている灰燼と、それをながめている若い男の姿があった。

男はしばらく焼け跡を見つめて何やら考えている様子であったが、やがて、山のさらに奥へと入っていった。

やがて男は一人の女をかかえて戻ってきた。女は気を失っているらしく、静かに地に寝かせられた。

そして、男はふところから小刀を取りだした。それを地面に突きたてると、女の横でじっと座っていた。焼け跡からたちのぼる煙が、風にふかれて、青い空のした、山のすそへとながれていく。そこに鳥の鳴く声が、木々のあいだをぬって聞こえてくる。実に平和な午前の風景であった。

そのうち、女が眼を覚ました。彼女はゆっくりと眼をあけた。自分の横にすわっている人がいて、それが自分の気を失わせた男であるとわかると、彼女はすばやくたちあがった。

「あ、あんた、何者だい。なんで、あんなことを……」

男はたちあがった。女を無視して、焼け跡へと歩いていった。

そこで立ちどまると、顔を灰燼にむけたまま、女に背をみせる格好で静かにいった。

「おまえの亭主はしんだ。この焼け落ちた小屋のなかでな。俺が殺した」

その声には、何らの感情の響きも含まれていなかった。それだけに一層、聞くものの背に冷たいものがながれるのを感じられずにはいられない告白であった。

「それから、その亭主の仲間二人も殺した」

男は淡々とつづける。もはや告白というよりも、自身の犯罪の報告ともいうべき男の奇怪な言葉を、女は呆然ときいていた。

女は最初、男の言葉に呑まれていたが、そのうち夫を殺された怒りで身体が震えてきた。そして、意識してかしないでか、地面に突きささっていた小刀を抜きとると、男にむかって駆けていった。

女の怒りの叫びか、男の絶叫か、声が凄まじい音となって、周囲へ散っていった。

男は背に刃を突きたてたまま、まえのめりに倒れた。

「怨嗟はこれで終わる……」

倒れながら男は、女にきこえない声でつぶやいた。

もはや何も知ることもない女がひとり、誰かも分からない男の息が絶えるのを、空虚な目でただみつめていた。

山のうえの二人にかかる日の光は、あくまですがすがしく照りつけて、地上のすべてを祝福しているようであった。


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