粉雪
一人で入ったレストランの片隅で、今日何度目かの溜息を吐く。ウィンドウから見えるのは、幸せそうに寄り添うカップルの姿ばかり。
バレンタインデーなんて、バレンタインさんという名の聖職者の命日なのに。愛の橋渡しをしたがために命を落とす事になった彼の人に便乗した製菓会社の陰謀にはまり、踊らされている人たちのなんと多い事か。
そう思いながら、空いている椅子に置いた紙袋を眺め、また溜息を吐いた。
まんまと製菓会社の陰謀にはまったわたしは、生まれて初めてトリュフなんて物を作ってみた。形は不恰好だけれど、甘い物が苦手な彼のために、甘さ控えめのビターな仕上がり。
プレゼントなんて見当もつかなくてお母さんに相談したら、無理せずに高校生らしい物にすればと言われ、マフラーも編んでみた。
その成果が入った紙袋は、けれど受け取ってもらう事はできなさそうだ。
昨夜になっていきなり今日の約束をキャンセルして来た彼には、さして悪びれた様子も感じられなかった。まるでわたし一人が勝手に、今日の日を楽しみにしていたみたいだ。実際にそうだから文句のつけようがなかったのだけれど。
「もう三週間も会っていないのに、わたしよりも仕事の方が大事なの?」
そう言いそうになるのを必死に堪え、
「仕事なら仕方がないよね」
と答えた自分を褒めてあげたい。ただでさえ年が離れているのに、こんなところで馬鹿な我侭を言って嫌われたくはなかったからなのだけれど。
九歳も年上の彼じゃなく、せめて同じ高校生とならば毎日でも会えるのに。そう思っても、今さら他の人を好きになれるほどわたしは器用じゃなければ気が多くもないのだ。
再び窓の外に目をやれば、寒風吹き抜ける中、粉雪まで舞っている。それでも身を寄せて歩く男女の顔はとても幸せそうに微笑んでいて、なおさらに今の自分の哀れさを実感してしまった。
ディナータイムにさしかかり、さすがに居辛くなって店を出る。途端に吹き付ける強いビル風に、身を竦めた。風に煽られた雪が目に入り、歩きにくい事この上ない。
彼と約束をしたときに、二月十四日の夕食はいらないからと母に言ってしまった。さらには
「じゃあ久しぶりにお父さんとデートでもしようかしら」
と嬉しそうに言われてしまっては、いまさらやっぱりキャンセルになったとは言えなくて。兄も弟もバイトの後友達や彼女とパーティーだとかで、恐らく深夜まで戻らないだろう。必然的に今夜は家に一人きりで、さらには帰っても食べる物もない。ますます侘しさが募る。
「インスタント麺か、コンビニ弁当かなあ」
せめておでんでもつけようかな。
重い足を引きずって歩いていると、車道の端に停まっている車がパッシングしているのが目に入った。
ここにも誰かと待ち合わせた人がいるんだな。と、少しだけ羨ましく思う自分が情けなくて、自然と早足になっていた。
件の車の横を通り過ぎようとした時に小さくクラクションが鳴ったけれど、わたしには関係ないからとそのまま通り過ぎる。
「こら。無視するな」
突然聞こえて来た声に、足が止まる。あまりに恋しいと思っていたから、空耳まで聞こえて来たのだろうか。
まさかという思いともしかしたらという期待を抱きながら恐る恐る振り返ると、そこにいるはずのない人の顔が、開け放たれた車の窓から窺えた。
「え? なんで? だって、仕事は?」
声が震えるのは、決して寒さのせいだけじゃない。
「適当に切り上げてきた。お陰で明日は深夜残業決定だ」
苦々しげに口元を歪めている彼とは対照的に、わたしの頬の筋肉が緩んだ。