第四十話
紅い月は美しかった。けれど歪だ。その美しさを保つために、周囲の全てを食らい尽くしてしまう。そうして誰も称賛しなくなった世界こそが、紅い月がもっとも輝く場所なのだ。自分だけが輝いていて、他に比べられるものが何もなくなった無の世界が。
自分が生き延びるために紅い月に縋ったナルシスイセンが、その水仙のようなホーンをぼろぼろにしてもなお、紅い月にとり憑かれて歩みを止めない。ひどい姿だった。宝石の怪物だ。もう体のほとんどが宝石に支配されているのだろう――そういえばクラフトの手紙にも書いてあったはずだ。器以上の魔力を留めておこうとすれば人形としての機能に支障が出る。目の前のナルシスイセンは既に音楽を奏でる花ではなく、がらくた同然の屑鉄だった。
体の部品が零れていくのも構わずに、ナルシスイセンだったものがアウルたちに襲い掛かろうと、宝石と化した剣を向けてくる。
「わたし、私の、ワタシが、よりよい世界のために……!」
咄嗟にナイトオウルが剣を弾き返す。剣に触れたナイトオウルの手指の関節が、宝石に固められる――魔術の風で削りとればいい話だが、これでは迂闊に触れない。先程のように全身宝石化されてしまうかもしれない。間合いを取らなければ。ナルシスイセンの足跡から、再び宝石化が始まっている。
既に紅い月の脅威は味わっているから、宝石化の魔力に侵されないよう気を配っていれば逃げることは可能だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。何事にも限界というものはある。
アウルたちを狙い定めて襲ってくるのは、今ここに存在するもののなかで一番魔力を持っているものたちだからだ。魔力の飢えを満たすために他者の魔力を求める様は、まさに害獣そのものだ。
「王都の城壁の中でそんなもんと出会うなんて思ってもみなかったけど」
「どうしますか。何か策は?」
「ううん、まあどうにでもなるさ。ごめんねナイトオウル、せめてナルシスイセンとちゃんとした決着つけさせてやりたかったんだけど、駄目そうかも。僕あまり考えに余裕がなくて」
「アウル殿――?」
「来るよ」
アウルが言った。間もなくして、何かズシンと低く響く音がした。それはどんどん大きくなっていく――否、近づいてきている。それどころか、真上から振動が伝わってくる――天井に、穴が開く。
「アウルくん、ナイトオウル! 来たわよ!」
メグの声がする。それと同時、天井の穴がさらに崩れて瓦礫が下に落ちてくる。
穴の開いた部分から差し込む月の光と共に、上から降りてくるものがある。それは何やら騒がしい。
「ま、まって、止まれ、ラズベリー! あれ、お、お前、アウル。なんでここに」
「久しぶりだねドラクリヤ、それにラズベリー。また手を貸してよ」
ドラクリヤが返事をするより先に、咆哮が響き渡る。
美しい赤色の鱗に覆われた体が、月光に照らされている。その背には自動人形――ドラクリヤ・ドラフィリエが乗っている。赤き竜ラズベリーは火を吹いてナルシスイセンの宝石を焼いた。竜の吐く火の息は魔力を霧散させる――いかに紅い月といえど、最早無力だ。灼熱に焼かれて、それは悲鳴を上げた。
「やめろ、私は、我々は、まだ――まだ飢えているのに――!」
「――暴食は醜いと言ったろう。貴様が前に言っていたような、優れた人形が生き残るというなら……今の貴様は、相応しくないようだ」
灼熱に焼かれながら、まだ腕を伸ばそうとするナルシスイセンを、ナイトオウルが蹴り飛ばした。特にそれらしい抵抗もないまま、体勢を崩したナルシスイセンは、そのままラズベリーの炎に包まれる。
暴れるように地下空間を蹂躙するラズベリーを追って、軍の兵士たちが追ってくる。それに続いて、結界の影響を処理し終えたらしいアーロンや、紅い月の回収に来たメグたちの姿も見えた。
紅い月を焼かれたナルシスイセンは、やがて、動かなくなる。魔力を帯びた焔の熱が、まだ紅い月の残骸を燃やしていた。
「アウル殿、あなたが竜を呼んだのですか」
「僕が逃がした鼠がね。メグが通報するのを待ってもいいけど、それだともしかしたら充分な人手にはならないかもしれないって思った。他の人はまさか鼠と竜がお喋りするなんて考えもしなかったかもだけど――ラズベリーがいきなり暴れたりしたら、絶対騒ぎになるだろ。そうしたら、竜を管理してる軍の人たちだって否が応でも慌てて追いかけてくる。此処にくる」
アウルは「ナルシスイセンだけじゃなく、意外とみんな動物のこと見てないんだ」と言った。そのとおりだった。
「ドラクリヤにはちょいと悪いことしちゃったかもだけどね。今度詫び入れよう」
アウルは少しバツが悪いように頭を掻く。とはいえ、確かにこの場は完全に制圧された。ナルシスイセンのために人手を寄越せないと言っていたはずの軍の連中が、今は充分すぎるほど集まっており、それぞれ状況に応じて行動を始めている。ラズベリーは救援としての役目を終えるとすっかり大人しくなり、状況をよく理解していないらしいドラクリヤは困惑していたが。
月明かりに照らされた地下は、ひどく気味の悪い場所であったのだと改めて思い知らされる。松明の灯りだけでは頼りなく、あまりよく見えていない部分もあったが、改めて観察してみるとひどい有様であった。
ラズベリーの炎に焼かれたからだけでなく、これまで赤い月に魔力を吸い尽くされてきた魔宝石の残骸が転がっていた。とうの紅い月も力を失い、そこにある石は宝石と呼ぶにはあまりにもくすんでいるものしかないのだった。
メグがエストレ商会の部下を呼んで紅い月――であったものの残骸――の回収を始めていた。王国軍の者たちは現場の検証を始めており、天井が――地上にとっては地面の一部が抜け落ちるほどの騒ぎになったことで、警察も事態を察知して駆けつけてきている。
アーロンたちもアウルたちのもとへやってきた。
「無事かアウル、ナイトオウル」
「アーロン先生! 結界を解いてくれたんですね」
「何があったか想像はつかなくもないが、きみたちが知恵を使ってくれたおかげで大きな異常もなく、な。よくやってくれた」
「ナイトオウルが頑張ってくれました。それに友達が力を貸してくれたので」
「きみならやると信じていたが、期待していたより派手な騒ぎになったな。これはこれで面白い。バーレットも慌てたろうな」
アーロンはそう言って、アウルの頭を帽子の上から撫でた。これは褒められていると取って良いようだ。アーロンの目線は、竜のラズベリーを追いかけてきた軍隊を指揮しているバーレットを見ていた。バーレットはまさかこのような形で駆り出されることになるとは思ってもみなかっただろうが、アウルとしては使えるものは使いたいので、申し訳ないが存分に利用させてもらう。
セイジュローとコバルトブルームは、ナルシスイセンのことを気にしているようだった。まだ手付かずのナルシスイセンを片付けるのは、彼らの役割でもあった。
「……思ったよりひどい状態だ。記録は取りだせないかもしれないな」
「ご、ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいですよって。そのときはそのときだ。それに、どうせこいつの終わりを見届けなきゃいけないのは変わらん……」
セイジュローがよく観察しようと覗き込んだそのとき、ざり、と何かが擦れる気配がした。焼き尽くされたはずのナルシスイセンが、その指がまだ動いていた。
紅い月の魔力は既に失われているが、かろうじて、元の核であった魔宝石の力が残されていたらしい。
コバルトブルームがセイジュローを守ろうと、彼をナルシスイセンから引き離す。ナルシスイセンは低く笑うような声を出した。
「いたのか」
それが作り手であるセイジュローに向けて言ったものなのか、兄弟機にあたるコバルトブルームに向けての言葉であったのか、判別はつかなかった。ただ、冷たい水仙人形の声が反響する。
宝石に蝕まれ、竜の炎で焼け焦げて崩壊した体では、誰かに目線をやることさえままならぬようだったが、紅い月の影響が抜けたのか思考は戻っている様子だ。手足が動かないだけのことで、そこには思考する人形の心がある。
「ハーピストルはいないか……この姿を見せずにすむなら、悪くはないのかもね……」
「あんたも……彼女のことを、好いていたのか?」
コバルトブルームが、恐る恐るといった様子で、問いかけた。この場にハーピストルはいない。アーロンが呼ばないことを選択した、既に戦いから遠ざかっている人形だ。
「いつか、私の孤独をわかってくれるかもしれないと――思っていたよ。人に捨てられたもの同士」
ナルシスイセンが答える。それはハーピストルに対する期待よりも、セイジュローたち人への失望の色が強かった――ように、アウルは感じた。
セイジュローはかつて生み出した美しかった人形の成れの果てを目の前に、上手く言葉が出てこないらしかった。そんなセイジュローを、ナルシスイセンは「牙を抜かれた狗にも劣る」と嗤うのだった。ナルシスイセンから見れば、作り手であるセイジュローは少女のメグに飼い馴らされ都合よく使われているだけにしか思えないのかもしれない。
メグのいる位置からも、話は聞こえているかもしれないが、彼女は全く無視した。それで正解かもしれない。ナルシスイセンに煽られていちいち腹を立てているより、彼女の当初の目的である紅い月の回収のほうが優先順位が高いのだ――尤もその紅い月は、今では残骸があるだけと言える悲惨な状態ではあるが。
ナルシスイセンが笑っている。嗤っている。
それは愚かなセイジュローに対するものかもしれなかったし、もしくはナルシスイセン自身の有様のことだったかもしれない――あるいはその両方か。嘆き悲しむための涙を流す機能を持たないナルシスイセンにとっては、それが一番の感情表現でもあった。
「駄犬よりも小鳥くんのほうがいくらかましだったね。ずるい小鳥。醜い怪物のような見た目のくせに本当に忌々しくて、私は大嫌い。そんな怪物でも生きていけるのに、私は駄目だなんて、不公平な世の中だ」
言いたい放題言われているが、別段アウルが気にしなければならないような文句ではなかった。そんなことは、すっかり聞き慣れた陳腐な言葉だ。そもそもいくら怪物染みた外見であろうと、アウルは人として生きているが、ナルシスイセンは人に寄り添うことすらできなかった。
「言いたいことはそれだけ?」
アウルが問うと、ナルシスイセンは「言い切れそうもないね」と答えた。
ナルシスイセンが、不意にアウルたちに剣を向けた。刃毀れした剣は、しかし素早く割り込んだナイトオウルに止められた。紅い月の力が失われている今、ナイトオウルの手が宝石に固められてしまうことはなかった。ナイトオウルは切れ味が落ちているとはいえ未だ危険な剣を圧し折る。紅い月の影響のために脆くなっていたそれは、容易く砕けた。
「残念、道連れはなしか……」
「貴様の黄泉路にアウル殿も、他の誰もついていかせはしない。貴様だけで枯れろ」
「きみもいつか未来に枯れていくくせに、生意気だ」
「未来の話だ。今ではない」
「ああ――本当に、口惜しいこと」
くすりと漏らした笑いは、狡猾な彼に似合わず、無邪気な子供がするようなものだった。そしてそれが、彼の最後の笑みだった――セイジュローが「やってくれ」と言った。これ以上暴れないよう、ナイトオウルの手によって、魔宝石が砕かれる。ナルシスイセンに残る記録を取りだすことに執着しすぎて反撃を受けることがあっては、全く無意味であるからだ。危険な人形を処理するうえで、必要とあらば破壊するのは、人を守るためならば当然の選択肢でもあった。
再び、天井の亀裂の入った部分が落下してくる。どうやら破壊しすぎてしまったらしい。
「早く上へ!」
バーレットの声がする。上官の号令に従って兵士たちは動き始める。アウルたちも疾く脱出しなければ。このままナルシスイセンの隠れ家の検証作業を続けるには危険すぎる。感傷に浸る暇はない。他の何をする時間もだ。
「メグ! もう行こう!」
「え、ええ……」
アウルは紅い月の回収のために足場の悪い場所にいたメグを支えながら、ナイトオウルやアーロンたちに導かれて上を目指す。
皆が地上へと逃げ出してゆくその間にも、徐々にあらゆるものが轟音と共に崩れてゆく。
全員が無事脱出して間もなく、ナルシスイセンが居城にしていた地下空間は完全に瓦礫に埋もれてしまった。何かを掘り起こすのも、この有様では決して容易とは言えないだろう。全ては地面の下だ。
「紅い月が、失われるわ……」
メグがぽつりと呟くように言った。
あっけないようにも思えるが、これで終わったのだ。王都を騒がせていた宝石専門の怪盗は、宝石の魔力に自分を奪われ、怪物になり果てた末、全てを失って滅んだ。この場を狂わせていた結界も、全て解かれた。異常なものはなくなり、正常に戻った――。
空は既に白み始めていた。




