第三十九話
結界をこじ開けているアーロンたちにも、地下の異変は伝わっている。足元が振動しているその理由がただの地震でないことは考えるまでもなかった。
「結界の魔力を削いだはずなのに、まだ力が強くなっているようだ」
「下が無事だと良いのですが……」
「ナルシスイセンが怪しいことをしているようだ。早く片付けねば」
アーロンの声はいつもと変わらないが、弟子を案じているのは誰でもわかることだった。コバルトブルームはそれを手助けするだけだ。折れた鉄パイプをどけながら、コバルトブルームは地下への入り口を覗き込もうとした。月明かりに照らされて、何かが煌めいている――宝石だ。石が、まるで生きて這うように下から上がってきている。宝石の浸食が広がる。深い紅の色をしているようだが、薄気味悪いのも確かだった。
その気味悪い石の上を、一匹の鼠が駆けていった。どこにでもいる薄汚い鼠のはずだが、コバルトブルームは妙にそれが気にかかった。鼠の足は速く、気が付けばその姿はもうどこにもない。
下で何事か起きて、それから逃げてきたのだろうか。たった一匹だけ。鼠が棲みついていて、異変を感じて出てきたというなら、もっと何匹もいてもおかしくなさそうなものだが。
アーロンはくっと含むように笑った。
「何か気が付いたことでも?」
コバルトブルームが問いかける。アーロンは「あの鼠、魔術の跡があるぞ」と言った。
「アウルが何か思いついたらしい。なあに、なるようになる」
「なるように、ですか……」
「ああ。通り道を開けておかなくちゃならんようだぞ、コバルトブルーム。もうひと踏ん張りできるな?」
「――当然です!」
でも一体これから何が起きるというのですか。コバルトブルームの疑問は、アーロンが「私も楽しみだ」という返事にかき消された。答えはその時まで出ないらしい。そして答えの返ってこない問いよりも、歪んだ空間への対処のほうが今は重要だった。
蒸気自動車のエンジン音が聞こえてくる。どうやらメグとセイジュローの準備も終わったようだ。後は軍や警察の動きを待つのみである――。
◆◆◆
紅い宝石が、ナイトオウルを襲った。ナルシスイセンの奏でる音が響き、それと同時に紅い月と同じ色をした宝石がナイトオウルを絡めとろうと足元から、あるいは壁から、天井から剣のように生えてくる。それを避けるために、魔術を最大限に駆使して風を生み出し逃げる。
紅い月はナルシスイセンの魔力の源と聞いていたが、実際は完全に同化しており厳密な区別など見当たらなかった。魔術のぶつけ合いは、より魔力が豊かなほうが勝つと相場が決まっている。今のナルシスイセンとまともにぶつかっては勝てない。それは直感であり、恐らく事実であった。
背後のアウルが心配だったが、今はナルシスイセンの攻撃対象となっているのはナイトオウルだけだった。少なくともアウルがすぐに殺されるということはなさそうだが、それでもアウルがあの紅に囚われているのは事実で、早急に状況を好転させなくてはならない。
ナイトオウルは極力空気を操るようにして、ナルシスイセンの音を紛らわせる。けれど生ける宝石はまだ脈動を続けている。どうにか止めなければならないが、果たしてどうすればよいのか。
一瞬の思考が隙となった。下から剣のように鋭く生えた宝石が、ナイトオウルの足を捕らえて地へ引きずり下ろす。
「しまった……!」
足に気をとられている間に、さらに宝石が体を這うようにまとわりついてくる。腕も固められて身動きが取れない。じわじわと魔力が奪われていくような感覚がしている――これでは魔術を使っても、大した威力は望めない。
「あハ……二羽目も捕まえた。きみは私が認めてもいいと思う程度には強いから、念入りにしておかないと」
くすくすと笑うナルシスイセンが、ナイトオウルに近づいてくる。美しいが、優しくない笑みだった。針金のような細い手指を、ナイトオウルの首に這わせてくる。ひどく嫌悪感があった。
そのまま細い指が下へ向かい、ナイトオウルの胸をコツコツとつつく。くすくす。くすくす。気味の悪い笑い方だ。
「ここにきみの魔宝石が入っているんだろう? 良いよねえ、何の欠陥もなく生まれてきて」
「貴様の事情は聞きかじったが、だからといって犯罪に手を染めていいわけではない……!」
「そんなのは恵まれている者が言うことさ。生まれたときから死へのカウントダウンを目の前に突きつけられていたら、誰だって生にしがみ付こうとなりふり構わなくなる。そして私は、正しい価値が認められないこんな世界なんか、どうだっていい。私にはこの麗しい紅い月の加護がある」
「加護だと? 私には力にとり憑かれているだけのようにしか見えないがな」
ナイトオウルが吐き捨てるように言うと、ナルシスイセンが笑みを消した。どうやら煽り文句に食いついたようだ。
ナイトオウルは背後でアウルが何か動こうとしているのに気が付いた。ナルシスイセンはまだそれを察知していないようだった。ナイトオウルは自然と、ナルシスイセンの気を引くように次の言葉を発していた。
「貴様の在り様は害獣風情と何ら変わらん。飢えを満たすためだけに他を見境なく襲う獣だ。それだから他の人形は貴様に靡かない。貴様の傀儡にはならない。心許せる仲間にもなることはない」
「……うるさいな。黙れよ」
「愚かなやつだ。人にも人形にも永遠などありえない。仮に貴様が言うように全て食らい尽くしせたとして、その後は何もない場所でゆっくりと朽ちていくだけさ。狡猾な貴様なら本当はわかっているはずだ」
「黙れって言ってるだろう……」
「貴様の器では、紅い月の魔力を制御できるようには見えないな。私に欠けたところがないとは言わないが、貴様とて欠陥品ではないか。いつか貴様も蝕まれて、食われていくだけなんじゃないのか。それは貴様の望む形とは違うだろう。紅い月に縋りつかねば生きられぬというのは、貴様が弱者である証明だ」
よくもまあこれだけ口が回るものだと、ナイトオウルは自分でも驚いた。勢いで言っているだけのことだが、それでもナルシスイセンの感情を揺さぶるには充分効果的であるらしい。ナイトオウルは声だけで笑った。
「暴食は意地汚いぞナルシスイセン。今の貴様は、とても醜い」
次の瞬間、ナイトオウルの視界がぐらりと揺れた。
「それでも! 我々はまだ飢えている!」
どうやら殴られたらしいというのは、視界の端にナルシスイセンが拳を作っているのが見えたからだ。大したダメージではないが、ナルシスイセンがそのような冷静さの欠片もないような攻撃をしてくるとは。やつには魔術の音もあれば、腕の剣もあるというのに。
もしかすれば思考能力が落ちているのかもしれない。全く冷静であるようには見えなかった。まさに宝石にとり憑かれているかのようだ。
がりがりと胸の装甲を引っかかれる。傷がついたその場所を、ナルシスイセンが斬りつけてくる――否、抉っているというほうが正しいか。また音が響いている――剣に魔力を乗せているのだ。いかに頑丈な装甲といえど、魔術に完全に抵抗できるものではない。削り取られて穴の開いた鎧の下に、ナイトオウルの核となる魔宝石が鎮座している。普段は晒すことのないものを、よりにもよってナルシスイセンに暴かれているというのは屈辱以外の何者でもなかった。
「安心したまえよ、きみはただ紅い月の糧となるだけのこと。美しい紅い月と一つになれるんだから、幸せに死んでいけるね」
もう、ナルシスイセンに笑みはなかった。その手が装甲の穴から中へ入りこんでくる。魔宝石を奪われる――体は未だ動かないまま。口惜しいが、覚悟を決めなければならないようだ。
だが、魔宝石を抜きとられる直前、何かがナルシスイセンを襲った。
「なっ……! なんだっ」
沢山の何かがいる。何か生きているものが這いずり回って、ナルシスイセンにまとわりつき、圧し潰す。身動きが取れないナイトオウルはそれをただ呆然と見つめていたが、やがてその何かの集まりは自分の足元にもやってきていることに気が付く。注意深く焦点を合わせると、それは痩せぎすの猫だった。
猫だけではない。鼠や烏、蝙蝠といった動物たちが、群れを成して現れた。宝石と化した床を駆けずり、その足跡から魔力が霧散していく。ナイトオウルの足も、猫が触ったところから宝石が溶けるように崩れていった。
ようやく体の自由を取り戻して後ろを振り返ると、そこには鼠たちに囲まれるアウルがいた。だが、ナルシスイセンが圧し潰されているのとは違う。鼠たちは従順にアウルに従い、アウルに薬をかけられた者から順にナルシスイセンを襲っているのだ。紅い月を封じるための薬を纏って、紅い月の聖域を荒らしている。
アウルは足が宝石で固められたままの無様な格好で、けれど悪戯が上手くいった子供のような、してやったりという顔をしてけらけらと笑った。
「流石のナルシスイセンだって、こんな鼠たちなんか見てなかったろ。僕の友達がすごい沢山いることを教えてやる」
さあ行けみんな、とアウルが号令をかける。動物たちが宝石化した場所を踏み荒らし、体に付着した薬を擦りつけて紅い月を崩壊させていく。アウルの足はあらかた破壊し尽くした後だった。
「アウル殿、これは……」
「僕だけじゃ身動きがとれなくなったもんだからさ。友達に手を貸してもらった。持つべきものは友ってやつだね、人の友達はあまりいないけど」
「……鼠たちは、その――随分沢山いるんですね」
「少ないよりは多いほうがいいだろ」
「軍の者たちはまだ来ませんね……」
「警察はともかくだけど、軍の人は来るよ。たぶんもうそろそろ、ネ。メグたちとどっちが先に来るかな」
服についた埃を払いながら、アウルは立ちあがった。最初に入ってきたときのように、じめじめとしただけの地下空間に戻った今、紅い月の影響はほぼ失われたと見てよさそうだ。
紅い月のバックアップが失われれば、ナルシスイセンもただの人形だ。様子を窺うために近づこうとした、その瞬間――音がした。耳が張り裂けそうなほどの、強烈で、不快な音だ。
それを音楽と呼んでよいものか。ひどく耳障りで、集まった蝙蝠たちすら超音波によって平衡感覚を失う。鼠たちは驚いて散り散りに逃げ、猫は怯え、烏は暴れて羽根を落とす。自らに圧し掛かっていた動物たちを払いのけて、ナルシスイセンがアウルたちに目線を向けてくる。睨んでいる――というよりは、ただ視界に入れているだけのような、感情の読めない目だ。
「全て食べ尽くす……壊れた分まで沢山食べれば、我々はもっと繁栄できる――よりよく生きていける世界を作らなければ……我々の未来に、必要なものは……」
抑揚のない声色は、その不気味さをいっそう増している。キシリと歯車の軋む音がノイズとしてナルシスイセンの破滅的な音色に混ざる。
ぱきりと音を立てて、ナルシスイセンの装甲が割れた。ぼろりと崩れたところから、部品同士を繋ぐケーブルが零れ落ちて無残だ。それでもナルシスイセンは気に留める様子もなく、アウルたちのほうへ一歩一歩近づいてくる。歩くたびにナルシスイセンの体は崩れて、人形の美貌も遠き幻想と成り果てる。
そして、穴の開いたところに、煌めくものがあった。ナルシスイセンが崩れていく一方で、その背筋の凍るほど美しい輝きが徐々に姿を現す。
「――紅い月だ。ナルシスイセンは自分の体内にも紅い月の欠片を持っていたんだ……!」
紅の宝石が、ナルシスイセンの欠けたところを埋めている。恐らく核であったであろう部分は既にその紅に飲み込まれて同化していた。セイジュローの話ではインクルージョンの影響で魔術式が正常に働いていないということだったが、最早そんなものこの異常の前では些末なことだ。ナルシスイセンの中にあったその石は、薬の影響を受けずまだ成長を続けている。逃れようとする鼠たちを食らおうと剣のように鋭く伸び、獣の血を吸いながら、その石は鼓動する。
「我々、我々が、我々が全て、全て、全てを、全てを食べる、食べ尽くす」
露出した宝石がナルシスイセンを補って、かろうじて人形としての形を保っている――けれどそれは、アウルたちの知るナルシスイセンとはかけ離れたものだった。
そこにあるのは、異常な魔力によって狂った何かだ。




