第三十七話
第七曜日、とはレイファンにおいて一般的に使われている暦における、一週間の日付の区分である。予告状がばら撒かれてから一番近い第七曜日は三日後であった。
フェアファクス探偵事務所には当然のごとくメグからの依頼が来て、アウルたちは正式に招かれてエストレ邸へ赴く。
応接間に通されると、そこでメグとアントニオが待っていた。
屋敷の主であるアントニオ氏は「何としてもナルシスイセンを捕まえるのだ」とやや興奮気味に話している。愛娘が狙われているということに動揺しているようで、あまり冷静ではないようだった。何でも、明日には宝石商の仕事のために王都を出発する予定になっているらしく、娘を置いていかなければならないという状況に落ち着いた判断が難しくなっているようだ。
宝石泥棒であるナルシスイセンはエストレ家にとっては最悪の敵である。苛立つアントニオは「そもそもセイジュローがあんなものを作るのがいけない」と言いだし、それを、メグが「そんなこと言うものじゃないわ、パパ」と宥めている。
「セイジュローの才能は素晴らしいものよ。これまでそれのおかげで儲けさせてもらってるのに、そういう悪口はよしましょうよ」
「しかし、そのせいでお前の身に危険が迫っているんだぞ」
「パパ、過去の失敗をいつまでもつつくような小さいこと言うより、これからどうするかのほうが大事でしょ。ナルシスイセンのことなんか、パパの大きな仕事に比べたら些末事にすぎないわ、ネ」
メグはその美しい顔で、それは愛らしく微笑んで、父を宥める――というよりは、言いくるめている。どうにも彼女は父親を操作するのが上手い。自分が父親に愛されていることをよくわかっていて、それを全力で利用しているのだ。アウルには色々な意味で真似ならない。
「全部私に任せてちょうだい、パパ。パパは仕事のほうに集中してくれたらいいの。出立の準備もあるでしょ?」
にっこり。メグがそう笑いかけたところで、アントニオは「危ないことだけはするんじゃないぞ。そのために探偵を雇うんだ。軍だの警察だのは信用ならん」と言って、部下と思しき者たちに呼ばれて部屋を出ていった。彼は彼で忙しいのだ。
「さあ、本題に入りましょうか」
「アントニオ氏はメグ嬢を信頼していらっしゃるようだ」
「パパは私に甘いのよ。それに、ナルシスイセンに関わる事件だって言ってるのに、あまり政府側の人たちが動いてくれる感じがしないから焦ってるのね」
メグは真剣な目つきをしている。ナルシスイセンへの対策については、本気で挑もうとしているのである。
「まずは情報共有からよ。ナルシスイセンの事件については軍もそうだし、警察も、私たちのような民間の組織だって無視できないものだわ。人形を道具として使っている我々としては、彼を野放しにはできない。だからお互い情報交換をし合っているの。セイジュローも警察の事情聴取を受けているし、事件に関わった人形たちや、他の沢山の人からも何か情報が得られないかって必死になっているところ」
尤も人手が足りないのが一番問題だけど、とメグは言った。戦争の影響で軍人も死んでいくが、戦火を逃れようと人が町から出ていってしまうというのもよくある。今は王国軍の凱旋で湧いているが、それまでに出ていった連中が全て戻ってきたわけでもなく、クラフトのように戦死した者も少なくはない。軍はそういった面倒事の後始末に追われている。警察は治安維持のため、ナルシスイセンだけでなく他の犯罪者も追っていて、一番自由に動けるのはエストレ家であった。
「それで、何がわかっているんです。隠れ家の場所は割れたと聞いたが」
アーロンが言うと、メグは「港の近く……って、おおよそはわかっているけど、結界がまだ破れないの」と言った。
「結界か」
「ええ。強力な認識阻害、それに空間の捻じ曲げが組み合わさっているみたいで、そこが何かおかしいってことはわかっても容易く手を出せないのよ。魔術式が複雑すぎて秘密を解き明かすのに手間取ってる。現場の人も大変だけど、上の人たちが痺れを切らしてる部分もあるようだわ……ただでさえ人手不足だし、何か絶対モノにできるって確信を持てるようなことがないと、本当に頼りにするっていうのは難しそう。バーレット中佐は協力的なことを言ってくれたけどね」
「ふむ。それほど強力な結界魔術をナルシスイセンが身につけているとはね……」
「クラフトの遺したメッセージから、ナルシスイセンは紅い月という魔宝石を力の源としているらしい――とわかったわ。紅い月は膨大な魔力を生み出すことができる特別な石……隠れ家を隠す結界を作るくらい、わけないことだわ。紅い月っていうのはそういう規格外のものなのよ」
宝石をよく知る者としての発言であった。メグは魔宝石に関してはクラフトも認めた審美眼の持ち主でもある。その彼女が言うのだから、紅い月の恐ろしさは確かなものだろう。
「紅い月を封じる方法は、クラフトのノートにあった薬を使えばいい……ってことだったね。でも僕、ノートを読んだけど、あの薬って魔宝石に直接使わないと効果がないみたいなことが書いてあった」
薬自体を制作することに問題がないことは、既にアーロンに確認済みである。材料にカガリビキノコと竜の鱗を必要とするが、前者は以前キャンディ・キャストからもらったキノコで賄えた。後者についても、以前縁のできたドラフ・ドラフィリエ並びにドラクリヤ・ドラフィリエとの交渉で手に入れることができ、何ら問題はない。
「結界の中にある紅い月に、どうやって辿り着けばいいのか考えなければならぬということですね」
アウルとナイトオウルは顔を見合わせて、互いにまだ良いアイデアが思い浮かばないことを悟った。紅い月を封じようにも接触する手段がないのだ。メグも肩を竦める。
「そこなのよね。モノルカが結界の中に入れたんだし、ナルシスイセンだって出入りしているんだから、何かしら方法があるはずなのよ。ナルシスイセンは紅い月の影響下にあるから通れるのだとしても、モノルカが通れた理由は別にあるってことになるわ」
話を聞いていたアーロンはむうと唸る。
「何にせよ、ナルシスイセンに対して有利に立とうとするなら、その紅い月とやらをどうにかしなければいけないというわけだ。今回狙われているのはメグ嬢の持つものだそうだが、それはどんな石なんだ」
「これよ」
メグは懐からペンダントを取りだした。大粒の赤い石が、美しく輝くように雫型にカットされている。透き通る煌めきは宝石商の娘が持つのに相応しい石と言えたが、今まで狙われてきたような、人形の魔力炉として使われているような魔宝石と比べれば決して特別大きいわけでも、強い魔力を感じるわけでもなかった。
「この石は、パパが紅い月を採掘したのと同じ鉱脈で見つかったのよ。紅い月ほどの魔力はないから、魔宝石としての価値は低いわ。普段使いのアクセサリーとしてちょっと形は整えているけどそれだけ。一応紅い月と同じ組成の石だから、ナルシスイセンは何らかの価値を見出しているのでしょうね」
アーロンは顎の辺りを触りながら「ふむ」と頷いた。思考に沈むときの彼の癖だ。
「手段を選ばなければやりようはある、か……」
「先生は結界の解き方がわかるの?」
「これでもそれなりに歴史を重ねた魔術師の家の出身だ。どういう理屈で動いている結界なのかくらいは想像がつくが、だからこそ真正面から当たっても簡単に崩せないこともわかる。必要なのは魔術師としての技量ではなく、籠城する敵を攻め崩すときのような策というやつだよ。一番単純に、効率だけを求めるのなら」
メグは「何でもするわ」と言った。心から偽りなく、そう思っている力強さのある言い方だった。
「あの、僕にできることってありますか?」
「私もお手伝いできることがあるのなら」
アウルたちがせめて何かできないかと存在を主張すると、アーロンは「勿論、手が必要だ」と言った。けれど彼はあまり気乗りしないような、浮かない表情をしている。
「アントニオ氏からはお叱りを受けるかもしれんやり方だ。メグ嬢の身の安全も、宝石の無事も約束できないから、私としてはベストとは言えないのだがね。もっと慎重に吟味したいところなのだが」
「あら、折角アイデアがあるならそれを潰すようなことはしないわよ私」
「しかしメグ嬢」
「私はナルシスイセンを捕まえたいの。それが一番重要なことよ。そのためならこんな宝石の一つや二つ安いものだわ。これまでもっと沢山の高価な石を奪われ続けてきたんですからね」
パパにも文句は言わせないわ、とメグは笑った。か弱い少女であるはずのメグだが、商人の娘というだけのことはあるのか、肝が据わっている。
「時は金なりって言うでしょう。のろまがすぎてナルシスイセンに力をつける時間を与えるよりは、さっさと叩くほうがずっといい。さあ、私は何をしたらいいのかしら」
◆◆◆
マーガレット・エストレの持つ宝石を奪う。その予告状に書いた日付どおり、ナルシスイセンはエストレ邸を襲撃した。
別にエストレばかりを狙いたいわけでもないが、宝石を商売にしている彼らのもとには良質な魔宝石が集う。ナルシスイセンにとって必要なものは、ほとんどがこのエストレ家と縁があるものばかりである。
今回狙う宝石も、その存在を知ったのはたまたま噂を聞いたからだ。エストレの娘が常に身につけている赤色の宝石。紅い月に関係のあるその宝石ならば、紅い月をさらに成長させるための糧として最も適しているはずだ。まだまだ魔宝石が足りない中、より良い石を探し出し、力を蓄えることは大切だ。
警備の者たちが大勢配置されているが、そんなものはナルシスイセンの前では無意味であった。音を奏でて意識を奪えば全くの無力。エストレの連中は学ばないようだ。
屋敷中の人々を昏倒させて進めば、一番奥の部屋に、金の髪を持つ少女がいた。隣にセイジュローの顔もある。
二人とも苦しそうな表情をしているのは、ナルシスイセンの音に耐えられないからだろう。音の魔力を弾き返すだけの力もないのに、ただ精神力だけで立っているのだ。それだけは称賛しても良いが、それ以外に価値のない連中だ。
「おやまあ珍しい。いつもの小鳥くんたちは呼ばなかったんだね。それともいよいよ彼らも役に立たないと判断したのかな?」
「ナルシスイセン、お前……」
「セイジュロー、私はあんたの手を離れてから変わったのさ。より完璧な存在へとね。お前が望んでいたような、欠けたところのない人形というやつさ」
くすくすと嘲り笑ってみせても、セイジュローは歯を食いしばって耐えるだけであった。つまらない男だ。結局この男は自分の手で人形を生み出しても、ナルシスイセンより優れたものは作れないまま。魔族でもないから、マーガレットの護衛のつもりでここにいるのだとしても、ナルシスイセンの魔術の前では役立たずの木偶の坊だ。
「さて、か弱いだけのお嬢さんからは貰うものを貰わないといけないね」
「……何とでも好きにお言いなさいよ。私が素直に明け渡すとでも思っているの?」
「抵抗は無駄だと思うんだけれどねえ。私のほうが強いのだから」
マーガレットはさっと胸の辺りを押さえるようにして、じりじりと後ずさった。そこに宝石を持っていることは一目瞭然だった。音を強くしながら、ナルシスイセンは針金のような細さの、けれど人とは明らかに違う力強い手でマーガレットの腕を掴んだ。
そのまま、空いた手で彼女の首から下がるペンダントを引き千切る。か弱いだけの娘にろくな抵抗ができるわけでもなく、ナルシスイセンが突き飛ばすとマーガレットはそのまま派手な音を立てて床に倒れた。痛みに呻く声だけが聞こえる。
無害な小娘に構う暇はない。今回拍子抜けするほど手応えがなかった。やはりより良い魔宝石は、愚かな人々よりも優れた人形のもとにあるべきだ。ナルシスイセンは足早にエストレ邸を去る。一刻も早くこの宝石を紅い月に捧げなければ。
王都の複雑な路地を歩き、港への道を進む。真昼であれば人々が集う賑やかな場所も、夜は全く無人で静かである。人目につくことがないので、それが良いのだ。薄暗い路地裏の結界をすり抜けて、紅い月を隠している地下へと潜る。
ほんのりと赤い光を放つ、成長する宝石に、それと同じ組成の石を捧げる。紅い月はその魔力によって新たな石を取りこみ、同化していく――その時だった。
ピシリ、と嫌な音がした。何かがひび割れるような音。紅い月から聞こえてくるそれ。巨大な石に、稲妻のようなひびができている。何か異常が起きている――。
慌てて紅い月を確かめるために巨大なその石に触れると、さらにパキリと音を立てて、石に入った亀裂が大きくなっていく。強い魔力が一気に溢れ出し、ナルシスイセンの体を覆いつくすのと同時、結界に包まれていた空間がひどく耳障りな轟音と共に変化する。
否、それは変化とは言わない。結界によって歪んだ空間が、元のあるべき姿に戻ろうとしているのだ。このままでは忘れ去られたはずのこの地下空間が、世間の目にも触れてしまう。異常事態である、しかし何故。
「まさか、あの小娘の宝石――」
奪ってきた宝石を紅い月に食らわせた途端これだ。原因はあれだ。そうとしか考えられない。あれに何か細工がされていたのだ。あの小さな、捕食されるだけにしか見えなかったあの石が毒だったのだ。
「よくもあの小娘ッ」
ナルシスイセンは地上へ再び戻ろうと踵を返した。だが、それより先にこちらへ近づいてくる足音があるのに気が付いた。上から誰か降りてきている。
薄暗い地下空間を照らす松明の灯り。影が見える。よく見慣れた者の影だ。
「――忌々しい鳥どもめ」
腕から翼の生えた子供と、白銀の騎士。ナルシスイセンの邪魔をする煩わしい連中が、そこにいた。




