第二十一話
どうやらナルシスイセンはまだアウルたちに気が付いていないらしかった。気づかれてはならない。アウルは息を殺して、腰につけた鞄を探った。そこに小瓶がある。アウルがアーロンに教わって作った姿を消してしまう薬が。
アウルはそれをナイトオウルに振りかけた。彼に触れることで、声を出さずとも心を伝えることができる――どちらか一人だけでも隠れていられれば、隙を突ける。アウルの心を読む魔術は、こういうときには便利なものだ。ナイトオウルがアウルに心を隠すつもりがないから、意思を伝えるのには一番適している手段だった。
薬を振りかけたナイトオウルに消えろと念じれば、みるみるうちに薬の効果が現れて、ナイトオウルの姿を見えなくしてしまう。その間にも、ナルシスイセンとコバルトブルームの対話が聞こえてくる。
「沢山のものを見てきたね、コバルトブルーム。よく理解できただろう、きみは救われないんだってこと」
コバルトブルームはただ静かに目を伏せる。沈黙は肯定に等しい。彼自身、ナルシスイセンの言葉に納得してしまっている。
「この世界は醜いもので溢れているよ。優れたものだけが恵みを得られるようにできている。それは人だって人形だってそうさ。より美しく、より良い能力を持った者だけが世界に認められるのさ」
「欠陥品は打ち捨てられるか、安く買い叩かれるだけ……」
「そうとも、能力がなくて世間から弾きだされた醜い人々が、哀れな子供たちに物乞いをさせている。見世物小屋では欠陥品が出し物として並び、それを嗤うために醜悪な連中が集う。それでも客引きにすらならないようなクズは捨てられるだけ。人も人形もそう――たとえば役立たずの人形がいれば、飢えた人々がそれを壊して、パーツをばらばらにしてジャンクとして売り飛ばす。それを買うような金のない技師に作られた人形は、継ぎ接ぎの体の欠陥品ばかり。皆動かなくなるまで奴隷のように働くだけで、そこには誇りも何もない」
饒舌に語る言葉はまるで演説のようで、心を揺さぶるのに適した言い方を選んでいるかのようだった。それ自体は全くの嘘というわけではない――何故ならアウル自身、かつてはそうした、弱者として身をやつしていた過去がある。
だが、ナルシスイセンの言葉にはどこか違和感がある。世界の真実を語るようでいて、されど素直に納得できないのは何故か。
(ナルシスイセンは、嘘をついている)
話そのもの全てが嘘というわけではない、だが、真実の中に嘘が混ぜられている。アウルにはわかった。直感的なものだけれど、ナルシスイセンがただ本当のことを語っているだけなら、コバルトブルームを脅す必要はないのだ――きみは救われないなどと。
コバルトブルームに救いがないはずがない。何故ならコバルトブルームは孤独ではないからだ。作り手であるセイジュローが、ずっと使っていくために作った道具なのだ。それが大切にされないはずはない――セイジュローは作りたい人形を作るために仕事をしているのであって、コバルトブルームは作りたくて作った人形そのものなのだから――!
「私も、欠陥がある……心に欠陥を持っている、から、いけないのか」
「そうだよ。そしてそれだけじゃない。私の助手すらろくにできない能無しでもあるんだよ、きみは。だからやっぱり、きみは滅びるしかないんだ」
忌々しいナルシスイセンの詭弁が並べられるのは、気分が良いものではなかった。けれど今のコバルトブルームに冷静な判断はできなくなっているらしい。ナルシスイセンの言葉に操られるように頷くだけで、そこから何も行動しようとしない。ナルシスイセンが近づいてコバルトブルームの核となっている魔宝石に触れることへも、何の抵抗もしない。
まずい、と思ってアウルが飛び出す。けれど一歩遅かった。ナルシスイセンの細い指が、コバルトブルームの中で輝く宝石を引き抜く。
そのとき、ナルシスイセンの目がアウルを見た。
「おや――こんなところで会うとはね、小鳥くん?」
「ナルシスイセン……! コバルトブルームの魔宝石を返せ!」
「これは私が彼から譲り受けたものさ。私の言葉に踊らされるような弱い心を持った彼が、譲ってくれた」
「譲った? 違うだろ、お前は誘導したんだ。コバルトブルームの心を傷つけた」
「ふふ――いかに優秀な能力を持とうと、それを活かせるだけの器量がないのではやはり欠陥品と言わざるを得まいよ」
そのまま踵を返して去ろうとするナルシスイセンだったが、不意に地面に倒れ伏す。ナルシスイセン自身何が起こっているのか理解できていないようだったが、暫くすると隠れていたものが姿を現す――そう、先程アウルの薬をかけられて透明になっていたナイトオウルだ。ナイトオウルがナルシスイセンの足を引っかけて倒したのだ。そのままナイトオウルはナルシスイセンの上に伸しかかり、コバルトブルームの宝石を奪い返す。
「こいつは返してもらうぞ、薄汚い盗人め」
「最悪な気分がするよ、全く――陰湿な手を使うものだね。そいつは私が貰ったものだぞ!」
騒ぐナルシスイセンを無視して、ナイトオウルが宝石をアウルのほうへ投げた。煌めく宝石を無事に掴んだアウルは、それをすぐさま腰につけた鞄に仕舞った。コバルトブルームへ戻してやりたいところだが、生憎とアウルには修理に必要な専門の知識が足りない。専門の知識なら、コバルトブルームの制作者であるセイジュローが一番詳しいはずである。
力なく倒れるコバルトブルームを背負って、アウルはその場から離れようと歩を進める。ナルシスイセンがくつくつと嗤う。
「無駄だよ、たとえ直したって、そいつの心は脆すぎる」
「何とでも喚いていろ。エコール・ナルシスイセン、貴様には聞きたいことが山ほどある、大人しく捕まるがいい」
「そればっかりはできないなあ、私にはまだやりたいことが山ほどあるからね」
ナルシスイセンが身を捩り、それをナイトオウルが抑え込むが、力いっぱい暴れられては完全に組み伏せるのは容易くない。一瞬、二機の間に空間ができたのを、ナルシスイセンは見落とさなかった。その隙間に足を入れて思いきりナイトオウルを蹴り上げ、拘束を逃れる。金属が擦れる音が耳を衝く。
「しまった!」
ナイトオウルはすぐさま体勢を立て直して再びナルシスイセンを捕まえようと手を伸ばす。だが、次の瞬間、ひどく歪な音が辺りに響き渡る。音の衝撃が伝わって、ナイトオウルはその振動に呻いた。その場から少し離れたアウルですら、思わず足を止めて耳を塞ぐほどの異様な音だ。何か旋律のようで、けれどその響きはざらざらと嫌なノイズが混ざり、また不協和音のような不気味さを奏でている。
「ああっ私の体に傷! ホーンに傷がっ! 最悪、最悪だ!」
音の主であるナルシスイセンは何やら喚きながら、ふらふらとその場から離れていく。けれどそれを追いかけようにも、音はむしろ強くなる一方である。制御の効く範囲を超えて能力を使っているようにしか見えない。ナイトオウルでも易々と近づくことは難しい。
「最悪、最悪、最悪――……! だが今日のところは引き下がってやる、戦闘用のきみなんかまともに相手するわけにはいかないからね、畜生、許さないぞ……いずれ報復は必ず……」
ぶつぶつと呪詛を吐きだしながら、ナルシスイセンが去っていく。ナイトオウルは自分の後ろで破滅の旋律に苦しむアウルを見て、彼を守ることを優先した。深追いするよりこちらのほうが大切だ。宝石は既に取り返している。
◆◆◆
アウルたちの追跡を逃れて、ナルシスイセンは行く当てもなく、人気のない路地を進む。これまでも傷ひとつ負わずにきたわけではない、修理する術は心得ている。だが、落ち着ける場所が必要だ。どこか、誰の邪魔も入らない、静かな場所で休息しなければならない――。
音を操る人形として作りだされたナルシスイセンにとって、音を響かせるためのホーンに傷がつくのは並ならぬ屈辱であった。白銀のナイトオウルを思い返すたびに腹立たしさがこみ上げるけれど、今は耐えなければならない。まだナルシスイセンは、完全な状態ではない。
どこをどう通ってきたかもあやふやであった。気づけば元いた場所からは随分離れていた。十字時計のオブジェが影を作っているが見えて、それすら腹立たしく思える。ベエル神など所詮は人が都合よく作りだした幻影に過ぎず、救いの手が差し伸べられる相手は一部の人々だけと決められているのだ。ナルシスイセンは切り捨てられる側にいる。
ふと自分の他に歯車が軋むような音がして、そちらに注意を向ける。そこにいた人形と目が合った。
「お前――ナルシスイセン?」
丸みを帯びたラインが女性らしさを思わせる、されど鎧を着た騎士にも似たハーピィ・ハーピストルがそこにいた。どうやら彼女の縄張りに近づいていたようだった。ここは教会の敷地のすぐ傍だ。
「カリタス神父には手を出させないぞ」
「ふ、ふふ……きみの主なんか興味はない。しばらくぶりだねえハーピストル、結局きみときたら奴隷根性が染みついているようだ。人のために生きるなんて」
「……コバルトブルームに何かしただろう。彼は無事なんだろうな」
「そう怖い顔をするなよ。やつが壊れるとすれば、それはやつに欠陥があるせいさ」
ナルシスイセンの言い回しはハーピストルの気に障ったようだったが、それを本気で恐ろしいとは思わなかった。彼女の駆動音をよく聞いていれば、以前よりも軽くなっていることくらい察しがついた――彼女は今、軍にいた頃の武器を持っていない。戦う術がない彼女は、ナルシスイセンの脅威ではない。尤も消耗しているナルシスイセン自身も、まともに戦える状況ではないのだが。
「きみも哀れだよねえ。戦うために作られて、でも今はそれを取り上げられてしまったわけだ。きみの音を聞けばわかる」
「わたくしには必要なくなっただけのこと。お前にあれこれ言われる筋合いはない」
「今からでも遅くはないんだよ、ハーピストル。人に従わされるだけの生き方なんてくだらないだろう。きみの魔宝石の魔力は限りがあるが、その限られた時間の中で、より有意義な選択を取ることはできる」
そうだ。ナルシスイセンはそれを選んだ。本来の所有者から捨てられているハーピストルもまた、ナルシスイセンと同じ道を進めるだけの理由はあるはずだ。
だが差し伸べた手が取られることはなかった。「何か勘違いしているようだな、ナルシスイセン」とハーピストルは静かに言った。
「わたくしは人に従っているのではない。人と共にあるのだ。お前が捨ててしまった希望を、わたくしはまだ持っている」
凛とした声がそう言い放つ。決して手を取り合うことはない。ナルシスイセンが人であったなら、溜息をついていたであろう返答だった。
「そう、つまらない生き方をしたがるんだね」
「わたくしはお前と違って孤独ではないからな」
「理解できないよ、私には」
「そうだろうよ、お前には」
わかりあうことはない、そういう意味を含んでいる。残念な話だった。ハーピストルの美しさは正直なところ気に入っていたのだが、どうにも、ナルシスイセンの誘い文句では上手くいかないらしい。
かつてのように改めてハーピストルを襲ってもいい。だが、気分は乗らなかった。今更魔力の枯渇しているハーピストルの魔宝石を奪ったところで、ナルシスイセンにとってはほとんど足しにならない。
ナルシスイセンはハーピストルに背を向けた。人に縛られる哀れな人形にいつまでも構っているわけにはいかない。どこかに隠れて、早くホーンを直さなければならない。
戦う手段を持たないハーピストルは、無理にナルシスイセンを追ってくることはなかった。都合が良い。追ってくるのなら無理をしてでもハーピストルを壊さなければならないところだった。そのために魔力を無駄に使うことは避けたかった。
「わたくしには、お前のほうがよほど哀れに見えるよ、ナルシスイセン」
後ろから何か言われた気はしたが、そんなことで歩みは止められはしない。




