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きみの黄泉路に花はない  作者: 味醂味林檎
プロローグ
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プロローグ2

 オルタンス夫人に猫を返したあと、アーロンは少年を連れて王都のエルド大通りにあるフェアファクス探偵事務所へと戻った。正確には自宅兼事務所であり、築五十年のレンガ造りの建物だ。何度かリフォームを繰り返しているためさほど古くは見えない。


 アーロンは少年を部屋へ招き入れると、タオルを持たせて風呂へ放り込んだ。

「えっ」

「体を洗え。きみの服は適当に見繕ってくる。さっぱりしたら飯にするぞ」

 アーロンはそう言い残して、一直線に寝室へ向かった。クローゼットのどこかに、何十年か前に着ていた服があったはずだった。あれは魔術品で、持ち主の体に合わせて伸縮する服だから、着れないということはないはずだった。そういえば、下着や他のものも用意がいる。彼が寝る場所もどうにかしなければ――もう、アーロンの頭の中では、彼をここへ住まわせることが決定事項だった。


 一方、風呂場に残された少年は、困惑した表情でタオルをしばらく見つめてから、大人しくアーロンに従うことにした。久々に浴びるまともなシャワーは温かく、思わず溜息が漏れたけれど、それは流れる水の音が全部消してしまった。


 ――それから。


 少年が風呂から出てくるのを待ち構えていたアーロンは、作ったばかりの温かいタマネギのスープと、パンに玉子とベーコンのスライスを乗せたものを出して、食事を促した。アーロンはありあわせだと言ったが、少年にとってはシャワーと同じで、久々にありついたまともな食事だった。虫がたかる腐りかけの残飯ではなく、出処が怪しいものでもない。


 きちんと食器を使うということ自体が久しぶりすぎて、彼の食べ方はあまり綺麗ではなかったが、アーロンは「飯は逃げないよ」とだけしか言わなかった。ひととおり食べ終わるのを見計らって、アーロンは書類をテーブルに広げた。きちんと整ったタイプライターの文字だ。


「……なんですか、それ」

「雇用契約書だ。きみを雇うと言っただろう」

「契約書……ほんとうなんだ」

「本当だとも」


 きちんと目を通せ――アーロンが言うと、少年はぎこちなく書類に手を伸ばした。だが、全く目が動かないのを見て、アーロンは思い当たった。そういえば助手を雇おうと思って書類だけ作っていたけれど、子供にわかりやすく書いてあるものではなかった。それも、路地裏暮らしをしていたような子供には、どれほど読めるものかもわからない。


「……決して高い賃金とはいえないかもしれないが、毎月給料を払う。最初の月は日払いでもいい。家がないなら、此処に住めばいい。ここにあるものは自由に触ってくれて構わない。食事は出そう。わからないことがあれば今のうちに言ってくれ。答えよう」


 少年はそれを聞くと、やっと目を動かし始めた。言われた意味と、書いてあることを照らし合わせているのだろうか。だとすれば彼は読み書きはそれなりにできるのだ――教養がないわけではないということだ。そして読み終わった彼から出てきたのは「どうしてここまでしてくれるんですか」という純粋な疑問だった。


「僕はあなたにとっては素性が知れないやつだ」


 会ったばかりで、互いのこともよく知らない。そんな相手を――路地裏で暮らす薄汚い子供をわざわざ選んで雇わなければならないほど、労働力の不足している世の中ではない。アーロンは風呂も食事も提供し、これからもそうすると言っている。


 実際、本当はアーロンとて、最初は放っておくつもりだった。だが、どうにもそれができず、結局連れ帰ってしまっただけだ。それと、彼の魔術の才能は、使えると思った。手の届くところにいてくれたら都合がいい――決して善意だけではない。


「嫌だったかい」


 誤魔化すようにそう問えば、少年は横に首を振った。だが、そう簡単には流されてくれないようで、何故ですかともう一度言った。


「僕、探偵の仕事なんてわかりません。魔術だってよくわからない……」

「最初から全部できる者なんかいないさ。必要なことは教える。きみには見込みがあるよ」


 目の前で猫との心の対話を見ている。この気持ちは本当だ。豊かな魔力を持っているのは、その怪物的な外見からわかることだ。無意識に魔術を完成させてしまうくらいだから、きちんと学べば伸びるだろう。

 まだ納得しない様子の少年に、隠すほどのことでもないかと、アーロンは打ち明けた。


「正直な話をすれば、きみを見ていると生き別れた兄弟を思いだす」


 離れ離れになって、もう何年も経っている。もうこれから一生、二度と会えないかもしれない兄弟だ。別れるときに不安げな目をしていた家族と、少年は重なってしまうのだ。

 いくらでも理由をつけようと思えばつけられるが、どうしたって偽善は偽善だ。何をどう言い訳しても、アーロンは自分のために、少年を連れだしてきたにすぎない。


「幻滅したかい」


 優しいだけの大人ではなくて、という意味を込めて問えば、少年はまた首を振った。

「いいえ……誰だって、そういうことはあると思うし……」

「助手がいるというのは本当だ。最近は探偵社から寄越される仕事が増えている」

「そう、ですか。僕で役に立てるなら、その、ここに置いてくれるんです……よね……?」

「勿論だとも」

 はい、と少年が頷いた。今までどこか暗く、張り詰めたようなところがあったが、ここにきてようやく少年が緩く笑った。


 ――やはり子供とはこうでなくては。未来ある子供は、明日を信じて笑っていなければ。


 だが、少しばかり素直すぎるようでもある。あのようなところで暮らしていたにしては、アーロンにあっさり着いてきたのだから、警戒心が足りていない。

 そう感じたときには、口から滑り出ていた。

「きみは……私のことを疑わないね。もっと警戒されるかと思っていたが……いや、信じてくれるのは嬉しいことだが」

「ミリィがあなたのことを大丈夫だって言ってたから」

 ミリィとはあのオルタンス夫人の猫のことだ。彼は動物の心がわかる。それで十分信用に値すると判断したということか。


「動物は嘘をつかない」

「成る程」

「あの子はあなたの抱き方が下手だって」


 もしやいつも暴れるのはそれが原因だろうか。そうは言われてもどう改善すればいいかさっぱりわからないが、少年の言葉には不思議と信憑性があった。アーロンは頭を抱えた。

 そして、その時ようやく気が付いた。


「そういえば、きみの名前は何という」


 自分は名乗ったが、彼の名を聞いていない。探偵としての基本的な情報収集であるはずが、それすらろくにできていないとは、どうやら随分動揺してしまっていたらしい。

 少年は呆れたように、しかしどこかおかしそうに「今更ですね」と言った。それから、契約書の下のほうの空欄にサインして、アーロンに見せる。



「――アウル・アシュレイ」



 決して綺麗な字ではなかったけれど、それほど汚くはない読みやすい字で、名前があった。

「アウル……そうか、ならアウル。署名の意味はわかっているか?」

「ここに置いてもらう代わりに頑張る」

「よし」

 彼の言葉ではかなり簡略化されているけれど、要点は理解しているようだ。アーロンが少年――アウルの頭を撫でる。アウルは少しばかり身を強張らせたけれど、すぐに気を緩ませたようで目を細めた。子供らしい顔つきだ、とアーロンは安堵の息を漏らす。


 ともかく契約は成った。これから此処で暮らさせるのだから、まずは入用なものを揃えなければ。衣食住揃ってこその文化的な生活なのだから。




◆◆◆




 探偵事務所の屋根裏部屋が、アウルの部屋になった。


 本当は別の部屋に寝床を用意しようという話だったのだが、屋根裏の小窓から見える景色が好きだというのでそう決まった。

 元々物置のように扱っていたから埃だらけだったけれど、一日かけて掃除をすればなんとか生活できるようにはなった。アーロンが昔使っていた古い家具や毛布をそのまま利用する形で、アウルはそこに住みつくことになった。


 アーロンはアウルのために色々と手を尽くした。アウルが此処で暮らすために必要な書類は全部アーロンが用意したし、アウルが借金取りに追われていることを知ると、弁護士の伝手があると言って、よく知らないうちに借金問題を全部片付けてしまった。


 ――もう追われる生活はしなくていいのだ。


 その中でいくらかアーロンの懐から金が出ていったことは流石にわかった。アウルは本来当事者だったのだから。アーロンは「働きながら返してくれ」と言って、またアウルの頭を撫でた。


 もう、前のような、ただ惨めなだけの生活ではなかった。アウルには探偵の助手をするという真っ当な仕事があり、屋根のある家で眠ることができ、乞食をしなければならないこともなくなった。


 その分新しいことを沢山覚える必要があった。事務所のどこに何があるという第一歩から。新聞は毎日読むこと。探偵の客以外に魔術師としての客もくるから常連の顔は頭に入れておくこと。あの薬草棚には毒薬もあるから、触るときは確認を怠らないこと。どこか出かけるとき遅くなるようなら事前に伝えること。


 近所のどこにどんな建物があって、どんな性格の誰が住んでいるというようなことも、教えてくれとさえ言えばアーロンは何でも教えてくれたが、それにしても、まるで環境が変わると何もかもが目新しい。


 驚いたのは、アーロンがかつて軍医だったということだった。魔術師をやっているというからそのつもりでいたアウルだったが、何かと王国軍の関係者が訪ねてくるのが気にかかって指摘すると、そのような答えが返ってきた。


「もうとうの昔にやめたがね」

「なんでやめちゃったんですか」

「お堅い軍人どもに囲まれて過ごすのは疲れるものだよ。しかもあいつらときたら、私の専門は人体だと言っているのに話を聞かない。何度自動人形(オートマター)の修理をやらされたことか。今でも持ってこられることがあるくらいだ」

「自動人形?」

「アウルは知らないか? 人に似せて作られた、人に寄り添う道具のことさ。魔宝石の魔力で動く機械だよ。武器も人の形をしているほうが便利だからと軍ではよく使われている」


 ちょうど新聞にも載ってるぞ、とアーロンに言われて記事を覗き込むと、自動人形の技師が作品と一緒に映っている写真があった。宝石を魔力炉にする道具で専門の技師たちが腕を競っている、という一文が添えられており、高級品なのだと考えなくともわかることだった。そんな高級品ならば、前の生活で見かけなかったのも不思議な話ではない。


「大量生産の工業製品でも安くはないからな、こういうのは。売るなら売るでメンテナンスまで面倒みてやれという話なんだが、まったく」

「……アーロン先生そういうものの修理もやってるんだ。先生って何でもできるんですね」


 何でもやらされたからな、とアーロンは言った。アウルはそのようなものかと思ったが、いまひとつよくわからなかった。




 アウルの役目は事務所に訪れた客の取り次ぎをすることと、探偵社から振り分けられる仕事の処理が主となった。斡旋される仕事は、大抵が恋人が浮気をしていないかという素行調査や人探し、ペット探しといったもので、どうしても難しいもの以外はアーロンの助けを借りながらでも、アウルが担当についた。別に華々しいものではないけれど、アウルはそれでも楽しかった。此処ではアウルは他の誰かと同じように、人として生きていける。


 それに、調べものをするというのはどうにも性に合っている。薄暗い場所へ入るのだって、元々路地裏暮らしで今更嫌がるようなことでもない。


 以前アーロンから聞いたような自動人形もときどき見る機会を持ち、ここへ来るまで関わることのなかったような人々とも交流しながら、アウルは少しずつ、新しい生活に馴染んでいった。




 少年は成長する。過ごした時の分だけ、着実に。そして流れた時の分だけ、世の中も変化する。かつて少年が過ごしていた場所も、新しい工場の建設のために元の建物がいくつも取り壊され、最早面影すらなくなっている。


 蒸気機関の発達も著しい。


 元々人間が発明した蒸気機関だけれど、いつからか魔族の扱う魔術と人間の技術を組み合わせるようになってさらに盛り上がったという歴史がある。この国に人間は多くないけれど、空に浮かぶ豪奢な飛空船を設計したのが人間で、その燃料には魔族が研磨した魔宝石が使われているのだと新聞に載るようなことは珍しくない。大量輸送はより効率的になり、市場には遠くからも食材が運ばれてきて、また外から新たな文化を持ちこむということも当たり前となってきた。


 技術の発展は生活を豊かにし、同時に新しい問題も生まれ、かつてはなかったような犯罪も増えてきている。


 アウルが探偵事務所で働くようになって三年が経つ頃には、王都では魔宝石を狙う自動人形の怪盗の話題でもちきりとなっていた。

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