第九話
メグからの連絡を受けて、ホールの乗客たちの避難は既に始まっていた。だが当のメグはアウルと共に展望室に閉じ込められてしまい、そこから脱出できていないのを知ったアントニオはひどく焦燥していた。
かといって、娘を助けにいくわけにもいかないのだ。エストレ商会の会長として、彼の代わりになれるものはおらず、娘のために走ろうとしても部下たちが止める。
アーロンとて愛弟子のアウルがそこにいるというのに自分だけ逃げるというのは不本意だ。だが、どうしようもなかった。ここにはあの崩れた柱をどうにかできる道具はないし、迂闊に触って船の崩壊を速めることになれば、それこそ多くの乗客の命が危険に晒される。
誰も多数のために、大切な少数を切り捨てたくはない。彼らが自力で脱出することにかけて先に行くというのは、本当に苦渋の決断だ。
アーロンはアウルたちのことを案じながら、乗客たちがパニックを起こさないよう宥める役に回っていた。船員たちも多くいるが、大勢のゲスト全員を相手にするには限界というものがある。少しでも手伝ってやらなければと思うのは、アーロンが雇われた者だからということもある。
順々に転移魔術装置を使って、それが繋がる王都へと人々を送りだしている中、アーロンはふと一人の少年に目がいった。アウルとちょうど同じくらいの年頃の、古い友のバーレットが探偵事務所に連れてきた仲間――クラフトだ。
彼は避難を促す声などまるで無視して、部屋の隅から動こうとしなかった。よく見れば、彼の傍には、鎧のようなものがある。
アーロンが近づくと、クラフトは振り返ることもなく「もう少しなんだ」と言った。
「もう少しで完成する。きっと傑作になるはずなんだ……最高の、自動人形になる!」
クラフトの目に映るのは、その鎧――作りかけの人形だけだった。アーロンや他の誰かの声など、まるで聞こえてもいないし、聞く気もない。ただひたすら手を動かしており、熱の籠った瞳はどこか狂気的ですらある。
困り果てた様子の船員に、アーロンは他を優先してくれと頼んだ。
「彼のことは私が面倒を見よう」
王国軍の連中は変わり者が多いんだ、とアーロンは心の中で呟いた。言っても動かないのだから、付き合ってやるしかない。最悪クラフトの作業が終わりそうになければ、殴ってでも連れて行けばいいだけだ。全ては命あっての物種であり、アーロンの手が届くところにある命ならば、救わなければ嘘である。
クラフトは脇目もふらず、ひたすら自動人形を組み上げていく。鎧のような体、兜のような頭。それぞれの関節を繋ぎ合わせ、魔術式を刻みつけた紅に輝くガーネットを人形の胸に埋め込む。動力装置と石が繋がれ、人形に魔力が流れていく――。
「クラフトくん、そろそろ来い」
船の傾きが徐々にひどくなっていく。限界だと判断したアーロンは強引にクラフトの腕を掴み、転移魔術装置へと引きずっていく。
その間もクラフトは人形のことを諦めきれず、まだ手を伸ばそうとしていた。それを作り上げるのに相当の金を費やしているはずだし、時間をかけているなら思い入れも相当だろうが、アーロンは歩みを止めてはやれなかった。道具はまた作れるが、人の命に替えは効かない。
転移魔術装置によって別の空間へ繋がる穴に引きずり込まれながら、クラフトは叫んだ。彼にしては珍しく、感情的な声色で。
「目覚めろ、俺の人形よ! 俺の友達を連れてこい――!」
それと同時、傾いた床に横たわる人形の兜の奥で、硝子の瞳が煌めいた。
◆◆◆
メグは展望室に備えられた椅子に引っかかっていた。床から離れないようにとりつけられているのが幸いして、それ以上動くことはない。だが不安定な状態なのも確かで、アウルは崩れて散乱した鉄のパイプに足をかけながら、メグを抱き起こした。
「大丈夫、メグ?」
「え、ええ……でも、一体どうしたら」
上の階へ上がるための階段へ続く道は塞がれてしまった以上、閉じ込められているに等しい。割れた窓からは風が入りこんでくるが、一歩間違えばそこから転落しかねない。
「反対側から行けないかな」
展望室の出入り口は二つあった。階段が近いほうは塞がれてしまったが、逆側からなら出られるかもしれない。そう思い出口へ近づこうとするが、次の瞬間にはぎいと嫌な音がして床が割れた。大きく穴が空いたそこを飛び越えていくには、少しばかり距離が遠すぎる。
「……やめよう」
「そうね、懸命だわ」
「転移魔術装置は他にはないの?」
メグは「だめ……ホールの傍にあるのと、あとは三階の客室傍にあるものだけなの」と力なく首を振った。
中から移動できないのなら外からだが、足をかけたり掴まったりできる場所もない船でそれは無茶な話だ。
「他に脱出する方法は何かないかな……」
船は一番大きな魔宝石を失い、徐々に高度を落としている。それも少しずつ加速している。船体が傾いているだけでなく、ナルシスイセンの細工でいつ崩壊するかわからないような危険な状況だ。船の真下は海だが、海面に叩きつけられて壊れるか、あるいはそれより先に船がばらばらになってしまうかどちらだろう。どちらにせよ、このままここにいては命はない。
ひどく荒れ果てた展望室を見渡す。倒れた柱や、割れた窓硝子が散らばる中、使えそうなものがないか探す。あの道を塞いでいる柱をどうにかできれば一番いいのだが。
「……アウルくん、諦めないのね」
「諦めるもんか。二人で生きて王都に帰らなきゃ」
だって死にたくないだろ、とアウルが言うと、メグはそんなことは初めて考えたというような顔をした。かつてその日暮らしをしていたアウルと違って、明日の心配がいらない生活をしているであろうメグならば、その反応は何らおかしなものではなかった。しかし今は、メグもまた過去のアウルと同じように、明日を願い、そのために頭を使わなければならない。
メグは僅かに目を伏せて「そうよね」と呟いた。その目には生を望む輝きがある。
「そうよ、私、まだ死ねないわ。やりたいことたくさんあるし、エストレの娘として、諦めちゃいけないわよね。こうしてこの船の避難経路の問題も発見したわけだし、次に造船するときはその辺りもっとじっくり詰めておかないと」
「良い顔してるよ、メグ」
「私はいつでも可愛いメグよ」
気丈にそう言って、メグもアウルと共に辺りに何かないか探す。まだ死んでいないのだから、最後まで足掻くのみだ。
「ここから逃げ出すとしたら、あの柱をどうにかするか、パラシュートみたいなものを作って外に出るか、ってところか。それか、衝撃を緩和できるシェルターみたいなものを用意できたらと思うけど……大きな布とかロープとか、それかあれを壊せるハンマーみたいなものでもあったらな」
「布は……ホールには大きなカーテンがあったんだけど、ここは景色を見る場所だから、そういうのないのよね。絨毯はあるけど、捲って使うにはちょっと重たそうね」
展望室の床の大部分は絨毯に覆われているが、凝った柄の絨毯はしっとりと床に張り付いており、剥がすのには一苦労しそうだった。今はあまりあてにできなさそうだ。
「このパイプはどうかしら。これで叩いたらあの柱、ちょっとくらい壊せない? それとも重くて使えないかしら」
「これくらいなら大したことないさ。試してみよう」
パイプ自体は途中で千切れていることもあって、そう重いものではない。だが、足場が足場なだけにいまひとつ踏ん張りがきかない。慎重に倒れた柱へ近づき、パイプを振りかざして壊せそうなところを狙って殴りつけるが、思ったほどには壊れてくれなかった。力を入れて振るっても、期待するほど大きな衝撃とはならないのだ。この調子では出られるより墜落するほうが先だ。
殴って壊すのが駄目なら、上手く引っかけて崩せないだろうか。パイプの曲がったところを隙間に入れて、アウルは梃子のようにパイプを使って崩れたものを持ち上げようとする。だが、それが上手くいくより先に、また船全体に響くような轟音と揺れがあって、アウルは体勢を崩した。
己の無力を呪っても始まらないので、また次の手を考えなければならない。かといって悠長にしていられるはずもなく、焦りばかりが募っていく。
「柱を壊すのは難しそうね。一応聞くけど、アウルくん、羽があるわよね。空を飛ぶ魔術が使えるとか、そういうことはないの?」
「僕は色々修行中なんだ。まだ一度も飛べたことがないけど、それに賭けてくれるんだったら飛ぶよ。うん、ほんと一度も飛べたことはないけど、もしかしたら命の危機で本気を出せるかもしれないし」
「……ちょっと考えさせてもらえる?」
「覚悟するなら早いめにね」
そう答えるものの、アウルとて本当に自信はない。他に縋れる手段がありそうならば他を当たりたいのが本音である。やるとすれば全力で取り組むが、練習ですらできたことのないことが本番でいきなりできるようになるというのはまず天地がひっくり返るような事態でもなければありえない。それが道理だ。
(鳥たちが近くに来てくれたら少しは楽だけど……)
アウルの能力があれば、動物と対話ができる。それを利用して鴎たちに力を借りれば、もしかすれば上手く落下の衝撃を和らげる手伝いをしてもらえるかもしれない――が、船が飛んでいる高さは鴎たちが普段いるところよりずっと高く、そうでなくとも壊れて墜落しようとしている危険なものへ好き好んで近づいてくる鳥などいるはずもない。
「アウルくんが飛べないっていうならシェルター案を採用したいところだけど、それらしいものって全然ないわね、ここ」
「硬そうなものは椅子くらいか。クッションになりそうなものはなさそうだ」
「みんなもう逃げたかしら。こんなに切羽詰まってるのは私たちだけね。悪夢でも見てる気分」
「悪夢なら覚めてくれるはずなんだけどな」
床や天井が軋む音がする。割れた窓にもさらにヒビが入り、強い風が吹き込んでくる。
「やっぱり飛ぶしかないか……!?」
それで助かる見込みがあるかといわれるとほぼほぼ絶望的ではあるけれど、行動を起こさなければ決して助からない。メグは「大丈夫よ、最悪でもひとりぼっちじゃないわ」と言った。何と言うか、何の慰めにもならないが、やるしかない――アウルはメグの肩をしっかりと抱いて、メグもまたアウルにしがみ付くように、腰に手を回した。
その時だった。船が蒸気を噴き出すのとは別の、風を切る音がする。
「こ、今度は何?」
「外に何かいる」
傾いた船から滑り落ちないように気を付けながら外を覗く。
そこにいたのは、白銀に煌めく甲冑だった。
「お迎えに上がりました」
恭しく礼を取る鋼鉄の翼を持つ騎士。その背にはエンジンらしきものを背負っているようで、それで飛ぶことを可能としているようだ。兜の奥には一つだけ赤く光る硝子の目を持っており、それが真っ直ぐ、アウルたちを見ていた。
「どうやら悪夢は覚めそうだよ、メグ」
それの正体が何なのか、アウルは前から知っていた。クラフトがこの船へ持ち込んでいた、あの棺の中の人形――ナイトメア・ナイトオウル。いつだったか彼が言っていたように、この状況を打開して――悪夢を斬り裂いてくれそうだ。




