プロローグ1
――誰一人として他に自分と同じ人物が存在しない以上、いつだって不平等はある。
ひどい、掃き溜めに僕はいた。
それ以外に適切な言葉がない。金はない。屋根のある家もない。寝る場所はいつだって薄暗い路地の奥で、建物と建物の間から見上げる空はいつだって切り取られた狭く薄汚れた青だった。
食べるものは市場から盗んでくるか、残飯を漁るしかない。そうでなかったら、裕福そうな誰かに物乞いをする。自分がどんなに無様で惨めでも、頭を下げて泣きつけば誰かが何かを恵んでくれるかもしれない――それは結構重要なことで、どれだけ下賤に成り下がっても食べ物にありつくためなら媚び諂うことに躊躇いはない。
僕と似たような奴らは沢山いた。僕より年下の子供だっていたけれど、多くは家族がいるからまだましだった。僕は違った。両親とも僕を捨ててどこかへ姿を晦ませてしまったからだ。
仕方がない。仕方がないことなのだ。両親には金がなかった。父は稼ぎが良いわけじゃなかったし、母は金もないのにどこか奔放でやりくりが下手だった。学校へは通わせてくれたけれど、その金の出処は教育を推奨するこの国であって、それも充分というわけではなかった。筆記用具が足りないからとねだっても買ってもらえないし、教科書だって人のおさがりで擦り切れたようなものしか持っていなかった。それでも新しいことを知るのは楽しかったから、学校の図書館に入り浸って色々な本を読んだものだった。親が当てにならないから、学びは自分でどうにかするしかなかったのだ。
大体、親にとって子供とは唯一とは限らない。だから僕が切り捨てられたのも、仕方のないことだ。だってあの人たちには、子供っていうのはまた作れるものなのだから。僕という存在は、替えの効くものでしかなかった。
両親が残したものといったら、古ぼけたブランケットと、借金くらいのものだった。たぶん彼らはもう僕を迎えに来ることはないだろう。養えないから捨てた連中だ。そんな連中がいつか金持ちになって迎えに来るだなんて、信じていられるほど僕は純朴ではなくなってしまった。
とにもかくにも先立つものが本当にない。当然の話だが、のうのうと学校に通い続けるなんてできなかった。
本当はもっと色々なことを知りたいという気持ちもあるが、それどころではないのだ。安アパートにいた頃は毎日毎日、金のために大人達がやってきた。売れるものは家具や服なんかもほとんど全部売って、大事にしていた教科書も何もかも手放した――けれど、家賃の工面もすぐにできなくなってしまったし、借金の取り立てが恐ろしくて逃げ出した僕は、たぶん、この界隈でも最底辺か、それに近いところにいるのだろう。未だに大人達が僕を探していると、ときどき噂で聞いては寝床を変えなければならない。惨めだ。
暮らしは楽ではなかった。暖をとるのに蒸気機関のボイラーの近くへ行って怪我をした連中が何人もいるのを知っているけど、寒さで凍えるのとどちらがマシなのだろう。僕は日々を生き抜くのに必死で、いつも肩を寄せあって眠るような仲間たちが困っていたって、助けてやることすらままならなかった。
自分が生きていく食べ物を確保するのにも苦労しているのに、病気にかかった仲間を介抱してやる余裕もなければ、腹をすかせたチビどもを世話してやれるほどの甲斐性もない。仲間たちが飢えや病で死んでいくのも、もう見慣れた光景になってしまった。いちいち悲しんでいる余裕さえなく、まともな弔いもない。僕もいずれは、彼らのように絶えていくのかもしれない。
だって弱いものから死んでいくのが摂理だろう。そんなことは、この僕でさえ知っている。
ああ、本当に、僕ときたら一番底の底にいるのだ。毎日、ただその瞬間に死なないために生きている。いつかの未来にひっそりと死んでいくのをわかっていながら、惰性で死んでいないだけ。そしてそれを、僕らのことを知らない他人は同じ人として扱ってくれないのだ。
――そもそも僕は、人と同じ形をしていない。
◆◆◆
世界中に窓口を持つ依頼斡旋業者・探偵社のしがない一会員探偵であるアーロン・フェアファクスがその路地へ入ったのは、たまたま、本当に偶然の話である。
その日、彼はオルタンス夫人の飼い猫を探していた。逃げたペット探しなどよくある話で、オルタンス夫人の猫はいつも大体似たような場所にいる。何度か猫探しをして、自分の足で調べたり聞き込みをしたりしているうちに、大体の行動範囲は覚えた。おかげさまでいい小遣い稼ぎといったところか。
だが、今回は心当りのある場所にいなかったから、どこへ隠れているのかと周辺を探しているのだ。これで見つからなかったら今後の方針を考え直さなければならない。金づるがなくなるのは痛いのだ。
そんな不安をよそに、果たして猫は見つかった。見るからに高級そうな、とでもいうべきだろうか。柔らかな灰色の長毛の猫は気持ちよさそうに眠っていた――羽の生えた人の腕の中で。
そう――そこにいたのは、鳥のような羽が腕から生えている少年だった。
歳の頃は十二、三ほどだろうか。髪は亜麻色、羽の色もそうだった。よく見ると、耳元からも羽が生えているようで、ミミズクの羽角に似ている。かろうじて人の形はしているが、おおよそ普通の人らしい姿とはいえない――これほどまで怪物めいた外見をしているのだから、恐らく豊かな魔力を持つ魔族に違いなかった。魔力の豊かな魔族は、自分の魔力に影響されて怪物の姿になってしまうのだ。
アーロンも魔族ではあるけれど、自分の体が化け物のように変質するほどの魔力があるわけではない。そういう怪物のような魔族は数が少ないから物珍しい――特にこういう場所では。体が変質しているような魔族は、大抵はその持ち前の才能で地位を得て、世間を大手を振って歩いているものだからだ。それが、こんな――じめじめとして薄暗い路地裏で身をやつしているなどと、誰が信じるだろう。
少年はアーロンに気が付いていないようだった。というよりは、周りにあまり意識をやっていないようだった。羽のせいでわかりにくいが、少年の腕は折れそうなほどに細く痩せていた。髪も色は綺麗かもしれないがぼさぼさで艶がなく、きちんと整えたような跡がない。着ている服も裾が擦り切れていたり、縫い目が解れていたりしてあまり綺麗な身なりとは言えない――それだけ見れば少年がどういう境遇なのかは、大体想像がつく。
アーロンが一歩近づくと、猫が目を覚ましてにゃあと鳴いた。その鳴き声でようやく他の誰かが傍に近づいているとわかったのか、少年は顔を上げた。
「……何? 迎え、きたの……?」
細い声だった。若々しい力を感じさせてくれない声色は、アーロンの心をざわつかせた。
「いや――お遣いとでも言えばわかりやすいかな。飼い主に頼まれてそいつを探してたのさ」
少年は「ふうん」と呟いた。どこかぼんやりとした様子で、一応会話はできているのかもしれないけれど、アーロンのことをきちんと認識しているかどうか怪しい。だが、猫のことは気にかけているようで「よかったね、ちゃんと帰れるんだって」と、猫を撫でながら話しかけている。猫はみゃあおと返事をするように鳴いた。こちらは間違いなく、会話が成立している――ように見える。
「行きなよ、知ってる顔なんだろ、ミリィ」
少年が言うと、猫がアーロンの元へ寄ってきた。何の抵抗もなく、アーロンの腕の中へと収まってくれる。いつも引っ掻くなんてことはないが、そこまで素直に捕まってくれる猫ではないというのに――本当に、言葉が通じている?
「きみは猫と話せるのかい」
アーロンは、思わず少年に問いかけた。そこでようやく、少年はアーロンのことをまともに意識の中に入れてくれたようだった。瞳の色が沈む夕陽に似た珍しい色をしている、というのを、アーロンはここにきてやっと気が付いた。
「……猫、っていうか……動物は、その――触ると、心がわかる、から」
「心が」
――魔術だ、とアーロンは察した。言葉の通じない相手と意思疎通をするためには、魔力の神秘に頼るのが一番手っ取り早い。
勿論、人間や魔族といった人を相手にしようとすれば、決して容易くはない魔術だ。心を覗き見ようとしても、心を閉ざすのが上手いからだ。その点で動物は嘘をつくことをしない分、隠されることもない。だからといって人の常識の通じない相手との心の対話が、簡単と言っていいわけでもないけれど。実際にそれを魔術として行使できるほど、魔力の扱いが上手い魔術師は限られている。
ひょっとすると、この子はとんでもない逸材なのではないだろうか。探偵業を営む上で、彼の魔術が役に立たないはずがない――。
「初めて会う人に何言ってるんだろ……変だよね、こんなの……」
だが、目の前の少年は、自分の魔術というものをよく理解していないようだった。居心地悪そうに少し身を捩って、膝を抱いて下を向いてしまった。
恐らくは魔術も無意識に行使している。これだけ人からかけ離れた姿をしているのなら、無意識に魔術を完成させてしまうだけの魔力があってもおかしくはない。だが、魔術に関する知識を持たないということは、魔力を求める本当の怪物たちに狙われてしまうということでもある。この世界には恐ろしいものが沢山あるのだと、この子はまだわかっていない。
アーロンは、ふと、自分の兄弟のことを思い出した。先の戦争で生き別れとなったきり、ずっと会っていない妹と弟のことを――妹は離れたとき、ちょうどこの子くらいの歳ではなかったか。弟が無事に育っていれば、ちょうどこの子と同じくらいの年頃になるのではなかったか。
そう意識すると、アーロンはもう、この少年のことを無視することはできなかった。わざわざこれ以上深く関わる理由など何もないというのに、見なかったことにはできないのだ。さっさと猫を捕まえた時点で立ち去らなかったのがいけなかった。偽善であるとは自覚していたけれど、知らないふりをするには、この子はどうにもアーロンの琴線に引っかかる部分が多すぎる。
「……私の名はアーロンという」
静かな路地に、決して大きくない、低いテノールのその声は響いた。
「アーロン・フェアファクス。探偵をやっている者だ。怪しい者ではないつもりだよ」
努めて優しく――そう意識しながら笑顔を作って、アーロンは膝を折って、少年に語りかけた。彼は再び顔を上げて、僅かに首を傾げた。
「探偵……」
「あと、薬草魔術もやっている。一応、人並みの魔術師というやつさ。特別多忙というほどではないが、暇ばかりというわけでもない。助手が欲しいと思う程度にはね」
こんな猫探しも仕事のうちだけれど、というと、抱えていた猫が爪を立てた。猫探しを軽んじるなとでもいうつもりだろうか。なんて生意気な猫だと思いながらも、アーロンは柔和な笑みを崩さぬよう心掛けた。
「私に雇われる気はないか」
――たったその一言を言うのに、一体どれだけ緊張しているというのだろう。
妙に気を張ってしまっていることを自覚して、アーロンは自嘲した。怯えられることに怯えている。相手はただの子供だというのに、おかしな話だった。普段は誰にどう思われようがそんなこと気にもしないが、意識してしまってはいけないということか。
「ぼ、くは……」
夕陽の瞳は不安げに揺れた。迎えの来ない迷子のような目つきで、それがまた悲哀を誘う。だが、どうせ迎えがこないなら、アーロンが連れていっても、誰も文句は言うまい。
アーロンが手を差し伸べると、少年はおずおずとその手を取った。痩せて細く、冷えて冷たい指だったけれど、確かに手を握る力を感じて、アーロンは安心した。