星月夜の涙
「鴎外さん」
私は一回の談話室で見つけた後ろ姿に声をかけた。
振り返った鴎外さんの隣には外国人の人がいて、話しかけたことが申し訳なく思ったけれど、その外国人は何かを察したようで、私に軽く笑いかけると、どこかへ行ってしまった。
「お疲れ様」
鴎外さんに優しくそう言われると、もうなんだか何も言葉が出てこない。
「ありがとうございます」というのが精一杯。
談話室から庭へ出た。立派な木のところで、並ぶ。
「茜音はどこにも行かないよな?」
嫌な汗が背中を伝った。何も答えられず、黙って自分の足元を見つめたとき、気がつくとまるで初めて出会った日に借りたハンカチのような薄いたばこの香りに包まれた。
「頼む。行かないでくれ……。」
ますます強くなる力。そしてそれとは対照的に声は弱かった。
「私もここにいたいです。……でも」
鴎外さんは結婚をして子宝に恵まれる。彼の子供は医者やエッセイストになって活躍すると何かで読んだ。そこに私は存在できないし、してはいけない。
「私がいたら、生まれるはずの人がうまれなくなっちゃうから帰らなきゃいけません……」
もしも私に、もう少しわがままになる勇気があったのなら、未来を変えられた。
でも、鴎外さんには幸せになって欲しい。彼にとっての本当の幸せが何かわからないけれど、多分そこに私はいないから。
「幸せになって、鴎外さん」
うまく笑顔を作れていたか、わからない。
「だったら僕に君を幸せにさせてくれないか」
あなたはひどく残酷な人だ。きっとわかっているはずなのに。私たちは隣で未来を描けないことを。
「ごめんな、茜音」
耳元から聞こえる優しい声は、微かに震えていた。
「君をここで引き止めてしまったら、茜音は夢を叶えられなくなってしまうな……」
お互いが本当に好きだからこそ、敢えて離れる道を選ぶ。二人は恋ではなく「恋愛」をしていた。
「鴎外さん、私たちどうして出会ったんでしょう」
「出会わなければならないから出会ったのだろう。」
ほら、やっぱり。あなたは真面目な顔でそんなことを言う。
十センチ先にある大きな手に自分の手を伸ばした。私がいるべく場所に戻ったらこの手の暖かさは届かない。
それでも、こんな夜は涙を見せずに「また会える」と言ってほしい。
風が通り抜けた。今でさえ、別れの時は近づいている。




