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光のもとでⅠ 第六章 葛藤  作者: 葉野りるは
本編
2/59

02話

 秋斗さんは歩みを止め、じっと私を見ていた。

「気持ちは嬉しい。でも、ここは学校じゃない。マンションは近いけど、ここに湊ちゃんが到着するまでに十五分はかかる。それに、俺以外は誰もいないし、庵にいるのもじーさんと警備の人間のみだ。何かあったとしてもすぐには対応してあげられない」

 わかってる……。

「でも、だからです。逃げ場がなければがんばれる気がするでしょう?」

 何度もそんなことを繰り返してきた。毎年毎年、逃げ場のない痛みや眩暈、それらと向き合ってきた。だから、こんなことで負けるほど私は弱くないはず――。

「本当に無理はしてほしくないんだ。気持ちはわかったから……」

「……たぶん、私の気持ちは秋斗さんに全部伝わってないです」

「そうかもしれないけど……」

「お願いです……」

「……まいったな。……今日の俺には拒否権なんてあってないようなものなんだ」

「え……?」

 意味がわからなくて首を傾げると、

「それも、反則にしか見えないよ」

 今度は少し笑みを添えてくれた。

「じゃ、まずは重ねるだけね」

 と、エスコートするときのように左手を差し出してくれる。

 私は目を瞑って心を落ち着かせ、秋斗さんの手に自分の右手を重ねた。

 指先に自分のものではない体温を感じる。

 目を開けると、秋斗さんの左手にちゃんと自分の手が乗っていた。

 ……大、丈夫?

 昨日はこれすらだめだったのだ。

 自分の右手に少し力を入れ、秋斗さんの左手を握る。

 これも、平気……?

「翠葉ちゃん……?」

「……大丈夫、みたいです」

 秋斗さんの顔を見ると、ほっとしたような顔で、

「良かった」

「私もです――また傷つけちゃったらどうしようかと思った……」

 目に少し涙が滲む。

「翠葉ちゃん、大丈夫だよ……。俺はもっとひどいことをたくさんしてきてる。それが報いとなって翠葉ちゃんから返ってくるのなら、どんなことでも甘んじて受ける。言ったでしょう? そのくらいには愛してるつもりだって」

 優しい眼差しに心が揺らぎそうになる。

「……少し、甘えてもいいですか……?」

 つないだ手を見たまま訊いてみる。と、

「珍しいね。……いつでも甘えてほしいと思ってるんだけど、いつもはなかなか――」

 秋斗さんの言葉を全部聞き終わる前に、秋斗さんの胸に額をつけた。

「すい、は、ちゃん――?」

「ごめんなさい……。少しだけ、少しだけでいいから……」

 そう言うと、秋斗さんの右手が背中に回され、しっかりと抱きしめてくれた。

「少しだけなんて、そんなもったいないこと言わないで。俺はずっと抱きしめていたい」

 このぬくもりが好きだった。とても心地よかった。

 離れようとしたら、逆に力をこめられ、それまでよりも強く抱きしめられる。

「翠葉ちゃん、俺もひとつお願いしていいかな」

 ひとつのお願い。

 私が叶えられることならなんでも叶えたい。でも、返事は慎重にしなくてはいけない。

 この空気に、想いに流されたらだめ――。

「聞けるものならば……」

「……ずいぶんと答えまでに時間がかかったね」

 秋斗さんはクスリ、と笑う。

「キス、してもいい?」

 至近距離でのお願いにドキリとする。

 ……今日だけだから。だから、いいよね?

 でも、キスをしたら気持ちが抑えられなくなりそう――。

「ごめん、訊いたけど答えを待てそうにはない」

 と、そのまま口付けられる。

「……んっ――」

 今までのキスとは違う。

 唇が触れるだけのキスではなかった。

 離れたかと思えば角度を変えてまた口付けられる。

 口の中を秋斗さんの舌が這い、私の舌に絡み付く。

 どうしたらいいのかわからなくてなされるがまま――。

 そうしているうちに唇は放され、ぎゅっと抱きしめられた。

「返事聞かなくてごめん。それから、びっくりさせてごめん」

 抱きしめられたまま、フルフルと首を横に振る。

「でも……我慢できないくらい、そのくらい好きだ」

 心臓はすでに駆け足を始めていて、うるさいくらいにドキドキ鳴っている。

 背中に回された腕が緩み、秋斗さんの顔を見上げると、

「歩こうか……」

「はい……」


 紫陽花の次は、木々の合間に咲き誇る百合たちが待っていた。

 白、ピンク、オレンジ、色とりどりの百合がたくさん咲いている。

「きれい……」

「祖母はとくにカサブランカが好きでね。花言葉を小さい頃に教えてもらった。純潔、威厳、無垢、壮大――ほかの花言葉は知らないけど、これだけは今でも覚えてる」

 懐かしいと思い出しているのはおばあ様のことなのだろう。

「翠葉ちゃんが好きな花は?」

 百合が見渡せるベンチに座り訊かれる。

 つないだ手はそのままに――。

「私、ですか? そうですね、桜……かな? あとは小さい蕾のようなスプレーバラ。カスミソウも好き。どれも好きなんですけど――」

「一番は緑、新緑?」

 言おうとした言葉を先に言われてしまう。

「当たりです」

 ふたりしてクスクスと笑う。


 次に出迎えてくれたのはノウゼンカズラ。

 オレンジ色の大きな花が緑の木に咲き乱れている。

 重そうな頭を必死に太陽へ向けて、蔓は空へ空へと向かって伸びている。

「きれいなオレンジ……。朝は雲が出ていたけど、すっかり青空になりましたね」

 秋斗さんは空を見て、

「本当だ、夏らしい空だね」

 少し右手に力をこめると、同じくらいの力が返ってきた。

 そんなふうに、ところどころにあるベンチに腰掛けては咲いているお花を見て話し、花言葉の話をしたり……。

 なんだか、縁側でお茶を飲んでいる老夫婦のように穏やかな時間だ。

 二十メートルほど先に出口と思われるアーチが見えた。

 まるで、自分の中にある「限りあるもの」を見てしまった気がして、足元に視線を落とす。

 次の瞬間には秋斗さんの腕の中にいた。

「車に戻って、あの公園へ行こう」

 頭の上に降ってくるのは優しく甘い声。

「あの、公園?」

「そう。翠葉ちゃんちの裏にある公園」

「どうして……?」

「そこで返事を聞かせて」

 私は無言で頷いた。


 車に戻り時計を見れば三時半だった。

 今日は日曜日だし国道が混んでいれば家の近くまでは一時間近くかかる。でも、混んでいればその分長く一緒にいられる。

 車の中ではアンダンテの最新作のタルトの話や、蒼兄の高校のときの話を聞いた。

 会話が途切れたとき、

「髪飾り、使ってくれたんだね」

「……はい。今日が初めてで……。髪の毛とメイクは栞さんと湊先生がしてくれて……」

「なるほどね。なんかしてやれた気分だ。そのワンピースは? いつもとはちょっと違うよね?」

「両親からの誕生日プレゼントだったんです。私にはまだ少し大人っぽい気がしたんですけど……」

 不安から視線が手元に落ちる。

「そんなことないよ。すごく似合ってる。一瞬自分の目を疑うほどにはびっくりした」

「……これを着てきて良かった。年の差はどうやっても埋められないけど、見かけだけでも、と思って……」

「――今日の洋服やお洒落は俺のため?」

「……ほかに誰かいましたか?」

「……翠葉ちゃんってさ、本当に何も計算してない?」

 計算……? 今の会話のどこに数字なんて――。

「あぁ、いい。なんでもない。少しでも疑った俺がバカみたいだ」

「……あの、全然意味がわからないんですけど……」

「わからなくていい。そのほうが君らしい。でも――俺は一生翻弄されるんだろうな」

 秋斗さんの苦笑いの意味はわからなかった。


 道は思ったよりも混んでいなかった。

 市街へ向かう道路は混んでいるものの、反対車線を走る私たちのほうは流れている。この分だと三十分ちょっとで着いてしまうだろう。

 ……なんて切り出したらいいのかな。

 結局のところ、いくら考えても思い浮かばなくて、昨夜はほとんど眠れなかった。

 さっき、手をつないで抱きしめてもらって、キスもして……。すごく嬉しくて、すごく幸せで、今は心がぐらついている。

 ――でも、選択は間違えてはいけない。

 心の奥底から警鐘を鳴らす自分もいる。

 視線を手元に落としたまま考えていると、助手席のドアが開かれた。

 びっくりして顔を上げると、「着いたよ」と手を差し出される。

 その手を見て、この手を取るのはきっとこれが最後だと思った。

 差し出されたその手に自分の左手を乗せると、ぐい、と引張り上げるように力を入れてくれた。

 段階を踏まなかったこともあり、眩暈が襲う。けれども、秋斗さんはしっかりと抱きとめてくれた。

 視界が戻るタイミングで秋斗さんが離れる。


 車を降りる前に見た計器は四時十分と表示されていた。一時過ぎに会ってから四時間ちょっと。あと数十分もしたらお別れだ。

 一番端の駐車場から緑の広場へと抜ける道。ここは緑の広場にしか抜けられず、ほかの競技場やテニスコートなどへ行くのには遠回りになることと、広大な駐車場の最奥ということもあってあまり利用する人はいない。

 秋斗さんが向かっているのはあの日の場所――私が秋斗さんに、「僕と恋愛してみない?」と訊かれた場所だろう。

 そこに着いたら言わなくてはいけない。

 そう思うと、歩を進める足が途端に重くなる。

 あのときはあのときですごく困ったけれど、今は別の意味で困っている。

 困っているというよりは、言うべきことは決まっているのに、それを心が受け入れてくれない。

「翠葉ちゃん?」

 完全に足を止めてしまった私を秋斗さんが振り返る。

「あ……えと――」

 言葉に詰まってしまうと、ふわり、とオフホワイトのジャケットをかけられた。

「今日は日焼け止めを塗ってないでしょう?」

「……はい」

「焼けたら痛い思いするんでしょう」

 優しく笑いかけられ、手を引かれるままに歩けばベンチにたどり着いてしまった。

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