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光のもとでⅠ 第六章 葛藤  作者: 葉野りるは
本編
11/59

11話

 ソファに座っている先輩の斜め前あたりに腰を下ろすと、私の目には馴染みのない文字が飛び込んできた。

 それは先輩が呼んでいる本の背表紙。

「臨床医学……?」

 私の声に気づいて司先輩が本から視線を上げる。

「姉さんの本」

 お医者さんになりたいという話は秋斗さんから聞いていたけれど、高校生のうちからそんなに難しそうな本を読まなくてはいけないのだろうか。

「今は何を読んでいるの?」

 ダイニングから栞さんの声がかかる。

「臓器別分類の循環器学」

「そう」

「高校のお勉強に加えて、もうお医者様の勉強をしているんですか?」

「高校の勉強はすでに終わってる。こっちは趣味と勉強を兼ねて読んでるだけ」

 高校の勉強がすでに終わってるって何……? 趣味に医学書って……!?

「翠葉ちゃん、司くんは中学のうちに高校までの勉強を独学で終わらせてしまっているのよ」

 補足するように栞さんが教えてくれたけど、なんだか私には理解しがたい。

 じっと先輩を見ていると、どこか居心地悪そうな表情をして口を開いた。

「何事もやり始めが早すぎて悪いことはない」

 それだけを言うと、また本に視線を落とした。

 私もピアノは三歳から習い始めた。けれども、音楽というなら、お母さんのお腹にいたときから胎教の一貫としてたくさんの音楽を聴いていたというし、二歳の誕生日にはオモチャのグランドピアノをもらってそれを嬉しそうに叩いていたという。

 うん、確かに何かを始めるのに早すぎることはないのだろう。

 でも、あまりにも早い気がするのは私だけなのだろうか……。

「翠は大きな病気は持ってないんだよな」

「はい、とくに大きなものは何も……。ひとつだけ心疾患と言えないようなものがありますけど」

「何?」

 と、こちらを向いて訊かれた。

僧帽弁逸脱症そうぼうべんいつだつしょう。弁がきちんと閉じず、たまに逆流を起こしてるみたいです。それから、人と比べると弁膜が薄いのだとか……。だから血液を送り出す力が弱くて血液循環量が足りてないのか、はたまた血圧が低いのか――。紫先生がよく、卵が先かニワトリが先かってお話をしています」

 私の低血圧は僧帽弁逸脱症がもとになっている可能性がとても高いけれど、低血圧ショックを起こすのは体質ともいえる、起立性低血圧障害の症状だ。

 それらは主に自律神経の管轄。

「高血圧にはたくさんの対処法があるのに低血圧にはとくにないなんてひどい話だよな……

 先輩がぼそりと零した。

「そうね、僧帽弁逸脱症から僧帽弁閉鎖不全症への進展が見られれば対処のしようもあるけれど、翠葉ちゃんの場合はそこまでいかないのよね」

 栞さんがこちら側へと席を移動した。

「でも、それは良いことなのでしょう? 心臓の手術って聞くだけでも怖いし、大変なことだと思うし」

「えぇ、現状を維持できるほうが断然いいわ。でも、胸痛や不整脈による動悸、眩暈、失神が起こるのはそこから来てるとも考えられるから、それでつらい思いをすることには変わりないのよね……」

 確かに胸痛はつらい。不整脈も動悸が速くなるのもかなりつらいし不安になる。

 眩暈や失神を起こせば周りの人に迷惑がかかる。でも――。

「私は運がいいと思うんです」

 私の言葉に栞さんと司先輩が訝しがる。

 そんな顔、しないで……?

「だって、私には信頼できるお医者様がついている。紫先生に湊先生、それから今度は楓先生も加わるって聞きました。すごく強力な味方でしょう? それに普段は栞さんも側にいてくれるし……。こんな状況、普通ではあり得ないと思うんです」

「それでも、翠葉ちゃんはなかなかつらいって言ってくれないのよね」

 栞さんは困った人の顔になる。けれども、

「翠葉ちゃん、私の旦那様も医師なのよ」

「え……? 栞さんの旦那様?」

「そう。今は海外に留学しているの」

しょうが帰国するのはいつだ?」

 静さんがこちらの会話に口を挟んだ。

「八月の予定。早ければ七月末って言っていたけど、どうかしらね」

 しょう、さん……。栞さんの旦那様。どんな人だろう……?

「帰ってきたら翠葉ちゃんにも紹介するわ」

「はい、楽しみにしています」


 ダイニングの様子を見ると、お父さんはすでに出来上がっていて、お母さんは上機嫌でニコニコとしている。蒼兄はお父さんをそろそろ寝室へ運ぼうか悩んでいる顔。

「翠、飲み終わった?」

「あ、はい」

 最後の一口を慌てて飲み下す。

「じゃ、行こう」

 先輩は立ち上がると私の前まで来てくれ手を差し出してくれる。

 もう、何を考えることなくその手を取ることができた。

 ゆっくりと立ち上がるけど、やっぱりだめなのね……。

「先輩ごめんなさい、少しだけ――」

「それ、もう言わなくていいから」

「……でも、この手は私にとっては当たり前にある手じゃないんです。すごく頼りになる手で、どこにでもあるものじゃないから……だから、言わないとなくなっちゃいそうなの」

「翠葉ちゃんらしいわね。でも、その手はなくならないと思うわ」

 栞さんに言われて、不思議に思う。

 視界が回復すると、

「でしょう?」

 と、栞さんが司先輩に訊いた。

「そうですね。なくなることはない……。ただ、翠がどう思うのかは翠の勝手ですけど」

 少し突き放したような物言いをするけれど、この人は優しい……。

「司、悪いけど翠葉のこと頼むな」

 蒼兄が声をかければ、

「司くん、翠葉のことよろしくね」

 と、お母さんも言葉を添えた。

「はい。……翠、行ける?」

「大丈夫です。少し、気持ち悪いだけ」

「栞さんの家までは?」

「歩けます」

「翠葉ちゃん、今日はその格好のまま寝ちゃいなさい。明日着る洋服は私のものをあとで出しておくから」

「はい」

 静さんの方を向き、

「静さん、明日からお世話になります。今は無理だけど、でも、たくさん写真撮るので――」

 言葉は遮られた。

「待ってる。今預からせてもらっているものだけでもいい仕事をしているさ。今日は早く帰って休みなさい」

 それにコクリと頷き、司先輩の腕を頼りに歩きだす。

 栞さんとお母さんが玄関まで送ってくれた。

「明日の朝には仕事で出ちゃうけど、またすぐに会えるわ。翠葉は無理しないこと。いいわね?」

「うん」

「私も一時間くらいしたら帰るから。何かあったらすぐに携帯鳴らして? もちろんモニタリングはしているから」

「はい」


 静さんの家を出て、湊先生の家の前を通り栞さんの家の前まで来る。

 その隣、秋斗さんの家のポーチには照明が点いていなかった。

「秋兄が気になる?」

 気になるか、と言われれば気になるから目が行くのだろう。

 素直にコクリと頷く。

「メールでも送ってみれば」

 フルフル、と首を横に振る。

「……あまり自分を追い詰めすぎるのは良くないと思うけど?」

「追い詰めてる、かな……」

「少なくとも我慢はしてるんだろうし、無理とまではいかなくとも、気になる要素はあるんじゃない?」

「そっか……。私、ちゃんと我慢できてたかな……」

「だから断ったんだろ?」

「……うん、そうだよね」

 なんだかよくわからない会話をしながら栞さんの家に入る。

 いつもと同じ、玄関を入ってすぐ左のお部屋に入ると、ベッドに腰掛けるところまで支えていてくれた。

「司先輩、ありがとうございます」

「……翠、俺も医者になったら翠の味方になれるのか?」

「……え? いつも、今もこんなに助けてくれているのに……」

 ベッドサイドで膝をついている先輩の目が、どうしてか悲しそうに見えた。

「先輩……?」

「今もちゃんと味方だってわかっているのか?」

「……わかってます」

 なんの答えを求められているのだろう。

 会話の要点を得ることができない感じ。

 ものすごく掴みどころのない会話をしている気分だった。

「何度も言ってるけど、俺は何があっても離れないから。それだけはちゃんと覚えていてほしい」

 立ち上がってすぐ、「薬は?」と訊かれる。

「あ、寝る前のお薬飲まなくちゃ……」

「水持ってくる」

 と、すぐに部屋を出ていった。

 どうして――どうして先輩があんなにつらそうな顔をするのだろう。

 それがわからなくて、どんな言葉を口にしたら楽にしてあげられるのか、安心してもらえるのかがわからなくて、少し困った。

 司先輩がグラスを手に戻ってくると、薬の所在を訊かれる。

「あ――湊先生のおうち。今日、そこで着替えて制服もかばんも全部そのまま」

 言うと、ふたり目が合い司先輩が「くっ」と笑った。

「俺も気づかないなんてどうかしてる。今取ってくる」

 先輩は言い残して栞さんの家を出ていった。

 こんなに自然に笑った先輩は初めてじゃないだろうか。

 そうは思うものの、少し前の先輩の表情が頭に居座ったまま。

「でも、笑ってたから……」

 だから、大丈夫かな。

 司先輩は五分もせずに戻ってきた。

 制服はクローゼットにかけてくれ、かばんをベッド脇まで持ってきてくれる。

 ピルケースを取り出し薬を飲むと、

「じゃ、電気消していくから。すぐ寝るように」

「はい、ありがとうございます」

 電気が消える瞬間――ほんの一瞬に見えた先輩の表情がものすごく柔らかくて、優しい顔でドキリとした。

 ドアが閉まってから枕元に置いた携帯を見ると、きちんと脈拍が上昇していてて、本当に連動してるんだ、なんて実感する。

 少し落ち着くと、今度は秋斗さんのことが頭を占める。

 秋斗さんはお仕事なのかな……。

 シュークリームのお礼をまだ伝えていない。

 メールでも電話でも言えることだけど、できれば会って伝えたい。でも、会ったら――またドキドキして、好きな気持ちが心に溢れてしまうだろうか。

 それはそれでちょっとつらい。

 私はこの気持ちにどうやって折り合いをつけたらいいのだろう――。

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