第六話 イサニャンなんて呼ばないニャン
「『再会は急いだ方が良い』か……」
翌日、俺は本に挟んであったメモの内容を、朝から何度も頭の中で思い返していた。
俺達に謎解きを楽しませる演出なのだろうか? メッセージにはところどころ意味のわからない表現があり、俺はずっとそれが気になって仕方なかった。
「ツグ、さっきから何ブツブツ言ってるの?」
「んぁ? ちょっと考え事……」
『月の囚人』って言葉も引っかかった。何かの暗喩か? 月……は何となくわかる気もするが、囚人という言葉を選んだ意図が解せない。俺達は月に囚われてしまっている……とでも言いたいのか?
「……ねえ、ツグってば! 聞いてる?」
「ん? 何か言った?」
制服の袖を引っぱられ、俺はようやく隣の輪廻の方を見る。俺より頭一つ背の低い妹は頬をぷくっと膨らませ、どうやら全く相手にされないもんだから相当にご立腹のようだ。
「……はあ、まあいい」
だが、輪廻は俺の顔を見ると声を荒げる代わりに大きなため息をついた。怒っても仕方ない、とでも思われたらしい。
「ってかさぁ、最近毎晩遅くにどこ行ってるの?」
「あ、それは……」
ギクリ。まさかの不意打ちに、俺は足が止まりそうになった。
「お母さん達は気づいてないみたいだけど、さすがに妹の私は知ってるよ。夜な夜な12時近くなると、ツグが家を抜け出して自転車でこっそりどこかに向かってるの」
「……トレーニングだよ」
「絶対ウソだね」
ばっさりと切り捨てる輪廻。どうやら今回ばかりはそう簡単に騙されてくれないらしい。
「……」
さて、どうするか……。しかし、俺がいざ返事に窮すると、輪廻は不服そうな顔を浮かべながらも追及をやめた。
「まあいいや、どうせ聞いても何も教えてくれないんでしょ?」
「……悪い」
バツが悪く、輪廻の顔を正面から見ることができない。別に悪いことをしてるわけじゃないのだが、隠し事をするというのはどうも後ろめたい気がしてならない。
「別にやめろとは言わないけど、変なことに手を出しちゃダメだよ」
「ああ、それだけは大丈夫」
「ならいっか……あ、オリだ! おーい、オリー!」
校門の前まで差し掛かったところで、輪廻は先を行く降雪の後ろ姿を見つけた。
「あっ、リンちゃん。三毛君も、おはよう--」
振り返った降雪は俺達に向かって小さく手を振った。そして輪廻は気の利かない俺に愛想を尽かし、彼女の元へと駆け寄って行ったのだ。
********
「やっほー。ってあれ? どうしたの、そんな怖い顔して」
「……初めに言っておく、俺の呼び名を今すぐ変えろ」
これだけは絶対初めに話そうと決めていた。別れ際に話を持ち出したところで、どうせまた昨日みたいにうやむやにされるに決まってる。
「え? ああ、『ニャン吉』のこと?」
そう言って柚木は笑顔で首をかしげる。
「なんで? いいじゃん、可愛いじゃん」
「バカにされてる気がするんだよ」
ってか絶対バカにしてる、コイツの場合。大体今もそうやって無駄に良い笑顔を浮かべてるのが何よりもの証拠だ。
「えーしてないよー。被害妄想だなあ……」
「なら俺はお前のことを『メロン性人』と呼ぶぞ」
「死ね、このセクハラ男。ってか意味深な漢字使うな」
笑顔から一瞬にして凍てついた蔑みの表情へと変わる柚木。
すごい。まさか俺が想像した漢字まで当てられるとは……。
「そうだなー……じゃあツグニャンは?」
人差し指を顎に当て、ムムムッと呻る柚木。
「何があっても猫要素を入れたいわけか……」
なに? よい子の間で最近流行りのなんとかウォッチに影響されたの?
「まあニャン吉よりは……」
名前の一部が入ってるだけまだマシ、か。
俺が強く否定しないのを見ると、柚木は満足気に頷いた。
「はい、じゃあキミの名前は『ツグニャン』に決定! 私の事も『イサニャン』って呼んでいいよ?」
「呼ぶかバカヤロー」
誰がそんな恥ずかしい名前を口にするか。どこのバカップル(死語)だよ。
「うわっ、何その暴言。女の子に向かってひどくない?」
「知らないニャン。全部妖怪のせいだニャン」
「……案外乗り気だね」
「ハッ……!」
しまった、俺としたことがつい……! 危うくキャラになりきってしまうところだった。名は体を表すとはまさにこのこと。こんな一瞬の気の迷いも、きっと妖怪のせいだニャン。
「まあそんなことはいいとして、昨日の続きだよ」
柚木はパンと一つ手を打ち、呼び名の話題はこれにて終了。
昨日の話の最後は、確か『ラブロマンス』という言葉に柚木が何か思い当たることがあって……。
「……ああ、思い出した。お前の家に行くんだったよな?」
「『お前』じゃない、『イサニャン』」
「『柚木』の家に行けばいいんだな?」
「くそっ……なかなか強情だね」
チッと小さく舌打ちし、悔しがる柚木。そんな簡単に流されてたまるか。
「……そうだよ、理由は聞いても教えない。ただ確からしいのは保証する」
そして、なぜか柚木はその答えにたどり着いた説明をしようとしない。『ラブロマンス』という言葉を聞いて、顔を真っ赤にしたことと何か関係があるのだろうか?
「えっと、じゃあ住所教えるからメモしてね」
まあ、とにかく今は次の手がかりを見つけることが優先だ。
「篠原市西篠原23--」
俺は柚木が読み上げる住所を復唱しながらメモに取った。しかし……。
「?」
そこでふと、何か違和感を感じた。
「ん、どうかした?」
「……いや、なんでもない。続けてくれ」
気を取り直し、俺はメモを取るのを続けた。
********
「えっと、西篠原の23……ってかアイツこんな辺鄙なとこに住んでんのな」
昨日は気づかなかった違和感の正体。それは柚木の住所が『西篠原』だったってこと。
意外だった。見た目もどこか垢抜けたところのある柚木のことだ。てっきり南篠原の駅近くか、比較的新しい家が多い東篠原に住んでいるのだろうと思っていた。
せっかく篠原市の地理の話になったので、以前触れられなかった篠原市南部と北部についてもついでに説明しておきたいと思う。
南篠原は篠原市で最も活気のある地域である。新幹線の乗り入れもあるJR篠原駅を中心に、デパートやショッピングモール、アミューズメントパークなど商業・娯楽施設が立ち並び、休日になると老若男女問わず多くの人で賑わう。また駅をさらに南下したところには東篠原ほどの規模はないが、ある程度まとまった住宅地が存在し、降雪を含め、ここから篠原高校に通う生徒も多い。
そして北篠原は旧三神(みかみ)村と呼ばれる地域である。街の様子も田や畑の間にまばらに家が建っているといった具合で、東や南とは大きく毛色が異なる。住民の数は篠原市全体の一割にも満たず、普段はもの静かな北篠原だが、年に一度行われる納涼祭では大勢の観光客で賑わう。祭りの最後には三神村の名前の由来ともされる三人の神様の伝承を元にした盛大な見世物が催され、今でも数万人の見物客が訪れる人気のイベントとなっている。
「んん……しかし地図には出てこんなあ」
とまあそんなわけで、柚木みたいな今風の女の子が西篠原なんて自然だけが取り柄のような場所に住んでいるのはなんとなく意外だったのである。まあ偏見もいいところだが。
「……これは諦めるか」
俺はふう、と息を吐く。
この数日で少しは学習していた。こっちの世界とあっちの世界では異なる事実が多い。
「多分そんな住所こっちには存在しないんだろ」
そう結論づけてケータイの地図アプリを終了すると、俺はベッドの上でぐーっと伸びをする。
今日は土曜日、学校は休みだ。輪廻は朝から部活に出かけたが、とくに予定もない俺はいつものようにだらだらと家で過ごし、夜が来るのを待った。
********
「よっす」
「こんばんは、ツグニャン」
ええと、確か出会って今日で6日目か? とうとうお互い驚くこともなく、普通に挨拶が交わせるようになった。まったく……慣れとは恐ろしいものだ。
そして、今日はいつもとまた違ったことがあった。
「……さすがに休日は制服じゃないのな」
昨日までずっと制服を着ていた柚木が、その日初めて私服姿でここに現れたのだ。
「えっへへーん。どう? 可愛い?」
柚木はブラウンのレザージャケットにニットのワンピース、そして膝下まであるロングブーツといった出で立ちで、もこもこと暖かそうなワンピースの裾をちょいとつまんでポーズをとった。
「……馬鹿言ってろ」
たとえそんな彼女がどれだけ可愛く見えたとしても、俺は絶対にそんなことを言うつもりはなかった。何があってもコイツにだけは言ってたまるか。
「ふふっ」
すると、柚木はそんな俺を見て何を想ったのか、クスリと笑った。
「……さて、それよりどうだった? 私のお家は?」
仕切り直し、柚木は少しだけ真面目な表情に戻る。
「こっちには無かったよ」
「やっぱそっか……」
そして彼女は残念そうに肩を落とした。
「……ってかお前意外とド田舎に住んでんのな?」
とくにそれ以上報告することも無かったので、俺は今日ふと感じたことを口にした。今目の前にいる彼女を見ても、やはりこんな華やかな子が西篠原の風景に溶け込んでいる絵は想像しがたい。
「は? そんなこと言ったらそっちだって一緒でしょ? ってか『お前』って言うな」
しかし、彼女は自分の住んでいる場所が田舎だとは認めようとしなかった。いや、まあそりゃ故郷を馬鹿にされたら腹が立つ気持ちはわからないでもないが……。
「いやいや、それでも一緒にされたら困る。誰が好き好んでこんな人里離れた西篠原なんかに……」
「は、何言ってんの? どうせツグニャンだって西か南に住んでるんでしょ?」
「は?」
俺は呆気にとられ、口を開ける。
彼女の発言は衝撃的だった。西か南? 一体どういう神経をしているんだ? 冗談でもなければ、それこそ柚木の正気を疑いたくなる。
「南はともかく西はないだろ。交通の便は悪いし、それこそ美山が無けりゃ……」
何か変な勘違いでもしているのだろうと思って、彼女を諭そうとしたその時……。
「!」
「!」
俺達はまた、同じ過ちを繰り返しかけていたことに気付いた。
「ねえ、もしかして……」
「……ああ、多分思ってる通りだ」
どうにも『常識』ってのが邪魔して駄目だ。この鏡岩と出会ってからというもの、世界の真理なるものを前にしては、俺達の『常識』なんざ全く意味をなさないということを散々思い知らされてきたはずなのに。
「……柚木、美山は東西南北どっちにある?」
俺は逸る気持ちを押し殺し、出来るだけ冷静さを欠かないように尋ねる。
「……東篠原だよ」
なんてこった。彼女の答えは予想通り、俺の『常識』を裏切った。
「じゃあ篠原高校は?」
「西篠原」
……そういうことか。どうりで話が食い違うわけだ。
柚木はもう我慢できないという風に首を振ると、早口でまくし立てた。
「ねえ! もうわかってて聞いてるようなもんだけど、そっちでは美山は東篠原じゃないんだよね?」
「ああ、美山は西篠原の名所だよ」
「ウソっ!? 東西が逆転してる……!?」
そう。それが俺達がたどり着いた次なる真理。
「ちなみに駅が南ってのは合ってるのか?」
「うん、そんで北は旧三神村」
「じゃあ南北は正しいんだな」
こっちの世界と柚木の住む向こうの世界では、東西が完全に逆転している。
「……えっ、ってことはもしかしてそっちじゃ太陽は東から登るの?」
「ああそうだが……まさかそれも逆なのか?」
およそ信じられない。俺は深い息と共に天を仰いだ。
常識が覆された時に人間はこれほど混乱するものらしい。
「……こりゃビックリだね」
「ああ、俺達が思ってる以上にこっちとそっちの世界は状況が違うみたいだな」
これが世界の真理。先輩が俺達に伝えようとした世の理。
だが、それもあの口ぶりからするにまだほんの一部に過ぎないのだろう。
「…………私、見てみたいな」
しばらくの沈黙の後、柚木がぽつりと呟いた。
「ん?」
「そっちの世界、行ってみたい。実際にこの目で、ツグニャンの言ってることが本当なのか確かめてみたい」
「……」
彼女は静かに、けれども一言一言に強い意志を宿して、話をする。
「こんな真夜中の山奥の、しかも10分だけじゃ何もわかんないよ。まるで予告だけ見せられていつまでも本編が上映されない映画みたい」
やり切れない表情を浮かべてぼやく柚木は、ともすれば駄々をこねる子供のようでもある。しかし、彼女の憧れは俺の予想を遥かに越えていて……。
「こんなのずるいよ……」
強すぎるが故に自らを苦しめていた。
しかし一瞬泣きそうに顔を歪めた柚木は、その後ふっと諦めたように首を振った。
「……きっと、無理なんだろうね」
「ああ、難しいだろうな」
彼女もそれが非現実的な願いであることはわかっている。でも、それでも口にしてしまうほど魅力的なのだ、自分の知らないもう一つの世界の存在は。
「そうだ! ねえ、今度そっちの世界の様子ムービーに撮ってきてくれない!? 私も見れるように、1、2分くらいの短いやつ!」
彼女は気を持ち直すと、明るく、大きな声で俺に呼びかけた。
「いいけど……別に何にもないぞ」
「いいの! 他にももっと私達の常識が違ってたりするかもしれないじゃない! 空が赤色だったり、カラスがピンクだったり!」
柚木は期待にキラキラと目を輝かせ、まるで夢見る少年のようである。
「……ちなみに普通に空は青色で、カラスも黒だぞ」
「それでもいいの! 約束ね!」
「ああ、わかった」
これだけ嬉しそうに話されたら、断るわけにもいかない。俺は柚木に気づかれないように小さくため息をつくと、再び新たな真理についての話にさかのぼった。
「それよりさ……結局先輩達は何を伝えたかったんだろ?」
「んー……とりあえず世界の真理的なことにはまた一歩近づいたかな? なんと東西が逆転してる!」
人差し指を立て前に身を乗り出すようにした柚木だったが、すぐに小さく首を捻った。
「けどここから先は? まさかそれで全てってわけじゃないよね? 手がかり的なの何もないよ」
困ったように眉を下げる柚木。
本当に何もないのだろうか。どこかで見落としてることがないか……今まででの手がかりの中でまだたどり着けていないもの……。
そして俺はハッとあることに気付く。
「まさか……机か?」
「ん?」
そうだ。柚木に探してもらったが向こうの世界では見つからず、結局あれだけが何も次につながることがないまま終わっていた。
「東西が逆転……もしかすると」
俺は頭の中に高校の構内図を思い浮かべる。
篠原高校の校舎は左右の教室棟を廊下でつないだコの字型をしている。方角的には正門が南向きでそこから東西に教室棟がある、といった具合だ。
「柚木、そっちの世界だと特別教室棟は何棟だ?」
「え、私達の教室がある方が正門から見て左側だから、その反対の……東棟? まさか……!」
大きく目を見開く柚木。俺の考えていることに彼女も気づいたようだ。
「俺の教室2-Fはこっちだと東棟だ。つまり高校も東西が逆転してる」
「……ってことは私が探してた2-Fの教室はそっちとは位置が違うわけだね」
自分で言いながらまさか、とは思う。ここまで複雑なネタを仕込むか? と……。だが、あんな難解なメッセージを残す先輩だ、これくらいのことはやりかねない。
「ああ、だから本来探すべきはその対角、そっちでいう特別教室棟にあたる東棟だ」
「じゃあ2-Fの位置にある教室は反対の棟だと……」
「「美術室!」」
二人の声が重なる。
「確かにあそこの準備室って教室で使ってるのと同じ形の机があったよね。なんか色んなものが上に置かれちゃってちゃんと眺めたこと無かったけど」
「そうなのか……?」
俺も美術室についてはあまり詳しくない。高校の授業だと美術は選択制で、代わりに書道を選んだ俺は滅多に寄る機会がなかったからだ。
「よく探したらどこかにメッセージが残ってるかも……か。うん! ようやく私にも活躍の機会が来たみたいだね!」
柚木の表情がパッと明るくなる。
「これで外してたらいよいよ行き詰まりだけどな」
「そんなことない! 絶対合ってるよ!」
俺のぼやきも全く意に介さず、彼女は満足げに頷く。
「どこから来るんだその自信は……」
「勘と強運だけは自信があるんだ! ほら? こうやってツグニャンと会えたのもある意味奇跡じゃん! きっと今なら全てが行く気がするんだ!」
そう笑顔で話す彼女を見て、俺はなぜか心の中に小さな不安がよぎった。
考えを頭の中で整理し、何度も頷く彼女。それは自分達の導いた結論の正しさに自信を持っているようで、ただそうであって欲しいと願っているだけのようにも見えた。
彼女は、柚木は、一体何にそこまで執着しているのだろう……。
俺は結局その疑問を口にすることのないまま、光が消えるまでの残り数分、彼女との他愛もない会話を楽しんだ。