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月が繋ぐ  作者:
2/8

第二話 よし、今日は美山でお日様見

「"ミヤマノカガミイワ"……って何のことかわかる?」

「「「…………」」」


 恐る恐る口にしたその問いに、しかし1秒、2秒待てども誰からも返事はない。輪廻は小さく首を傾げ、降雪は困ったように眉を下げ、千畳は思案顔で腕を組む。

 まあそうだろう。たかが落書きだ。そこに何か意味がある保証なんてどこにもない。


 "ミヤマノカガミイワ"。


 俺の机に彫られていたのはそんな奇妙な言葉だった。表記はそのままカタカナ9文字。どこかに続きが無いものかと机中隈なく探してみたが結局それらしいものは見つからず。


「『ミヤマ』って言ったら……西篠原(にししのはら)にある、あの『美山(みやま)』のことだよな」


 長く続いた沈黙のあと、初めに口を開いたのは千畳だった。顎に手を添え、どこか隅の方に視線を遣るのは何か考え事をする時の千畳の癖だ。

 

 ――西篠原。

 昨今の市町村合併で誕生した篠原市はその広大な面積ゆえ、行政上市全体を東西南北大きく4つに分割されることが多い。

 例えばここ、俺達の通う篠原高校を含む東篠原は、実に篠原市民の7割が暮らす居住区である。篠原高生の半数以上は同区内から通学しており、降雪を除いた俺と輪廻、それから千畳の家もこの東篠原にある。

 そして話に出た西篠原とは、『美山』と呼ばれる200~300メートル級のなだらかな山を有した自然の豊かな地域である。春は桜、秋は紅葉を見物に県内外から観光客が訪れ、散策を楽しむための遊歩道なんかもちゃんと整備されてある。『美山』という名前の由来については諸説あるのだが、一般的にはその名の通り「美しい山」からきているとされている。

 長くなるので、南篠原と北篠原についてはまた次の機会に……。


「ああ、"ミヤマ"はあの美山のことだと思う」


 千畳の意見には俺も同意だ。この辺りに住む人間が"ミヤマ"と聞いて想像するものなど、あの美山を除いて他にない。


「でも"カガミイワ"ってなにかな? 聞いたことない……」


 そしてなぜか申し訳なさそうにきゅっと下を向いてしまう降雪。


「そこなんだよな……俺も小さい頃から何度もあの山には行ってるけど、そんな言葉一度も聞いたことなくてさ」


 降雪に続き、ガクリとうなだれる俺。

 篠原市民で美山を訪れたことのない者などまずいない。幼稚園や小学校の遠足なんかではもはやお決まりのコースだし、あの山についてはそれなりに知りつくしている自信がある。だからこそ全く聞き覚えのない"カガミイワ"なんて言葉が余計気になったのだ。

 考えてはみるが何も思い当たる節がなく、3人でうんうんと唸るばかりの時間が過ぎる。するとさっきまでずっと沈黙を守っていた輪廻が唐突に話を切り出した。


「それはさ、きっと遊びに行け! ってことだよ!」


 ………………。


 きっと、2秒くらいの間があったと思う。そして……。


「は?」

「え?」

「ん?」


 一同、頭の上に等しく浮かぶ疑問符。


「だ、か、ら、遊びに行こう! って話!」


 反応の薄い俺達に対し、輪廻は更に声を張る。

 ……いやいや、なんで「皆そんな理解力ないかな、はぁ(溜息)」みたいな顔してんの。全然意味わかんないの全部お前のせいだから。


「ねぇツグ、せっかく学校早く終わったんだしさ、みんなで遊び行こうよ! うん、丁度いい! 今日はみんなで美山でお月見しよう! あ、でも夜じゃないからお日様見? まあなんでもいいや、はい決定!」

「おいおい待てって、まだ誰も……」


 慌てて抵抗を試みる俺。このままだといつものように輪廻のわがままに強引に付き合わされる羽目になる。だがしかし……。


「あ、でも私それ賛成かも」

「ちょっ、降雪……」


 思わぬところに伏兵がいた。振り返ると、控えめに手を上げる降雪の姿。女子二人がイエスと言うならもうそれはどんな天変地異が起ころうと決して覆されぬ決定事項だ。


「だってよ。こりゃ逆らえんな」


 あうあう、とまだ反論を試みようとする俺の肩に、終戦を告げる優しい手が置かれる。

 隣に並んだ千畳は諦めたように首を振り、奴のそんな苦笑いはやっぱりこんな時でも無駄に絵になるのだった。


 *****************************


「ひゃっほーい!」

「うーん……やっぱり気持ちいいね」


 山頂に着くなりいきなり駆け出した輪廻と、胸一杯に大きく息を吸い込む降雪。その二人に少し遅れる形で俺と千畳も最後の坂を登りきった。


「うぅ……久々だとかなりキツイな」


 膝に手をつき今にもその辺に倒れ込みそうな勢いの俺を他所に、


「そうか? 運動不足解消にはこのくらいが丁度いいんじゃないか?」


 と、澄まし顔の千畳。く、これが凡人たる俺と生まれながらにヒーロー属性たる奴との決して埋まらぬ差か……。俺はこっそりと歯噛みする。

 輪廻の提案により、俺達は学校を出た足でそのまま美山へと向かった。題目はお日様見、まあ要するに簡単なピクニックだ。


「けど三毛君、結局"カガミイワ"ってなんのことかわからなかったね」


 うんっ……とのびを終えた降雪がこちらを振り返り、残念そうに肩をすくめる。ブラウスの裾が少しめくれ上がってヘソが見えちゃってるのがややエロいが、今はそんなことどうでもいい。……いや、やっぱりどうでもよくなくてちょっと気になる。というか、結構気になる。


「そうだな、あの婆さんも知らないとなると……」


 山道に入る前に立ち寄った案内所の婆さんに、俺達は"カガミイワ"という言葉に心当たりがないか尋ねてみた。しかしやはり結果は同じ。「そんな言葉聞いたこともない」っていう婆さんの回答に、この落書きの謎探究の旅はいよいよもって暗雲が立ち込めてきたのである。


「ま、そんな首尾よく行くもんじゃないだろ」


 半分は落ち込む降雪を慰めるつもりで、もう半分は本当に諦めのつもりで俺はそう口にした。元々それほど真剣に解決したいわけでもない。わからなければそれでいいや、ぐらいの適当投げやりモチベーション。


「にしても、リンのやつどれだけはしゃいでんだよ……」


 どこか暗い雰囲気の漂う俺達とは対照的に、ふと視界に入った輪廻は「わぉー」とか「ぐぉー」とかなんだか良くわからない雄叫びをあげながら辺りを縦横無尽に駆け回っていた。それを見た千畳が気を取り直したように、俺と降雪の肩を叩く。


「よし、せっかくここまで来たんだから俺達も楽しむか。妹さん(・・・)を見習って」

「……『妹さん』に変なアクセントがついてた気がする。おい、それ絶対嫌味だろ」

 

 薄く開いた目で隣を見やると、「さあ?」とシラを切る千畳。


「ねーえーツグ達もこっちきなよー! 水が冷たくて気持ちーよー!」


 随分声が遠くなったと思ったら、いつの間にやら輪廻はずっと向こうの川の方まで行っていた。そこからこちらに向かって大手を振り、もし犬だったら尻尾までブンブン振り回していそうな勢い。そんな輪廻を見て隣の降雪がクスっと小さく笑みをこぼした。振り向くと、少し朱に染まった降雪の横顔が幾分元気を取り戻したようだったので、俺はほっと安堵の息をつく。


「さ、三毛君。リンちゃんが向こうで待ってるよ、行こう?」


 両手で口元を囲い「今行くねー!」と精一杯の大声で返事をした降雪は、一足先に輪廻の下へと駆け出していった。普段は物静かで大人しい降雪だが、輪廻と一緒にいるときはこんな無邪気な姿を見せたりもする。


「冷たくて気持ちいい……って、まだ4月だろ? 絶対寒いし」

「まあまあ、女に逆らうと後が怖いぞ」


 ぶつくさ文句を垂れる俺とそれをなだめる千畳。そうは言いつつも結局二人して彼女達の後を追ったわけなのだが。


 *****************************


 なんだかんだ言って結構楽しめた、ってのが正直な感想。

 川で盛大に水のかけ合いをした後は、服を乾かすためと言って鬼ごっこが始まり、それに疲れると今度は草の上に大の字に伏す。誰も他に人がいなかったのをいいことに、俺達は高校生という身分も忘れすっかり童心に帰って無邪気に遊び回っていた。


 そんな風に散々騒いだ後で、今はここに来る前に調達してきたサンドイッチを皆で食べているところ。

 モグモグムシャムシャと人一倍食欲旺盛な輪廻と対照的に、まるでウサギがかじるみたいに端からちょっとずつ口に含んでいく降雪。

「そんなペースじゃ一つ食べ終わるのにどんだけ時間かかるんだよ」ってつっこむ俺と千畳に、「いいの、こっちの方が食べ過ぎないから」ってニコリと微笑み返す降雪。その直後、隣でやり取りを聞いていた輪廻が食べかけのサンドイッチをこっそり袋の中に戻すのを見て、今度は俺達3人で大爆笑。

 輪廻のわがままに付き合わされた一日だったが、久々にたくさん笑った気がする。


 そろそろ日も傾き始めた時刻は16時過ぎ。4月初旬のこの季節、夕刻になるとまた途端に寒さが増してくる。

 ぶるっ、と降雪が大きく身震いしたのをきっかけに「そろそろ下りようか」と千畳がお日様見の会を締めにかかる。輪廻は「えーもう帰るの?」と未練がましく不平を言ったが、今回ばかりは降雪の賛同を得られそうにない。口を尖らせトボトボとカバンを取りに向かうその後ろ姿は……特に可愛くはなかった。


「リン、お前明日から朝練あるんだろ? 今日は早く休んだ方が身のためだって」


 それでも俺は気を落とす妹に対して多少の気遣いを見せたのだが……。


「うげぇ……さっき大岡にあんなこと言っちゃったから明日から絶対しごかれるよ……。あーもう! ツグはヤなこと思い出させるなぁ!」


 なんてこった。我が妹様は俺の善意の一言にあろうことか悪態をつくときた。

 しかし、さすがにこの輪廻の傍若無人ぶりは目に余るものがあったようだ。隣で降雪が声を荒げる。


「リンちゃん! 三毛君はリンちゃんのためを思って言ってくれてるんだよ! ほら、三毛君に謝る!」

「……はーい。ツグ、八つ当たりしてごめん……ね?」


 輪廻もいつも面倒を見てもらってる降雪にだけは頭が上がらないようで、ここは素直に俺に謝ってきた。最後の「……ね?」に少しあざとさを感じたが、まあ今回は意図してやってるわけでもなさそうなので黙認。


「よし、じゃあ仲直りもしたところでさっさと下りるか。麓の案内所にあと30分でバスが来る。少し急ぐぞ」


 そこで千畳はパンと両手を打って皆を促した。こういう時こそ頼りになる男だ。もし千畳がいなければ、このメンバーじゃいつまでたっても話が脱線して先に進まないだろう。本当に千畳がいてよかった。ああーよかったな、あなーたがいてー。


 *****************************


 結局、出発時刻には5分ほどの余裕をもって麓のバス停にたどり着いた。千畳が急ぐように言ったのもあるだろうが、さすがに冷え込んできた山の中で皆の足が自然と速くなっていたのもあると思う。乗り込んだバスは少し暖房が効いていて、それが今はとてもありがたかった。

 美山を訪れていたのが俺達だけということから大体察しはつくだろうが、他に乗客はほとんどいない。休日なら観光客でもう少し賑わっただろうが、平日の夕方なんて地方の景勝地ならこんなものだろう。

 真っ先に乗り込んだ俺は迷わず中列席の窓側へと滑り込んだ。降りるバス停までここからだと優に30分はかかるので、軽くうたた寝でもしようという算段だ。

 それを察してみんな最後部の席にまとめて座ってくれたらいいな、もしくは空気の読める千畳か物静かな降雪が隣に……と思っていたら、


「はーい、私ツグの隣!」

「げ……」


 なんと、隣に座ったのは最も招かざる客人、我が暴妹(ぼうまい)こと三毛輪廻だった。


「ふふーん、自分だけ寝ようったってそうはさせないからね」


 そう言って得意げに鼻を鳴らす輪廻。俺の考えなどとうに見透かしているとでも言うのか。さすがは双子。遺伝子の悪意を感じる。


「じゃ、コウちゃん。隣座っていい?」

「ああ。降雪の方が先に駅で降りるから通路側でいいか?」

「うん、大丈夫」


 そして、通路を挟んだ向こうの席には千畳と降雪が並んで腰を下ろす。静かそうでいいな、俺も向こうが良かった……。そんな風に目を細め思いを馳せていたら、


「……なんで私が隣だとそんなに嫌そうなの」


 輪廻はぶすっと膨れ、不機嫌そうにわざとらしいため息をついた。


「それがわかるなら話しかけないでくれ」


 対する俺も、体ごとぷいっと窓の方へと向き直る。


「せっかく可愛い妹がお兄ちゃんとの仲を深めようとしてあげてるのに……ブツブツ」


 輪廻はつまらなさそうにブツブツブツブツ。

 毎朝一緒に登校してる兄妹がどうしてこれ以上仲を深める必要がある。俺は輪廻の戯言に徹底して無視を決め込んだのだった。


 *****************************


「ただいまー!」

「……」


 元気良く家の戸を開け放った輪廻に続いて、俺は静々と扉をくぐる。


「あら? 二人とも今日も一緒におでかけ? 本当に仲良しね、あんた達」


 リビングから顔を覗かせた母親の手にはおたまが握られ、冷えた体にさぞ染み渡りそうな温かいシチューの香りが廊下へとなだれ込んできた。


「ふふーん。ツグがねぇ……『俺もついていく!』って言って聞かないんだよ。ほんと、お子様なんだから」

「バカ言え。……いつものメンバーだよ、千畳に降雪」

「まあ、千畳君に降雪さんね。ほんといつもお世話になって……またウチにも遊びに来てって言っといて」


 高校に入って2人は何度かわが家にも遊びに来ている。母親がこんな性格だから気兼ねなく滞在できるというのもあるだろうが、何より4人の内の2人が同じ家に住んでいるという時点でたまり場はほぼ決まったようなものである。


「おっけー! そんときはお母さんまたケーキ買ってきてよ!」

「はいはい……さ、そろそろお父さんも帰ってくる頃だから着替えてきなさい。ご飯にしましょう」

「はーい!」


 高校2年生にしてはいささか素直すぎる輪廻の返事が廊下にこだまし、ペットの猫が階段の途中でうるさいと言わんばかりにみゃーと鳴く。ちなみに猫はもちろん三毛猫。おーけい、三毛家は今日も平常運転だ。


 *****************************


 晩飯後に風呂も済ませ、今はリビングでテレビを見ながらダラダラダラダラ。

 特に見たい番組があるわけでもないが、かといって早々と寝てしまうのはなんか自然の摂理に負けた気がする……ってなわけでこうしてささやかながら無意味な抵抗を試みるのがいつもの日課だ。もちろん時間があるからといって勉強なんかする気は毛頭ない。

 いくつかの番組をハシゴして、さて今度はどれにしようか、とチャンネルを回すがなかなかピンと来るものがない。そろそろ潮時かな……そう思ってソファの隣を見ると、輪廻はすっかりテレビに飽きたようで、つまらなさそうに携帯をいじっていた。


 携帯? ん、そういや……?


 ふと思い立ち、俺は脱ぎ散らかしていた制服のポケットを探る。


 ん、んん……?


 おかしい。思いつく限り全てのポケットを探ってみる。しかし、どこにも目当ての四角い感触が無い。


「やべ……携帯忘れたかも」

「え、忘れたって……学校?」


 ソファに深く沈み込んだ輪廻がそのままの姿勢で顔だけをこちらに向けた。

 学校……いや、その後も携帯をさわった記憶がある。まさかこれは……、


「……多分美山だと思う」

「うひゃー! そりゃ大変だ!」


 さすがの輪廻もソファから腰を浮かせ、驚きの声を上げた。


「…………」


 俺は数秒の躊躇のあと、やはりそれしかないと覚悟を決める。


「……ちょっと取りに行ってくるわ」

「え、今から!? なんで、明日にしなよ。もう日付け変わっちゃうよ!?」

「先週買い替えたばっかなんだよ。夜露にやられでもしたら終わりだ」


 俺だってこんな夜中に外出したいわけがない。ただこのまま外に放置しておいたのでは、気が気で夜も寝つけないだろう。


「とにかく行ってくる」

「え、ええ…!?」


 これ以上ここにいたら決心が鈍ってしまいそうだ。戸惑いの表情を浮かべる輪廻を背に、俺はリビングを飛び出す。そして、しばらく着なくなっていたダウンジャケットを部屋から引っ張り出すと、大慌てで外に出た。


 ここから美山の麓までは自転車を飛ばせば30分はかからない。しかし問題はそこから山頂までの道のりだ。さすがにあの坂道を自転車で登るのは厳しい。急いで登ったとしても人の足だと15分はかかるだろう。

 俺は外の冷気に軽く身震いをして、腕時計に目をやる。


「23時過ぎか……」


 山頂に着く頃には輪廻の言っていた通り本当に日付けが変わってしまうかもしれない。夜更かし自体はいつものことなので大した苦じゃないが、問題は体力面だ。普段全く運動しない俺が日に二度も美山の上り下りなんて……果たしてこの体はどこまでもってくれるだろうか。


「明日は学校行けないかもしれないな……」


 始業2日目にしていきなり欠席とは、なかなか笑えない話である。知らない内に降雪だけが新しい友達をたくさん作って、俺は天涯孤独のロンリーぼっち生活を送る羽目に……なんてことにはさすがにならないとは思うが。

 そんなどうでも良い思考で突き刺すような風の冷たさを誤魔化しながら、俺は静まり返った真夜中の篠原市をただひたすらに自転車で駆け抜けた。


 *****************************


「あった……」


 本日二度目の美山到着。かなり無理をして飛ばしてきたため、麓の案内所に自転車を止めた頃にはもう足もフラフラ。

 真っ暗な登山コースの入り口はまるで地上に現れたブラックホールのようで、この闇に飲まれてしまったらもう二度と明るい世界には戻れないんじゃないか……みたいな厨二臭い独り言乙☆。

 とにかく視界の効かない山路を月明かりだけを頼りに登り続けるというのは想像の遥か上を行く苦行で、どうして俺は懐中電灯の一つも用意してこなかったのかと半時間前の自分を呪った。


 山頂に着いた頃にはもはや俺の体力は虫の息。ふと気を抜けば崩れ落ちそうな全身を労わりつつ、やっとの思いで昼間サンドイッチを食べていたあたりへと戻ってきた。

 幸い、携帯はすぐに見つかった。予想通り、草むらの上に不用心に投げ出されてあったのだ。


「……さ、帰るか」


 少し操作してみて、とくに問題なく使えたことに安堵したのも束の間、まだこれから「下山→帰宅」という大仕事が残っている。

 俺は既に大声で悲鳴を上げる全身に泣く泣く鞭打ち、暗い山道へと再び足を踏み入れた。


 *****************************


「まずい……」


 マズイ。もちろん飯の話ではない。


「非常に、まずい」


 大事なことだから二度言った。つまりそのマズさ加減はとても大事。大事(だいじ)と書いてまさに大事(おおごと)


「迷った……」


 ええ、完全に迷ってます。今なら何の恥じらいもなく、迷子センターに駆け込んでもいいくらい。

 行きは簡単だった。ただ高いところを目指して単純に登っていけばいい。

 じゃあ帰りは? その逆で低い方を目指してひたすらに降りて行けばいいのか? ……そして、その結果がこれだ。


「どこだ、ここ……?」


 自分の現在地が全くわからない。視界の悪い中で足元の傾斜だけを頼りに進んで来てしまったせいで、いつの間にか登山コースを外れてしまったようだ。

 このままだと山を抜けてもどこに出るのか全く見当もつかない。


「焦り過ぎたか……」


 少し頭を使えば簡単にわかることだった。どこから登ろうとも山頂は一つだが、麓などいくらでもある。360°麓だ。行きと帰りでは状況が違うことを、山道に入る前に気づいておくべきだった。


「こんなときどうすんだっけ?」


 誰かに連絡を取ろうにも生憎携帯は充電切れ。もっともこんな山の中で電波が入るかどうかは怪しいが。


「月明かりだけが頼りか……」


 誤解しないで欲しいが俺は何も好き好んでこんなクサイ台詞を吐いてるわけじゃない。これでも必死に考えを整理しているのだ。誠心誠意、全力で焦っているのである。

 高い木々の切れ間から夜空を見上げる。月の位置さえ分かれば方角くらいはなんとかなるんじゃないか? 正確な現在地はわからなくても、方角さえ正しければそれなりの場所には下りられそうな気がする。

 幸い、真っ暗な空の中に月だけは煌々と輝いていて、俺は今晩が曇り空でなかった偶然に心の底から感謝した。


「ええと、向こうが東……か?」


 月は東から出て西に沈む。今が大体深夜0時近くだとすると月は真南の空に登っているはずだから……。

 俺は完全に止まってしまっていた足を、今度は慎重に動かし始めた。


 *****************************


「ん……なんだあれ?」


 進むべき方向が決まってからほんの数分。相変わらず不安を抱えたまま山道をさまよっていると、俺は自分の視界の左手に何か光るものがあるのを見つけた。


「結構でかいな……」


 暗闇に目をこらすとどうやらその光源はかなり大きいらしい。少なくとも携帯や懐中電灯のそれではなさそうだ。


「ちょっと行ってみるか」


 どうせ迷っているので今更寄り道したところでさして問題はない。俺はせっかくなので少しだけルートを変更し、気になった光の方へと近づいてみることにした。

 一歩。また一歩。視界の悪い中を足元に注意して進むにつれ、例の光はますます大きく、強くなる。そして……、


「……!」


 ようやくその正体を捉えられる距離まで近づいた時、俺は思わず息を呑んだ。


「岩……?」


 それは大きな岩だった。大人の体よりもう一回りか二回りは大きい巨大な岩石だ。

 山の中に一つだけ場違いな大きな岩。しかもなぜかその周囲は切り開いたように高い木々の天蓋もなく、山の中にぽっかりと空いたドーナツホールのよう。

 そしてその巨大な岩は、壁のように切り立った平らな一面で、見事に月明かりを反射していたのだ。


 正面に立つと、自分の姿が岩に映りこむ。その様はまるで磨かれた"鏡"のよう。


「まさか、カガミイワってこれのことか……?」


 "美山の鏡岩"――その言葉が再び頭をよぎる。そして俺は不思議と納得していた。机にあのメッセージを彫った誰かが、そうまでして伝えたかった理由を。

 真っ暗な闇の中で月の光を一身に受け、まるで昼のように辺りを照らす様。それは息をするのも忘れてしまうほどに、神秘的で、幻想的な光景だった。


「相当ロマンチックな人だったんだろうな。名前も知らぬいつぞやかのお節介な先輩さんは……」


 おかげさまで今日一日輪廻に振り回されるわ、携帯を置き忘れるわ、挙げ句の果てに真夜中に山中で迷子なう。……とさんざんな一日だったわけだが、それでもいい迷惑だとは思わなかった。


「綺麗だな……」


 俺はただ呆然とそれ(・・)に見とれていた。鏡岩に灯る神秘的な月の光に。


 ――だが、次の瞬間。


「……!」


 まるで車のヘッドライトを浴びせられたように目の前が急に眩しくなり、俺は咄嗟に目をつむった。鏡岩の放つ光が急に勢いを増したのだ。


「……つっ」


 視界が真っ白になる。まぶたの裏でも熱を感じるほどの光量。目を開けていたら網膜が焼き切れてしまうのではないかと思うほどの暴力的な光の波は、しかし数秒も経たぬ内に元の穏やかさを取り戻していた。


 なんだったんだ、今のは……?


 再び光が強くなるのを警戒しながら、恐る恐る目を開く。そして状況を確かめようと目の前の鏡岩に焦点を結んだ時、俺はまたしても言葉を失った。


「え……」


 それは、全く嘘みたいな光景だった。心臓が止まるかと思うくらい、衝撃的で、鮮烈だった。


「……誰?」


 目を開いた俺は、そこに少女を見たのだ。自分とそう歳の変わらない、若い少女の姿を。

 彼女は鏡岩の中にいて、呆然と俺の方を見ていたのだ。


 なんだよ、これ……。


 目の前の出来事に理解が追いつかない。岩の中に女の子? 一体何がどうなっているというのか……?


 しかし、そんな混乱した頭の片隅で、俺はなぜかやけに冷静な自分もいることに気づいていた。

 俺は岩に映った彼女の姿を見て、ただ美しい(・・・)と、そう感じたのだった。

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