その後
二年前と同じく、俺の人生を大きく変えた一連の事件は、周囲に大した影響を及ぼさなかった。特にレイラとの対決なんて橋間以外誰も気づかない文字通り異空間での出来事だったから、当たり前と言えば当たり前だ。橋間の正体は気になるので今後少しずつ探っていこうと思う。
籤原と茶髪の男は、迷ったが殺さなかった。かつて圷が優しげに微笑みながら言っていた言葉を思い出したのだ。
「いつでも殺せる相手は、殺さないでいた方が得でございます、我が主」
あいつ特有の悪魔的理屈だった。
「何故ならその者は、貴方様の意のままに動かせるのですから」
あいつの考えに納得したわけではないが、ヤクザのトップともなれば使える人材は多いだろう。手駒にするのは難しくてもヤクザ情報を流させれば役に立つ。レイラを逃した今、ますます情報網を発達させる必要があった。
肝心の美木は、塚本に診察させたら、相当劣悪な環境でドラッグを打たれたんだろうと言われた。量が多くなければ回復はするが精神的に後遺症が残るかもしれないと。心配なので傍についていたら、四日目に元気になった。
「だいじょぶです、瀬田さんがいれば」
嬉しげに笑った美木を見て、救われた気持ちになった。こいつは昔の俺よりずっと強い。悪意に身を蝕まれても、壊れずに立ち上がることができる。
同じころ、テレビのニュースから、このあいだの十亀祐子殺人事件は通りすがりの薬中がラリった勢いで殺した、という発表が流れていた。それは元々美木がやらされるはずだった役割なんだろう。俺と圷だけは真相を知っている。誰が本当に殺したのかを。でもそれを言ったって、誰も信じはしないだろうし、警察も十亀組も収まりがつかない。スケープゴートが必要だったのだ。罪をなすりつけられても問題ない存在が。
新しく調達された生贄は気の毒だが、しかしそれは美木ではない。だから俺はもはやこの結末になんの関心も抱かなかった。
面倒なことと言えば、圷に一部始終を説明しなければならないことぐらいだ。陰気な地下室に降りていくと、圷はなにやらガリガリと紙に書き綴ってはめくり、書き綴ってはめくりしていた。
「それはなんだ?」
「わっ、我が主。いらしていたのですか。いえ、大したものではございません」
にこやかに紙束を背中に隠す。何か新たな画策をしていたらしい。あとで話させようと思いながら近くの椅子に座り、レイラと遭遇したこと、それを逃して美木を助けに行ったことなどを簡単に話した。圷の顔は段々無表情になっていき、話が終わると俺の顔をじとーっと見て言う。
「魔女が出てきても、思ったほど波乱はございませんでしたねぇ」
やっぱりこうきたか。なんとなく予想はしていた。
「俺を嗤うか、圷」
「まさか。僕如きが貴方様のお考えに口を出せるはずもありません」
圷はつまらなそうに肩を竦めた。
「僕にとっては、レイラという女のことはどうでもいいですしね。今回のことはむしろ神国にとってはプラスですよ、トップが配下の者を見捨てず奔走したなんて、素晴らしい美談じゃないですか。堅桜会とも繫がりができましたしね」
相変わらず上っ面を滑って行くような話し方をする男だ。圷はけして俺に反抗したりあからさまに失礼なことを言ったりはしないが、存在そのものが不敬だといつも思う。別に敬われたいわけではないとはいえ、こいつと話すのは疲れる。
万年筆をくるくるとまわしながら、優秀な参謀はのたまった。
「カリスマには情も必要です。冷静で事務的な判断は僕のような小物にお任せください。大局さえ見失わなければ、ご存分に配下の者に温情をお与えになってよろしいんですよ。まぁ貴方様には超然となさっていて欲しかったという僕の個人的な願望はなきにしもあらずですが」
失望されたのかもしれない。知るかよ、と俺は鼻で笑った。圷の理想通りに動いてやる義理はない。もっともそれは圷もわかっている。だからこうやって遠回しな非難をしてくるのだ。
「超然としているのはお前の『神』であって俺じゃない。残念だったな、普通の男で」
返事は聞かず、席を立って外に出る。
通りに出た俺は、これまで何度も通りがかって、でもけして中に入らなかったケーキ屋に足を踏み入れた。この甘ったるい匂いのする店には爆弾がある。イチゴののったショートケーキが。
俺はそれを一つ注文し、可愛らしい女の子が描かれた箱を持って、美木のアパートに向かった。
暮枝清馬が失ったものを、俺はいらないものだと切り捨ててきた。二度と手に入らないし、その必要もない。憎しみだけで生きればいいと。
幸福を求めなかったし復讐以外の全てに意義を認めなかった。
だがレイラと全力でぶつかって、死の際に立った時、美木の存在が俺を引き戻した。最初から期待していなかったものが、既にこの手の中にあるとわかってしまった。それならもう二度と失くしたくはないと思ったのだ。
昏行レイラに対する殺意が消えたわけじゃない。今も静かに沸々と胸の奥で湧き立っている。あいつを殺すことは俺の最大の目標だ。ただ、これまでのようにそれを到達点にはしない。レイラが死んでも俺は生き続ける。きっとまだ、この世界は俺にとって価値があるから。暗く邪悪な闇の中で、安らげる灯りを見出した今、魔女が招く魔境へ堕ちはしない。
『瀬田百雨』というのは俺にとっては記号にすぎなかった。『瀬田百雨』は神であり、『力』の行使者であり、レイラを殺すためだけの装置だった。暮枝清馬、枳殻圷、マツシタの思惑が絡まった都合のいい仕組み。
しかしその思惑は打ち破られた。『瀬田百雨』は己を人間と自覚した。
「え、せたさ、あの、すみません、ちらかって、」
おろおろしている美木に構わず部屋に入り、小さい卓袱台の上にケーキの箱を置く。店員に入れてもらったプラスチックのスプーンでざくりとケーキを掬い取り、美木の口に突っ込んだら、目を白黒させて咀嚼し、珍しく屈託なくにへら、と笑った。
その光景を俺は、じわりと胸に広がる郷愁と感謝と安堵と共に受け入れる。
――そう。
瀬田百雨の、新しい人生が始まったのだ。




