瀬田百雨の新しい日々3
「おや、雨が上がったようですね」
まだつけたままだった監視カメラの画面を見て、圷が言う。誰もいなくなったグラウンドには、少しずつ日が差し始めているようだった。
「『神国』のメンバーに美木を見たら知らせるようメールしてくれ。俺は念のため、あいつのアパートとマギダンに行ってみる」
「かしこまりました。お気をつけて」
気をつけて? 何に気をつけるんだろうな。今の俺は、急に曲がってきたダンプカーだって止められるのに。コートをを羽織り、圷に見送られながら、ほの暗い階段を上っていく。三重の扉を抜けて地上に顔を出し、久しぶりに感じる本物の日の光に、吸血鬼のような気分を味わう。地下の重苦しく堅牢な様子に比べ、ここはあまりに開放的で、無防備だ。
大通りに出て、落ち葉を踏みながら歩いて行く。人も車もひっきりなしに行き交って慌ただしい。
……あれ? 今すれ違った女、なんとなく見覚えがある。誰だったっけ? 色白で、綺麗な黒髪を肩まで伸ばした上品な美人。青いブラウスにベージュのトレンチコートという地味な格好だが、何故か目が惹きつけられる。どこかで会った。どこかで……。
考え込んでいると、女が振り返った。まずい、まだ思いだしてない、いやただの勘違いかも――
「あ」
唐突に女は言った。
「みつけた」
事態を理解するより早く、俺は時を止めた。
しかし全てが静止した世界の中、女は軽快に地面を蹴り、俺の正面に躍り出る。
「あんただったの。へーえ」
そう言うと女はにいぃと笑い、見る間にその姿を変えていった。背は低く、髪は長く目の覚めるようなピンクに、服は派手に、顔は幼さの残る愛くるしいつくりに――
そして高い声で歌うように言う。
「お久しぶりっ☆ お兄様っ!」
レイラ!!
体中を稲妻のように悪寒が駆け抜けた。かっと目の前が赤く染まり、あの時の感情が一気に蘇る。絶望、怒り、憎しみ、後悔、全ての負の感情が凝縮され、力となって迸った。
――こいつを殺す、絶対に!!
持てる力を振り絞り、全力でレイラの時を止めようと俺は一歩踏み出す。足だけでもいい、こいつが動けなくなればそれで、その間に俺は首を絞めて頭をかちわってこいつの息の根を止めてやる……!
「やだなぁ、なんか怒ってますぅ? お兄様こわぁい」
からかうような調子で少女は言う。目には見えないが、何か力を使ったのがわかった。押しつぶされそうな重圧が押し寄せてくる。
「くっ、お前! 何を……!」
「いい眼になったね、清馬くん」
レイラはにこりと笑った。
「なんの希望も持てないんでしょう。うふふ、そう、もっと堕ちてらっしゃいよ!」
ああこれだ、この顔だ、この楽しげな顔が憎くてしょうがなかった。
体中から憎しみが噴出す。何を犠牲にしても構わない。どうせ捨てて惜しいものなどありはしない。この女を殺す。殺す。殺す。殺す!
お前をけして、許しはしない。
「おとなしく殺されろよ、悪魔!」
「あはは、ばっかみたーい☆」
レイラはきゃらきゃらと甲高い声で笑った。
「悪魔だってぇ! そんなものに何ができるっていうのぉ? 人を壊すのはいつだって人なんだよっ☆ レイラちゃんだってフツーの女の子だもん!」
耳を貸しちゃ駄目だ、集中力が乱される、今はただこいつを殺すことだけを、力を、もっと力を!
頭蓋骨がピシッと音を立てる。前に力を限界まで使ったときも、こうなった。あの時は危ないと思って止めたけど、今は止めるわけにいかない。効いてないわけじゃないんだ、レイラだってさっきから一歩も動けてない。お互いにどうにかして動こうと、そして相手を動かすまいと力を使い続けてる。
「……私が憎いの? ねぇ、清馬くん?」
レイラの声はかすれていた。さっきまでの楽しそうな様子とは打って変わって、爛々とした眼で睨みつけてくる。
「これがどんな力なのかも知らないくせに、手に入れればどうなるかも知らないくせに、私が何を背負ってるかも知らないくせに!」
「だからなんだ!?」
力を、力を、力を!
「お前の事情なんか知ったことか。俺がしたいことはあの時から一つだけ、お前をこの手で殺すことだ!」
静止した空間の中で二人だけが僅かに相手に向かって進む。俺は一瞬だけレイラに使う力を止めて、自分の内側に力を戻し、両手をばっと前に突き出した。前のめりになりながらレイラの首に手を伸ばす。レイラも俺を迎え撃つように手のひらを向けてきた。こいつの手に触れないうちに決着をつけなくちゃならない。腐らせられたらおしまいだ。
目の端でバイクがびゅんと横を通り過ぎていった。いつも時を止めるときと違って、今の俺はレイラとの闘いに全精力を傾けてるから、レイラの足にしか力を使ってない。レイラも俺たちの周り数メートルにだけ力を使っているようだ。余裕があるようには見えないから、コントロールが下手なのかもしれない。ひらりと落ちてきた木の葉が、レイラの頭上三十センチのところで止まった。宙に浮いたまま微動だにしない。こいつの力の範囲は、ここまでか。
レイラはかっと目を見開いて俺を見上げた。俺はぎりぎりと歯を食いしばる。脳に無視しがたい痛みが溢れて、はじけ散るんじゃないかと思う。でももう少し、もう少しなんだ、もう少しで俺は――
「……――さん……!」
え?
「……ん、せたさん、瀬田さんですよね!? 返事してください!」
くぐもった声がどこからか聞こえる。そんなはずない、この空間は多分周りから遮断されてる。時間の進みがずれてるから、外側からは感知できないはずだ。
「瀬田さん! すみません! 報告が!」
レイラの後ろに橋間の姿が見えた。珍しく必死な様子で手を振りまわしてる。あいつ何者なんだ。
「なんだ、いま忙し――」
「遠藤が!」
橋間はせっぱつまったように叫んだ。
「遠藤がさらわれました! 多分ヤクザに! 殺されます!」
「……っ!」
ヤクザに? こないだの殺人絡みか? だからって何故あいつが……いや、だからなんなんだ、この大変な時にわざわざそんなことを言いに来たのか、美木なんかどうでもいい、ただの駒だ、元々情なんかない、使い捨てるために拾ったんだ、どこで死のうが知ったことか。
レイラと邂逅した今、『神国』も美木も用済みだ。美木を助けるためには今すぐ居場所をつきとめて飛んでいって、『力』を使わなきゃならない、あるいはここで街中の時を止めるかだ。でもそんな馬鹿なまねをしたらレイラを逃がしてしまう……!
レイラが腕を広げた。小さく華奢な体から異様なほどの威圧感が滲み出る。眉間にしわを寄せ、口の端を釣り上げてぞっとするような顔で言った。
「――私を殺せるの?」
体中燃えるように熱い。火が吹き出るようだ。もう吹き出てるんじゃないか。レイラの姿が霞んでいく。五感が機能しなくなる。それでも力を止めはしなかった。殺せるのかって? 当たり前だ、そのために今まで生きてきたんだから!
地獄の劫火に焼きつくされているかのような気分だ。酸素が足りない。きっとこの熱は、俺の憎しみの炎なのだ。このままいたら死ぬだろう。だが魔女を殺せるならそれでいい。
意識が朦朧としていく中、走馬灯のようにとりとめもなく古い記憶が蘇る。誕生日に遊園地に行って。父さんが自転車に乗れるように手伝ってくれて。母の日におこずかいでカーネーション買って。床に落書きして怒られて。好きな子がほかの奴と手を繋いでるとこ見ちゃって。元気出せよって吉行が肩をたたく。ピンクの女の子。可愛いお子様ランチ。崩れてないショートケーキ。血だまり。折れたテーブルの脚。転がる頭部。
『優しい子に育ってくれてうれしいわ』
母さんの笑顔が浮かぶ。優しさは弱さだ。弱さは罪だ。俺はもう弱くない。もう間違ったりしない。
『……瀬田さん』
金髪の男が、伺うように俺を見た。
躊躇うように俺を呼ぶ声。頭を撫でると驚いて目をつぶる。耐えるようなその顔は、本当は嬉しくてしょうがないからだと俺は知ってる。いつだって小さなことで喜んで控えめにはにかんでいた。俺を信じて。俺だけを信じて。
――美木。
「あ」
目を開けた。
今のは……今のはなんだ? 雷に打たれたような衝撃が体を走り抜けた。汚濁を切り裂く閃光のごとく。スパークして真っ白になった頭に強烈な指令が響き渡る。
――これを逃してはならない。
相変わらず前は見えない。炎に塗りつぶされた視界。それでも俺は、見なくちゃいけなかった。進まなくちゃいけなかった。本当に俺が行くべき場所に。
「……いつか、必ず」
俺は『力』を止めた。焼けた喉から、しゃがれた声が出る。
「お前を殺す! だから今は黙って消えろ!」
その途端熱がすっと引いていった。がくりと足が崩れ、俺は地面に倒れた。レイラの平坦な声が上からふってくる。
「つまんない」
まだ甘いね、とレイラは物憂げにため息をついた。勝手に馬鹿にすればいい。お前には一生俺の気持ちはわからない。
――これは同情じゃないんだ。
可哀想なんてそんなつまらない感情じゃない。優しさなんてない。ちっとも綺麗じゃなくて歪な、エゴにすぎない欲求。
俺はあいつが笑ってるところが見たい。俺についてくる足音を聞きたい。俺を見つめる視線を感じたい。
不確かな世界で、何も拠り所がなく、手探りで暗闇を彷徨うようなことばかりして、平穏もなく、安寧もなく、ただ気を張り詰めて生きていると思っていた。
でも違う。あいつと出会ったときからきっと何かが変わった。
徐々に、無意識のうちに俺は悟っていったのだ。
――遠藤美木は、俺を裏切らない。
俺はあいつを手放したくない。手放してたまるもんか!
顔を上げ睨みつけると、レイラはせせら笑って身を翻した。
「愚かね」
嘲笑うような声は、あっという間に遥か遠くへ。
一瞬後悔がよぎる。本当にこれで良かったのか?
――いい。あの女と永遠に闘い続けるなんてごめんだ。その間に大事なものを失ってしまうかもしれないのに。
そう、俺はもう間違えたりしない。
大事なものは、この手で守る。




