瀬田百雨の新しい日々1
ひっきりなしにふる雨音は、ここではほとんど聞こえなくなる。地下は不便も多いが、簡単に見つからない場所であり、万が一攻め入られても入口が小さいゆえに対処しやすいというところが気に入っていた。もっとも俺の本当の敵は、こんなちゃちな造りなどものともせずに地下室中を破壊しつくすだろうが。
監視カメラが送ってくる映像をパソコンで流し見ていたら、ポケットにつっこんである携帯からメールの受信音が鳴った。桐津の定期報告だ。遠藤の揉め事と、それに関わった人物、どのように握りつぶしたかが詳細に書いてある。
あいつまた喧嘩したのか……。最近は落ち着いてると思ってたんだが。立場上絡まれることが多いのは仕方ないが、上手くかわす術を身につけて欲しい。
『最近瀬田さんの名前が知られてきてるみたいで、会わせてくれって奴が結構います。だいたい腕に自信があるタイプです。一応伝えとくって言ってますけど、どうしますか?』
メールの最後についでのように書かれた文章に、俺は目を細めた。
「――そろそろか」
「どうかなさいましたか、我が主よ」
安楽椅子で良い姿勢のお手本のように背筋を伸ばして本を読んでいた圷が、立ちあがって俺の傍に来る。俺は携帯の画面を圷に見せた。
「今のところ全て、お前の思い通りに事が進んでるな」
「恐縮です。まだ序盤にもさしかかっていません」
ただの土台づくりですよ、と圷は軽く言った。
優秀な部下を揃える。神国の名を上げる。神秘性を持たせながら瀬田百雨の名を広める。
目標は順調に達成され、俺の望む未来へと近づいて行く。
パソコンに映し出されるいくつもの映像のうちの一つで怒号が上がった。意味不明な言葉を叫びながら制服を着た男たちが殴り合っている。彼らはなんのためにそんなことをしているかわかっているのだろうか。人を傷つけて自分も傷ついて、その結果何が得られると思っているんだろう。つまらない茶番を見せられている気分だった。
圷もパソコンに目を向け、始まりましたねぇと呑気な声で言う。
「雨の中元気なことです。ちょっと見えづらいですね。個々の攻撃性を知りたかったのに。あぁ、糠谷高校の方が優勢なのかな?」
傍観者ゆえの無責任な気楽さだ。どちらが勝っても俺達に不都合はない。今のところどちらとも全く関わりがないからだ。しかしこの抗争に決着がついたら、俺は勝った方のトップを勧誘しに行く。そのためにわざわざこのあいだ隣県まで行ってカメラを設置してきた。あまり興味が惹かれない映像だが、俺はこの喧嘩の結末を見届けなればならない。
手帳を見ながら圷が説明し出す。
「糠谷のトップは地元の名士の息子で、父親が愛人を作ったことをきっかけとしてグレたそうです。多少の不祥事は親の力でもみ消してきたとか。駒互第三のトップは兄が有名な不良で、流れでそのまま不良になったそうです」
俺はため息をつき、パソコンの音量を下げた。どうせ怒鳴り声と殴打音しか聞こえない。
「奴らは、自ら恵まれた環境を溝に捨てているくせに不幸だと嘆くんだな」
「仰るとおりです、我が主よ。しかしあなたとてその力があれば――」
言いかけた圷の口を右手でふさぐ。それ以上言われたら、いくらこいつが有能でも我慢できなくなる。
「あいつらは、その気になればすぐにでもまともな世界に帰ることができるんだ。俺とは違う」
冷えた目で見下ろして吐き捨てるように言う。
「君だってそうだ、圷」
手を離すと、圷は少し咳き込んでから微笑んだ。
「いいえ、違います我が主よ。僕はもう戻れません。僕の血はすでに赤くはないのです。貴方を知ったその時から――僕もまた神となった」
圷は恍惚とした表情を浮かべ、夢見るように俺を見つめた。
「貴方は僕の最高の作品です。それを捨てて生きることはできません」
「……そうか」
目の前の小柄な男の目から発せられる異様なほどの輝きから視線を逸らし、俺は会話を止めた。圷の性格はよくわかっている。俺が味わった苦痛を奴は知らないが、それでも圷は、『枳殻圷』という人間である限り、この暗い世界から抜け出すことはできない。何をどうしたらこういう性格になるのか、恐ろしく業が深い男だ。
ほとんどの人間は誤解しているようだが、圷の正体は臆病で地味な使いぱしりなんかではない。例えうざったい前髪で目が隠れ気味のいじめられっこに見えても、奴はれっきとした加害者で、類まれなる扇動者だった。
俺が奴を見出したのではなく、奴が俺を見出したのだ。当初、俺は絶大な力を手にしながらも、それをどう使えばいいかなんてほとんどわかっていなかった。
チームを作り幻想を創り『神』を生み出したのは圷だ。俺の力を最大限に活用し、ここぞというところで一番効果的に使わせる。あいつがいなければ俺はここまで来ることはできなかった。
けれど、だからといって自分が操られているとは思わない。
圷は上に立ちたいのではなく、演出がしたい人間なのだ。緻密に練り上げ時間をかけて発動させた自分の才能の結晶、それが大衆を動かし支配しているのを見るのを無上の喜びとする。
だからむしろ縛られているのは圷の方だ。俺がいなくては、この歪な世界は成り立たない。演出マシンを使うにはどうしても『神』が必要だ。一度奇跡を見てしまった奴らは、半端な代役じゃ満足できない。力を持つ俺が玉座に座ってこそ、圧倒的な伝説が生まれる。
『神国』はまだ完成していない。圷が望む状態にはほど遠い。俺の存在を認識しているのは一握りの奴らだけだし、『神国』全体の規模も小さすぎる。
少なくとも街一つを手中に。そしていずれは不良のみならず暴力団やホームレス、不法滞在外国人などの、グレーゾーンに生きる全ての者が俺の支配下となるように。『神国』を無視してはこの国、世界すらも立ちいかなくなるような状態にする。それが圷の野望だ。
俺に権力欲はない。元々どうしようもないほど小市民的性格だった。人の上に立つとか、命令するとか、そんなことは思ってもみなかった。
だが今は違う。あいつを探し出すためならどんなことでもしてみせる。何を犠牲にしても構わない。
俺の大切だったもの、当たり前だと思っていた日常は、破壊しつくされた。後に残ったのは空虚な心と限りない憎しみ。
――魔女・昏行レイラに復讐を。
そのためだけに、俺は生きている。
第六章★瀬田百雨の新しい日々
――二年前。
鉄臭い匂いがこもったリビングで、俺はしばらく固まっていた。
ただのモノと化した俺の家族と親友はぴくりとも動かず、レースのカーテン越しに差し込む暖かな光に照らされて、滑稽なほど現実味がない。
全てが大掛かりな冗談のような気がして手を伸ばすが、床を汚す赤はケチャップでも絵の具でもなくて確かに血で、それはこの馴染みのある顔がついた頭部から流れ出ているものなのだ。
宅配業者の声が止んだ。留守だと思われたんだろう。俺はのろのろと立ち上がって、斜光カーテンを閉めた。途端に暗くなる室内に少しほっとする。匂いは消えないけど仕方ない。
ふらつきながら二階に上り自分の部屋に入って、ベッドの上に倒れ込んだ。滅茶苦茶疲れてる。なんだか悪い夢を見てるみたいだ。このまま寝て起きたら、何もかも元通りになってればいいのに。目を閉じると、途端にさっきまで見ていた陰惨な光景が浮かんだ。目蓋の裏にこびりついて離れない。何も考えたくないのに、山ほどの疑問とか後悔とか怒りとか悲しみが押し寄せてきて俺のことを責め立てる。
――うるせぇ。
いつになく凶暴な気持ちで思った。
俺は寝たい。寝かせろ。
煩わしい思考を振り切るように寝返りを打つ。布団の端を握り締めてぼーっとしていたら、ふと気付いた。
なんだろあれ。机の下になんか変なもんが見える。あんなのあったっけ。なんか大きいし、邪魔そうな――
「っひ、」
足、だ。
足が見える。足だけが。スーツと革靴を履いたまま投げ出されて――
「う、ぐ、ぐぇ、ふ、うぅ、うえええぇぇ」
吐いた。
袋も洗面器もなかったからベッドの上にぶちまけた。汚い。気持ち悪い。母さんに怒られる、と思って、一瞬後に、あ、もういないんだ、って思いだした。喉の奥が焼けるように痛む。涙が滲む。苦しい。くるしい。
俺は机の上の貯金箱をひっくり返してお札を掴み、ズボンのポケットに押し込んだ。
もうここにはいられない。家を出よう。この鉄臭い匂いがこもった家から、死体がいくつも転がる家から、俺が生まれ育った家から。
前のめりになる勢いで玄関に降りた。スニーカーに足を突っ込んで そのままふらふらドアの外に出る。明るい日差しが眩しくて怖かった。なんでこんなふつうなんだろう。母さんも姉ちゃんも吉行も父さんもいないのになんで。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃだ。いろんな考えがぐるぐる回って、どうすればいいのかわからない。
俺が悪いのか。俺がいけなかったのか。あの子の言うとおり、俺が、俺さえ何もしなかったら、今頃きっと、いつもと同じ『ふつう』のまま――
「あああああぁ!」
いやだいやだいやだ考えたくない知らない何も知らないそんなの知らないだってわかんねぇよ、こんなことになるなんて誰が思う、あれだって俺には『ふつう』だったよ、『ふつう』に小さい子に優しくしたんだ、それしかなかった、ほかの道なんかなにも、でも、でも確かに――俺がきっかけで、死んだんだ。
絶望的な気持ちを振り切るように走り出した。
俺が殺したようなものだ、違う、そんなんじゃない、でもそう思われる、誰に? ほかの人たちに。だってあの子が言った、俺の指紋を包丁につけたって、そしてあの子は多分人間じゃない。起こったことをそのまま話したって、誰も信じてくれないだろう。
速く、もっと速く走らなきゃ。どこに行くかなんて考えてない、でもじっとなんかしてられない、少しでも立ち止まったら、すぐに警察が俺の前にぬっと現われて、銀の手錠を持って「逮捕します」なんて言うんじゃないかって気がする。
――違う、俺がやったわけじゃない、俺はなにもしてない。
そう思った途端、またあの血まみれの居間が脳裏に蘇る。
母さんの結婚指輪。どろりとした肉片。
「……っ!」
ぎゅうう、と引き絞られるように胸が痛む。息が詰まって、思わずその場に蹲ってしまった。こんなことしてる余裕はないのに!
止まったはずの涙が溢れ出て、コンクリートに染みを作る。
「どうしたの、具合悪いの?」
上からかけられた声にびくっとしておそるおそる見上げたら、中年のおばさんが心配そうに俺の傍に立っていた。
「……な、」
なんでもないです、そう言いたいけど声にならない。
おばさんが右手を俺に差し出してくる。肉厚のその手が怖くて堪らず、俺は渾身の力を振り絞って立ち上がり、転がるように逃げだした。
怖い怖い怖い、遠くへ、もっと遠くへ、誰もいないところへ。
きっとあのおばさんには善意しかなかった、あの手は俺を捕まえようとしたんじゃなくて差し伸べてくれたんだ、俺のかろうじてまだ理性的な部分はそれをちゃんとわかってた。
だけど俺は縋れない。
泣きついたり助けを求めたりなんて、あぁ、そんな恐ろしいこと、できるわけがない!
いったい何を信じればいいんだろう、信じられるものなんて果たしてあるんだろうか。俺が無条件に信じていられた人たちはみんな死んでしまった。俺のせいで。俺がどうしようもなく馬鹿で間抜けだったせいで。
胸の痛みはなくならない。頭も朦朧としてる。信じられないぐらい孤独で、何をしたらいいのか全然わからなかった。
俺は走ってる。走り続けてる。足は疲れ切って棒のようだけど、ひたすら動かそうとしてる。行くあてもないのにどこかに行かなきゃって。でも辿りつくことはできるんだろうか。俺が信じられる世界。平穏に生きていける世界。そんなものは――どこにも。
体力はいずれ尽きる。
俺はそのうち走れなくなった。歩くのすら億劫だ。焦燥感はあるのに体が追い付かない。ピコーン、ジャラジャジャラといううるさい音が聞こえたので目をやると、ちょうど横がゲーセンだった。中からだらっとした格好の男が三人、不機嫌そうにしながら出てくる。ゲームが上手くいかなかったのかな。平和だ。
俺にとっては世界がひっくりかえるような出来事が起こっても、ほかの人たちはなんてことなくいつも通りに暮らしている。そういうものなのだ。俺だってそうだった。自分と関わりのないところで殺人があっても、一々混乱したりしない。
――疲れたな。
泥のように重い足を引きずりつつ、痛む頭で思う。
逃げ続ける意味なんかない。生き続ける意味なんかない。これからどうすればいいんだろう。俯いて足元をみつめていたら、突然左肩を誰かに掴まれた。
「おぃてめえ、今俺にぶつかったな!?」
「え……」
振り向くと、さっき見ただらっとした三人組だった。近くで見るとますますだらっと……ていうか不良っぽい。俺とあんまり歳変わらないだろうにすげー数のピアス開けてるし、左にいる奴は鎖骨のとこにタトゥーしてるし、右の奴は服装はおとなしめだけどガタイよくて強そうだ。つまりこれ、因縁つけられてる状態? カツアゲでもされるんかな。
めんどくさい、と思いながら見上げたら、タトゥーの男が「ぁん!?」と目を剥きながら詰め寄ってきた。
「てめぇ、舐めた面してんじゃねぇか。オレらが誰だかわかってんのか? サンダーリザードだぜ、お!?」
「おいおい、そんなキレんなって。なぁお前、こいつキレっとマジヤベェぞ、さっさと慰謝料渡して逃げたほうがいんじゃねぇかぁ?」
「別に持ってる全額出せとは言わねぇよ、なぁ岩木。俺ら優しいからさぁ、小銭ぐらいは返してやるぜ?」
「マぁジかよ、おめーちょー優しーじゃん!」
ぎゃははは、と何がおかしいのか男たちが笑いだすのを、俺は自分とまるで関係ない遠い世界の出来事のように眺めていた。
あのピアス開けんの痛くなかったんかな。タトゥーも多分痛いよな。痛い思いしてまでやりたかったのか。へぇ。それくらい俺は強いんだぞって? どうせ自分でコントロールできる程度の痛みしか耐えられないくせに。
「てめぇ、あんま舐めてんじゃねぇぞごらぁ! サンダーリザード敵に回したらどうなっかわかってんだろうなぁあ?」
――そんなもの、どうだっていい。
こんなつまらない不良に殴られようがカツアゲされようがそんなことはたいしたことじゃない。
昨日までの俺だったら、必死で逃げるか即行で財布を渡して許してもらってただろう。でも今は。――今は。
サンダーリザードがなんだってんだ。イキがってかっこつけて悪の真似事してそれでどうなんだよ。殴りあって蹴りあってカツアゲして万引きしてそれが、それがなんだっていうんだ。
あぁ確かに悪いことだよ、犯罪だ、誰かが困るようなことしちゃいけない、でもそんなことして得意になって、恐れられて、それで満足してるような奴ら、俺は全然怖くない。
もっと明確で残酷で鮮烈な悪意を、知ってしまったのだから。
頬に濡れた感触があった。見上げるといつのまにか重苦しい雲が空を覆っている。雨、と呟くと目の前の男たちは顔をしかめた。
「マジかよ、早く片づけてコンビニよろーぜ」
茶色のパーカーの男が言う。言葉通り、素早く拳を振りあげ俺に向けて放った。
俺はそれを避けられない。避ける気もない。こんなどうしようもなく絶望的な気分のままいるよりは、気絶でもしていた方がましだ。俺は高速で近づく拳を見つめる。
けれどいつまでたっても、それは俺の顔に当たらなかった。
「……?」
なんだ? なんでこいつ止まってんだ。情けをかけるような性格には見えなかったのに。
案外度胸がないんだなとうんざりしながら、俺は男の拳を掴む。挑発して思いっきり殴ってもらおう。
いや、殴られてもただちょっとのあいだ痛い思いをするだけだ。もしかしたら怪我は長引くかもしれないけど、死にはしない。
生きてたっていいことなんかないんだからもういっそどっかのビルから飛び降りてしまおうか。
男の拳を乱暴に払って、「金なんかねーよ」と言う。
男はよろめいて、……え?
なんだよ、なんでこいつ倒れたの? 俺そんな強い力出してないし、第一拳払われたぐらいで倒れるってどんだけ虚弱なんだよ、不良だろ?
……つーかこの体勢、どうなってんだ。倒れた時のまんま、いや違う、拳を振り下ろした時のままの体勢。表情も固まったように動かない。
あまりの異様さに、一緒に絡んできたこいつの仲間たちを見ると、こちらも嘲笑うような表情のまま静止状態になっていた。
一度気づくとあとは早かった。まず、まったく音がしない。今まで気にしてな+かったけど、街の真ん中でここまで無音なんてありえない。気味が悪いほどしんと静まり返っている。俺以外誰も動かないし、何も起こらない。まるで時が止まってしまったかのような静寂。
――まさか。
袖をめくって、左手首の腕時計を見る。
動いてない。まぁ俺以外みんな動いてないってことはそりゃ時計の針も動かないよな。
いや、そうじゃなくて。つまり、これは……
――時が止まってるってことなのか?
そんな……そんな馬鹿な。そういうのは、もっとこう、特別な人間が、特別な目的のために使える能力で、いや、そもそも作り事……で……あ。
あった、な? そういえば。非日常が。つい何時間か前、理不尽な魔法少女が俺の人生を蹂躙していったじゃんか。あいつなんて言ってたっけ? 確か、時の魔女って……そう、時の魔女だ。
どういうことだ? 何のために俺にこんな能力を与えて、いや、あいつは俺にいいものを与えるような性格には見えない、つまりこれは、悪いものか、さもなくば偶然だ。偶然、俺があいつから奪ってしまった能力。あいつが消えた時、残った服の切れ端、あれ、俺の中に吸い込まれたんじゃなかったっけ?
「……嘘だろ」
呆然と呟く。
目線を上げると、振りかけの雨粒が空中に留まっているのが見えた。無音の世界で俺は一人立ち尽くしていた。




