表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
北狄伝奇  作者: 夏実歓
6/28

第六章


ガサガサと藪をかきわけて、全身をしとどに濡らしながら、箕に身を包んだ影が歩いていた。昨日からの雨は止むことなく降り続け、舗装された道を一歩出れば泥濘(ぬかるみ)だらけだ。さらにそこから森の中に入ればパチパチはじける雫とペタペタ張り付く草葉が付きまとう。湿った下草や小枝を踏みしめながら濡れた不快感を振り払いどんどん進む。

頭に被った笠の下に赤い布が見え隠れする。濡れそぼった頭巾の結びからはポタポタと水が垂れて、光の加減でまるで血が流れているようにも見える。よく見れば腰に大きな布袋を提げ、黒曜石の刃が柄に付いた小刀を挿している。


クトウだった。


こんな雨の中何をしているかというと、クトウは生薬を集めているのだった。何故そんな事になったかといえば、昨日に遡る。

その日、朝起きてすぐに虎魁から、自分は用事があるから今日はエイリクと一緒に張士象の所に行くようにと言われた。こちらとしては事情がよくわからず、そうしろと言われるのならそうするより他には無い。エイリクは別段いつもの事と言った様子であったが、ただ、一言だけ、何処に行くの? というと虎魁は仕事の打ち合わせで会館に行く、二人の事や詳しい事情は士象が知っているから向こうで聞きなさい、と答えて朝食が終わり、若干の家事を済ませると三人一緒に出かけた。

張士象の家は虎魁らと同じく皆壌の東郭にあった。ただ、正に東郭のど真ん中のティキ人街よりはどちらかといえば、南に位置したところ、古くは東村のはずれだった辺りにあり、虎魁は北にある会館に行くには遠回りになるので途中で分かれることになった。幸い、エイリクはよく士象のもとに行く事があるらしくよく道を知っているようで迷うような気遣いは無い。

着いてみると、張士象は門の前で人を送っていた。

「まあ、もうほとんど完治しとるが無理はせんように。体力は戻ってはおらんからね 」

「はい。張先生にはいつもお世話になります。ほら、あんたも!」

「先生、毎度毎度すみません」

「まあまあ、これが私の仕事だから。これからは来んでもすむように気をつける事だ 」

雨の中の事で音は雨粒に吸収されて聞き取りづらかったが、そんな事を言っているようだ。どうやら、患者の家族からの見送りのやり取りのようで、開いた傘の下、見送られるほうはしきりに頭を下げているのが見える。やがて、患者を見送った後、士象はこちらを向くと手を振って出迎えた。

クトウとエイリクの二人はその手に誘われるままに士象の屋敷に入っていく。ここで屋敷といったが屋敷というには若干小さいというのが本当だったが、ただの家と呼ぶには張士象の家は結構な広さがあり、昨今珍しく昔のちょっとした邸宅を大胆にそのまま使っているので屋敷と呼んだ。中は大別すると診療所と自宅に別れていて、そのためにわざわざ丸々の屋敷を手に入れたのだった。診療所を抜けて自宅に二人を招き入れると、土間に二人を待たせて、張はたらいに湯を張ってもってきた。雨に濡れ、泥跳ねに汚れた二人の足を洗うためだった。湯は治療の時に使う事もあるので大概は沸かせてある、大して時間はかからなかった。張の屋敷の自宅部分、特に寝室とその手前の部屋は内装がこの地域らしくない作りになっていた。   

それは、張の出身地に似せた作りになっていたからであり、北方特有の突火と呼ばれる床下に竈の煙を通す床暖房の部分(ここは大抵靴を脱いであがる)に木の床を継ぎ足して、土間の部分を減らしてはだしで生活する場所を多くとってある。これは張の故郷が高床の木造家屋に靴を脱いで上がる習慣があり、張がどうしてもその感覚を忘れがたく、思い切って作ってしまったためであった。そのため冬には木の床の部分がやたらと冷たいので安い敷物を敷いて寒さをごまかしている。それで不恰好になってしまうのが本人は若干気に入らないようだった。

ティキ族やマードゥ族等は屋内にも靴をはいて入り靴を脱ぐのは寝室だけだが、クトウ達コルキセ族は天幕に入るときは靴を脱ぐので靴を脱いで建物に上がる事自体は大して違和感を感じなかった。それよりも、湯で足を洗うという事に少しの驚きとそれをすぐに用意してくれた士象に対する感激が大きかった。湯気の上がる湯に足を入れるときはなんだか不思議な感じだったが、ためらうことなく湯に足を入れるエイリクを見て恐る恐る差し入れてみると、少し熱めの湯が指の間を通り皮の下をくすぐるような刺激が気持ちよかった。

そのまま足を拭き、部屋に上がる。奥にはもう一部屋あり、物置のようになっているようだった。その部屋のしきりに棚が設けられていて、そのほとんどが引き出しで、そこには調合済みのよく使う薬やちょっとした事に使う道具など日用品が納められていた。

クトウたちを部屋に上げると、張はまたすぐに次の患者のための準備の為、診療所の方に行ってしまった。とりあえず、昼まではまだ時間もあり、よくここに来るエイリクもいることだし、詳しい話はそれからという事で暫く勝手にごろごろしていろとの事だった。

エイリクは棚から一冊の書物と浅い木箱、それに短い棒とヘラの様なものを取り出してきた。木箱の中には細かな砂が敷かれていた。実はエイリクは張士象に少し読み書きを習っていて、これはその道具だった。箱の中に敷かれた砂に字を書いては消し、消しては書く昔からの道具だったが、普段の練習には余計な紙を使う事も無く遊び感覚で練習できるので字の習い始めはこれが主だ。やがて、筆遣いのために黒い板に水筆で書くようになっていくのだが、今はまだ砂箱だ。書物を字の手本にして一つ一つ修めていく。

エイリクはさらさらと砂の上に文字を書いたあと、ふと簡単な文章を書いてみた。そんな事を二度、三度繰り返しているうちに、この技術をクトウに自慢したいという気持ちがむくむくと湧いてきた。そこで、ぼっとしているクトウを手招きして呼び寄せると、今までやっていたように砂の上に文字を連ねて見せた。 

普通、エイリクのような狄の小娘がこんな事をすれば驚き感心するものだが、文字という物の存在がいまいちわかっていないクトウは何かの模様ぐらいにしか考えておらず、うまいうまい、綺麗なもんだと言うだけで、内心この模様がどうしたというのだろうか? とかエイリクも意外と子供っぽいところがあるなぁ等と見当違いな事を考えていた。いまいち反応の芳しくないクトウの様子に、暫くむきになって文字を書きつけていたエイリクだったが途中で、クトウが文字を知らない事に思い至った。そうか、あの森の奥からやっと出てきたばっかりの人に自分は何をやっているのだと、がっくりと肩を落とした。

クトウはエイリクが筆を止めると

「ちょっと貸してみろ 」

といって、さっきエイリクが書いたのをまねて砂上にさらさらと文字を書きつけ始めた。

「こうか? こうか?」

と唖然とするエイリクをよそに、さっきまでエイリクが書いていた文字を次々に書き上げていく。若干のぎこちなさは伺えるが見た通りをそのまま書き出す様はまさに驚異的だった。

「エイリクはたくさん模様を知っている。私はこれだけしか覚えられなかった 」

そういって筆を止めたのは、大体四分の三を書き出してからだった。すっかり固まっていたエイリクだが、その言葉にはっと目を覚ますと、文字の意味を分かっていないクトウに慌てた様子で文字と文字の意味の説明をした。それは充分とは言いがたい簡単なものではあったが、クトウには新鮮なものであった。ただ、あくまで文字は嵩語の文字であるため、クトウには今の段階では使いこなすのはおそらく不可能だろう。無理やりに音と意味を使って共通語での読み下しをする方法もあるが、あまり一般的ではない。それでも、とても感動したクトウはこういった。

「エイリク、コルキセの伝えるこの世の始まりを知っているか?」

エイリクは首を横に振った。彼女はまだそういう事を聞く年頃になる前に彼女の部族を去ったのでコルキセ族の習慣は知っていても、神話を知らないのだ。

「そうか、じゃあせっかくの機会だ。私が教えよう。コルキセの血を引くものなら知るべきことだし、もう、知ってもいいことだ 」

大切なことだから良く覚えておくように、と念を押してクトウは語り始めた。

「この話はワタリガラスとこの世の初めという話……

聞け、赤い髪の者よ!遠い昔の話だ!

世界ははじめ全てがどろどろの泥だった。そこから、一羽の大きなワタリガラスが現れた。その時のワタリガラスの体は真っ白ではくちばしは黄色かった。

ワタリガラスは世の中に何も無いのがつまらなくて、泥から何かを取り出そうと思った。

彼は泥の中にくちばしを突っ込むと一掬いを口に含んで飛び立った。

一つ羽ばたくと体が浮かび上がり、二つ羽ばたくと体が軽くなり、三つ羽ばたくと泥の塊は蚤のように小さくなった。

ワタリガラスが四つ羽ばたこうとした時、突然くちばしが燃えた。

カラスはとても熱かったので思わず口を開けて吐き出した。

中には太陽が入っていたのだった。この時からカラスのくちばしは黒くなったのだ。

そしてこの時、カラスは太陽と共に涎をたらした。それは泥の上に垂れてそれが真水になった。

太陽はカラスの口から出るとどんどん大きくそして熱くなった。

カラスはあまりの熱さに滝のような汗をかいた。それは泥の周りに散ってやがて海水になった。

地上では、泥が塩水の上に脂の様に浮かび、太陽は今の太陽より大きくなった。

ワタリガラスは太陽があんまり大きいので突いて割ることにした。

一つ突くと上下に分けるように半分にひびが入った。二つ突くと下半分にさらに細かくひびが入った。

三つ突くと下半分は一つの大きな塊とたくさんの欠片になって泥の上に落ちた。

この時太陽のあまりの暑さにカラスの体は真っ黒にこげたのだ。

落ちた欠片と塊は泥を突き破って反対側に出た。

その時に冷えて暗くなった。そして、大きな塊は月に、欠片たちは星になった。月は半分近くが砕けたせいで歪んだ形になったので、日ごとに形が変わって見えるようになった。

一方、泥は熱で固まって地面になった。月や星のあけた穴は直ぐに塞がったが凸凹は残った。それがやがて低い土地や高い土地になった。水が海に流れるようになったのもこの時だ。太陽は月や星を月や星は太陽を元に戻すために捜して大地をくるくる回っている。だから昼と夜が出来たのだ。

また、仕事を終えたワタリガラスは力尽きて地面に落ちて、その羽は木々や草に、その肉は人や動物にその骨は鉄になった。

こうして今の世界の元が出来たのだ……


という話だ、誰も見たものはいないことだがな……」

決まった語り口から始まってクトウが物語を順々に話し、ちょうど昼を過ぎたところで、エイリクはまだ仕事のきりがつかない士象を待たずに食事の準備をはじめ、クトウも手伝う事となり、その場はなんとなくお開きとなった。何故だか少し残念な気持ちがクトウに羽湧いていた。ただ単純な動機で話し始めたのだったが、クトウはどこかで、この話をエイリクに文字で記録して欲しいと思ったのかもしれなかった。

 さて、実になんでもないところから始まった一日の雲行きが怪しくなるのは、その後の事が問題になったのだ。

 事はそろそろ日が西に傾いたのがわかるくらいの頃合に起こった。張はその時往診から帰ってきたのだが、どうも重い雰囲気であった。それというのも患者の様子が芳しくない。普段ならすぐに直るような病なはずなのだが、どうしたことか一向によくならず、首を傾げるばかりであった。幸いにもはやり病の類ではないらしく人にうつるという事も無いのだがどうにもよくない。

そんな張の様子を見たクトウが一言

「薬が違っている 」

と呟いた。それを聞いた張は目を剥いて怒った。お前は何も見ていないで何故そんなことが言える。そう言ってクトウに詰め寄る。そしてクトウはぽつぽつと患者の特徴を述べ始めたのだった。

普段こんな事を言われたとしても、それは戯言にしか聞こえなかっただろうがその時は違った。クトウの言った患者の様子がぴったりその通りだったのだ。

「ちょっと来い。その家はそんなに遠くはない」

そういって、興奮した様子で片手に薬箱を引っつかむともう片方の手でクトウの手を引っ張り、靴を履く暇もあればこそ小走りに外に出て行った。

 連れて行かれた家は東郭から出て南郭の東の外れにあったので、はっきり言って、そんなに近いわけではなかった。しかも、朝からの雨は止む様子もなかった。当然ながら雨はしきりに蓑と笠を叩きつけた。おかげでその家につく頃にはまるで池に落ちたみたいだった。

「おおい、開けろ! わしじゃ張じゃ! もういっぺんあんたのとこの奥さんの様子を見るぞ! ちょっと気になった事があってな 」

大声で呼ばわりながら門を叩くと、何事かと驚いた面持ちで小間使いが飛び出してきた。

「ありゃ、張先生? さっき帰られたのにどうなさったので?」

張は少し開いた扉に足をねじ込むように扉を押し開きながらいった。

「さっき呼ばわった時に言っただろう? 気になる事があったからもう一度診ると言っておるんじゃ! 」

慌てる小間使いをよそに、クトウを引っ張りながらづかづかと門をくぐった。まだ興奮が冷めていない様で語気が荒いし足取りもどこか乱暴だった。しかし、建物に上がる前に一つ大きな深呼吸をするといつもの冷静な張士象に戻っていた。笠と蓑を脱ぎ、水を振るって小間使いに渡す。クトウのものも一緒だ。外に向けてザッと振るうと飛沫がまるで河に網を打った様に散った。後ろには旦那様! 旦那様! と呼ぶ声が聞こえる。建物の中に入ろうとすると主人と思しき人が現れて士象と二、三言話すとはぁはぁそれと相槌を打ちクトウの方をちらりと見てから病人の部屋に案内した。途中、女性の(ねや)に入るのだからこれこれこういうことに気をつけるようにと士象はクトウに告げた。

 閨に入ると吐瀉物や汗の臭いと共に、病人独特の甘いような臭いが部屋を満たしていた。内装も明るく寝台も立派なのにどんよりと澱が溜まり擦り切れたような空気が支配的だった。立派な帳のおりた寝台には若い女が横たわっていた。年の頃は二十前後だろうか? 枕元には顔を白い布切れで隠した針金の様な毛の半裸の鬼がふんぞり返っている。手には得体の知れないドロドロを持っていてそれをしきりに弄んでいる。士象は主人に暫くで我々だけにするようにと諭した。主人がクトウを若干いぶかしがりながらも出て行くと改めて患者に挨拶とクトウの説明をする。嵩語だからクトウにはわからない。クトウにわかるのはこの女の症状はおそらくかつて見たものと同じであるという事だけであった。そして、その見立てが正しいなら、あの枕もとの鬼は病気の直接の原因ではない。あれはこの病気の匂いが好きなのだ。やっかいだが予感は間違いないだろう。クトウは士象に目配せすると患者に近づいた。

「サア、オチツケ 」

一言声をかけ、ゆっくりと額を撫ぜる。ポーチから火付けに使うジブ松の葉と杉苔の混合物を取り出す。この匂いの強い葉っぱを使って部屋に満ちている淀んだ空気に変化をつけ、さらに言えば僅かであってもこれを焚き付けることによって疫鬼を牽制する為だ。本来ならもっと新鮮な松葉や油を使って効果の高い香を使うのだが今回は準備が無かった。クトウは火受けの皿と綺麗な水を持ってきてもらうように士象に言って脈を診る。彼女が共通語を解するかは判らないがとりあえずちょぼちょぼと話しかけながら木の実を取り出しナイフを抜き、木を削る。簡単な術の準備だ。それから鬼に話しかける。

「お前はなんでこんなところでいたずらに人を苦しめるのか? 自分から出て行く気は無いのか?」

鬼は顔の前の布をゆらゆらさせるばかりで答えようとはしない。そして、手のどろどろを女の顔にビュッと飛ばしてケタケタと笑った。「うむ、病気なんてのはこんなものだろう」内心そう思いながらクトウはこれがどういう種類のものか考える。誰かの差し金で病を受ける。すなわち呪いの類ではなさそうだった。じっと眼を凝らしてみれば女の体に薄く纏わりつく影が見える。彼女の呼吸と共にせわしなく消長を繰り返している。鬼はその影の動きに合わせてドロドロを擦り付け、それがなくなると尻からそのドロドロをひりだしてまた様子を見ている。どうも、そちらの影が本命のようだ。そう感じ取って、とりあえずは額から布を下げた鬼を少しの間でいいから引き剥がす事にしよう。その間に病の正体をはっきりさせるのだ、と決めた。

「おい、皿と水が来たぞ!」

後ろから士象が声をかける。その手には数枚の皿と水の入った桶と柄杓があった。クトウはそれを受け取ると火打ちを取り出した。この火打ちはクトウが虎魁の宅で譲ってもらった物で、それまでは火錐で熾していた火を簡単に付けられるためどうしても欲しくなったので頼んでみたら快くもらえたのだった。クトウとしては正式な儀式においては今までのやり方を改めるつもりは無かったが(火の扱いはとても大切であるのだ)ちょっとした術や日常生活には火打ちを使うのも良いのかもしれないと思ったのだ。どうせ今はきちんとした準備も無く来てしまっているのだし一つ試してみようという気持ちが、クトウにはあった。

クトウはポーチの中から蓬の仲間の乾かしたものを取り出すと皿の上に盛り、火打ちを打った。カチカチと火花が散り、まるで蓬の葉に吸い付くかのようにオレンジ色の点ができていく。それに合わせるように薄く細い煙が静に揺らぎ独特の芳香を放ち始める。それを鬼の立っているあたりに置く。鬼は顔をしかめてたじろぐ。先ほど削った木の屑をぱらぱらと撒くと木屑がまるで針のように鬼の足に刺さった。鬼の顔から薄ら笑いが消えた。まるで蝦蟇の様に膨れ上がり、憎しみの表情でクトウを睨みつけている。乱暴に掴みかかろうとする鬼をパッとゴミでも払うかのようにたたきつけるとフッと強く息を吹きつけて木屑と共に吹き飛ばした。

そしてその木屑をまとめて部屋の外に捨てるとあの嫌らしい鬼も外に締め出してしまった。ここまでの流れは横で見ている士象には何をやっているのか、全く見当もついていてない。鬼の姿などまるで見えていないのだから当然だ。最初こそ脈を取ったりしていたものの、その後、怪しげな呪い(まじない)ごとに始終しているクトウのその姿は士象には正視に耐えないものに映っていた。しかし、鬼を除いたことによって患者に起こった若干の変化を士象は見逃さなかった。クトウが木屑を吹き払うと同時に明らかに患者の呼吸が穏やかになったのだった。

さらに言えば、部屋の空気も重苦しく湿ったそれが僅かではあったが明るく軽くなっていた。クトウは、次に女に纏わりついた薄い影を眺めた。影はまるで女の体から生え出してでもいるようだった。クトウにはこれに見覚えがあった。むしろ、よく見る類の病気だった。それは子供が一回は必ず懸かる種類の病気でいったん罹るとほとんど罹らないかほとんど症状がでないで治ってしまうのだ。ただ、似た症状の病気も多いのですぐに断定するわけには行かないが……

「士象、コレ、ヨクアルヤマイデナイカ?」

女の口内を調べるとうっすら光沢のある白いできものがポツポツみつかった。

「ああ、症状自体はよくある病だ。普通ならすぐ治ってしまうような病みだ。しかし、特効薬もあるのだが進行は弱くなったがいっこうに効かない。なかなかに……このままでは体力の低下と共に徐々に弱っていくだろう 」

いろいろ、やってみてはいるのだが……と言葉を濁した。クトウはそれにうなずくと女の腕を糸を紡ぐ様にして撫で付け始めた。そして、何かをぐっと掴むと布をバタバタ振るように一息にそれを引っ張った。ずるりと女の形をした透き通った物が引き出されてきて、その胸にはやはり黒いもやのようなものが根を張っていた。引き出したその幻のような像を例の煙で燻すと煽られるように黒い影がゆらゆらと揺れた。これはやっかいだな、クトウは思った。それから、じっと眼を凝らす。透き通った女の体越しに・・・・・・

「コノ人ハとちのモノデハナイナ……?」

クトウは透かし見ながら語る。ああ、そうか、なるほど、なぜこの病が大事になったのか? そして、なぜ薬の効きが弱いのか?この娘は最近この家に嫁いできたのだった。それが原因の一つだ。土地の人間なら本来、この年齢でこの病に罹る事は無いからだ。そして一旦罹患すればもう二度と罹らないか、軽度の症状ですむはずが、この娘はおそらく遠くから嫁いで来たのだろう、今まで、この病気に罹ったことがなかったのだ。

さらにいえば、慣れない環境での体力の低下も関係しているのだろうし、一旦罹患した所に、別の病気も併発していた。件の疫鬼がそれだ。あの鬼はその人が長く苦しむように死なない程度の病気を絶えず植えつけようとしていたのだ。家の祖先の働きを妨げ、火の神を遠ざけ、部屋を陰気にしていたのもやはりあの鬼だった。そして、その状態はただでさえ体力を失っていた患者には危険な事なのだ。

クトウはまず、もう疫鬼が患者に近づけないようにすることから始めることにした。部屋の掃除を始めたのだ。もちろん儀礼的な所作もたぶんに含まれた、呪的な掃除だ。部屋の四方を払い、四隅で香を焚き染める。一歩踏み出しては反対の足をそろえる独特の足運びで、部屋の中心に渦を描くように塵をはき集めていく。もちろん寝台は邪魔だが、そこは形式だけでも掃き清め、寝台の下を奇麗に拭く。中央に集めた塵に、木の実を浸した水を軽く振り掛けると、乾いた苔でさっと拭い取った。そして、その苔に松の葉をくわえて、士象にかまどで丁寧にこれを燃やすようにしてもらってくれと頼んだ。それから、入口に魔よけの木の枝を組み、とりあえずの払浄を終えた。

それから、クトウはふっと深く息を吐いた。後は、この進んでしまった病気に対する治療法を探すだけだった。今の段階では進行をとめただけだ。普通の治療ではいささか間に合わない。しかし、クトウには心当たりがあった。昔、師匠に聞いた事によく似ていたのだ。


そして、今に繋がる――

あいも変わらずのしつこい雨の中で、目的以外の薬も目についたものを採りながら皆壌東辺の森を掻き分けているクトウには明確な目標が見えていた。昨日、患者の家から帰ると、すぐさま部屋に篭り、夢見の準備をしておいたので、その晩は今日何を捜せばいいのかが見えていたからだ。   

もちろん、何も情報がなければこんな事をしてもすんなり事が運ぶ物ではないが、今回はヒントが多かったので特に障害らしい障害もなく霊夢にありつけた。それもあって、クトウは意外とのんびりとした散策を行っていた。他の薬草を積んでいるのもそういう行動の一つだ。

“しかし、酷い雨だ ”

クトウは口の中で呟いた。凸凹した森の地形は即席の沢のようになっていた。泥濘と下草の混在する中、ザブザブいう自分の足音と、生い茂る木々の葉にうちつける雨音が眠たくなるようなリズムを奏でていた。短い夏に喜ぶ植物達を丁寧に掻き分けるその手も枝葉を伝わって落ちる水を媒介に藪の中に溶けて吸い込まれるような幻想に犯されていく。クトウはその度に水を振り払い自らの輪郭を引き直さねばならなかった。

“はて、そろそろの感じなんだがな ”

徐々に下草が少なくなっており、木々の様相もどっしりとしていた。ふと足元から目を離して上を見上げる。体温で温くなった雫が額を流れて目に入るのをふき取るとそこは緑の天井のようだった。それには見覚えがあった。

そして、ここは明らかにこれまでとは違う感じの場所だ。ここだな、クトウは感じると、地面の土を一掬い掴み取るとぺろりとなめてみる。かび臭い匂いがした。それから、グチュリと土くれを握りつぶすと、黒曜石の付いた短刀を取り出して目当ての物を探し始めた。

「確か―― 」

確か、この奥に倒木があるはずだ。この匂いがすれば確かに……開けた場所なのですぐ見つかるはずなのだ。

 その時クトウは若干の異変を感じていた。遠く、耳鳴りが頭に差し込んで来ていた。そして、うちつける雨にまぎれてほとんどわからないが、手足が甘くしびれるようなピリピリした感じが皮膚の下に確かに広がっていた。水と共に染み渡るその違和感に気が付いたのは、もう地に倒れ伏しそうになってからだった。

やがて、キーンという耳鳴りに変わって、辺りから、カラカラと鈴が鳴る音が聞こえてくると、ヘビが地を這うように呪縛が迫ってくる。目に映るほど強力なそれは、すでに、半ば、からめとられた手足にはそこから逃げられるはずなど無いと声高に主張している。だらりと弛緩した様になっていた手足は、呪いのつたに縛り上げられ、クトウはまるで芋虫のようになった。それでも締め付ける力は容赦なく加わり続け、ついには腸までもが縛り上げられるように痛み出した。そのあまりの苦痛に二度三度ブルッとその身を震わせると口からぶくぶくと泡を吹いて動かなくなった。

「運がねぇな……よそ者にこんなところにはいられるなんてのは……」

クトウが完全に動けなくなったのを見てとり、やはりクトウと同様に濡れ鼠になった男が茂みから現れた。

「へ、お互い様か? 仕事前のお仲間なんかに会うものじゃないぜ。まったく、運がないヤツだ 」

「運がない呪術師ってのもお笑い種か 」と自嘲気味に言い放って、ゆっくりと近づいてくる。完全に術中にはまっていることがわかったからだ。男の表情はどこか緊張していて、はっきりと後悔の苦りきった笑みを浮かべていた。

男は蓑を纏い、濡れた蓑が光を弾いて、まるでハリネズミの針のように見えた。左手に鈴を持ち右手には胸までほどの長さの棒に革紐が三つ編みにされたものがついた鞭を持っていた。これが彼がまぎれもないティキ族であることを示していた。その男は包突だった。この男こそが今度、虎魁と共に仕事をする男だったのだが、もちろんクトウはそのことを知らない。そして、男のほうも、自らが捕まえたこの男が虎魁の言っていた人物であるということも知らなかった。




包突はクトウが道を外れたあたりからずっと後をつけていたのだ。

包突が支度をし終えて最後に森へ旅の安全を祈りに行く途中、北門から出た包突は一人の人影が目に付いたのだった。翌日からの雨もあって、通行人の数が普段より若干少なかったのでなんとなく目についたのだろうとあまり気に掛けないようにしてこれからの祈りに集中しようとしたが、そのひょこひょこと歩く姿がどうにも振り払えなかった。包突はその跡を追った。

 クトウが大道を逸れると包突の影も自然と雨のもやの中に消えていった。気が付けば、前を行くその姿がどんどんと自分の知っている場所へ向かうのが解った。それは本来自分が向かう予定の場所だった。それを感じた途端、相手がきっと同じ穴の狢であるということに思い至った。

そして、思いもかけずに急遽追跡者になるはめになったことに、包突はぼんやりと膨らむ不安を胸に抱いていた。これが罠ではないかという事だ。

だが、相手はあまりにも悠長だった。あちらこちら余所見をしては、草を摘み、匂いを嗅ぎしながら歩いていたが、何か細工をしているわけでもない。降りしきる雨のおかげが、それとも本当に間抜けなのだろうか? こちらの追跡に気付く気配も見えない。これは本当に、たまたまだったのではないだろうか? 後はこいつをやり過ごして、仕事を終えればそれでいつもどおりだ。そんな風に自分の思い過ごしかもしれないと感じ始めた頃、不意に気配が変った。

それがわかったのはクトウが目的地に着いた時だった。つまり、包突の祈りのための場所こそがその目的地だったのだ。ここは彼の聖地の一つだったのだ。その場所の空気が一変していたことに彼は少なからぬ怒りと恐れを感じていた。


――図られた!


そう感じた彼は出遅れを取り戻そうと、普段からそこに眠らせてある罠を使い、クトウに対して先ほどの術を仕掛けたのだった。それが想像以上にクトウはあっさりとかかってしまった。

そこで彼は気が付いた。この異変の主はこの男ではなく、彼も呼ばれて来たに過ぎなかったのだということに……

本来の彼なら、その異変にすぐに気がついていただろう。そして、罠を動かすことがまったく無意味だと気がついたはずだった。というか、その行動の結果、本当の原因の前にその姿は晒されたをさらしてしまったのだ。

 この異常な雰囲気の原因が彼に狙いを定めたことが肌を刺すように解った。やがて来るだろう何かが彼に緊張を強いていた。

雨が森を打つ音で、一面、音に満ちているはずなのに、すさまじい静寂が彼を包んでいた。包突は息を呑んだ。雨にびしょびしょに濡れた体を洗うようにどっと冷や汗が噴出した。横の倒れた男はまだ苦しげに泡を吹いていたが、二度三度痙攣すると、ぴくりとも動かなくなった。術のせいではない。意識したのでもない。体が選んだのだ。

キ―ン

澄んだ音がした。包突は動けなかった。眼球だけをギョロつかせ辺りをうかがう。汗だか水だか解らない液体が氷のような冷たさで体を流れた。

キ―ン

再び、冷涼な澄んだ音が響いた。おとないだ! 包突は確信した。神霊の類は独特の音を伴いその姿を見せる事がある。それを鳴き声だと評する人もいるし、高貴なものの先触れが飛ぶのだという者もあるが、本当のことはよくわからない。ただ、怪異が起こる前の独特の気配の一つであるというだけだ。

 キ―ン

音の方向は一定しない。近いようでも遠いようでもある。ぐるぐると周りを巡っている。

不意に音が止んだ。ずっと張り詰めた空気が破れ、包突は思わずしゃがみこんだ。

「あ!」

包突は恐ろしさに声を漏らした。つい先ほどまで目の前に倒れていた男の姿が無かったのだ。あたりが一段暗くなったような気がした。背後に重い空気の塊がせりあがって包突を押しつぶそうとしているように感じられた。目の奥がギリギリと軋み、胃を吐き出しそうだった。突然、ベロリとその凍りついた横顔を火の様に赤い舌が舐めた。錯覚かと思ったがそうではなかった。

 彼は動けなかった。包突はまるで、夜の森に一人取り残された子供のような恐怖を感じた。もうここから帰れないのではないかという、頼るものがまるで泡のように消えてしまったかのような恐怖だ。目も閉じられない。歴戦の戦士にして呪術師の彼がその何者かの腕にとらわれる事を恐れていた。

くすくすと笑い声が聞こえた。女の声だ。舌がいつの間にか手になって顔を撫で回していた。そのか細い手に頭をちょんと押されてがっくりと膝を突いた。目前には全身を真っ黒い衣装で包んだしなやかな女が目を閉じて立っていた。それは本当に全身をすっぽりと黒で覆われて、わずかに目の周りだけ肌をさらしていた。女は体を周囲に溶かすように衣の裾を揺すりながら、音も無く近づいてくる。

 女は包突に息がかかるほどにまで近づくと、顔のベールを取り去り、ゆっくりと瞼を開いた。緑色の目に金の瞳が射抜くように包突を見た。その瞬間、彼は手足の先から体が石になっていく錯覚を覚えた。

 女の赤い唇が小さく動いた。

「わらわの頼みを聞いてたもれ?」

女の表情はどうにも認識しようがなかった。人間には理解できないのかもしれない。その声は長く細く伸びて聞こえ、耳元にいやにこびりついた。抑揚もなくゾッとする塊を吹き付けられたようだった。体がおびえるのを感じた。そしてその静かな姿の裏側に、獰猛でしなやかな躍動する力を確かに感じた。それはまるで嵐のような深く雄大な力の流れだった。

包突が圧倒されて縮こまって、ほかに何も出来ないでいるのを見ると、女はバサリと衣を翻し暗闇に溶けた。

同時に、包突の襟首が強烈な力で引き上げられ、そのまま三度強く跳躍したのを感じた。だから、硬く拒絶的な感触とともに、彼が地面に投げ出されたのはだいぶ遠くに離れた場所だったろう。

そこには、雨に打たれた見上げるばかりの大木がその威容をたたえていた。そこでどっさりと地に落とされた包突が見たのは大木の中枝に引っ掛けられたクトウの姿とそれに寄り添う巨大な黒豹だった。


泥まみれになって這い蹲っている包突に黒豹が口を開き、地雨を垂れ流していた雲が不気味に唸った・・・・・・




クトウは気が付くと、誰かに背負われていた。一足ごとにわずかな振動が一定のリズムで伝わってくる。相変わらず雨は降っているようだ。手足にはわずかな痺れがある。ちかちかと明滅する目はまだものの形をはっきりと捉えられないでいる。誰かの背の中で揺られている。ほのかに伝わる温もりやリズムがそれを伝えた。その感覚は少しずつではあったがクトウの目を覚ましていった。


“もう森の中にはいないようだった ”


その肩の一揺れ毎に茫漠とした視界に色が与えられ、輪郭が現れ、焦点が結ばれていった。緑のざわめきも葉を打つ雨だれもすでになかった。そこはすでに街に至る門の前だった。雨中にぽっかり開いた空間とそれを囲う物体はさながら深い井戸を見ているように思えた。クトウには先ほどの記憶が無かった。未だまどろみの中にある頭に浮かんでいるのは、倒れた己に寄り添った影があったことと、探していた薬草は手に入ったことぐらいだった。そのことも、また、見知らぬ背中に負われていることもクトウはまるで意に介さないように静かだった。


――クトウは不安を表さない。


もちろん、クトウも不安を感じていた。記憶がないということに対しての一種の危機感もあった。しかし、クトウは元来、不安やそのことに対する強い感情の変化に対して、慌てた態度を示さない。そういった状態や感情の変化が起こるとそれはどこか脳の上の方を滑り、もっとずっと奥のほうで鉛のような重い何かが取り残されたように彼の機能を止めた。まるで現実が理解できないかのように立ち尽くす自分と、それを他人のように眺める自分が現れて何かの命令を待つのだ。それは普段の彼の様子にもすでに現れている兆候なのだが、誰も気がついていなかった。たぶん本人さえもあまり気が付いていないことだろう。だから、クトウにとっては危機とはどこか他人事だった。たぶん、普段においてもどこか何かが乖離しているのだろう。そして、今回のことも同様だった。クトウは静かにそのことに思いを馳せた。そんなことは初めてだった。


 一方の包突は未だ醒めぬ恐怖と、与えられた二つの使命による行動意欲がない混ぜになったまま、ただ街を目指していた。彼に判っている事は背中の男が自分の命を握る鍵であるという事と、その為にはあの女の望み(それは今回の旅にこの男を伴うということだったが )それを叶えなければならないということだ。包突にはクトウが何者であるかなどはもう念頭には無い。そんなことを吹き飛ばす混乱があるだけだった。泥交じりの雨がジャブジャブした石畳を歩く。もうすぐそこが皆壌の街だから流れる水はだいぶ澄んできている。歩くとそのわずかな泥と、足元にしみこんだ土くれが混ざり、泥が湧き上がって、雨の波紋とは別に、ポツポツと煙るような足跡が生まれている。門の前には嘘のように人がいない。こんな日もあるのだ。


二人は、お互いの事など知らず、これからのことも知らなかった。ただ、これから旅が始まることだけは確かだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ