第四章
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ふうっと一人の女がため息をついて、簪を引き抜いた。きゅっと結い上げた髪がさらりと流れ落ちた。全く面倒な事になったものだ。売上を記録した結縄を並べてぶら下げ、厭わしげな表情を浮かべる。結縄とは縄の結び目を用いた一種の計算の方法である。嵩国では割とよく用いられる手法だ。問題はその計算の結果で、どう見てもあまり芳しくは無い。
ただ、女の機嫌が悪い理由はままならない儲けだけではなく、先日のある出来事がどうも頭に引っかかっている事も大きな要因だった。
○ ○
「さて、みなのもの、実際のところどうなのだ?」
大老は六人の幹部を前に尋ねた。幹部会は六人の頭領の会合であるために六合会と呼ばれている。大老はまるで、時が止まったかの様に静謐で、けして大きくは無い体はゆったりとした絹の服越しにうっすらとなだらかな筋肉が隆起している。額に一文字の傷がはっきりと残り、ただならぬ雰囲気を醸していた。凍ったような瞳としゃんと伸びた背筋が屈強な六十過ぎの男の冷たい迫力を増している。
「大老、どうも奴らの捜しているのは、周閨で間違いないようです 」
そういったのは片目の潰れた矮躯の男だった。椅子に掛けると机の上に出ているのは首から上だけという状態で遠目から見ればまるで子供の様にさえ見える。この男は諜報部の頭領だった。現状では多くの部下を失い手駒は少ないものの特殊な技芸に通じた十人の部下を持っている。姓は彦、名を靖、字を繻甲という。
「周閨は問題の事件の後、深手を負っていたように見えたが、あっという間に姿を消してそれっきりだという話です 」
彦は続ける。周の不可解な消え方と事件のあらまし、そして、今、狄鏢がどう動いているのかを。
その話を聞いた頭領連は皆苦い顔をしていた。北に来てようやく復興の兆しが見え始めてきたこの時期に地元の鏢師共と事を構えるのは得策ではない。まして相手になろうと言うのがこの皆壌でもっとも大きく古い狄鏢なのだから。万全の状態であっても、武力衝突となれば明らかに分が悪い。
「おい、蔡、周閨は貴様の部下だったのだろう? 如何にけじめをつけるつもりだ 」
丸顔のそして体も丸い豚のような男がキイキイと声を上げる。蔡といわれた男はチッと舌打ちをして、じろりと睨む。
「あいつはただのチンピラとは違う。ここ最近のあいつの荒れ振りは俺のせいだとでも? ちょっとした失敗で大騒ぎしやがって。仮にも小頭領のあいつを適当に扱わせたのはよくなかったな。それに多少の揉め事は俺たちの仕事の内だろう?」
具体的に何がどうとは言わないがといった顔で一同を見回す。
「しかし、誰かにのされた憂さばらしで、酔って喧嘩じゃあ、ただのチンピラだろう? 立場があるって解らないほどの阿呆だったのか? それともしつけが悪かったか? 」
丸々と太った男は再び非難するような声を上げた。
「おい、豚野郎もういっぺん言ってみろ! 俺の舎弟を悪く言いやがって」
蔡はその豚のような男を睨み付けた。
「誰が豚だ! 俺は朱だ! 朱寮だ! 豚扱いしやがった野郎はみんなぶち殺してやる 」
朱は椅子をけって飛び上がった。蔡も目の前にあった碗を掴みながら立ち上がる。狭い部屋にイラついた空気が漲ったが、周りはうんざりしたように冷めかえっていた。この二人のやり取りは毎度の事だからだ。一人は蔡才、字を文。もう一人は朱寮、字は片陳。蔡は上納金の取り立て、朱は賭場の管理役で二人とも血気盛んな男であった。なかなか人に譲らないためもあり、しょっちゅう衝突するのだった。今もギリギリと歯を噛みしめ目を血走らせてにらみ合っている。
「貴殿らは目的をお忘れではないか? 」
ゆったりとした女物の着物を着た男がおっとりと声をかけた。やや呆れたふうに、しかし突き放すでもなく、純粋に話し合いを先に進めたいのだという事が伝わってくる。これがこの男の特技だった。押し付けるふうでもなく、さりとて、押しが弱いわけでもなく、うまく話しを収めてしまうのだ。パタパタと動く扇子をピシッと閉じ、指でもてあそびながら絡め取るような調子で続ける
「――問題は、周閨に関する事。それから、狄鏢にどう対するか? であろう。その一環としての口論なら幾らでも歓迎だわいな。けれども、貴殿らの話は――なんと言うか……私的な事では?」
確かめるように二人の眼を見ると、周りにも身振りで示し、さも困ったように眉をひそめた。
「まあ、お二人とも、まずは掛けなされ。いずれにせよ、ここは立ち話をする場所ではございません 」
ピッと扇子で席を射してから、バラリと再び扇子を広げると口元を隠すようにした。〝二条連鉄鎖〟扇子に書かれた文字が、いやがうえにも目に入る。ふたすじの鉄鎖とは二黒幇の在り様を表す。鎖の閉じる様はまさに〝輪〟であり〝和〟である、それの連なる様は世代を超えた継承である。そして一方の鎖は、個人をもう一方は二黒幇のもともとの発端である職人集団の連合を表している。一個の家族としての組織の在り様を強く意識するためのその言葉は幇員に自らの誓いを心中に思い起こさせ、再度認識せざるを得ないものだ。既に形崩れ、壊滅寸前の憂き目に遭おうとも再び結集した彼らにとってそれは非常に大きな意味を持っている。二人はしきりに恐縮した様子であった。
「拙めの言っておることは間違っておるだろうか? のう? 頭を冷やしなさいませ 」
もはや二人はすごすごと席に着くより他に無かった。
この女装の男、湘阮、字を韓は大老にとっても特別な存在だった。先代のころに流れてきたのだから、年齢はそれ相応のはずだったが、いつまでも老いが見えなかった。長年共に過ごしてきた大老とは実に分かちがたい仲であり、また参謀としてその片腕と言ってもよかった。
「私はこのようになった事について心が痛い。今回の件の事ではござらん。かかる落ち人のように逃げ延びた現状についてじゃ……それもこれも、みなの団結にひびが入ってのことであった。かような憂き目に遭い我らはこの地に。しかし、まるで小さなこの一家、それ故に再び各々の意思と力を縒り合せる礎となるはずじゃ」
遠くを嘆くがごとくに喋る。それは一同の胸にしみる言葉であった。目にうっすらと涙を浮かべる者もあった。
「湘殿の言うとおり、今はただ我らの力を目的に向かい縒り合せる時だろう。そして、目下のところその目的とは周閨のもたらした此度の障害をどう退けるかだとわしは思う。下らぬ喧嘩をしている時ではないな。いかに事を成すべきかが争点であるべきだ 」
むすっとした様子でその隣の男がいった。気難しそうな四角い顔を短く切りそろえられた髪がさらに四角く見せる。男は医術に通じておりその姓名を馬漢、字を紀といった。見た目どおり気難しい男だったが、男気に溢れ、湘阮とは古い友だった。その容貌はひたすら質素で、着古してよれよれの丈の短いまるで作業着のような服を着て、その申し訳程度にぶら下がった袖を襷でまとめている。そもそも、この嵩では短髪というのは異常な事だったが馬漢は昔から短く髪を刈り上げていた。それが、頑固者の癖に保守的では無いというこの男の性格をよく表していた。
「わしは、周閨については、こちらからも捜索を掛けるべきと思う 」
への字に結ばれた口を開き語った。
「何故ならば、一つに周りへの表明になるからだ。我々は周閨を匿っていないという事のな。とりあえず、奴を探しに無理やりこちらに探りを入れる事もなくなるだろう。問題の先送りに過ぎないかもしれないがな。二つ目に実際発見できれば――まあ、うまく確保できればだが――事の詳細を相手より先に知れる。その後の行動にも選択の幅がでよう。三つ目としては、同胞の行方も知れんとなれば、周りに軽んぜられようというもの 」
言い終るとまた眉を吊り上げた形でむすっと腕を組む。馬は周閨をよく知っていたから内心はどうにかして周閨を見つけ、うまく助けてやりたいと思っていたが、そんな様子はおくびにも出さなかった。不機嫌を絵に描いたように固まったその面構えは意外と単純なこの男の本音を隠すための道具としても役立っているのかもしれない。
「俺もそれがいいと思う。無い腹を探られるのは御免だ 」
賛同の意を表したのは、蔡才だった。蔡もやはり周閨の身を案じている一人だ。彼は周の直接の頭領で、その上、蔡は今は亡き周閨の老師の兄弟分であり、周閨の師叔にあたる人物だ。
「私はもう少し様子を見ても言いと思うわ。現状で商売を軌道に乗せきる事の方が大事だもの 」
女の声が響いた。李如だ。紅一点の彼女は、内務の要だ。各部署間の調整や最終的な会計などを引き受ける。大老直轄部と並び、主に本部の運営に当たる部署の頭領だった。赤い絹の衣と高く結い上げた髪に短い鎖をあしらった簪を挿して、その滑らかな喉が喋るたびに僅かに振動する。
「だから、周の事は特に何かしない。それより、商売のほうでこちらに接触してくる連中に対してもっと手を出すべきね。それから、嘗められないようにするというなら、もっと厳しく仕事をするのね。最近、上がりが少ないのはたかだか一人の失態だけが原因だって言うのなら現状は最悪よ 」
皮肉じみた笑みを白粉の乗った頬に浮かべる。彼女はいつも冷ややかな女だった。その彼女は周閨の事でドタバタに皆がなぜ翻弄させられているのかそれが不思議に思えていた。彼女はこの会議自体に何か変な引っ掛かりを感じていたのだった。
「うちは……うちは別にどちらでもかまわねぇさ 」
ちょっと考えたように繰り返して朱は切り出した。
「どうせ、俺の縄張りは賭場の中だ。その周辺での事ならどちらにしてもいつも気を張っている、つまりいつも通りやって役目の中で少し手を広げる程度なら支障は無い。もし、人を出せといわれたら……そうだな、人数による。基本的に場所の信用を失くす様な事態にならなければいい。一度失われた信用は取り戻しにくいからな 」
どちらでもよいと言うわりには現状を強化していくほうに賛成の意見だった。彼の領分である賭場の経営は軌道に乗っており、それを堅持していけば確実に儲けが出せるのだから当然であった。さらに言うなら、ぐずついたところへ人を持っていくことになるのだから、嫌が上でも羽振りのいいところから余剰人員を徴収する形になるだろう。そうなれば、どうしても全体の方針が周閨捜索路線に流れると割を食う形になるのは目に見えている。他の部署があまりうまくいっていないのは今回の召集によって明らかになったのだ。朱としては、周閨などという男の事はきっかけに過ぎず、それよりもそうした経営の方針についての話し合いがもたれるものと思っていたぐらいだ。
結局のところ、朱は遠まわしに李如に賛成したのだ。そして自分の立ち位置も添えて。
「まあ、何も皆さんで捜索をやることは無いでしょう。そういった仕事はうちの主だった業務ですから 」
彦が口を開いた。
「ただ、まあ、我らだけではいかんせん人数が足りないのですよ。なんたってうちは十人きりしかおらんのです。そこで皆さん各々でも気をつけていただけるといいですな。もちろん、我々に優先して協力していただきたいですがね 」
隻眼の小人が机の上から顔だけ出しておどけた様に言うさまは喜劇的で場の雰囲気にそぐわなかった。その台詞はどこか侮蔑的な響きを持っていた。にやりと笑って、我々は監査以外、商売には不干渉が原則でして、と付け加える。馬鹿の尻拭いはやってやるよ、という態度が今度ははっきり見える。卑屈でいて皮肉な態度であった。
「まあ、本来は皆さんの仕事を見張るのが仕事ですがね。こういうのは得意ですよ 」
その声はぐっと押さえ込んだように低く、傷口の下から覗く濁った目がぐるりと動いた。ゾッとする様な嫌らしさだった。それでこの男が珍しくやる気になっている事がよく解った。興奮した時に右目がギョロつくのはまだ両の目が健在な時からのこの男の癖だった。何の故にそれほどやる気なのかは知れない。ただ常に無く興奮した様子のこの男の邪魔をするのは躊躇われた。うっかり水を差せば、いらぬ恨みを買いかねない。そうすれば、後ろから刺すようなまねを平然とする相手だから、みなこの男を毛嫌いしていた。しかし、恨みさえ買わなければほうっておいても、害になることはしない。そこが重要な長所であるが故に、監査のような仕事も任せられた。ともかくこの身軽で陰険な小人は好きにさせるにしくは無いのだ。話し合いは沈黙した。
そこで大老が声をかけた。
「それではいつものことだ。わしが直接彦にその旨言えばよかろう。わざわざ非常に招集をかけた意味が無い。皆の協議で面白いことがあればと思ったが……」
大老は若干の失望感をあらわに言葉を途切れさせた。そしてちらりと湘が目をやって、大老は大きく息を吸い込んだ。
「嘆かわしい事だ……誰も力を振るおうとしない。なるほど、我々は寡兵である。地の利もない。しかし、我々とてただこの街に巣食っていただけではない。湘阮がすばらしい発見をした。試算した仲間も、別の街でボツボツ集まっている事を掴んだ。今は寡兵であるが、だからこそできる事もあるのだ。そこで、今回は多少の無茶をしてもらう。蔡、馬は戦の準備だ。街の中にも外にもだぞ! 彦はわしの手勢を半分くれてやる。周を捜せ、それと敵になりそうな者のことも探っておけ、内務は湘と李に一任する。朱、賭場は李に引き継げ。引継ぎが終わり次第お前も頭数をそろえるのだ。賭場には要のものを残してわしの所へ来い。ここらで一つ我ら侮りがたしと言うところを見せつけるのだ 」
大老はそう言って湘阮を引き連れると席を離れ、それを合図に会合はお開きとなったのだ。
結果、大きな方向転換が起こって李如はいらない仕事が増えた。それも、芳しくない業績の引継ぎという李如としては納得いかない。くわえて、大老の言葉を思い出し苦々しく思ったのだった。“まったく、このままでは命がいくつあっても足りぬ ”ひとまずはそれを胸にしまうと、机の上の台帳と結縄とを行李にしまうと再び大きなため息をつく。ここは近々引き払う事になったのだ。
クルクルと髪をまとめなおし、手元の鈴をチリンチリンと鳴らす。すると、奥からトタトタという足音をさせて、まだ髷を結っていない年頃の少年がやってきた。少年は端正な顔立ちに髪をおかっぱに切りそろえ、華奢な体を鮮やかな木綿の一枚布で器用に包みこんでいた。明らかに嵩の人間ではない容貌だった。
「酒を……早くね 」
彼女の疲れた様子に僅かに怯えを浮かべた少年は無言のままパタパタと去っていく。李如がするりと帯を解くとはらはらと着物が肌を滑り、衣に隠された淡く白い素肌が顕わになる。脱ぎ捨てた着物をそのままに帯だけ拾うと李は寝台にあがった。帯飾りと軽く持って引くと一本の剣がその姿を見せる。薄い身にたおやかさを合わせ持った剣を軽く振るうとビュンと音が鳴った。蝋燭の明かりを受けて鏡のようなその身が橙に煌いている。この剣は薄く鍛え上げられた護身用の暗器で柄は雷を模した渦の組み合わされた彫像をあしらっており帯飾りのようでまったく武器とは見えないくらいに華奢だ。鞘は薄い皮製で刃よりも幾分長く出来ていた。帯の下に巻いたり、その帯の中にすっぽりしまい込んで身につけるように出来ている。そして、その鞘さえ鳳のレリーフが刻印されており、男性用ならそのまま帯に使っても違和感がない。また、銀の縁金の鯉口は剣を納めやすいように裏側が若干短くなっている。
李如はそもそもこの剣の美しさに惹かれて手に入れたのだった。実用についてはこの手の暗器など玩具のような物だと考えていた。しかし、この剣は違った。いかにも異国風といった柄の象嵌は緻密だがあくまでも握りやすく且つ頑丈で、構えればしなだれるほど薄く作られた剣の身は、先端に行くほどに薄く剃刀のようだが、元のほうは刀の斬撃を受けきれる程度には丈夫であり、剣身には一本芯が通ったような手ごたえがある。そしてバランスの問題なのだろうか?この剣は重さを感じさせないのだった。
「馬鹿におあつらえむきのものがあったものだ……」
ほとんど振るった事の無いこの剣に向かいぽつりという。彼女はもともと剣術も嫌いではなかったが気に入った剣がなくあまりそれを披露するような機会がなかった。それがなぜか皆壌に着いてすぐに手に入れた掘り出し物だった。その時から、彼女は暗示めいたものをこの街に対して、また自分に対して感じていたのだった。この剣はおそらく元々嵩のものではないのだろう。いったいどういった経路でここまでやってきたのか? 未だ人の血など吸った事の無いように磨かれた剣身の美しさに見惚れながら、そんな事を考えると不思議と愛着が湧いた。少年奴隷もそうだったが、彼女はそういったものに惹かれる傾向があった。どこか異国に惹かれるのだ。
その刃を恍惚とした表情で見つめるその横に、小卓に酒器を載せてさっきの少年が入ってきた。李はそんなものなど目に入らぬように剣を愛でている。童は音も立てずに寝台の脇に卓を据えると一礼して去ろうとした。
「ちょっと」
不意に呼び止められ、顔を上げて立ちすくむとヒュンと風が唸った。ばっさりと服が切れ、胸の刺青があらわになる。それは奴隷として遠い異国から売られてきた証だった。その傷一つない綺麗な刺青を見て、李如は満足そうに笑った。
華奢な少年の胸をうっとりしながら思う。なぜか、将来の危なげな予感に高ぶりを覚えている自分へのおかしさと自由への一抹の希望を……