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北狄伝奇  作者: 夏実歓
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第三章

           3

 二黒幇はこの北の地では新興の勢力だった。かつては王国の南に一大勢力を誇ったこともあったが、組織の分裂による弱体化や新興勢力の台頭の末に抗争に敗れ南の地を追われ、この僻地にたどり着いたのが数年前の事である。南方での基盤を失った後にバラバラになって北を目指した。最初は流れ者の集団の様に思われていたが、それが徐々に集まりだして皆壌周辺の村落に手を伸ばし、ついには皆壌でも一定の勢力を持ち始めたのだった。そして今やかつての構成員のおおよそ三分の一をここ皆壌に集めた。

 周閨は特に南方からの古株の一人で腕の立つ男だった。その周閨が市場でこっぴどくやられたのがついこの前の事である。たかだか一人の狄から、み(・)か(・)じめ(・・)を取りそこなった事は思った以上に評判になっていた。その原因に狄鏢の有名人の虎魁がいると言う事が話を大きくして、二黒幇と狄鏢の間がきな臭いと言う緊張感が広がり始め二黒幇の仕事をやりづらくさせていた。

周閨は虎魁の圧倒的な実力にすっかり萎縮してしまっていた。

お前のせいで仕事がやりにくくなったと絡むものもいて、幹部連中からは面倒な相手と因縁を作ったとして、きついお叱りも受けた。すっかり面目をなくしたのだ。

「くそ! あの場にいたら俺の事を笑える奴など……」

それでもそう周閨は思っていた。胸中の憂さを吐き出すように、周閨は一人、酒楼で飲んだくれて過ごすことが多くなった。今までの自分の修練とそれで得たものはなんだったのか?という失望感が彼を絶えず悩ませ、またそんな面子にこだわる自分がこっけいに思えて惨めだった。 すっかり自信を失い、己の過去を嘆いていた。恥ずかしさに死を考えた事もあった。それを踏みとどまらせたのはひとえに先代太老に対する義であったが、これも彼の気分を重くしていた。なぜなら、その先代の残したものを今危険にさらしてしまったのは自分自身なのだ。 

いつもむっつりと飲んでいる酒場では、今日も下らない話がはびこっていたが、たった数日の間に広まった噂に周閨は反応をしなかった。そんな気にはどうしても慣れなかったのだ。しかし、たまたまその時、横の連中がしていた話には強く興味を引かれた。

「なんだ虎魁か。ならしょうがないな。しかし、相手は何をしたんだ? 帰ってきてからの虎魁はすっかり丸くなっていただろう? 街中でいきなり腕を振るうような奴ではないはずだがな 」

「まあ、たまには虫の居所が悪い時もあったんだろうよ。その二黒の奴ぁ運が無かったな 」

そういって笑う。俺をやった奴は虎魁というのか。その名前が周閨のぼんやりとした脳中に沈んでいった。するとどこかで虎魁に対して一矢報いてやりたいという気持ちが俄かにたち起こってきたのだった。

「まあ、二黒幇なんかは所詮チンピラよ! この皆壌の鏢師、特に我等狄鏢を敵に回せば、早晩つぶれていなくなるだろうよ! はははは 」

「虎魁ならここにいる連中が束になっても敵わないかも知れないな! 」

その台詞を聞いた瞬間、周閨は手に持った(ひさご)で相手の頭をカチ割っていた。酔いも手伝って、先代が築いた二黒幇をこけにされたこともあったが、それ以上に虎魁ならできると言われたことに酔った自尊心が反応したのだった。羞恥と自尊と、傷口から沁みる酒が行き場のない憤激として彼に妙な形を与えたのだった。

辺りにどよめきが走る。瓢からはポタポタと血が垂れ、床を濡らしている。殴られた相手は椅子に座ったまま地に倒れてピクピクと痙攣している。別にどうしたという風も無く周閨は立っている。倒れた男の仲間の一人が怒鳴りながら殴りかかってくるが、まるで恋人を抱きしめようとするように距離をつめると相手の面の左側を右手で掴み、その目玉に親指を突っ込んだ。さらに悲鳴を上げて離れようとする相手の耳を引っ張り、そのまま床に叩きつけ、倒れたところに肋骨をしたたかに踏みつけるのだった。

他に二人の仲間がいたが、この様子に二人は冷静になった。それぞれの得物と思しき短槍と剣を取った。周閨は傲然と突っ立ている。酔いの為か眼が据わっている。それを見た二人は用心したようにじりじりと圧力をかけてくる。そのぎらつく刃に周閨は恐ろしさを感じていた。しかしそんな事はおくびにも出さず、赤みが差した双眸で威圧し続ける。

やがて剣が周の首めがけて突き込まれた。避けようとするが酒に酔った足には力が入らず、ふらついてうまく避けられなかった。咄嗟に左手を差し出して受けるが手の平を裂かれてしまった。そこにすかさず短槍の突きが襲う。胸を反らしてこれを避けると相手は槍を返してすぐさま撃ちかかってくる。下腹部を強打されて流石に動きが止まった。さらに止めを刺すべく短槍をしごき打ちかかってくる敵に対し、周閨は(ひさご)を投げかけた。すると僅かな怯みが仕手に生じ、周はその隙に相手の槍の内に蛇のように入り込む。相手は槍を回して窮地を抜け、槍の石突でもって迫ってくる周の首の付け根を突こうとした。周はすんでのところでそれを避けたが今度は剣の男が横から助けようと割り込んだ。周は咄嗟に右手で相手の槍を引っ張り込んで助太刀の男の目隠しとして使いながら、槍の男に裂けた左手を思い切り良く金的に振り上げ、撫でるようにして打ち、ついでに左肘をみぞおちと顎に叩き込み槍を奪い取った。倒れた男は、周閨の血でまるで生皮を剥がされた様に血まみれになっている。さらに続けて剣の男を下から蹴り上げた。

“三人くらいなら俺だってわけはないな ”

そう思いながら周閨は悶絶して崩れ落ちる敵からよろめくように離れる。しかし、その瞬間、右足に違和感を感じた。太腿に匕首が深々と突きたてられていた。回った酔いのせいで痛みは薄いが、足の反応がさらに悪くなった。奪い取った短槍を杖代わりに突きながら、周りを見ればいつの間にか敵がもう二人増えている。

 ここで彼は少し冷静になった。まったく馬鹿げた事をした。いまさら逃げ出そうにも、ここは地下の部屋だ、地上へは細くて長い階段を通らなくてならない。くだらん。そう、周閨は思った。全く、くだらん。やりあう前にとっととずらかって置けばよかったのだ。口上の一つでも上げて二人目をやり過ごした後にずらかる暇は、充分にあったのだ。こんな事をしてなんになるというのか? とりあえず、勢いでどうにか出来そうなのもここまでのようだ。気弱い自嘲のようなものが沸いてきて情けなくなった。

しかし、その状況や思考に反して、周閨は血が昂ぶってくるのを感じていた。動かなくなりつつある左腕が不思議な充実感を湛え、酒でヨタついていたはずの体は静まりつつある。そして徐々に意識が麻痺していく。

 そんな周閨の様子を動きが鈍ったと見て、敵は続けて匕首を投げかけた。このまま、匕首の続く限り投げ続け、弱ったら捕まえる算段だ。流血に傷に段々と体は蝕まれ、やがて蛆虫のようにその身を横たえる事になるのだ。一度、形勢が決まれば、いつでも結果は変わらずそのようになる。さっきまでの事は何かタイミングの悪い事故の様なもので、腕が立つとはいえ、たかが酔漢の一人、恐れる事は無い。身の程を思い知らせてやる。

そのつもりだったのだ。だが、仕手は己が目を疑った。続けて放った匕首は確かに吸い込まれるように相手の足を手を腹を襲った。しかし、その先は掠りもしなくなった。どうしたって、そんな事になるものか! 体を揺するようにして、槍の陰に隠れ歩む、その姿をどうしても捉えられないのだ。じりじりと後退していかざるをえない。他の仲間もやはり戸惑っている。まるで、ボロボロなのに、けして速く動いているわけではないのに! それ以上に、既に幾つもの傷を負いながら呻き声一つ出さず、血走った眼でこちらを見据え、笑みさえ浮かべながら迫って来るその相手に、段々と恐怖が湧き上がっていた。

店の中の皆固まった。雰囲気に飲まれていた。今まで匕首を投げていた男は気が付けば壁が背にぶつかっている。彼の仲間も唖然としてみているだけだった。ズルズルと腰が落ちる。そこに周閨は槍を振りかざす。その動きは緩慢だが躊躇が無い。後ろの壁までも貫けとばかりに繰り出された槍は、間一髪で、その左腕を壁に縫いとめるだけで済んだ。

「へぇ、面白いことになってるな 」

悲鳴を上げる同僚をよそに、その槍をはずさせた男が言った。栄啓だった。その男の登場で、空気は再び動き出した。周閨は委細構わずに栄啓目掛け、左腕を叩きつける。赤く爛れた眼が栄啓を捕らえていた。   

栄啓は避けざまににやりと笑うと周閨の顔に手を伸ばしていた。“ガツン”と張り出した木の枝にぶつかったような衝撃が走り、周閨の体は後ろに吹き飛ばされた。この時、周閨は正気を取り戻した。転げざまに、腹に突き刺さった匕首を引き抜き、構えてみせる。傷口から血が噴出し、闘争が始まってから初めて苦悶にその顔を歪めた。頭の中は普段どおりに戻っていたが、依然その動きはどこか人間離れしていた。周閨は自分で自分の状態に驚いていた。どうかしていたとしか思えない、感覚が途中から乖離していた。そしてその流れに引きずられていったのだ。どうして自分にあんな動きが可能だったのだろうか?

今も感覚は走っているが、理性の手綱がよみがえっていた。こんなつまらないところで死にたくは無い。その思いが先の一撃で再び動き出したのだ。それは目の前にいる男がたったあれだけのやりとりでも、このままではやばいと本能に訴えかけている。あれだけの興奮をあっさり静めてしまうほどの化け物だという事が肌で感じられた。



 栄啓がここに来たのは、たまたまの事だった。会館での報告を終え、店の前を通りかかると、なんだか、ざわざわと騒がしい。ふと気になって近づくと見知った者から声がかかった。

「栄啓さん! ちょうど良いとこへ。今、大変な事になっているんです 」

ニヤニヤと笑みがこぼれた。おう、と軽く請合うと押し合う人をかきわけ、後についていく。漂う暴力的な気配、うっすらと棚引く血の匂い。騒ぐ人を押しのけて階段を下りるたびに濃厚になっていく。それとともに、ただの酒場の喧嘩というには若干大袈裟な事がわかる。

そこにいたのは、手負いの獣だった。

「へぇ、面白いことになっているな 」

猛烈な勢いと意思の感じられる槍を蹴飛ばした。槍は思っていたよりもはるかに強く繰り出され、かなり強く蹴ったにもかかわらず、蹴り飛ばしきることは出来なかった。本当のことを言えば、蹴りに乗じて一発で決めてしまってもよかったのだが、その槍に込められた不思議な意思と槍の勢いがそうさせなかった。そして、触れた槍から栄啓は血まみれの男の背後に得体の知れない気配を感じ取った。栄啓は気を抜かずに打ちかかってくる相手を片手で突き飛ばした。それから横に転がっている徳利を拾い、グビリと酒を煽る。

 緊張した様子で、相手はこちらを見ている。驚いた事にあの怪我でくるりと一回転して受身を取ると腹に突き刺さった匕首を抜き放ちこちらを睨んでいる。

「貴様、大した根性だな。うちの連中がこんなざまなのも無理はないな 」

空になった瓶子を投げ捨てる。ガチャンと音がして陶器の徳利は粉々になった。栄啓はゆっくりと歩み寄って行く。相手を押し込めるように粘りつくような圧力をかけて進むとずるっと相手は後ろに退がっていく。栄啓は構わずにズンズンと間を詰め続ける。あと、二歩と半分の位置に来て、ちらりと出口のほうに視線をやった。

それは合図だった。相手に真意が解ろうと解るまいと、どちらでもよかったのは栄啓らしいというべきだろう。相手はよろめくように動くと、そのまま地を這うように栄啓へ突っ込んできた。栄啓は充分に引き付けてから下がって身を開く。相手から見れば消えたように見える動きだ。それと同時に横合いから足の裏全体で押し飛ばすように蹴りかける。相手はその蹴りを腰に受けて吹っ飛んだ。行き着く先は出口だ。もちろん相手は軽く受身を取れるだろう。

「やれやれ、逃げられちまったな……」

転げるように駆け出す後姿を認めると栄啓はわざとらしく言った。


速度はあるが足の裏全体で衝撃を消した蹴りに飛ばされて周閨は飛んだ。潰れるように着地して衝撃を殺すと匕首を振りかざし奇声を上げながら、群集を掻き分ける様に酒楼から走り出た。あの化け物は追って来ないだろう。なぜかは知れないが、おそらくわざと逃がしてくれたのだ。蹴りの感触がそれを告げていた。

飛び出した先は日がほとんど落ちかけた紫色の空と薄暗く顔を隠した街だった。今は混乱にざわめく人々が追ってこないうちに何処かに行かなくては。ぽっかり開いた腹の傷を抑え、突き動かされるように重い体を走らせる。しかしその指が腹の穴に喰い込んでいる事にも既に気が付いてはいない。最初の角を曲がり表通りから外れた時点で急激に力が抜け体が重くなった。  

意識は朦朧とし四肢はうなだれる。傷口から流れる血と共に一息ごとに、命が流れ出すようだ。壁に寄り掛かり進むが手足に刺さった匕首が動くごとに傷に喰い込み、痺れた体に激痛が走る。視界は急激に霞み、血反吐を吐く。不意に壁の手がかりが消えて地に倒れ伏すが、それでも這いずりながら進む。だが、それもほとんど進めなかった。長く通りから続いた血の跡はそこで途切れ、その血の轍に沿ってざわざわと人の迫る音が微かに聞こえる。

「へっ、こんなところで終わりか……」

しかし、自嘲じみた呟きに気付く者はなかった。ざわめきはすぐそこまで迫っていながら周閨を捉えることは無かったのだ。

そして、僅かに震えるように痙攣し続けるだけとなった周閨を、怪しい面相の男がにぃと口に笑みを浮かべ覗き込んだ。

「ほ~珍しい事じゃのう! ここに人が入るとは 」

血だらけの男を見ても驚く事も無くつかつかと歩み寄ると、ぐいっと髪を掴みその顔を覗き込んだ。

「面白い拾い物じゃわい!」

男は鐘を打ち鳴らすように高く笑い、その声は遠く響いた。周閨はその血走った目玉に射抜かれるように意識を失った。


        ○     ○


「おい、血の跡がここで途切れてるぞ 」

「そんな馬鹿な! あの傷でどうやって逃げたんだ?」

追いかけて来た者たちは騒然としていた。途切れることなく続く血痕は表通りから少し入った曲がり角の奥、歪んだ袋小路の壁に吸い込まれるようにして途切れている。

 そのうちの一人が、塀を駆け上り向こうを確認するが、そこには入り組んだ裏道が続いているだけで他には何も無かった。何処から出てきたのだろうか、いつの間にか蝿が生臭い血の匂いに釣られてブンブンとうるさく飛び交っている。何処かへ雲隠れした周閨に一同は呆然とするしかなかった。びょうびょうと風が吹き、からからと笑うような音が辺りに響く。まるで、路地裏が泣くかのようなその音は、いやらしく人々の耳に付きまとった。

 既に日は暮れ、街にはぽつぽつと灯を燈す建物も現れ始めていた。紫色だった空は濃紺の幕を引き、やがては黒く変わっていく。その後も半刻ばかりは灯りを頼りに捜索は続いたが、ついに周閨が見つかる事は無かった。


 


二黒幇が周閨の失踪を知ったのはその三日後であった。正確には、失踪と認定したとしたほうがいいだろう。その時には既に例の喧嘩の事はもちろん知られていたし、狄鏢がおおっぴらではないが周閨らしき人物を探っている事ははっきりわかっていた。だから、傷を負って、追手に追われた周が姿をくらましたものとみんな考えていたのだ。当然、追手の連中が未だに周閨の行方をつかめていない事から、周閨は無事でいて、それならば連絡をよこすだろうと思っていたのだ。

 しかし、三日たった時点で周閨からの便りは無いまま、さらに状況が変わってきた。狄鏢の連中が周閨が二黒幇の一員である事を探り当てたのだった。そして、二黒幇が周閨をかくまっているものと思い、狄鏢の二黒幇への接触が始まったのだった。噂は実現しようとしていた。争いが緩やかに、しかし、本格的に始まったのだ。二黒幇にそれに耐ええる力があるとは思えなかった。


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