最終章
人々が沸き立つ中、二匹の獣が本能に突き動かされて、走り出した。いったいなぜそうなったのか? 二つの体に残るのは強烈な飢餓感だけであった。見つけて奪い取る事だけが、彼らの頭を占めていた。この特別な日に力を受けたバーテルイは一族の血を求めて白昼動き出し、曹懐はその動き出したバーテルイに反応したのだった。一方は人込みを獣のように潜り抜けて、城壁を乗り越え、自らの城に近づいた。もう一方は身体の記憶だろうか? 身体を霧に変じるとひたひたとその後を追った。
――城中は静まりかえっていた。
途中、不幸にも城から出なかった数名のものが、この災厄に出会って命を落としたが、人の殆どいない城はその巨大な構造の中に悲鳴を飲み込んでしまった。しかしそれもまた運命のうちなのだろう。なぜなら、この日この場所で命を落とすということは、やはり特別な意味を持っていると言えるだろうから・・・・・
そして、だから、この化け物が今の皆壌でもっとも中心的な役割を果たしているこの舞台へと近づいている事に気がついたものはいなかった訳である。外は首長たちが到着し、城を囲む広場を戦車が周回していた。皆脇に携えた供物を高々と掲げ上げて、息高揚していた。時折雄たけびを上げながら疾駆する勇者たちの姿に民衆も叫び返す。それは、皆がそろってから、およそ八周の後、西の門前に戦車を方形の陣形で止める。全員そろって一斉に戦車から降りると陣形を崩さずに前に進み出て、一斉に拝礼した。
「ハーディ! バァスロイ!!」
「「「ヤア ダマ!!」」」
先頭の一人が掛け声をかけると、外套を翻し立ち上がった。ばさりと羽打つような音を響かせて、方陣が立ち上がる。カツカツと拍子が取られ、方陣が移動し始める。四方の舞と呼ばれる奉納の舞だ。
合図の杖が地面をつき、歩が滑るように進む。前進、左折、右折、旋回、華やかな衣装がくるくると円を描き、時折杖が打ち合わされ、一糸乱れぬその陣形が四方を睨み、また四方を周遊する。やがて、その四辺の中心に、一巡するごとに一人また一人と供物を捧げて舞は続いていく、空には妖しい雲がむくむくと盛り上がっていた。城中はまるで舞の調子を取るように稲妻のゴロゴロという轟きが反響している。
○ ○
城の奥深く、中庭の穴の前では、天に向かって突き上げる祭壇に向かって祈祷の祭文が熱心に唱和され、その祭壇の梢にキの頭と心臓を捧げるべく一人の若者が木で組まれた高い塔をよじ登っていた。その若者こそ包突の連れてきた兎朴であった。口に生贄を捌いた短刀をくわえて、裸のその身体は顔料で模様を描かれていた。
兎朴がこの役に決まったのは偶然だった。全くの偶然だ。本来この役に着くはずの者が祭壇を起こした折に怪我をしてしまい、急遽お鉢が回ってきたのだった。
兎朴はこの役に臨んで、特殊な煎じ薬と身体に模様を描くのに使われた顔料によって意識が痺れたようになっていた。なにか熱いものがこみ上げてくる感触と、肉体から乖離する現実感の中で、決められた手順どおりに高い高い構造物をよじ登っていく。
やがて、城の屋根を過ぎ、街を見下ろす高さにまで登ると、下から烈風が吹き上がって、肌に直接触れてくすぐったかった。上には雲が蓋をした天が見え、下は遥か地下まで続くのではないかと言う穴が静かに水を湛えている。兎朴は天と地の間にいる自分を、また、自分を含めた人間を考えずにはいられなかった。そんな時、吹き上がる風の変化に兎朴は不意に気がついた。なにか禍々しいものが、この丘にいるのだと兎朴には感じられた。まだ下の人々は気がついていない。地上にいないからこそ気がつけたのだと、兎朴は思った。しかし、彼にそのことを地上に報せる手段はなかった。
地上では祭文は続く。滔々とその声が響き、捧げものがよりよく受諾されるようにとの祈りが、天へ地へと祈られていく。祈りの熱の中で、まだ誰も辺りの変化に気がついていなかった。寒々しい霧がこの元の王城へじわりじわりと押し寄せている事に。
怪物は聳え立つ塔の中ほどを見ていた。そこに自分の求める獲物がいるのに気がついたからだ。そして、知っていた。ここがかつて自らの住処だった事に。彼は帰ってきた事を感じていた。自分が求めて止まなかったこの土地に帰ってきた事にはじめて気がついたのだ。懐かしい土地の匂い。しかし、それは少しばかり遅い気づきだった。自らの親族の血を求めて走る彼の渇きは止むことはなく、かつて約束された自らの城を死者は突き進むのだった。やがて、祭文が響く穴の畔に近づいた時、その足はふと止まった。
それは静かな闘いだった。音もなく縄が行きかい手足を絡め取った。長老直属の警護の戦士たちだった。まるで重さを感じさせない動きで天井から男が覆い被さってきた。バーテルイが力を込めても縄はびくともしなかった。なにか、特別の仕掛けが施されているらしかった。上から降ってきた男はその見た目の軽やかさにもかかわらず、まるで石のごとく重く、そして硬かった。
バーテルイは一瞬よろけたが、衝撃に持ちこたえた。すると男はすかさずに首を描ききろうと短刀をひらめかせた。バーテルイは首を振るってそれを噛み砕き、ついでに自由になる頭で頭突きを食らわせると、それを受け止めた相手の腕から鈍い音がした。
仲間が劣勢と見て、誰かが足の縄を引くと他の者も呼吸を合わせて縄を引き、バーテルイを床に押し倒した。すかさず誰かが予備の短刀を投げると、男は再び首元に切りつけたが、痛みと敵の動きのせいで、肩口に斜めに突き刺さった。
焼けるような痛みがバーテルイを襲った。怒りに駆られた彼は渾身の力を振り絞って身体を蠕動させた。縄がそれに引っ張られて、それを支えていた者も、そして当然彼の上にいた男も一息で吹き飛ばされてしまった。みな壁や床、天井に叩きつけられ、無傷で済んだ者は誰もいない。それでも誰一人うめき声すら上げなかった。悠然と先に進もうとするバーテルイとそれを追った比較的軽傷だった者三人。しかし、彼らは儀式の場の直前で足を止めた。いつの間にか薄っすらと棚引く霧の中に妖しい影が一つ立ちふさがっていた。
“見つけた ”
そう影が告げたような気がした。それが一歩踏み出すと、かつんと硬質な足音がした。どこか貪欲な響きがあった。
――曹懐だった。
かつて曹懐だったモノはあの老人の姿からは及びもつかないほどに若返っていて、そして、以前とはまた違った妖気を放っているのだった。バーテルイは相手が何者であるかは解らなかったが、自分の邪魔をしようとしていることはよくわかった。二人の間には殺気がじりじりと高まっていった。三つ巴の緊張は空気を圧して時が濃くなっていくの感じた。
その均衡を壊したのは、先ほどまでバーテルイと争っていた戦士たちだった。三人の狙いは新たに現れた化け物だった。三人はバーテルイの後ろから、一人は匕首を投げ、一人はバーテルイの前に割って入り、もう一人は壁を駆け上がって、やはり匕首を投擲した。敵は幾つも投げかけられた匕首を弾き落とすと、正面に割って入った相手の首を片手でへし折った。そこをすかさずに天井に駆け上がった者が、串刺しにせんと白刃を煌かせて降ってきたが刃はその身体を滑って傷つける事は出来なかった。そして、なにか硬質なものを感じた瞬間、下から伸びてきた相手の腕に、逆に自分が腹を串刺しにされた。
化け物はほとんど一瞬で完全に息絶えたその二つの身体を掴みあげるとバリバリと音を立てて喰らい出した。その光景は異様そのものだった。半分ほど咀嚼してから、げえげえとえづくと地面に残骸を吐き捨てた。骨や歯が混じった吐瀉物が床に広がる。
それから、面を上げてニヤリと笑うと、バーテルイへと腕を伸ばす。バーテルイは一声吼えて、その腕を振り払い、その胸に強烈な蹴りを叩き込んだ。硬い音を立てて曹懐が後方へ滑る。体は胸ごとのけぞり、蹴られた箇所は足の形に変形していたが、ごきごきと体をきしませながら、もとに戻っていく。そんな時にグリグリする目玉だけはかつての曹懐を思わせたが、やはりバーテルイには関係ない話だ。暫くそんなやり取りを繰り返して、一方的に殴られ蹴られていた曹懐だったが、ついにその両腕がバーテルイの左手を掴んだ。
その手が掴んだところがみしみしと音をたてて変質し始めた。バーテルイはその感触に怖気を憶えて、残った方の腕で曹懐の咽喉を掴み上げて引き剥がそうとするが、がっちりと握り込まれたその両手は全く離れそうも無かった。その間も腕はどんどんと変質していくのだった。今度は左腕ごと曹懐を壁にたたきつけると腕が半ばからぽきりと折れた。その勢いで曹懐は壁を滑りながら、外へと吹き飛んでいった。そこは儀式の中心だった。
“祭文の声がこだます中庭に、突如として人間が降ってきた ”
皆、概ねそんな印象だったろう。闘いは儀式の邪魔にならぬように静かに行われたし、曹懐の得意とした霧の術の名残か、怪物となった曹も例の霧を漂わせ、先ほどの騒動は外からはわからなかったのだから。突然の侵入者も意に介さずに儀式は続いていく。続けていくしかなかった。今あわててこの儀式を失敗するわけにも中断するわけにもいかなかったからだ。
そんな危惧をよそに、曹懐はあわや穴に落下すると言うときに体を霧に変じて消え、それに対してバーテルイは一切を意に介さずに進んだ。やがて、上を見上げて兎朴を確認すると祭壇の柱の一角に手をかけ、バーテルイはためらわずに登りはじめる。それを止める者は、傷ついた先ほどの護衛の生き残りだけだった。いったい、バーテルイが何をしようというのかはわからなかったが、これが重大な危機であることはみんなわかっていた。男たちは傷ついた体を引きずって、その後を追う。しかし、はたから見ても彼らは柱に残る体力すら残っていないように見えた。よろよろと柱に手をかけた一人がうえを見上げた時、後ろから、そこに居るはずのない男に止められた。
――虎魁だ。
虎魁はバーテルイを追って祭壇に駆け上がった。相手は片腕が使えないとは信じられない速さだったが、それでも、虎魁も負けていなかった。二人と兎朴の間の距離はまだまだあったが、兎朴は決められた順序で登っている。そのうち追いつかれるのは明白だ。しかも、彼の意識は塔を登るにつれて、ただ供物を捧げる事に収斂していく。もはや、決められた手順で登る事以外は頭にない状態にあるといってよかった。足元の争いを尻目に、尖塔の天辺目指して、吹きつける風をものともせずに登り続けるのだった。
さて、虎魁たちが登っていくさらにその下では、さらに予想外のことが起こっていた。そこに現れたのは誰であろうクトウだった。少し前までは師匠とともに空の上から、成り行きを見ていたクトウだったが、二体の招かれざる客の参入を見て、このまま傍観する事が出来なくなったのだった。急ぎ地上の虎魁の家に戻ると、身震いして獣に変身した。そのまま驚く虎魁を乱暴に背中に乗せると道具を口に咥え、家を飛び出した。そして屋根伝いに街を突っ切ると、ここまで入り込んだのだった。中庭に飛び込み、虎魁を降ろした後は、周りの様子もどこ吹く風で身震いして人の形に戻った。そして、バーテルイは虎魁に任せて、自分はもう一方の相手をすることに決めた。
クトウは人の形に戻ると、辺りを睥睨した。一見、霧と化して消えた相手の姿はどこにもみ得なかったが、霧に散じるその技をクトウは何度も見ていた。じっくりと目を凝らすと、怪しげな塊が彼の目には見えた。ふんと一息鋭く鼻から吐き出すと、ためらわず虚空に向かって弓を放った。ギャっと叫び声が上がって矢が空中で止まった。どさりと音がしてかつて曹懐だったものが姿を現し、こちらを睨む。しかし、それはもはや彼には通じない。
その様子に曹懐はにやりと歪んだ笑みを顔に浮かべて、大きく息を吸い込んだ。体がめきめきと音を立てて変形し、あっという間に完全に人ではなくなった。そして身震いして弓矢を払うとクトウを蹴り飛ばし、その勢いで祭壇に飛びついた。蹴り飛ばされたクトウは咳き込んで吐血した。
「まずいな、思ったよりも、ずっと強力になってる 」
予想以上の力強さにクトウは冷や汗をかきながら仰向いた。曹懐は威嚇するように噴気音を発して、さらに上に登ろうとするが、その足に縄がかかって引っ張られた。長老の戦士たちだった。
「「ひけぇええい!! 」」
傷ついた体で、精一杯の力で縄を引いた。また霧に変じようとするが、そこをクトウの矢が狙い打った。
「それはもう通用しないと言った! 」
クトウは胸をやられた掠れ声で吼えた。よろめく足を二、三回励ますように叩くと腹に息を吸い、それから、飛び上がって、ピンと張られた曹懐の足の縄を駆け上がった。曹懐はそれを見て祭壇をきしませながら跳ねた。クトウは足場が跳ね上がるよりも、一瞬早くトンボを切って祭壇に着地し、身震いして豹に変身した。ゴウ!と一声吼えて敵に飛び掛ると、次の動きの起こりを叩いた。獣と獣が弾けるようにぶつかり合って絡んだまま転がった。そのまま激しく争いながら祭壇を登っていくのだった。
塔を上っていた虎魁はズシンという強烈な振動に思わず塔にしがみついた。
「なんだありゃ!?」
下の様子を見てそう呟いたものの、ここ最近で随分とああ言った事に慣れた感があるが、それでもまだ夢を見ているような気分だった。
“どうにもやれんな、こういうの相手は ”
そう思いながら、今、自分が追っている相手もそういう相手だと気がついて苦笑する。
“馬鹿だな、どうも……”
クトウが突然現れたときは驚いたが、その怪しい呪術師になぜこうもほいほい着いてきたのか? 自分には娘もいる。こんな事をするのは割に合わないはずだ。
でも、今こうしている。かつて北であの事件に遭遇してから、なおさら厭ってきた事柄の中に、自分から乗り出したのだ。なにか宿命めいたものを感じながら、気を取り直して上を目指した。先ほどの衝撃でバーテルイもバランスを崩したようだ。片腕の分、体勢を立て直すのに時間を食っていた。
「うむ!」
この機会を生かさぬ手はない。虎魁は勢いよく駆け上がり、バーテルイに挑むのだった。もう兎朴までの距離はいくらもない。そろそろ食い止めなくてはならないのだ。
一気に追いつくと虎魁は柱を軸に回転しながら両足で蹴飛ばした。しかし、それは半ばからなくなっている左手で払いのけられ、虎魁はその衝撃に負けそうになった。なんとか踏ん張り、もう一息蹴り飛ばした。その衝撃で二人とも後方に弾き飛ばされた。
バーテルイは下らぬ争いをいとって、弾かれた勢いを利用し体勢を立て直しながら、上へ上へと登り始めた。そこからは両者の足の引っ張り合いが続いた。
「くそ! しつこい野郎だ!! 片腕がないクセして、粘りやがって!!」
満身、痣や擦り傷だらけになった虎魁は吐き捨てるように言う。もう手を伸ばせば届きそうなところで、兎朴が拝むようにしながら最後の急峻に手をかけたところだった。
兎朴は度重なる揺れをものともせず、細長い手足を使い祭壇に張り付いていた。最後の先端へと細く伸びていく辺りはまるで糸を伝う蜘蛛の様だった。そこで急に強い風が彼を襲った。腰に下げた供物がゆらゆらと風に揺れ、一瞬彼の動きが止まった。その様子を虎魁が見上げた隙を突いてバーテルイは跳躍した。兎朴以外の全ての人がバーテルイを見ていた。
「ち!!」
虎魁は言うが早いか、バーテルイの腰に向かって飛びついた。しかし、それを見越していたかのように、相手は虎魁を足蹴により高くに上った。ただ、誤算だったのはあまりの力に、さらに塔よりなお高くに跳ね上げられ事だった。
虎魁は中庭の外へと跳ね飛ばされていく。空中に舞った己の落ち着かない感触と、高みに跳ね上がる相手の姿がゆっくりと見えた。二人の衝突は予想以上に激しく、バーテルイの左肩口に突き刺さっていた短刀が抜け、ゆっくり円を描きながら兎朴の足もとに突き刺さった。
「あ!」
曹懐と争っていたクトウの目に跳ね飛ばされる虎魁の姿が見えた。虚空を掴んだ虎魁の手がむなしく中を泳ぐ。クトウの脳裏からは曹懐の事が消え、かわりにエイリクの顔が浮かんだ。
その時にはクトウは走り出していた。そして、助走をつけて塔の半ばから虎魁へ向けて飛んだ。そのまま空中で身を翻すと、その姿は鷲に変じ、弾丸の様に空中で弾けて虎魁を攫った。
それと同時に、ブアテルイめがけて曹懐も走る。塔を軋ませ槍のようにブアテルイを貫き、二体はもつれ合いながらも、また一つ上へと跳ね上がった。ちょうど、生贄を捧げ終えた兎朴にブアテルイが落ちかかろうという時だ。そして
――跳ね上がった二人の背景で爆音が鳴り響き、空が明るくなった。
雷光が閃いたのだ。
稲妻は中空にあった二体の獣を飲み込み、塔へと向かった。そして、塔からその直下に広がる大地の穴へ、大気を劈く余韻を残しながら吸い込まれていった。
塔の上にいた兎朴はと言うと、雷は上の二体に当たったあと、足元の短刀へと流れて直撃は免れた。ただ、落雷の衝撃は塔をズタズタに引き裂いて、おまけに炎を足跡代わりに残していった。塔はその衝撃で大きく軋むと、間を置かず瓦解した。勢い中空に投げ出された兎朴をクトウの大鷲が翼で掠めるように拾い上げた。
落雷は強く地を揺すった。皆壌のあらゆる井戸が青く発光して街全体が光に包まれる。数瞬のち水が、いや水のような何かが天へ向かって弾け、祭の明りを反射してキラキラと輝いた。まるでダイヤモンドの粒が空中にちりばめられたようだった。
そして、その小さな輝きをつなぐように連続して稲妻が閃いた。稲妻の光は天まで届く大樹を作り出していた。輝く幹、街に広がる光の根、そして街を覆う雲がその巨大な枝葉だった。それに絡みつくように、凄い速さで何かが穴から天へと昇っていった。クトウには見えていた。それは巨大な蛇だった。まるで神話から抜け出したような蛇が落雷によって呼び起こされたように光の梯子を伝い、天を目指していた。その蛇が雲の果てに消える直前、高みから大地を睥睨した。丸い瞳が全ての人の心を映しているように揺れた。
瞬間、人々は不思議な光景が見た。街中の人がみんなそれぞれに夢を見たのだ。皆それぞれに何を見ただろうか? クトウはそれに旅立ちの瞬間を見た。あの旅立ちの日を、そして、僅かながらも、皆壌や奥壁を巡った日々を。彼にはまだ先が続いているように感じた。そして、蛇が滑るようにしながら、その一歩が雲間に消えると、後には人間たちの祭だけが残っていた。これからは人間たちの時間だった。
クトウは二人を地上に降ろすと空を見上げた。高く上空にいるはずの師匠の姿はいつの間にか消えていた。まだ街のどこかにいるような気がしたが、今は探す気がしなかった。
“やれやれ、やはりまだ終わらなかったな。師匠はなかなか人が悪い ”
流石のクトウも少しくたびれた気がして、大きく息をついた。ゆるゆると雲が動いていく。ところどころに晴れ間が覗いていた。みなが浮かれている間にクトウは密かにその場を引き払った。包突だけがそのことに気がついていたが、彼は何も言わなかった。クトウが去っていく背中を見送るように一瞬目を向けた。彼には彼のやる事があり、それ以外の人にはそれ以外の人のやる事があった。クトウの旅がまだ終わっていないのを包突はわかっていた。
○ ○
それから三日間、祭は盛大に催された。長老たちは疲労困憊し、年寄りの冷や水とからかわれもしたが、見事仕事をやり終えた。最後の日に遊牧ティキ族の首長と首長候補たちによる模擬戦闘が行われて祭り鎮めとなり、祭壇の残骸を集めて広場で火が焚かれた。それを最後に各々が持ち場に帰るかのように日常に回帰していく。
街を埋めた遊牧ティキたちもその天幕をたたんで野に帰っていった。皆壌府は彼らが出て行って一安心したのは言うまでもない。そして、祭の様子や、遊牧ティキ族たちの様子を詳しく記した若者がいた。彼はこの時に経験したことが元で、やがて大著を記すことになるのだが、今はまだ知る由も無い。その他にも多くの人物が、お互い知る由もなくこの北の街でこの時を共にしたのだった。この事件の進行の中心的な人物はもちろんクトウたちだったと、我々は感じる。
しかし、それもまた一つの物語でしかなかった。皆それぞれの持ち場に帰って、それぞれの物語を紡ぐのだった。
エピローグ
――クトウは街に別れを告げようとしていた。
クトウは皆壌の西門をはるか後ろに置き去りにして、歩いていた。そこに見知ったものは誰もいなかった。目の前にはゆったりと起伏を描き荒野がのたくって、その中ほどにポツンと黒々とした塊が見える。クトウはそれを見ていた。西に去ったティキ族の長老の一人から話を聞いたのだ。
“大鷲に姿を変える老人が我々の天幕に暫く一緒に暮した ”
彼は本当の意味で師匠に会ったとは言いがたかった。今度こそ自らの力でそれを成し遂げるのだと意気込んでいた。
“彼は暫し後、再びまみえんと言って去って行った ”
老人はそう言っていた。クトウはだから西に出ることにしたのだった。この先の荒野で老人の仲間がクトウを待っている手筈になっていた。今は道が繋がっているが、この先はそれも徐々に消えていくことだろう。いつも道があるわけではない。人が通い合い交錯する。そこに道ができる。だから皆壌は道だらけなのだろう。この先の荒野は一見して道が無い。それは彼が過していた森も、姿かたちは違えど同じと言える。
ふいに、黒い影が地面を滑り、クトウは上を見上げた。大きな一羽の鷲が上空高くを飛んでいる。空にはなおさら何もない。
“あれは師匠なのだろうなぁ ”
ゆったりと円を描いていた鷲に向かって、クトウは立ち止まりおもむろに弓を取り出すと力強く引き絞った。ヒョッと矢離れの音がして、わしは急旋回したかと思うと、風に乗ってグングンと離れていった。だから、クトウは今は迷わずに歩きだすのだった。
最後までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。
この作品は、以前ファンタジーノベル大賞に応募したもので、書いていた時はある種、それまでの集大成だと思って執筆していました。
途中、大きな中断があり、挫けそうにもなりましたが、ある人の応援によって完結させる事ができました。
ファンタジーノベル大賞は落選してしまいました。
内容はもちろんですが、応募規定にあっていない作品だったのを知ったのは投稿からしばらくしてのことで、自分の詰めの甘さというか、勢いだけの情けなさに恥ずかしい思いでした。
しかし、この物語は自分としても十全に力を出し切った感慨深いものであり、以前こちらで掲載していた事もあり、若干の修正を加えてここに再掲したものです。
もし、僅かなりと楽しんでいただければ、このお話も報われます。
また、次の作品もよろしければお楽しみください。




