第二十五章
今度はクトウは深い闇の中でもう一人の自分を捉える事が出来た。落ち着いて刃に付着した血を舐めてみた。血の生臭みが鼻に抜けて気分を高揚させる。クトウはそろそろと動き出した。相手より少しでも早く動かなければならなかった。クトウの頭には疑問が浮かんでいた。なぜこんな事をしているのか? なぜ自分同士で争うのか? だが、争いを止める事は無かった。また止める理由もなかった。静かに相手に近づくと弓を引き絞った。とつとつと矢継ぎ早に相手に射掛けると、驚いたように石の林をもう一人の自分が走るのが見えた。それを追って起伏に身を潜めつつ矢を射続ける。時折、相手の矢が掠める事もあったが、今度は常にクトウのペースだった。
やがて目の前に倒れた敵がいた。矢が深くその手足を貫いて大地に縫いとめていた。その胸にも深々と矢が立っている。クトウは慎重に近づくと相手が動かないのを確かめてから、今度は自らが止めを刺そうと短刀を翳した。すっと小気味よく刃が咽喉元の皮に入ったかと思うと、わさわさとした黒い毛皮がその下から出てきた。すると人の皮がピリピリとむけて中から豹の頭が出てきたのだった。ぐったりとうつむいた顔が瞬時に跳ね上がり、人の目玉がグルリと回転して緑色の豹の瞳が現れて、氷のような冷たさでこちらを見ていた。クトウはそれに構わず事を進めようとするが、相手は身じろぎして低く唸るような声でクトウに話しかけた。
「なぜ俺を殺す?」
その声は憎しみに溢れていた。
「それは俺の台詞だ。なぜ俺を何度も殺したのだ?」
クトウは手を止めて言い返した。
「俺はもう呼び声に答えたのだぞ? 夜の女の呼び声に遥か昔に答えた。横合いから出てきたお前は邪魔なのだ。俺はお前を殺さなければならぬ。そして、自分を捧げて生まれ変わらなければならぬのだ。彼女の戦士になるのだ 」
黒豹はゴロゴロと喋る。目だけが今にも噛み付きそうな表情をしていた。
「そんな馬鹿なことがあるか! 俺は呪術師だ戦士にはならぬ。答えた覚えもない 」
クトウは訳がわからなかった。
「じゃあ、お前は何をしているのだ? なぜ殺そうと言うのだ? それもまるで生贄にするように殺そうとしている。俺を捧げるつもりだろう? いったい何に捧げると言うのだ? 」
「俺が知るわけがあるか! 」
クトウは思わず叫んだ。いつもそうだ、俺が知るわけがあるか! そんな思いが胸に迫ってきて、クトウは崩れるように膝をついた。
――その時、横たわるクトウの横でコルクトの賽に変化があった。賽は独楽のように回転し始めて止まる気配がない。
「ふむ、始まったか。漸くだな 」
呟くと懐から水を取り出して、クトウの額に降りかけて清め、寝台の四方を仰いだのだった。それから、小さな玩具のような木の梯子を立てて、太鼓を撥でこするように鳴らし始めた。ドロドロと雷鳴のような音がまるで何かに吸い込まれるように部屋に響いた……
○ ○
クトウは夢中になって反論しようとしたが、言葉が思いつかなかった。そして確かに自分は目の前の獲物を解体しようとしていたのだった。悩むクトウを追い討ちするように黒豹の男は哀願するように言った。
「殺さないでくれ。俺はお前で、お前は俺だ。 俺はお前を殺せなかったが、お前はするというのか? 」
そのジトっと投げかけられた問いに絡められると、手足が萎えたようになった。だが、その目は弱弱しく懇願するもののそれではなかった。猛獣の瞳、戦士の威圧だった。
「俺を殺すのか? 俺を殺す事は叶わぬ。俺とお前は一つだ。同じ人間だ。お前が俺を受け入れろ 」
そう言って身震いするとムクムクと身体が膨らみ、その姿かたちはより人間ではなく、動物のそれへと変っていく。突き刺さった矢が今にも折れそうなほどに軋み、吼え声はまるで嵐の様だった。クトウの目はまたも暗闇に閉ざされていくのだった。大きな黒い闇に二つ緑色の灯がともり、クトウを捉えて放さない。全身に強い緊張が走り、それに身体がぐいぐいと丸められる。冷たい汗を握り締めながら意識が遠くに遠のいていく。その奥底で、クトウは遥か遠くの記憶がぼんやりとよみがえってきたのだった。
――暗い暗い底で、クトウはぼんやりと膝を抱えていた。身体は飛ぶように運ばれて、遥か遠い地平に連れて行かれている。気がつけば自分は見た事もない女の懐に入れられて空を飛んでいるようだった。柔らかな感触が全身を包み、安心感に手足をゆだね、どこへとも知れない地平に連れて行かれる。やがて女は、梢は天を貫き、根は果てが見えないと言うような大きな樹の中ほどに彼を吊るした。そこは強い風で、下を見れば果てがなく、クトウは恐ろしさのあまりにひきつけたように硬直してしまった。
「これを持っていなさい。これはわらわとそなたの証じゃ 」
女は震えるクトウの懐に何か冷たくて固いものを一つ押し込むとそう言って立ち去った。やがて日が登って沈み、また登って沈み、もう一度登って沈む頃、女は帰ってきて言った。
「あれを見せてごらん 」
クトウは吊るされたまま、例のものを取り出すと、女はそれにふっと息を吹きかけた。すると、冷たい塊だったそれに薄っすらと朱が差して熱を発した。それが急激に厚くなったものだから、それを乗せた掌に酷い痛みが走り、投げ捨てようかとも思ったが、女の言葉を思い出して捨てる事は出来なかった。女はそれからそれをクトウの小さな手に握りこませた。そして、声一つ上げずに握り続けるクトウを見て女は満足そうに微笑むと吊るされたクトウを再び抱き上げようとした。
しかし、ドロドロと不気味な音が響き、皮を破るような音とともに一人の男が突然現れたのだった。
男は仮面で顔を隠し、全身をひだたれに覆われた衣装で飛ぶように枝を渡ってクトウをさらい上げた。女の絶叫が響くなか、男は笑いながら枝から飛び降りたのだった。
そして、飛び降りながら男はクトウの身体を探り、衣服を脱がし、持てるもの全てを奈落の底に放り出していった。だが、しかし、唯一クトウの手の中の物は激しく灼熱して後、クトウの身体の奥底に吸い込まれいたので、それを捨て去る事は叶わなかった。
その時クトウをさらった男こそ、後の師であるコルクトで、女の正体は夜の女と言われる女神の一柱だったのだが、クトウはそんな事は今まで一回も思い出さなかった。身に起こったと思いもしない。その回想が一瞬の時に、まるで閃光のように全身を貫いたのだった。
ゴロゴロと音がして、鼓動が激しく打ち鳴らされた。まるで夜闇を劈く稲妻のようにクトウの戒めは解かれた。
「ハハハハハハハ!!!!」
自らの発したと思えぬ笑い声が咽喉の奥から駆け上がってきて止まらなかった。
“あれだ! ”
あれを捧げるのだ。そして、あいつは俺だ。必ず持っている。
「俺よ! 俺は俺を捧げよう。その体の内にあるものを今こそ取り出して、俺が俺である証拠を神々に捧げるのだ 」
「そんな事をするな、自らを捧げて何を得るのだ?」
「俺は俺を切り開く。己の意思で生きていけることを明かしてみせる。俺は新しい自分を手に入れよう。死とはいつもともにあるものだ。呪術師は死を受け入れて共に生きるのだ。自分を殺すことにためらいはない。死を潜り抜けてまた会う事もある。それが知恵というのだ 」
黒豹はゴウと一声吼えた。悔しげなその鳴声はクトウの心には響かなかった。響いていたのは師の言葉、師の言うそれとは“死”であった、そして“知恵”であった。クトウは暴れる相手にのしかかって押さえつけると、頭を抱くようにして首を掻き切った。トッと血が短く噴出して相手の力は失われていった。相手が完全に動かなくなると、クトウはその皮をはぎ、肉をそいで腹を捌いた。それから、骨をバラバラにし、心臓を二つに分けた。すると心臓の中から鉄片が一つ出てきた。それは血に塗れて燃えているように紅かった。気がつけば、辺りはもはや暗闇ではなかった。大きな、まるで山のように大きな樹の根元に彼はいる事がわかった。
そして、クトウはバラバラになった体を再び剥ぎ取った皮で包み、その腱で縛った。それから、それをもってその樹を登りだした。樹は途方もなく大きかったが、クトウは信じられないくらいに速くそれを登る事が出来た。樹の幹を歩くように登っていくと、今までいたところはもはや暗闇の底で梢は遥かに霞んで見えた。やがてクトウに見覚えのある枝が見えた。
それは枝と言うには大きすぎ、まるで樹の幹からもう一本の樹が生えている様だったが、紛れもなく枝であった。
そこには女が一人と男が一人それぞれがクトウのほうを見ているのだった。男は仮面を着けひだたれを垂らし、鷲が留まる様に座っていた。女は顔をベールで覆い、黒いゆったりとした着物を身体に纏いまるで蹲った獣のようだった。
「「よくきた、お前は何を捧げるのだ?」」
二人は共に語りかけた。
「自分自身を捧げに参りました 」
クトウは答えた。
「あれが、お前の祭壇だ 」
男が指差したのは張り出した枝にかけられた鍋だった。
「あれがそなたの祭壇じゃ 」
女が指したのは吊るされた縄だった。クトウは迷うことなく鍋を差していった。
「私の祭壇はあちらでございます 」
そう言ったとたん、女のベールがふわりと揺れて、その下から麗しい唇が、そして、悔しげな獣の呻きと牙が覗いた。
「夜の女よ、今度はワシの勝ちだ 」
カハハハハと乾いた笑いが響き、仮面の男が立ち上がった。男はクトウを呼び寄せると持っていた荷を受け取り鍋に入れた。瞬く間に鍋は煮え上がり、それをさしてこう言った。
「さあ、全て食べろ 」
クトウが言われるがままにそれを全て平らげると、クトウの目は澄み切って遥かかなたが見え、耳は冴えて遥か遠くまで聞こえるようになった。
「お前を呼ぶ声が聞こえるな?」
男が言って、クトウは頷いた。クトウには聞こえていた、遠く師匠の叩く太鼓の音が。
“帰るのだ ”
これできっと、そして、やっと自分の道が始まるのだとクトウは思った。いつか、自分を連れ去った男のようにクトウは枝から飛び降りた。加速していく体が、なにか膜のようなものに触れて突き破り、辺りはクトウの見慣れた世界へ変化していった。生ぬるく風が吹き上がってくる。落下のせいかも知れない。クトウは両手を翼へと変えると風を捕まえた。それから、暴れる風を優しく受けて、ゆっくりと皆壌の上を旋回していった。遥か下方に街を囲って土煙を上げる人々が見える。十字の大路の交差点に一つ盛り上がった丘がある。街の中心部だ。壁に囲まれた宮殿になっているその奥にぽっかり空いた空間があった。空の上からはそこがきらりと光って見える。
“ワシらはこれに呼ばれたのだ ”
気がつけば横にコルクトがいて、クトウにそう語りかけた。二人は遥か上空でこれから起こる事の目撃者となるのだった。
そして、二人がその目を地上に転じれば、様々なものが目に入ってくるのだった。




