第十九章
エイリクは不思議な人に会った。その男の透き通るような白髪交じりの赤毛(実際は白髪に赤毛が混じっているという風情だったが)から、どうやらコルキセ族だと知れた。男は最初からエイリクに気がついていたようで、真直ぐにこっちに向かってくる。
「お嬢ちゃん、クトウを知っているね? 」
落ち着きのある声だった。静かで上品な響き、ゆったりと重みがある。
「アレはここにいるはずなんだがね。そろそろいないと困るんだ。まったく面倒が出来してしまっているから、私はもう少し遅れて着く手筈だがね。一緒に見ようと思っていたのに、まだ終わってないのか!! それから、あの子を隠しても駄目だ。あの子はずっと狙われているのだから。きちんと対決しなきゃならない。まだ、あの子は逃げているのかな? そろそろ頃合と思ったが、出来の悪い奴で苦労するよ。まったく、時間もないのに道草ばかりだ! 」
大仰に頭を振ってみせる。エイリクには彼が何を言っているのかが解らなかった。ほんの少し恐怖心が湧いた。
「ああ! 全く何をやっているのかね!! まあ言っても始まらぬ。お嬢さんにはちょっと手伝ってもらおう! なに同族のよ(・)しみ(・・)という奴だよ 」
パンと音がして、エイリクは目を覚ました。さっきまで何が起こっていたのだろうか? 夢でも見ていたみたいだった。目の前にはいつものとおりの町が広がっているだけ。なにも変った事もない。もちろんさっきまで話しかけていたはずの人物もいない。彼女は気がついていない。こっそり忍ばされた彼の影があることを。その髪には一枚の鷲の羽根が差されていたが、彼女はそれがずっと昔からあるように思っていた。
○ ○
クトウはどうした訳か屋敷をさまよっていた。どこをどう通っても、必ずこの部屋に帰ってきてしまうのだった。来る時につけたはずの目印はクトウの知らぬ間に人形度もが片付けてしまっていた。クトウが後をつけたときは余計なルートをはしょっていた事もあり、また、目に付くところで働く人形がうっとうしく思った曹懐の思惑もありで実際のところ、クトウは人形たちを見る事もなかったのでまさか消えているとは思わなかった。壁は真っ白でどこもかしこも同じに見える。歩くうちに感覚が狂ってくる。特殊な回廊の仕組みは八卦の陣を意識して作られ、きちんと法則に従わなければ抜けられぬようになっている。八卦の陣とは一度迷い込めば抜け出せないという伝説の用兵の布陣術であった。曹は軍人ではなかったが、若い頃、その巧妙さに心惹かれて古書を読み漁ったのだった。もし周閨が意識を取り戻せば、その体に刻み込まれた記憶で、あるいは簡単に抜け出せただろうけれども、クトウはそんなことには思い至らなかった。
しかし、そんなクトウの前についに別の部屋が現れた。どこをどう辿ったのかは定かでない。明らかに他の場所とは違う部屋がその目の前にぽっかりと扉を開けて待っていた。そして薄暗い部屋の中からゆっくりと向かってくるものがあった。
「誰かと思えば、あの時の小僧ではないか? ん、迷ったのかね? 人の家だ当然だろうな。蛮族の餓鬼じゃあ、なおさらかな? まったく、野蛮人どもの無作法にはうんざりさせられたがね。君は特別というものだよ。なんたって、君のために新しい腕を新調したくらいだからのう 」
摑まらない自信があった。だが相手は練達の道士だったのだ。相手にとっても意外だったが、どちらが窮しているかは一目瞭然だ。思わぬ行幸に顔がほころぶ曹懐だった。「若さからの傲慢と自信かな? それともなにか考えがあったのかね?」
じわりとあとずさったクトウは、そのときには既に僅かに気持ちで負けていた。普段の彼ならば、そんなものはどこ吹く風と受け流していたろうが、ここ数日の精神状態とこの環境が少しずつ彼の心を、その本領を犯していたのだ。
「さて、どうするね? また下品な獣に姿を変えるのかね?」
“怨 ”と一声あげると、辺りが揺らぐ。幾重もの白い層が立ちのぼって周りを囲んでいく。
「こんなこと、もうせんでもよいじゃろうが、まあ念には念よ 」
キラリと掌中の赤玉が輝いたと思うと、クトウの胸部に強烈な圧力が加わった。絞り上げられるような痛みだ。それが肺に執拗に絡みついてくるのだ。引き絞るように息が押し出されて、喉が奇妙な音を吐き出した。顔は見る見る色を失っていった。クトウは気をしっかり持とうと拳を握るが手足がジーンと痺れだして言う事を聞かぬ。やがて酸欠に目の前が真っ暗になり地面に倒れ伏した。その時、彼の腰に下げられた太鼓がボンと一音高く部屋に響いた。すると、今まで人形の様に立っていた三人の目に攻撃的な色が浮かび、曹懐目掛けて走り出した。クトウの苦し紛れの策だった。
「何を思ってか知らん。こんな奴ら束になったとして、意味がないわ 」
そういって、大仰に印を組み替えて呪文を唱える。細長く伸びた霧の糸がまるで蜘蛛の巣の様に張り巡らされて、三人を絡め取る。これが実に厄介でなにかで払えば払ったものに絡み付いて見る見る動きを妨げるのだった。そんな中、周閨は自分の肌肉ごと絡みついた触手を引きちぎりながら敵に迫る。
「貴様の作ったこの体、これくらいの事ではとめられぬ! 」
頭皮が剥げ落ち、腕の肉ががこそげ骨が除く。半ば人間とは思えぬ形相で近づく周閨に曹懐は狂喜した。
「流石だ! 思った以上の出来だわい!! あの丹薬なくしてこれほどとは、わしの術式はすばらしかった!!」
その言葉を聴いて周閨は満腔の怒りと共に意識を取り戻していった。ただただ自己讃美で満たされたその言葉は、今まで彼に良いようにされた周閨にとっては屈辱であった。しかし、その怒りもわずかに曹懐の身には届かなかった。
「おのれ!」
「間抜けが! さしもの貴様も核がなければ、ここまでは届かぬわ! あれこそ秘薬! わが技の極みなり!!」
最後の叫びも虚しく塗りつぶされて、繭のようになって周閨は倒れた。
「そうか、これが貴様の秘密か 」
そう答えたのは栄啓だった。今まではただ開放されて暴れていた栄啓と虎魁だったが、周閨の意識に応じるように自分を取り戻していたのだった。
「そ、それは!」
曹懐の顔が蝋のようになった。栄啓の顔は狐のように笑っている。
「な、何をする気だ!!」
「知れたこと!」
栄啓はそれをごくりと飲み干した。胃の腑にゴトリと固い感触があった。身体が熱を帯びる。
「あああああ!」
曹懐が口を開き、絶望のあまりドロドロに崩れた顔をぶら下げて絶叫している。虎魁は少し顔を引きつらせながらも栄啓の行動に顔を紅潮させ、いささか興奮した表情で様子を見ていた。暫くすると、栄啓は全身から蒸気を吹き上げ、肌の色は赤褐色に染まっていった。はっと気がついて逃げようとした曹懐を一瞬早く栄啓が捕らえた。
「怨!」
交錯しようとした瞬間に印を組んで霧に溶けた。――これで何とかなったか?――そう思った。しかし、栄啓の目には手に取るように相手が見えた。今ならあの扉の意味も解ろうというものだ。老人の想像以上にこの男の才能はすさまじかったのだ。石の力は彼の体を介して大きく引き出されていた。栄啓は霧を抱きすくめるようにして、持ち上げると中から老人を引きずり出した。
「馬鹿な! いきなりそんなわけが!!」
栄啓は何も言わない。ただ殴打した。老人が吹っ飛んで虎魁の足元に転がる。
「よう、爺さん災難だな 」
虎魁は笑っていった。
「蛮人め! あれに分別なんぞついてないのだぞ? あれはちゃんときちんとした手順でなければ全く役に立たんのだ。ただ、見境なく暴れ続けてやがて周りを巻き込んで自滅するだけだ! ワシの術も利かんようだ。当然といえば当然、アレはワシの秘術の粋だからなぁ 」
老人は冷や汗を流しながら言った。そして笑ったままで虎魁の表情が凍った。そんなものがこっちに向かってくるというのか? 急いで飛びのくも、糸が絡み付いてしょうがない。曹と共にすさまじい衝撃で打ちのめされる。まるで金槌でも馬上からぶつけられたような気分だった。そのまま糸にがんじがらめになって床に転がる。身動きがとれない。相手はあの栄啓がさらに力を増した化け物だった。いつの間にか曹懐は自分を囮に逃げている。もう一撃を喰らい吹き飛びながら、追いすがってくる魔物が見た。さすがに死を覚悟した虎魁であったが不思議なものが目に入った。
女だ。
女が忽然と立っている、クトウのそばに……
なぜ?
女が……
そして、女が口を開いた。
「嗚呼、誰がこんな事を! わらわの大事な子を隠したもうたのじゃ?」
虎魁は震え上がった。それほどに冷たく刺すように鋭く、怒りに満ちていた。それを感じた栄啓は女のほうを向くと身を低くして身構えた。緊張しているのだ。理性を失って化け物になったはずの男が。そして栄啓は相手に向かってあらん限りの敵意を向けた。
「ほう? わらわを侮辱するかえ? 不細工な殺気を向け放ち追って、礼を知らぬのう 」
視界から栄啓が消えた。もはや視認できる速さではなかった。しかし、栄啓は急激に止まった。横合いから白い腕が突き出された。その腕に何かを感じて、何度も反転し、身を翻して女に迫るも、どうしても届かない。栄啓はきっと相手をにらむとまるで曹懐のように霧に溶けた。次の瞬間、栄啓の節ばった指が、後ろから女の白い咽喉に食い込んだ。
「ギ、ギギギ……!」
苦咽が口から漏れる。しかし、それは女のモノではなかった。女の身体がありえない方向に動いていた。がっちりと押さえられた頭部、咽喉に食い込む指をそのままに身体だけが奇妙に後ろを向いて、その白魚のような腕が腹を貫き、栄啓の胃の腑の奥に差し込まれていた。
「これが原因のようじゃのう 」
ベールの奥で綺麗な唇がなまめかしく形を変えた。女は手の中にある硬質を丹念に弄繰りまわすとスッと腕を引き抜いた。くりんと首が回り、後ろを振り返ると栄啓はそのまま吹き飛んだ。
「さて、この鬼はわらわの坊やを虐めたわけではなさそうよのう 」
気がつけば、曹懐は跡形もなくいなかった。彼はとっくに逃げ出していた。そればかりか屋敷ががたがたと振動して、ぴったりと閉じた石造りの建物が地鳴りのような音と共に崩れ始めたのだった。
「このまま許されると思うておるのかや? めでたいのう。しかし、その前にこの子を外に出してやらねば……」
そう言ってクトウを拾い上げる女は聊かも慌てる事は無く天井を見上げていた。それからそこにいる虎魁に始めて目を向けた。
虎魁はその恐ろしさに思わず立ちすくんだ。かつてコルキセ族の土地でこの女と同じ感触を感じたことがあった。恐ろしい体験だった。
それはまだ彼が若かった頃の話だ――彼のいた鏢師の一団は、その時コルキセのいる土地を抜けて遥か北のナナユ族を相手に彼らの特産品であるケフィリという象の象牙を取りに行ったのだ。それは彼らより遥かに南に暮らすティキ族には大変な冒険だった。その旅の途中には彼らの知らない深い森や延々と続く沼交じりの草原が立ちふさがり、一つ季節を過ごすとひどい吹雪に見舞われるのだった。
しかし、それ以上に恐ろしいことが彼を待っていた。一団はある夜に不意に見えない敵に襲われた。それは巨大な黒い獣だった。森を抜けるのに二日かかったが、結局抜け出して生き残ったのは虎魁だけだった。その時の獣の感触と彼女の気配がそっくりだったのだ。彼は後にそこがコルキセ族のけして近づかない夜の森といわれる聖地だと知り、その獣が夜の女と呼ばれる恐ろしい神である事を知った。助かった虎魁はコルキセ族の地の奥深く、ほとんど他部族と関わらない森の奥で暮らした。
女はそんな虎魁をしげしげと眺めた。
「ぬし、どこかで見たことがあるな……そうか、あの時の若造か! 思い出したぞ! なれらはわらわに十分に供物となったわ。その後も、折に触れ我が土地に参っておったな! ぬしらもこのまま埋まりとうはあるまい 」
ばさりと衣を翻したかと思うと、虎魁の視界が暗転した。次に目を覚ますと、三人は土の上に放り出されていた。時間はほとんど経っていなかった。地面の陥没がすっかりあたりの地形を変えていた。その様子を見てあのまま地下にいたらと思うとゾッとした。
そしてクトウだけがすでに立ち上がっていた。クトウは飛び出した岩の先端にいて風に目を細めて森の向こうを睨んでいた。その目は瞼の奥で鋭く光り、首筋には薄っすらと血管が浮いている。ふるふると体が震えて纏った毛皮がまるで逆立っているように見えた。女はその様子を眺めて酷く嬉しそうに笑った。それが妙にあたりに響いてクトウの震えとまるで重なっているように見えた。
「そうじゃ、わらわの愛しい男。復讐は雄々しくいたせ……」
いたわるように優しい手つきでクトウを撫ぜるとクトウの身体がぼこぼこと反転して一頭の獣になった。
いったん鼻を上げて空気の匂いを嗅ぐと、背中に女を乗せて弾むように木々を駆け上り、あっという間に見えなくなった。残された三人は虎魁を除きまだ目覚めてもいなかった。そして虎魁も全身の力が抜けたようになって、ぐしゃりと座り込むと深く息を吐いた。
○ ○
曹懐は逃げていた。逃げに逃げて街まで一息に逃げたかった。が、それはかなわなかった。あの仙丹が惜しい。あれだけは取り戻さなければならぬ。そう思うと足が踏みとどまったのだった。森の中を逃走するふりをして、相手を待っていた。あの程度でどうにかなる相手ではない事は解っていた。霧で出来た馬にまたがって待っていた。追いかけてくるはずだという確信はあった。あの化け物女はかつて自分が信望して力を求めていたような存在なのだろうと、流石に認めぬ訳にはいかなかった。
遠くにクトウの気配を感じていた。ずっとそれがこちらを向いているのが解る。それは恐怖だった。そして、はじめて自分には本当の才能が、つまり道士としての才能がなかったのではないかと感じた。それほど彼には信じられないものを見た思いだった。この場合、彼が感じたクトウの持つ才能は、彼の研鑽したものとは全く違っているのだった。クトウの才能は道士の目指すところとはずれていたのだ。だから多くの意味で間違った認識であった。だけれども、彼に本来の道士としての才能が欠けていたであろうことも事実だった。なぜ彼が今日まで彷徨いえたか? それがそのことの証明でもあった。彼が信じて追い求めてきたものは本質から外れていたのだ。今まで永の歳月、その才能を歪んだ目標に費やしたのだ。驕りの
中に沈没していた畏怖心が僅かに首をもたげて、彼は混乱していた。
今の彼は本来かつて乗り越えるはずだった試練に立ち向かっているも同じだった。
「これ、たわけが! どこへ向かう?」
突如、耳元で声がしたが、それを無視して曹は霧の馬に鞭を入れた。一段と速度が増した。
しかし、ぴったりと声は離れない。遥か後方に木々のざわめきが聞こえるのを曹懐は聞き逃していなかった。つまり、追いかけてきているのはもっと実体を持った何かで、このかそけき(・・・・)なにかではない。後方のざわめきはそれを教えてくれるのだった。
その判断は誤っていなかった。女はクトウの背からその触手を伸ばしたに過ぎず、放っておいても本人が捕まえられるものをわざわざ手に入れてやるような性質ではなかった。現にクトウが曹懐の後ろに迫っていくその間、女は曹懐に何もできていなかった。
だが、クトウはみるみる曹懐との距離を縮めると、跳躍一閃、斜め後方の大樹より爪をひらめかせて襲い掛かる。クトウのその鋭い爪の先端が馬の尾を掠め、無残に空中に散華した。それを無視して馬を走らせると、散った霧が弱弱しく棚引いて、形を取り戻そうとする、その間にもう一撃、今度はその牙がかかる。だが所詮、相手は霧なのでその程度では散っては戻り戻っては散るだけだった。馬は飛ぶように、いやまさに紙一重で地面の上を滑って駆け、木々の間を蛇行していく。そして、馬が藪を飛び越えた時、一瞬、身を沈め込んだクトウの黒豹が、ついにそのどてっぱらを下から大きく捕らえた。
曹懐は転げ落ちるようにその馬上から避難すると、手を高々と掲げて鋭く命じた。
“縛 ”と。
すると、まさに先ほどの体当りで雲消したはずの馬はもやもやと形を整えて大蛇となり、クトウを締め上げるのだった。曹懐はウンと気合を込めて蛇を操り締め上げるが、しっかり捕縛されたはずのクトウのその馬力に驚かされる。とどめにキッと懐から人形を取り出すと、すばやく紐で絡めて地面に突き刺した。代身の方術の一種である。依り代に念をこめて自らの代わりとして術を託すのだ。
彼の狙いはクトウよりも女にあった。散らばった霧の残滓がしなやかに棚引いて結界となっていく。これで一時しのぎくらいにはなるはずだ。女の姿はどこにも見えない。女が持っているであろう仙丹をいかにして取り戻してくれようか? それには先手を打たねばならぬ。そして、姿を見つけなければならない。だから、クトウを手に入れた。さらにクトウを一時人形に任せて、曹懐はもう一体の人形を取り出した。それは一本足のやじろべえのような人形で手に小さな棒を持ていた。曹懐はそれを右手の中指にちょこんと乗せると辺りを見回した。人形がくるくると回った。先ほどから道具を取り出す曹懐だったが、ここ百年近く敵対したものに対してこれらの道具を使うような事はついぞなかった。そんなことをしなくても十分に間に合ったからだ。
だが今回は違った。もう、屋敷は使えず、沢山の研究材料も葬られた。だから、あの成果だけは取り戻さなくてはならない。そして、あの遺体さえ手に入れられれば、こんな北方の蛮地に長居は無用だ。その時こそ、彼の解くべき呪縛、またはその悲願が達成され、こんな森に引きこもる必要もない。
やがて、人形は激しく振動したかと思うと、一点を指しピタリと止まった。曹懐は袖を払うようにしてその示された場所の地面に五本の針を投げる。トストス音をたて針が地表に突き刺さった。そして、その地面から曹懐にそっくりな人形が地面から生えてきたのだった。人形は投げられた通りに円を描いて、示された一点を囲んでいる。まるで生きているかのようなその人形たちは一斉に目を開くと、誰に言われるでもなく印を組む。するとボッと周囲を朱に染めて炎が立ち上った。ギャ!! と叫び声があがる。
「痴れ者め、わらわを焙りおったな!!」
炎を吹き飛ばすような怒気とともに、その中にいて服すら燃えぬ女の姿があらわになった。案の定だったが、流石にあまりにも平然としているので少々憎らしく思えた。だが、ただの炎ではない。相手を捕える炎の檻だ。焼けはせずともたやすく破れもしないはずだった。女は円陣から逃れようとしたが、炎が吹き上がりそれを阻む。女は不快さもあらわにこちらを眺めている。
「化け物め……」
五人の曹懐は忌々しそうに呟いた。
「もっと火勢を上げろ!」
六人目、つまり本物の曹懐がそういうとキンと澄んだ音が鳴り、火の粉がひときわ舞った。その熱気に森の湿った空気と土が瞬く間に乾いて草木の匂いが辺りに満ちるのだった。その中で曹懐は手中の玉を握り締めて必死に相手を透かし見ていた。
そうしておきながら、可能な限り火勢を上げるよう指示を出し続ける。空気がまるで軋んだように揺らめく。空気の密度の違いの中にその歪んだ像をさらしていた女がついに結界を打ち破ろうとして一際大気が歪む。急激な圧力が加わり、炎が押しのけられる時、まさに押しつぶされたその紅蓮から紅く焼けた腕が女の懐めがけて突き出されたのだ。それは土でてきた腕だった。火はその成った果てに土を生じたのだ。嵩の道術の得意の五行変化であった。彼女はひらりとのけぞり何とか腕をかわしたものの、きらきらと火の粉の線を巻き上げて衣が翻った。そして、その懐から、紅蓮の炎の中にあっても特異な赤が血の一滴のように零れ落ちて土塊に飲まれていった。
キーンと澄んだ音が響きあたりが急速に凍りついたような気配に包まれる。辱められた女の怒りが恐ろしいまでの迫力を持ってあたりを静まり返らせ、さらにクトウがその怒気に呼応するかのように戒めを引き裂いて辺りを蹴散らした。
だが、その時には六人いた曹懐は五人になっており、本物は既に一笑の余韻を残して消え去っていた。
五人の曹懐はそれを補助するように地面から剣を抜き出して二人に襲い掛かった。しかし、クトウが走ると瞬く間に蹴倒され切り裂かれ蹂躙された。残骸はさらさらと粉になって崩れていった。その間に曹懐は皆壌城中に逃げ込んだ。もはや根本の拠点を失い居場所のないはずの街だったが、森の中よりはましに思えたし、なによりもここにある遺体にこそ彼の用があったから、どうせならここを離れたくなかったのだ。まだ機会はあると信じていた。
クトウは彼を追った。それが自分の意思であるのかどうかもわからない。彼は支配されている。彼はまだ弱い。彼は戦士ではない。一人前でもない。だが彼は追っている。雪辱を漱ぐために。だから、彼は人の気も知らずにいる。だから、今ここにいる。そして物語は進む。クトウも街に入る。そう、皆壌へと……




