第二章
気が付くとクトウは、ふわふわするものに包まれていた。額にはひんやりとした感覚があった。
“どうやら、生きているらしい。一体どうなったのだろうか……”
意識が朦朧として体が動かないうえに辺りも薄ら蒼い靄に包まれているのだ。
“俺は今起きてはいない”体の感覚はあるもののピクリとも動かせない。じんわりと、青臭い何かが体に纏わり付いて、耳元でザーザーと音が鳴っている。
“ああ、この感覚はどこか懐かしい。昔よくこんな事があった”
クトウは思い出す、初めて師とあった頃の話を……
あの頃は、俺はまだ十を少し過ぎたくらいの年だった。その頃、自分がコルキセの人間ではない事を知り、その衝撃に打ちのめされていた。いつも、遊んでいたあいつらも、俺を育ててくれた両親も実は俺とは違う人間だったのだと思うと、もうそこにいるのが辛かった。だから、気が付くといつも森の中で一人で遊ぶようになっていた。
そんなある日の事だ。いつもの通り、森で遊び家に帰ってきた時、母さんが俺に言った。あなたは何で最近弟の面倒も見ないで、友達とも遊ばず森の中にばかりいるの?と。
体が引きつった。自分が気にしていた事は本当にしょうがない事だと、その心配してくれる様子に感激した。その時の事だ、強い力が体の中を走って俺は突然意識を失った。
傍で見ていた人の話では、俺は倒れて泡を吹きしばらく痙攣したかと思うと、跳ね起きてそのまま森の奥に駆け込んで行ったらしい。そして、十日もの間どうしても見つからず、呪術師である師に捜索を頼んだところ昔、俺が捨てられていた大木の股につたで縛られるように眠っていたそうだ。師には、お前は森に近づきすぎて森の親に捕まったのだと言われた。
誰も気にすることのない仲間に囲まれた俺が、一人疎外感を感じていた事が既に捕われていたのだろう。それは後になって気がついたことだったが。その後、俺は自分を探し当てた人物に弟子入りする事になる。
今感じているのはあの頃に感じた感覚だった。
そういうことか、そこまで思い出してこの状態が何なのかようやく思い至る。あの時、半ば強引に木の精霊を呼び出してそのまま眠ってしまった。こんな、初歩的な間違いはもうずっとやらかしていない。
このまま行けば木の精霊が俺の命にかかわるものを奪っていくだろう。何故なら、ちゃんとした手順を踏まないで働かせたからだ。その上にきちんとした後始末ができなかったからだ。些細な事でも、蔑ろにすると彼らは怒るのだ。特に見えているものに対しての彼らの怒りというのは激しい。
そうなる前に、どうにかあの精と話をつけなくてはならない。どうしようか、まず、どうやって話しに行こう? どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう……
鬱陶しくなにかが思考の邪魔をしている。頭の中が煩雑だ、意識が薄れていきそうだ。何を恐れるのか? 今はあの頃とは違うというのに。
まずい! もう駄目だ! と感じたときには次第に意識は奈落へと滑り落ちていく。
もはや心が自らの形を失おうとした時、その音は聞こえてきた。
ターン、ターン、ターン、ダダダン。ターン、ターン、ターン、ダダダン。
ターン、ターン、ターン、ダダダン。ターン、ターン、ターン、ダダダン。
軽快なリズムは一打ちごとに魄に形を与え、心は形を思い出していく。
”クトウ、クトウ! ”
誰かが呼ぶ声が聞こえる。わははは! と久しぶりに聞く笑い声が響く。
突如、白い鷲が頭上に現れたと思うと甲高く声を上げた。鷲は一つ強く羽ばたくとくるりと大きく旋回して糞を落とした。その斑が額に当たると、カツンと音がして、ふっと頭の中にイメージが流れ込んできた。
ゆらゆらとゆれる陽炎のような人影が笑い声を上げている。
「ははは、何をやっているクトウ! 早く起きろ! そんな事ではまだまだわしには会えんぞ 」
あ、あれは師匠だ! 師匠! クトウは涙が出そうになった。その懐かしい面影は夢の中の夢だった。クトウもそれはわかっている。しかし、クトウの胸に溢れているのは懐かしさと慕わしい思いだけだった。
「クトウ、私のかわいい弟子よ! 今回は助けてやろう……わしはもう行く。あまり人に心配かけるでないぞ! 」
ああ、懐かしい、今まで何故忘れていたのか! そして、ああ、行ってしまわないでくれ! 振り絞るようなクトウの思いを振り切り、旋回は螺旋を描き遥か高い青天の光穴へと吸い込まれていった。
「師匠!」
ガバッと跳ね起きると、そこは見覚えの無い建物の中だった。私は寝台に寝かされており、そのすぐ横の台には水の張った容器が置いてあった。
「痛たた……!」
よく見ればそこかしこに手当ての後が見えた。そこで、クトウは市場で起こったことを思い出した。
なんだ、誰か助けてくれたのか? もう少し早ければなお良かったが……
「師匠……あなたなのですか?」
夢の中で助けてくれたのは、間違いなく師匠だったろう。師匠は夢抜けの技を得意にしていた。その呪術師が夢に出ると言う事は十中八九そういうことだからだ。
その時、ガタンと言う音と共に、一人の少女が入ってきた。
「あ、目が覚めたの? ちょっと待っててね?」
よく磨いた銅の様な髪を二つの三つ編みにし、少し焼けた様な肌は見るからに艶やかで張りがあった。無理しちゃ駄目よ! とくりくりした目を悪戯っぽく動かしながらいうと、パタパタと足音を立ててどこかに行ってしまった。何か違和感があったが、そのときには気が付かなかった。
しばらくすると、少女は二人の男を連れて再びやってきて、
「ほらね、目を覚ましてるでしょう!」
少女は得意げにそう言った。その少女を褒めるように撫で、逞しい黒髪の明らかに嵩人では無い男が言った。
「ああ本当だ。これで一安心だ 」
二人は、通用語で話しをしていたが、その後ろから、顔に大きく斬りつけられた傷のある老人が嵩語でいった。
「そいつが本当に大丈夫かを言うのはわしの役目だ 」
老人は言うが早いか二人を押しのけてクトウの寝台の横へと進み出た。決して大柄ではない男だが、ほっそりしたその体はピンと背筋が通り、不思議な緊張感を醸し出していた。老人はクトウの横の椅子にどっかりと腰をかけると、通用語でクトウに話しかけた。
「気分はどうだ? 言葉はわかるか? わしは張士象、字を震という。嵩の医者だ 」
固く結ばれた口元に、険のある眉間でぶっきらぼうに言うとクトウをジロッと見回す。
「先生! そんな怖い顔したら駄目ですよ!」
後ろから少女がちょっと怒った様に言った。嵩語だった。
張士象はおもむろに後ろを振り向くと、娘の言葉を無視していった。
「とりあえず、盆をもってこい! 瑛瑛。たぶん、この様子だともう食べられるじゃろう 」
続いて、男のほうに向かい
「おい、虎魁、この男、通用語がわからんのか? お前が助けたんだろう 」
「いや、そんなはずは無いと、麺屋の張の親父とは話せてたし……」
ちょうど娘が帰ってきて横から口をだした。
「あんなのだけじゃ、解らないわよ、お父さん。あの親父だってろくに喋れないんだもの! それに……」
「ダイジョウブ、わかる 」
全員がきょとんとして振り返った。一瞬、何事かという顔をしてから士象がいった。
「おい、わかるんなら早く言わんか! 全く、手間取らせおる。ちょっと手を出してみろ 」
言うが早いかぐっとクトウの手を引っ張ると手首に指をあてがった。そして、ふんふんと頷くと
「ほら、口を開けろ 」
それ、舌をだせと続けざまに言われて舌を引っ張られた。クトウは言われたとおりに舌を出した。それから、クトウの傷口の様子を軽く手でさすってみる。クトウは、時折、ううっと呻き、その度に士象は細かく様子を見る。そして、最後に腹を何ヶ所か探ると、うむ! と頷いた。
「お前、名前は?」
「クトウだ」
「そうか、クトウ、とりあえず、お前は三日眠っていた。傷はまあ、あまりよくは無いが、あと、二、三日で、起きられるだろう。後ろの男が助けてくれたんだ、後で礼を言っておけ、食事を取って、よく休め 」
士象はがたんと椅子を鳴らしながら立ち上がると、不機嫌そうに部屋から出て行った。そして、扉を出たところで振り向き
「おい、そいつはまだ本調子じゃない、食事をするのを手伝ってやれ。それから、話したい事はあるだろうが今日は寝かせてやれ! 何でかしらんが脈が馬鹿に乱れているからな」
と言い捨てていった。虎魁は適当に相づちを打つとクトウのほうに向き直った。ふむ、と一言呟いて顎の不精髭を撫でながら話し出した。
「ええっと、あんたクトウって言ったけ? 俺は、虎魁という、こんな名だが俺はティキ族だ。こっちは娘のエイリクだ。まあ、普通みんなは瑛瑛とか瑛児で呼ぶな。それと、さっきの爺さんは怒ってたわけじゃない。いつもあんな感じなんだ 」
気にするな、と虎魁はいった。驚いた事にその言葉はコルキセ語だった。クトウはそのときになって初めてエイリクといわれた少女がコルキセ語で語りかけていた事に思い至った。何故この親子ははコルキセ語をしゃべれるのだろう? 確かに、ティキ族はコルキセ族とは近い関係にあるといえる。同じマードゥの民族だ。しかし、住んでいる場所はだいぶ違うし、河の民がその橋渡しをしてくれているが直接に積極的な交流をもっているという話はあまり聞かない。怪訝な顔で見つめるクトウを見て親子はおかしそうに笑った。
「あんた、俺たちがコルキセ語を話すのが不思議かい? まあ、そうだろうな、ははは! 」
「お父さん、幾らなんでもそんなに笑っちゃ悪いわよ!」
娘もそう言いながら笑っている。
「何故だ? ティキ族もコルキセ語を話すのか?」
クトウのその言葉にさらに親子は腹を抱えた。そして一通り笑い終えると虎魁はいった。
「なんてことは無い。こいつの母、つまり俺の妻はコルキセ族なのさ。気がつかないか? こいつは母親似だからな、髪が赤いだろ?」
確かに、他の北方諸民族、特にマードゥ系諸族は黒髪か茶髪が多いのだが、コルキセ族はほとんどが、赤毛か赤っぽい黒髪だ。それが特徴であるのは間違いが無い。
「ま、そこら辺の話はもっと元気になってからだ。とりあえず、三日も寝込んでたんだ、飯を喰って体力をもどさなきゃ。飯は食えるだろう? なに、そんなに旨いものじゃあないが、体にはいいはずだ 」
何よ! 私が作ったのにそんな言いかたして! とエイリクは後ろでむくれている。まあ、お前だからなぁ……等とふざけながら、虎魁は椀を進める。中にはドロッとした水っぽい穀類が入っている。好い匂いだ。その匂いと共に、空腹が蘇ってきた。ただ、まだなんとなく遠慮があって、手を出そうかどうか迷っていると、エイリクが匙を取った。
「まだ、自分じゃ食べられないのね。手伝ってあげるわ。先生だって手伝いなさいって言っていたし 」
言いながら、粥を1匙掬うと、はいとばかりにクトウの口元に差し出す。さすがに、初対面の人間にこんな事をさせるのは悪いやら恥ずかしいやらでオロオロしていると、どうしたのと? さらに差し出してくる。
「なんだよ、今更遠慮したってしょうがないぞ! 大体、あんたは今日で三日もうちにいるお客な上に怪我人なんだからな! はははは 」
虎魁が言った。そういわれればそうだと思ったが、しかし、そうだったとて、恥ずかしいものは恥ずかしい。特にクトウは一人で暮らした長い期間があった。自分の身の回りのことは自分ひとりでやってきたという自負もあったし、こんな付き合いをしたのは実に久しぶりだったから、体のあちこちがムズムズしてしょうがなかった。とりあえず自分でできると、匙を受け取るが思った以上に体が弱っていたらしく、上手く腕が動いてくれない。
「ほら、やっぱり、まだ駄目じゃない!無理しないで。元気になれば幾らでも自分でできるわよ」
それ見たことか、というが早いか、クトウの手から匙を奪うと、粥を掬い上げる。クトウはほらほらと差し出される匙を観念して口に入れる。旨かった。ほとんど、液体のようなそれはじんわりと肉の風味がして、クトウにも慣れた味だった。それと共に、食欲を増す甘人参と疲労に効く山韮が入っているのが解った。
「おいしい?」
エイリクが訊くと、クトウは頷いた。エイリクはパッと顔をほころばせて、そう! と言うと父にむかって
「ほら、やっぱり、おいしいって言ってくれているわよ 」
というと、続けてクトウに食べさせた。その横で虎魁はうえっと言う顔をして呟いた
「俺は、そういう、病人食みたいのや、薬臭いのはどうもなぁ~ 」
「もう! お父さんはいつも元気だからそんなもんよ! 」とからかうように言うと「そんなもんかなぁ?」
と虎魁は首をかしげる。その間、クトウは、エイリクの差し出す匙を一心不乱に食べ続けた。
あっというまに、椀は空になり、盆に置いてあった急須から、何かの茶色い液体を湯飲みに注ぎ、クトウに飲むよう促す。中には、ひどい臭いの薄茶色のその液体をクトウはためらわず飲み干した。強い苦みと癖のある甘さが口の中に広がる。だが、クトウには大体、味の想像はついていた。何故なら、この強烈な匂いはクトウがよく使う薬草のものと同じだったからだ。
それを飲んだのを見届けると、虎魁は持って来た食器を盆にさげた。
「まあ、気になることはあると思うが、それはまた明日だな。今日はもう休んでくれ。医者もああ言ってたろ? 」
おやすみ(・・・・)というと、二人は出て行った。やがて、クトウは満ち足りた気持ちで眠りに落ちて行った。
翌朝、目が覚めると、体の調子がずいぶん楽になっていることにクトウは気付いた。寝台から身を起こすと、次に部屋を見渡す。窓が一つ、大きく壁から外に張り出すように作られ外に向かって開く木の扉がついていた。内装はそう豪華ではない。机が一つ、いま自分がいる寝台と、椅子が二脚いずれも丈夫そうだが、華やかではない、何処にでもあるような品だ。窓から見て右手の扉には、八角形の木枠の中に複雑に木の枝を巡らせた物がかけてあった。これは、北方諸族の天幕によく見られる祖先の棲家と呼ばれるものだ。所属集団ごとに特別な組み合わせ方を持っている。家と家族のお守りだ。
「まさか、こんなところで見られるとは思っていなかったな 」
クトウにとって皆壌はすでに嵩だった。だから、もっと自分たちとは違う土地だと思っていたのだ。クトウは言いながら立ち上がると、窓を空けた。そこは中庭になっていて、中央に屋根のついた井戸があった。簡素ながら時代を感じさせるものであった。屋根の中央には木に巻きつく蛇の像があった。
そして、向かいや両隣にはここと同じような窓が並んでいた。壁は外で見た建物とは違って漆喰が打たれている。中庭にはそれ以外のものは見えない。いささか、殺風景だった。各部屋の戸口には扉は見られず開け放してある。
「よう、もう起きて大丈夫か?」
虎魁だった。中庭から手を振りながら呼びかけてくる。ああ、と答えると肋骨が鈍く痛む。“これは折れているようだなぁ”と一人ごちながら、平気だ、と答える。
「ははは、爺さんの見立てが外れる事もあるのだな、二、三日は起きられんといっていたのに!」
確かにあちこち痛い。普通ならば、昨日の感じではまだ寝ていたいだろう、幾分か頭もふらついている、安静にしておいたほうがいいという意味ではまだ起きられない。
「どこかへ行くのか?」
「ああ、朝飯を食いに行く。起きてこられると思っていなかったから、エイリクと二人で行くつもりだったんだ。エイリクは支度中だ。まったく、たかが市場なのに支度というほどのこともあるまい」
やれやれとかぶりを振る。
「そうだ、クトウも来るか? 動けるなら大丈夫だろう 」
クトウはどうしようか? と一瞬思案してから行く事にした。狭い部屋の中に一日中いるのも退屈そうだったので、ここで動ける事にしたほうが、後々のためになりそうだったからだ。
「クトウ、行くなら降りてこいよ」
そう言われて、頷くとクトウは部屋を出た。
そこではたと気付いた。服が違う。なんだかペラペラとした綿のズボンにそれと似たようなシャツを着ていて、しかも、大事な頭巾がないのだ。すぐに部屋にとって返すと、窓から虎魁に尋ねる。
「おれの服はどうした! これでは出られない 」
それから、しばらくして、そこには頭にコルキセの頭巾を被って嵩人の格好をしたクトウがいた。
「まあ、そう怒るなよ。お前の服はあんまりボロボロだったからな。それに、大事なところは残してあるから、まだなんとでもなるさ、頭巾だってそのまま残してあるだろ? 」
クトウの服は、市場での騒動であちこち破れてしまってあんまりボロボロになっていたので、捨てられてしまっていたのだ。クトウはそれがいまいち納得いかなかった。
「それより、なにを食べるの?」
エイリクが訊いた。
「おお、そうだな、結構時間も食っちまったし、いつも行くところは、大体切上げて一息ついてる頃合かもな 」
なんだかんだと、やっているうちに気が付いたら結構、時間が経っていたのだ。大概、市場の露店は出る時間が決まっている。稼ぎ時というものがあるから、そのときに合わせて出す。その時間をはずすと、やっている店は限られてくる。
「ねぇねぇ、あたし、袁さんのお店に行きたい 」
エイリクが言う。
「あそこは甘味屋じゃないか、駄目だ。う~ん、そうだな、豆腐屋の倅んとこでも行くかあそこは、あの坊主の趣味みたいなもんだ。行きゃなんか出してくれるだろう 」
言うが早いか、虎魁は路地に折れるとくねくねと入り組んだ裏道をどんどん進んでいく。“遅れるなよ、迷うと大変だから! ”とは虎魁の言だ。確かに、不慣れなものは大変だろう。表通りと違って、レンガや泥壁の連なる不規則な並びはあまり統一感が無いはずなのに、逆に目立つ差異も無く不思議に渾然一体とした雰囲気を作り出している。そして、ところどころに、大きな木が生えていたり、ちょっとした藪のようになっているところがあった。ああ、祀られているのだ、とクトウにはすぐにわかった。祀られているものはそれぞれの様だが、大樹の精や土地神等もいたが、中でも、水神のものが多かった。
暫く行くと、少し大きな通りに出るとなんともいえない香ばしい匂いが漂っていた。匂いの元はと見てみればもくもくと湯気を噴出している店が一軒あった。そして、その隣、水をまきながらガシャガシャと床を掃除している男の前に来ると虎魁はいった。
「おい、子寛、今朝はもう終わりかい?」
男は、嬉しそうに虎魁のほうを見ると、ブラシを片隅に片付けながら答えた。
「いやぁ、虎魁さんじゃないですか! 久しぶりだなぁ。今片付けようと思ったところだけど……まあ、いいや。ちょっと、待っていてくれますか、火を落としちゃったんだ。卓と椅子はそこにあるから、勝手に使ってくれよ」
男の名は顔丁達、字を子寛という。年はまだ若い、二十歳そこそこだろう。豆腐屋の顔敦士と趙玲の夫婦の一人息子だ。今は実家の脇で豆腐料理を研究するのだとかいって店を出しているが、そんなに儲かっている様子は無い。一人息子に甘い夫婦が、元々割りと繁盛していたのもあって、大損害にならない程度ならと息子の道楽に金を出したのだった。
まあ、本当のところ、子寛の料理の腕というのはそんなに悪いわけではなく、もう少し客が入っても良さそうなのだが、この店は子寛の気分しだいで注文と違うものが突然あらわれたりするので、いまいち評判がよくない。朝の忙しい時に、妙な一品が頼んでもいないのに出てきて感想を聞かせろなどといわれてはたまったものじゃない! というのが大体みんなの意見だったが、子寛は豆腐料理の探求というお題目に取り付かれているようである。
今も注文をとらずに、ニコニコと奥に引っ込んでしまったところを見ると情熱をもてあましていたのだろう。
「さてと、あの調子じゃ、料理が来るまで、時間があるし、昨日言っていた話をするかな、俺たち親子の話を……」
まず、そういって虎魁は語りだした。
虎魁は、皆壌に定住しているティキ族だった。ここで、ティキ族について少し詳しく説明する。ティキは古くからこの辺りに住み、永く嵩と交流のある民族だった。そのため、嵩人はこの民族の名を北方民の総称として狄という。皆壌も本来はティキの取り仕切る聖地兼交流の地であったのだ。それが、だんだんと嵩人の進出がはじまり、ティキと混交して住む村ができた。ティキは元々は遊牧の民である。カモシカの一種であるキという動物を放牧していた。
彼らは、その後、マードゥ族の建てたマルドバシュ帝国に居住地を支配されると、その言葉を忘れ、嵩語とマルドバシュによって広まる事になる通用語を話すようになる。習俗はいつしか嵩と複雑に混交した。
今でも、西の方にはキの遊牧をし、ティキ語を話すティキ族もいる。しかし、皆壌やその近辺から奥壁周辺のティキは今はもっぱら定住し、そのほとんどが鏢師や丈人といいその組織を鏢局という、隊商や要人等の護衛を生業とする職についており、また、自らも各地、特に北方に赴いて、北方民との交流を持っている。そのティキの職能集団を狄鏢といって、嵩国北方の一大勢力だ。
虎魁もそんな狄鏢の一人だった。そんな虎魁が未だ駆け出しの頃の話である。その時、虎魁達は遥か北方の民ナナユ族の居住地に向かっていた。彼らはケフィリという象を飼っていて、その象牙は一つの名産品として世に名高かったからだ。一行は、熟練の鏢頭に率いられ、無事、ナナユとの交易を終えた。
その帰路の事だ、虎魁達の一団は事故に巻き込まれて、虎魁以外みんな死んでしまい、唯一生き残った虎魁も重傷を負い力尽きようとしていたところ、コルキセ族に拾われたのだそうだ。
そして、その折、介抱してくれた女と結ばれ、傷が治る頃にはおおよそ離れ難くなっていた。やがて女の子を儲け、八年の長きにわたり、彼の地でコルキセ族として暮らしていたが、七年前に妻に先立たれ、呪術師の占いと、次第に膨らむ望郷の念によって娘を連れて、ここ皆壌に帰ってきたという事だった。
「まさか、またここで暮らすとは思っても見なかったな……」
どこか遠い目をして虎魁はいった。もう既に料理は卓子に着いており、ゆるゆると遅めの朝食を食べながらの話となった。
「こいつも、こっちに来た当初は大変だったぜ。何しろ、母親が死んでからすぐにこっちに来て、こっちはこっちで、死んだ人間が子供つれて帰って来たってんだから大騒ぎさ。まあ、すっかり参っちまってな……よくここまで馴染んでくれたと思うよ 」
エイリクは照れくさそうに茶を飲んでいる。色々あった事が伝わってくる。呪術師であるクトウにはその気になれば、二人の過去がまるで鏡に映ったように透けて見えたが、そんな事をする気にはならなかった。
「まあ、そんな訳で世話になった昔馴染みが困っているのは見過ごせなかったのさ。コルキセの呪術師さん 」
幾分、落ち着いた様子であった。料理の塩梅を訊きに来た子寛は聞き覚えの無い言葉でしゃべる知り合いを不思議そうな顔で見つめていたが、やがて、虎魁の過去に関る話だと知ると少し離れた所からその話の様子を眺めていた。
今度はクトウの話す番だった。クトウは、まず自分の出身部族の事、師匠がある日、突然旅立って、自分は三年間一人で暮らしていたが、修行に行き詰まりを感じて旅に出た事などを簡単に説明した。
そして、なにぶん右も左もわからなくてオロオロしている内にああなってしまって・・・・・と、危ないところを助けてくれた礼を述べた。
「だけど、クトウは凄いんだか凄くないんだか判らないね、あの北の森で一人で生きていけたのに街に出たとたんにあんなですもの 」
呆れ顔でエイリクが言った。街と森はまた違うし、そこらへんは、呪術師の事情があるんだよ、みだりに技は使わないものさ、と虎魁は諭すように言った。だが、当のクトウは確かに簡単な術を使っていればもっと楽に色々できただろう、魔物除けや厄災除けの術を施していたなら、あんな目に会う前に危険に気付けた、もしくはもっとましな結果になっていたのでは? と自分に首をかしげた。
「そういえば、ここについてからどうも何かを忘れているように思えてならないんだよ。何かは、てんで思い出せないのだけど……」
ぽかんとした表情で言うクトウにエイリクは可笑しそうに笑ったが、虎魁は少し難しい顔をしていた。大体、呪術師というのは変わり者であるが、クトウは不思議な奴だ。そんなに気難しい風もなければ、馬鹿みたいに大仰でもない。どこか表情に乏しくも見えるもののそれも呪術師にありがちな険呑さや拒絶感等とは無縁であるかのごとくだ。逆に言えば、クトウには孤高不遜の覇気も知恵者としての貫禄もないのだ。知り合ってまだ間もないのだが、虎魁はそんな気がしてならなかった。
実際のところ、クトウは呪術師としては半人前ではあるが、見習い終業を言い渡されていないというだけに過ぎない、なまじの呪術師よりもいい腕前といってよかった。森の中での孤独な三年間を生き抜くのは、熟練の呪術師でもなければ難しい。それを彼は生き抜いてきたのだ。その実力は押して知るべし、といった所だ。そして、仮に半人前としても、そんな三年間を過ごせばある種の凄みを醸し出しているものなのだがクトウにはそれがなかった。
そして今は今で、どこか間の抜けた事を言っている。そこに虎魁はある種の危うさを感じずにはいられなかった。
「……かい、虎魁?」
クトウが呼んでいる。
「ああ、どうした?」
ぼうっとしてしまった。なんとなく考えすぎたような気がして虎魁は頭を振る。
「これは、なんだ? この汁は? 旨かったが、初めて食べる 」
クトウは興味深げに訊ねた。今食べていたのは、おそらく豆乳のスープだがクトウは気に入ったようだった。しかし、うまい説明は思いつかない。
「おい、子寛! これってなんだ?」
とりあえず訊いてみればうまい説明をしてくれるかと思ったので声をかける。
「え、これですか? 豆腐を刻んで揚げたのを豆乳で煮てみました。味付けは醤油ですね。それに葱を刻んだ奴を盛って出来上がりです 」
なんだか大豆ばっかりだ。横で聞いていたエイリクは思った。“顔さんって久しぶりに来ても変わった人だ” そして、虎魁は適当にクトウに説明している。クトウはクトウでなんだかフンフンと熱心に頷いている。確かに、コルキセ族の中で暮らしていれば、味わう事が無い味だとは思うが、あんなに熱心に聴くようなものなのだろか? 訊いて解るのだろうか? 実際に向こうで暮らしていたときの自分は食べたことの無いものばっかりだったし、さっぱり解らなかった。なんだか話の蚊帳の外であんまり面白くない。
そうこうしている内に料理の話も一段落したらしい。今度は子寛が質問している。
「ところでね、虎魁さん、そちらの方は誰だい?見ない顔だけれども、お知り合いですか?」
どうも、それがずっと気になっていたようだ。聞き覚えの無い言葉での会話がずっと続き、どのタイミングで言うべきかわからなかったがやっと訊いたという感じだ。
「ああ、この人はクトウってんだ。昔、世話になった人の親戚みたいなもんだ。暫くは客分としてうちにいるからなんかあったら宜しくな 」
クトウの代わりに虎魁が答える。
「はい、クトウさんですか! 私は顔丁達、字を子寛といいます。クトウさんはどちらからいらしたんです?」
子寛が尋ねたが、当然、嵩語が解らないクトウはぽかんとしている。そのクトウに虎魁がコルキセ語っで伝えると、なるほどと頷き通用語で返す。
「クトウという、キタからキタ。コルキセのモノダ 」
すると、子寛はぎこちない笑顔を浮かべた。子寛は通用語はほとんどわからないのだ。ええっとと暫く考えてから虎魁に
「すみません、解らないので通訳お願いできますか?」
いいもなにも、最初っからしているじゃないかと虎魁は笑った。はあ、そういえばそうですね、子寛は頭をかいた。
それから、子寛にクトウの事を簡単に説明した。
「ああ、それじゃあ、この前、二黒幇のチンピラ叩きのめしたって言うのは虎魁さんだったんですか!」
どうも、この前の騒ぎの話はわりと広がっていたらしい。子寛は詳しく聞かせて欲しいという。虎魁はあまり言うような事じゃないんだが、と前置きをして語りだした。クトウも説明して欲しそうだったので、クトウにも簡単に説明しながら……
あのときの顛末というのはこういうものだった――
「おい、兄ちゃん! 何やってるんだ。昼間っからよ?」
殴られるクトウの前に男が立っていた。虎魁だ。殴りかかっていた相手の手首をがっしりと受け止め、明らかに不機嫌そうな声と押しつぶすような視線を向ける。相手は、軽く驚嘆の色を浮かべている。
「なんだ、おっさん! 周兄貴の邪魔をするんじゃねぇよ!」
顔に纏わりついていた葉が取れた周の部下が横から口を出すが、虎魁は答えない。
「兄ちゃん……質問には答えるべきだぞ? てめぇら後ろの人に何してた? 」
さらに今度は語気を強めて言う。怒りを押し殺したようなその声は投げかけられた者に強烈な圧力をかける。周は冷や汗を掻いていた。先ほどから掴まれている手は振り解こうにもピクリともしない。尋常の力ではない。周とて素人というわけではない。武術の修練を重ねた幇の用心棒だ。腕前にはある程度の自信がある。それなりに修羅場も踏んできた、ただの馬鹿力だけの奴にどうにかされるような男ではないそれが位負けして萎縮してしまっている。。しかも相手はどうとでも料理できる状態にもかかわらず何もしてこない。手加減されているようなものだ。
「おい、兄貴から手を離さねぇか!」
部下は虎魁に掴み掛かった。
「よせ! 高 」
周がそう言おうとしたとき、高の喉には虎魁の爪先がねじ込まれていた。どんな人間でも動けばその状態に変化が生じる。虎魁の動いた隙を見逃すほど周はぼんやりした男ではなかった。周は蹴り上げた虎魁の脚が地に付く間に両腕を十字に重ね、振り切るようにして構える。
「ほう、俺の手を外せるたぁな。恐れ入った 」
虎魁は倒れる前に掴み止めた高を脇へ投げるとにやりと笑いながら言った。周は後ろ足に体重をかけて前の足を軽く地に付け、前足と同じほうの手を相手に向けた構えで虎魁に対している。本当はすぐさま、反撃に突きを見舞うはずだったのだが、高を盾にした形にされて、とっさに、この形になるしかなかった。
「ち、なめやがって、こいつはうちのシマで断りもなく商売しやがったのさ。それを何で、てめえみたいなのがこんな狄の野郎をかばい立てする!」
張り詰めた空気の中で周は精一杯の迫力を込めて言った。
「理由は簡単だ。こいつは俺の雇い主で俺は鏢師だからな 」
さも当然のように言う。ふざけろ! 周は内心思った。そこの狄がそんなものを雇えるはずがあるか! しかし、相手はどうしてもやる気のようだ。こちらはこの町で鏢師と表立って対立するわけにも行かない。裏社会には裏社会なりの決まり(・・・)が存在するのだ。
「どうした、来ないのか? 俺はお前達をぶちのめさなきゃ客に示しがつかん。一応理由も聞いたし、こっちから行くぞ?」
虎魁の右腕がすっと上がる。周はその言葉を聞いて腹をくくった。後ろ足を前に強く踏み出し虎魁の僅か右斜めから飛び込むように強烈な右の突きを放った。腕の影に入って隙をつく確実な手だ。内側にそのまま入り込めれば相手からは消えたように見える。逃げるにしろ打つにしろ、周はこの手で何度も危機を脱している。虎魁はその突きに対して僅かに歩を進め右手を差し込むようにして逸らす。周は後ろ足をすぐさま引き付けると、踵をねじ込むような横蹴りを虎魁のわき腹めがけて打ち込む。それを虎魁は右肘を擦り付ける様にして潰す。同じ場所への二連撃だ、周はこの手に磨きをかけていた。そこまでは周の計算のうちだった。虎魁の肘が脚に触れた瞬間、周は脚を入れ替えて虎魁の左こめかみを狙った後ろ回し蹴りを見舞う。
「馬鹿な!」
驚いたのは虎魁ではなく周のほうだった。完全に死角から襲うはずの蹴りを引き込むように受け止められて、視界がクルンと宙を舞う。虎魁の眼前に逆さになったその体がさらされている。虎魁はすっと手を伸ばしトンと打った。グンと周の体がはじかれる。まるで猪の突撃でも喰らったように飛ばされて木に叩きつけられた。気が遠くなりそうだった。虎魁の突きの威力にではない。自分の最も信頼していた攻撃のラインがほとんど動く事も無く破られたことに対してだった。力量の違いは明白だ。周は奥歯を噛みしめた。脂汗が頬を伝うのが感じられ、悔しさや怒りよりも情けなさに萎縮してしまっていた。
「とっとと仲間連れて消えな!」
虎魁の怒号が響いた。
「ひ、ひいい!!」
すっかり気を飲まれていた周は腹のそこまで震え上がると仲間を引っ張って転げるようにして去っていった。それを見届けると、虎魁はクトウに近づいて様子を確認すると回りに言った。
「おい、誰か担架だ! たのむ。誰か手を貸してくれ! こいつを運ぶのを手伝ってくれ 」
と、こういう経緯でクトウは虎魁邸に運び込まれたのだった……
まあ、意外と悠長にやってしまったから人目を引きすぎたな、と虎魁は反省したように言う。
そして、若干、回想して言った。
“ただ、意外と簡単な相手ではなかった、かなりの使い手だった”と実際にはあの攻撃は見事なものだったのだ。
それから、昔の話やらなにやら暫く世間話が続いた。
「いけねぇ、そういや、今日は昼前に張の爺さんが来るんだった!」
すっかり、話し込んでしまった虎魁が気付いたのはもうだいぶ昼に近くなったころだった。
虎魁は慌てて立ち上がると、小銭を子寛に渡した。ああ、あの爺さんは気が早いからな、早く帰らないとまずい等と、さもまずそうに呟き、青くなっている虎魁を尻目にエイリクは意外と平気そうに
「そんなに張先生が怖いのなら、あんなに無駄話をしなければよかったのに……」
と虎魁の後ろでいっている。
影はすっかり短くなっている。昼前のというなら、もういい時間だ急いだほうがいいだろうと思わず足が速くなる。虎魁親子は帰ってからの事や張士象の事について何やかやとしゃべっている。子寛の店ではエイリクが蚊帳の外だったが、今度はクトウがそうの様相を呈していた。全くといっていいほどこちらの事情がわかっていないクトウにはしょうがない事いえた。かろうじて、昨夜の張という老人が今日も来て、そのために、このワタワタと慌しい状態が起きているのだとわかった程度だった。
段々と速足になる二人に追いつこうと、慌てた弾みにアバラに鈍痛が走る。ううっとうずくまってしまった。呼吸を整えて辺りを見回したときには二人の姿は影も形もなくなっていた。
虎魁がそのことに気が付いたのは、自宅の門の手前に差し掛かったときだった。何とか間に合いそうだと安心して振り返ると、そこにいたのはクトウではなく張士象だった。
「おい、虎魁! なにを慌て取るんじゃ、お前?」
虎魁の慌てまいことか!
「いや、別に……なんというか……」
すっかりしどろもどろに言いよどんでいると、エイリクが目に入った。しょうがないと思いエイリクに目で合図して、
「いや、別に大したことじゃないんだ。ちょっと、エイリクに買い物を頼んだんだけど、言い忘れたものがあったんで、今、あわてて伝えたところなんだよ、な?」
なるほど、クトウを捜しに行けという事か、と察してエイリクは口裏を合わせた。
「もう、お父さんたら! 今度は忘れてる事は無いよね?」
エイリクは出発しようとするが、士象がじろりと睨む。嫌な汗が二人の背中を流れる。
「おい! まて」
「「はい!」」
二人が緊張した声を出すと、キョトンとした顔で士象は続けた。
「何を素っ頓狂な声を出しているんじゃ? 二人とも。挨拶がまだじゃろ? 親しき仲にもなんとやらじゃ」
何だ、そんな事かと、胸を撫で下ろした。改めて挨拶をすると、士象は満足げだ。
「挨拶は大事じゃからな!」
そういうと、買い物があるんじゃろ? とエイリクに問いかけた。エイリクはしきりに頭を縦に振ると、後は父にまかせて足早に出発した。
一方その頃のクトウは、なんだか、解り難い所に置いて行かれてしまったという事実に頭を悩ませていた。
さて、どうしたものかと思案していたが、実のところ、クトウにとってそんなに大した事態ではないのだ。
しかし、ささやかな事も即決しないで、一旦、頭で考えてしまうのがクトウの癖だった。
ちょっと考えるに、二人が気が付いて迎えに来るのを待つか、それとも自分で帰るかという所だが、二人はなにやら忙しそうにしていた。では、まあ、自力で帰るかと思い至った。
さて、クトウがその気になって目を凝らすと、あちこちに色々な精が見えてきた。クトウの知っている森でよく見かける奴らによく似た奴もいれば、ここに来てはじめてみる見覚えの無い者も沢山いた。しかし、どれもあまりしっかりした感じでなく、ウロウロしてじゃれ合ったり、たまたま流れてきたような者が多く、あてにならなそうだ。誰に訊こうかと辺りを見渡すと、辻の土塀の上に胡坐を掻いているなにや角のある恐ろしげな者がいた。どうみても、巷の主の様だ。あれなら問題無いだろうと話しかけてみた。
クトウは軽く三拝するとまず右足を進め左足をそれにつけることを二回してから、声をかけた。それが作法だった。
「ああ、ちょっとお尋ねしたいのですが?」
相手はつまらなそうにクトウを見る。それから、また視線を戻して辻を見つめる。
「あの、すいません?」
クトウは問い直すが、今度は目も動かさない。それでもじっと見ていると
「気のせいだ」
と、ポツリとクトウに言った。なんだ、通じていたみたいだな、とクトウは少し安心した。もし、また言葉が通じなかったらどうしたものかと思っていたのだ。大袈裟な事をすればどうにかなっただろうけども、道を訊くだけでそんな事はしたくなかった。
しかし、相手はどうもクトウに話しかけられたくない様で今もクトウに呪のかかった言葉をかけて目晦ましにしようとしていた。
ちょっと鬼が見える程度の能力の者ならば、今のですっかり気のせいだと思って目に映らなくなるだろうが、クトウは呪術師だ、この程度では特に問題は無い。
「少しお尋ねします。虎魁の家までの道を知りたいのですが 」
とりあえず、用件を言っておこうとクトウは一方的に話しかけた。
すると、相手は突然口笛を吹いた。まずい、怒らせたか!? とクトウは身構えたが、相手に敵意は見られないのはすぐにわかった。口笛に呼ばれて路で跳ね回っていた毛玉のうちの一つがコロンコロンと転がってきた。
「こいつの後について行けばいい。お前、供物もなしにいきなり頼みごととはいい度胸よの。まあ、この程度なら良いがの……」
若干、不満そうではあったが、そんなに深刻に怒っている訳ではなさそうだ。少し邪魔をしてしまったような気がして、クトウは深めに礼をした。
毛玉のほうに向き直ると、その毛玉は嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねて、挨拶のように宙返りをした。こちらからも、よろしく頼むよと、挨拶を返すと、小刻みに跳ねている。なんだか気の良さそうな奴だ。
毛玉は不規則に跳ねながら、複雑な路を少し先に行ってはクトウを待ち、クトウが追い着くと進み、まるでみちおしえのように動き回った
クトウはその後を追いながら、森の連中のことを思い出していた。森にもこの毛玉の親戚みたいな奴が沢山いた。しかし、いつも勝手気ままで仲間とじゃれあっているばかりの奴らだった。話しかけても移り気すぎて要領を得ず、ましてやこんなふうに、誰かに何かを言われて用事を受けるなんて事はしない奴らだったのだ。
所変わればなんとやらというものだろうか。やはり、人が開いた土地とそうでない土地の差異、気候の違いなどは明確にあるのだ。そして、今もこの地の秩序や力の在り方、人の意識の違いの一端を見せられている。
お互いに、関係しあって気付き上げられている環境の妙というものは興味深く、クトウに旅に出たことに対する嬉しい感想を与えてくれた。新しい視野に繋がるものは、師匠の言に沿って言えば、受け入れるべき力なのだ。
そのうちに、ここのモノ達のありようをしっかりと知るのも有りだな、ぼんやりとクトウの脳裏に浮かんだ。ただ、それはそんなに簡単な事ではないのだろうけれども・・・・・・
先を行く毛玉は真面目なようで、同類とのおしゃべりもせずに案内してくれている。ただ意外とすばしっこくて、見失いそうになる時がある。
「おおい、頼むよ、もう少しゆっくりにしてくれないかな?」
これではさっきの二の舞になるのではと思い頼んでみた。
それを無視するかのごとく、毛玉は角を転がっていった。
「ありゃ……」
そこはもう見覚えのある通りだった。そこまで来ると毛玉はクトウに寄り添いながらゆっくり進んだ。はたして、どうやって来たのか解らないが、虎魁の家はもうすぐそこだ。
「君にはお礼をしなけりゃな、よし、着いてきたら、あとで木の実をあげよう!」
聞いているのか聞いていないのかはわからないがボツボツ語りかける。既に、少し先に門が見える。もうすぐだ、さすがにここまで来たらわかる。建物の中からはドタバタと音がする。どうやら、張士象が来ているようだ。なんだか騒がしい。それになぜか男の声しかしない。エイリクは何処へ行ったのだろう? 疑問に思いながら、簾をくぐる。
話は少し遡る。
「やあ、張老師、とりあえず茶でも飲まないですか?」
虎魁は必死に張が二階に行くのを引き止めていた。寝ていない患者を見たら雷が落ちるのは明らかだ。ちょっと言ってすぐ帰るはずだったのに……考えてもせん無い事だったが、自分のお調子者な性格が恨めしい。
「なんだ、いやに丁寧だな気持ち悪い。まあ、年長者によくするのはいいことだ 」
普段は馬鹿に軽すぎるんじゃ、お前は。と後に続けながら、まあいいかといった表情である。さあさあ、と促す虎魁の後について部屋に入る。珍しくしかめ面をしていない士象だが、機嫌を損ねれば鬼神もはだしで逃げ出しかねないのはいつもの事だ。
「ささ、ここに座っていてくれ、今、湯を沸かしてくるから 」
さて、どうしたものか、何とかごまかせそうな手は無いかな。竈の脇の火鉢の灰を掻き火種を起こしながら考える。とりあえず、ここにいる限り誤魔かしようが無い。ああ、しまった! こんな事なら、外に茶でも飲みに誘えばよかった。もう部屋の中だし、火をつけてしまった。考えても、思考はずぶずぶと沈んでいく。
「おい、虎魁!」
隣の部屋からの声にビクッとする。
「はい!」
「茶は安くていいからな 」
虎魁の奴、何を隠しているのだろうか?昔から何か隠し事があるとすぐに態度に出るのだから、しょうがない奴だ。あれで隠しているつもりなのだろうか? 仕事では隠し事もしなければならなかろうに・・・・・・内心やれやれと思いながらすぐさま問い詰めても、逃げ出すだろうから、もう少し待ってみるかと揚がりこんでみたが、士象自身あまり気の長いほうではない、もう部屋の中まで入っているのに無理やり逃げるって事もなかろう。
“餓鬼の時分なら逃げようとしたろうが ”
士象と虎魁の付き合いは長い。親の代からの付き合いだ。むろん、士象が虎魁の親の知り合いだ。虎魁の幼いころから知っている。虎魁もまた自分の親のように思っている。普段、虎魁がぞんざいな口を利くのも信頼のなせるわざなのであろう。士象の方はどこかで虎魁をまだ若造であるように思ってしまう ところがある。本人も、よくないことだと自覚しているのだが、長年染み付いた思考はなかなか抜けない。 これでも、虎魁が行方不明になっていた間の断絶がその意識を引き離したが、それでもなお、そうした考えが浮かんでくる。
「茶が入りました 」
虎魁が、茶を持ってくる。不自然に笑顔を浮かべている。あの様子じゃ碌な逃げ口も思いつかなかったようだ。
「あ、そうだ、茶菓子が無かった! ちょっと待っていてくれ 」
「いや、茶だけでいい。ここに座れ。それより最近はどうなんだ?」
とりあえず、奥に引っ込もうとする虎魁を捕まえておく。ずるずる先延ばしに逃げようとするのも、また、いつもの事なのだ。それにクトウの世話をしに来る以前は暫く会っておらず、クトウの世話に来た折には忙しくて、クトウの世話に終始していた為、話をしていなかった、実際に近況をちゃんと聞いておこうと思っていたところでもある。
「へ、はぁ、最近ね? 例の大祭も近いしなぁ、その準備ごとがそろそろ下々にも来るって話だけどね。仕事のこと? まぁ、また、局から仕事が来たら受けるよ。近々一つ二つある様な話は来てる。その時はまたエイリクの事を預けるつもりだがいいかな?」
虎魁の仕事は一度でると大概は数日は留守にする事になるのが普通だ。一人娘を置いていくのが嫌であまり大きな仕事に関わることのない場所にいて小さな仕事を主にこなし、出かけている間は士象に娘を預けているのだ。
それでも、局に所属している手前、向こうからの依頼を断り続ける事もできない。たまに大きな仕事の依頼が来る。依頼が来る事は財政的には願ってもいない事だし、結構好き勝手やっている虎魁にそうしたものが来る事それ自体が虎魁の腕の確かさの証明でもありありがたい事なのだが、大きな仕事に行ってしまえばそれこそ一月以上の留守になるのだ。
得てして、そういう話があるときは、大きな商隊や、北への大物狩りなどの情報がそれとなく耳に入るものだ。今回の場合は、奥壁に近々、嵩秦(嵩国の首都)を中心とした各地からの商人連が入るという話が来ている。しかし、いかんせん数が多いそうだから手伝いに借り出されるといったところだろう。大した仕事ではないと思う。そうだといいが、もし大仕事になるのなら、奥壁に着く前から護送に借り出されているだろう。
「まあ、その件に関しては構わん。お前の親は今は奥壁だしな。ここは独り者ばかりで若い娘を置いておくには無用心だ 」
「助かるよ。本当はこんな仕事は足を洗いたいんだがな……ほかにできる事も無い。暫くはこんなヤクザ家業だな 」
そういう虎魁の顔は親の顔をしていた。いつ倒れるかわからない仕事だ、人の恨みを買うことも日常茶飯事で、自分はおろか油断すれば周りにも危害が及ぶ、それで無くとも一人娘のことを考えるとあまり気の進まない仕事だ。
「そうだな。ワシのようになってからでは遅い 」
士象は遠い目をしていった。士象は過去のことを語りたがらないし、士象の過去に何があったかはここでは語らない。ただ、士象もかつてそういう家業で世を渡ったことがあったということだ。余談だが、虎魁の武術の師の一人は張士象その人でもある。入口から陽光が漏れている。緩やかに風が流れ静寂を抜けていった。
「ああ、そうだ、それとな……何を隠しているんだ虎魁?」
士象はニッコリと笑っていった。虎魁は凍り付いた。寸刻の間を置いて後ろに倒れこむように逃げようとする虎魁の胸倉を一瞬早く士象が捕まえた。虎魁は机を蹴り上げて逃げる。引き付けようとした士象の肘めがけて机が飛ぶ。もちろん、虎魁は士象が避ける事は念頭においていた。問題は視界を遮って、隙を作る事にあった。まっとうにやったのではとても無事には逃げられないからだ。
「なに!」
士象は流石に、手を引っ込めると、逆に机を蹴り返し、同時に入口側から足払いをかける。虎魁が出口に殺到すると見越しての絶妙の一手だった。それに対して虎魁は低く身を地面に延べ机をかわしながら、体を浮かして足払いをやり過ごし、一気に出口めがけて走り出す。にわかには信じられない動きである。
「ぬ、まだ逃げるか?」
まだ宙にある机に飛び乗ると、虎魁の背中めがけて踏みつけるが若干遅い。虎魁がもらったと思った時、簾が揺れた。
「へ?」
このままだとぶつかる、と僅かに動きが鈍ったところに上からドスンと机が落ちてきた。さらにその上に士象が胡坐を組んでいる。
「愚か者が! 逃げ切れると思うか!」
ぐえ、と肺の中の息を吐かされ張付けられたように動けなくなった。
「ありゃ、クトウではないか……?」
士象の表情がみるみる釣り上がっていく。机の下でべったり地面に張り付いた虎魁が小さく唸っている。
「で、動けそうだから出かけてみたと?」
ひとしきり嵐が過ぎた。とりあえず、クトウの状態を見ると士象は虎魁に向かって言った。まだ怒りの火種は燻っている様だったが、むしろ呆れていた。
「お前は、人の話を聞いとらなんだようだの。わしは二、三日で起きられるといったはずだ。あれはそれまでは安静にという事も含まれ取るんじゃぞ? それを面倒見るはずのものがそんな事をしとっては治るものも治らん 」
しかし、そういう、士象の表情は複雑だった。理由の如何は知らないがクトウの体は信じられないほど回復していたのだった。不可解な脈の乱れも無くなり、アバラの骨折も昨日までは確実に折れていたはずだったにもかかわらず、さっき見た感じでは罅程度になっていた。この手の診察を間違えるような士象ではない、誤診という事は無かろう。なんだか狐につままれたような心地でどうも歯切れが悪くなってしまった。とりあえず打撲用の湿布薬を換えて、念のための簡単な内服薬を処方するぐらいでクトウの診察は終わった。その際に、クトウが士象の動きや薬をじっと見ていたのは単なる興味以上のものが感じられた。
既に、クトウが呪術師であることは聞き及んでいた士象だが、何故そのように興味深げな目を向けるか不可解であった。嵩人である士象にはあるいはわかりにくかったかもしれない。虎魁などから見れば呪術師のクトウがそれらに興味を持つ事は当然であるとわかっていた。呪術師は北方諸族には広く存在する職業であった。たとえば、コルキセ語ではバカシュ、共通語とティキ語ではバクスといったように各民族で名称に違いはあるが、大体共通した役目を担っていた。ここでは呪術師でまとめて扱うことにする。つまりそれは、病や怪我の治療、失せ物探しや占い、天候操作、お払い、葬礼、名付けなどである。主に目に見えないものへの直接的介入は呪術師の司る所であって、死や生の根本に近づく医術もまた、呪術師の領分である。それが北方世界の常識であって、その社会体系に住む者は当然保持している知識であるが、すぐ隣に住んでいても医者と宗教者、呪術師が別れて存在する嵩文化圏では呪術師と医者の治療は明確に別れており、呪術師が医者の治療術に直接興味を持つ事は不思議な事だった。特に、医者である士象から言わせれば、呪術師が医に関る等というのはよほどのものでもない限り、胡散臭い呪い師の荒唐無稽な嫌がらせか、頭の古い勘違い者ぐらいにしか感じられない。
ただそうはいっても、長い年月、ティキ族と共に暮らし、マードゥ族の支配を受けた皆壌の嵩人達には呪術師に対する考え方は比較的浸透している。士象は元々は流れ者であったが、長くこの地に住む者として、これでもそういった事を受け入れられる素地はあるのだ。これが、もっと中央に近い地域のものであれば、もっと胡散臭がり、あるいは露骨に嫌な顔をするだろう。
内心そうした不気味さと医者としてのプライドが胸中を巡る複雑な思いを感じながら目の前で小さくなっている虎魁を叱っていた。
「士象さん、虎魁、ミズヲもらエるか?」
クトウが二階から降りてきて、突然声をかけた。手には幾つかの木の実とへんてこな彫り物を施した木の枝を持っている。クトウは表にさっきの毛玉を待たせていたので、お礼の品を持ってきたのだった。不思議な事に突然の水入りで士象のお説教は中断されてしまった。
「あ、ああ、中庭の井戸は住民なら自由に使えるんだ。文句言うような奴はいねぇし使ってくれ 」
虎魁が共用井戸の事を教えると、クトウは、ああ、そうか、と言って、そそくさと外に出て行く。そして、足元に向かい何かを話しかけ、つるべを落として水を汲み、門の端に跪き、小枝を水に浸して呪文を唱え、三回頭上にかざしてから根元と先をクルクルと持ち替えて地に置いた。そこに、木の葉に乗せたベリーと木の実を置くとおもむろに立ち上がり、再び足元に向かって話しかけた。
「さあ、ご苦労さんだったね、辻のだんなにもお世話になったから、ついでに届けてくれないかい?少し多めに供えたつもりだから、その駄賃も含めてとって行っていいからさ」
それだけ言うと、クトウは虎魁の家へと戻っていった。士象はぽかんとしており、虎魁はなんだか気味の悪そうな顔をしている。
その二人を見て、クトウは少しまずかったかなと思った。大体において呪術師とその行動はあまり歓迎される者ではないのだ。半ば人にあらざるものの扱いを受ける事もある。なぜなら、人に見えないものを視て、人に感じられないものを感じる。そして、生き死にや大きな力に関るだけの能力をもっているとされ、部族によって扱いは違うけれども、ここ皆壌あたりでは普通の人はあまり関らないのだ。特別な用事でも無い限りは、その能力を使われる事は縁起の悪い事や気味の悪い事として忌避される。敬して遠ざけられる存在だった。
そして、呪術師のほうも、相手の不安感を煽る様な事を避けるために、人前では術を使う事を避ける傾向にある。そうしなければ、最悪の場合は邪悪な呪術師として同胞に殺される事も起こりえるのだ。もっとも、呪術師を殺すものは、また呪術師だと言うのが常識だった。そういった事を含めて、呪術師と普通の人との係わりはそのほかにも探し物や、喧嘩の調停、その他、困ったことがあると相談に来るのだった。
今回の事は、正式には術ではなく、普通の者でもやる事のあるちょっとしたおまじないの様な物だが、特に何も無い場所で呪術師がやれば、充分に周りを怪しませるに足るのである。ましては、ここは異民族の土地である。その動作一つ一つの意味がどうとられるか、またその行動自体に不安を与えてしまうかもしれないのだ。たとえば、ある人々は小枝を三脚に組んで祈る事がその人の安全を祈るものであるのに、別の場所ではそれはその者の追放を表すものであるかもしれない。安易に断りもなくそういった事を行う事は、実はとんでもない結果をもたらす事もあるのだ。
「今のは何のまじないをしとったんじゃ?」
どういえば良いものかと、気まずそうな顔をしているクトウに士象が怪訝な顔で訊ねた。だが、その聞き方は深刻さを含んだものではなかった。クトウは少しほっとしながら答えた。いた。
「大したコトでナイヨ、ミチをオシえてもらった礼をシタダケ 」
クトウはにこりと笑って答えた。詳しくは言わなかったが、それで充分だと思った。詳しく説明しても視えない人には理解できない事だ。そして、なるべく気軽に簡単に言った方が、聞く者に余計な心配をかけないでいいだろうと思い、できるだけ明るい調子を心がけた。
「ほう、道をな。よく解らんが……まあ、一人で帰って来れたのだから、まあ良かった 」
士象は本当によく解っていなさそうだった。虎魁はクトウの言葉を聞いてさっきよりは警戒を解いたようであったが、まだいささかの不安を感じているらしく
「お前、道を教えてもらったって誰に聞いたんだ?」
と、念を押すように尋ねた。置いていってしまった手前あまり強いことの言えた義理ではないという気持ちも心の中にあったが、それぐらい訊かずにはおられなかった。
「ツジのヘイの上ニいた。ヤツダ 」
虎魁は吃驚した顔をしていた。今度は士象も一緒だ。
「そりゃ、もしかして、道の巷にいる神さんじゃないのか? たまに無常が拝どる奴だよ。へー、やっぱり見えるんだな、たいしたものだ 」
そう虎魁は言ってしきりにうなずくのだった。
巷の神は、辻や境にあって邪悪な物を遮り、土地の物を守る歴とした地祇の類である。そして、無常とは民間の呪い師の類でもっぱら葬式屋の様な存在である。彼らは死者と生者の仲立ちを旨とし、先祖や神々に良く仕えるもの達だった。巷の神は、民に身近な祇の代表格で良く人の祈りを受ける。葬列で通る道の辻辻にいる巷の神に彼らはあらかじめ見守ってくれるように頼むのだった。ちなみに嵩では祇とは大地に属する神霊を言う。その姿を模した像がある地域もあるがここ皆壌では特に祠や像が建てられるでもなく、辻の塀等の道の脇の高くなったところにいつも居るものだとされている。
士象や虎魁にも容易に思い起こせる不可視の存在だったのだ。二人の頭に具体的な何かが出てきた事はクトウの行為の理解のためにとても大切な意味を持っていた。なんだか良くわからない怪しい物よりは幾分でもわかっている範囲に落ち着く物のほうが安心するものだ。虎魁の表情には明らかに安堵の色が浮かんでいた。良く知った祇の存在に緊張感が薄れたのだろう。
「しかし、クトウは本当に良く視える目を持っているんだな。俺達のところの呪術師でも、そうそう神様の類を見たなんて話は聞かんぜ 」
クトウは答えて言う。
「言ワナイダケと思ウヨ? ヒトの怖ガル事スルはダメダ 」
自分が特別なのではない、皆、見えても言わないだけだ、とクトウは言いたかった。基本的に、コルキセ族の呪術師は不可視の何者かに呼ばれて、呪術師としての第一歩を歩き出す。クトウの場合は森の親と呼ばれる存在だった。それらに招かれるという事は自らの意思に沿っているものではないのだ。強制的に介入され、その能力を身につけなければ最悪連れて行かれる事になる。よってある程度の得手不得手はあれども、皆、そういうものを見通す能力は持ち合わせているはずだというのがクトウの教わった事であり、身を持って感じてきたことであった。ただ、これはあくまでコルキセ族で言われていることであって、ティキ族などでは普段から始終見えるものばかりではないのだった。
「ただいま……クトウ帰ってたの! あれ? なんだか、部屋が散らかってる……」
現場を見てエイリクは大体何が起こったか理解したようだ。そして、一緒にいて巻き込まれたり、ついでに怒られなかっただけマシだったと思った。きっと片付けは自分がやるんだと頭を抱えるエイリクをよそに、三人の男にふいに緊張感が走った。
「エイリク、こっちへ……」
静かに、だが力強く虎魁がいった。ゆっくりと倒れた椅子を掴みあげている。後ろでは士象が懐に手をいれ身構えている。クトウはといえば、エイリク越しに壁に向かい強い視線を送っている。
訳がわかっていない様子のエイリクをゆっくり引き寄せた虎魁は片手で士象に合図を送る。士象は何も言わずに、すっと前に出る。手には太い針を持っている。
何者かが怪しい気配を突如としてあらわにしたのだった。壁越しに気配を透かし見たクトウの目には虎魁よりやや小さくて痩せ型の若い男の姿が映っていた。虎魁より小さいとはいえなかなかの巨漢である。その男が切れ長の目に僅かな凶暴さをにじませながら薄く笑っているのだ。何処と無く厭らしさを感じさせる笑みだった。
すると、男はクトウが見ていることに気が付いたかのように薄ら笑いをやめた。そして、険呑な気配を引っ込めた。
「おい、虎魁! 貴様覗き屋を雇っているのか? 見られている感じがする 」
不快そうな声が外からかけられて、虎魁が苦々しい顔を浮かべた。言っている事の意味は虎魁には解りかねたが、声の主は虎魁の知った者の様だった。ただ、虎魁がその声の主をどう思っているかはその表情を見ればわかる。そして、虎魁は未だ身構えを解こうという様子はない。
「なんのようだ? 狼恨子。人の娘を付回すのが最近の趣味なのか?姿ぐらい見せたらどうだ、そんな礼儀も知らないのか?」
虎魁はイラついた調子で言った。それを受けて相手は続ける。
「貴様までその名で呼ぶのか? 姿を見せて欲しいなら、そのやる気をどうにかするんだな。でなければ怖くて入れないよ。」
ヘラヘラと笑いながら喋る。
「大体今日は用があって来たのであってその娘の後を追いかけていたわけではない。たまたまの事だ。それに今の俺は大祭前に半分謹慎中でな、その間に問題なんか起こせない 」
狼恨子と言われた男は人を食ったような大げさな態度だった。
この男、名を “栄啓 ”と言った。幼い頃は鬼子と言われ、将来を渇望されて長老の下で特別の教育を受けて育った。長じて狄鏢の中でも指折りの名人として名を馳せている男だった。虎魁とは幾度か仕事で顔を合わせており旧知の仲である。
その性格は凶暴で、偏執的な事が影響して敵対した者を必要以上にいたぶり、強い者を見ると突っかかり、しつこく付きまとうので不名誉なあだ名が付いたのだ。それが狼恨子である。残虐な狼のような奴という意味だ。もちろん本人はその呼び名を積極的に好んではいない。しかし、言わせたいように言わせているのは、その呼び名に他人のやっかみを感じている為だ。それが彼に優越感をもたらしていた。仕事がつまらないと一悶着起こす癖があった。それにもかかわらず、局からの評価は高く名指しで指名する客も多い。ひとえにその仕事振りは驚異的だからだ。特に大きな仕事や特別困難な仕事を請け負わされても仕損じた事がなく、本人もまたそういった仕事を好むからだった。
「どうしたい? いつまでそうして身構えてる? いつもは誘いを断るくせに今日はやる気になったてのかい? 普段の俺なら喜んだろうが、局の長老連に重々釘を刺されているのでね。今日は遊べないんだ、残念ながらな 」
姿を現したが、相も変わらずふざけた調子である。その手には局長老の使者の証である鈴を持っていた。栄啓はいつもこう言うところがある男だった。虎魁は栄啓の挑発にうんざりしていた。
この男は諍いや喧嘩が好きだった。相手を挑発して自らにけしかけるようなやり方が好きだった。暴力に魅力を感じるのか、力をもてあましているのか、そう言ったことではないのか、そういうことはわからないが、とにかくそう言ったことが好きだった。ただ、いきなり手を出すようなことはほとんどしなった。その代わりに、やたらと人をけしかけたり、挑発するのだった。
それなりに実力があるものと手合わせするのが好きなことも遭って、虎魁もその腕前から目を付けられていた。虎魁も彼の実力は気になっていたし、まったく興味がないわけではなかった。けれども、栄啓はただの腕比べにしてはやり方が激しく、徹底しているから誰もが嫌がった。彼のせいで仕事を失ったものも少なからずいるのだ。虎魁はもうずっと栄啓の挑発をかわしてきた。“きっと、俺宛てと聞いて立場を利用して自ら志願したのだろうご苦労なことだ ”と虎魁は思った。虎魁はこの若者のそういうところが嫌いだった。
「お前は、油断できないからな。本当は家に上げたくもないが局の使者ならそのまま返すわけにもいかん。今部屋が散らかっている、部屋を片付けるまで待て 」
吐き捨てるように言うと、出入り口に近づかないようにとエイリクとクトウに言って、部屋を片付けさせる。士象はやれやれといった顔だ。
掃除を終えて、栄啓を家に上げる。栄啓は他の者は外出させるように言った。そこにいるのは虎魁だけである。その時に至って、虎魁はおや? と思った。
さらに栄啓がとったのは局の正式な礼儀であった。局の礼儀というのはうるさいものだ。何故なら、それは同胞の確認でもあるからだ。その礼を蔑ろにするということは、狄鏢の本局を敵に回すという意思表示と取られかねないのだ。
ただ、簡単な用事でこの礼を取ることはあまりないのだ。栄啓のような大物が死者として使わされて、礼をとって指令を伝えるのは普通のことではなかった。
「改めて言おう、使者、栄啓、北門より参りました 」
というと、両手を頭上に上げ、手を広げてから右手を上にして左手の親指を握りお辞儀をしながらいう。虎魁は返礼として臍の下で右手をしたに左手の小指を握り眼前に拱手して言う。
「アビクァの下、われらは同胞です。さあこちらへどうぞ! お掛け下さい 」
すっと、手で椅子のほうをさした。
「いえ、私は疾く行く者、走るエグの如き者、速やかに発たねばなりません 」
栄啓は断りその場に立っている。アビクァとは天、エグとは風を指すティキ語である。
「エグも渦巻くこともあり、はたまた人の懐に休むこともあると申します。そう言わず一服を」
「エグは草原を走り行き、アガタからハガタ、コシからソシに行くもの、やはり留まるわけには参りません」
「そうはいっても、使者殿はエグにしてはだいぶお留まり、遠慮なさることはございません。さあ、ご一服して、再びエグのごとく行けば良いでしょう?」
「どうやら、エグはつまったようだ。ここはドゥに足をつけて一息いれさせて頂きましょう 」
アガタは東、ハガタは西、コシが北、ソシは南の事で、ドゥは大地の事だ。二回誘いを断って三回目に誘いを受けるのが正い招待の受け方とされているが、それにティキ語の混じったやり取りを加えたこのやり取りを経ないと、用件は言わないし聞かない。それが狄鏢の黒話と呼ばれる合言葉である。古い習慣が下敷きになっているらしいと聞くが定かな事はわからない。ただ、黒話の表現の中には今の遊牧ティキ族の中で使われる表現と良く似た物があるのは確かだ。
二人は卓に着く。この際、主人がまず椅子を払い、席に着く。自ら率先して無防備になり敵意のない事を示すのだ。そこで、使者は改めて鈴を見せ座るのだ。
「さあ鈴を改められよ 」
栄啓はいった。虎魁はそれを三度回してから確認する。
「門前の方と確かに了解いたしました 」
栄啓は鈴を受け取ると拝してこれを懐にしまった。これで黒話は終わる。
「で、何の話だ?」
虎魁は訊ねた。
「お前に依頼だ。それも名指しでな。やはり、貴様は優秀な奴だな。普段はあんな木っ端仕事ばっかりやっていても、こんな大口から指名が来るんだからな 」
やはり、俺の見込んだ男だ、と言いたげな顔だ。何がそんなに嬉しいのか込み上げてくる笑いを抑えきれないようにニヤつきを顔に浮かべている。
「指名? 局の方の人手不足で駆り出されるのかと思っていたんだが、今度たくさん来るんだろ? 例の件の関係でさ。だいたい、連絡があるだろう?」
うすうす気がついていたが、当初の予想と違う話に虎魁は思わず訊ねた。ここのところ、よそからの指名などほとんど無い。よほどの事情か局からの推薦指名なら別だが、その場合は先方から何らかの連絡が来るのが常だった。
「連絡はだから俺がやっている。不思議はあるまい。それにお前ほどの腕だ。お前の相手をできるものは局の腕利きでもそうそうはいない。俺と同じでだ。そうだろ?」
質問に答えて話す。澄ました風な外見と違って、興が乗ってくると言葉遣いも態度も荒くれ者のそれになっていく。目上の虎魁に対してこういう態度は決して良いものではなく、虎魁はこういうところも栄啓が嫌いだった。
「それにしても、最近喧嘩をしたそうだな。 珍しいじゃないか? まあ、お前の相手ではなかったようだがな 」
栄啓はニヤニヤしながら嬉しそうに言った。先ほどからの笑みはこれだったかと虎魁は思った。
「あれはやまれぬ事情があっての事だ。俺は好き好んで喧嘩を売って歩いたりはしない。仕事以外で腕を振るう気も無い。家族もいる。お前ほど暇ではないし若くもないんだよ」
諭すように言ったが、栄啓は気に入らないようだった。
「何を言っていやがる。そんな老け込む歳でもないだろう? 皆壌の猛虎といわれた男の言葉ではないな。少なくとも、昔ならば馬鹿にした相手をそのままにしておくほどお人好しでもなけりゃ、腕の奮い時ももっとわかっていたと思っていたがな。今日のようなことがあれば昔のお前なら食って掛かっていただろうよ。それでなくても、狼虎の対決を見たがっているものも大勢いる。腕試しのお祭り騒ぎも出来なくなったのなら、それはお前が老けたんだろう 」
「うるさい奴だ。用も無い事をべらべらと。礼儀をわきまえろよ。俺は如何すればいいのかそれだけをいえばいい。局の会館で依頼人に会うのか?それとも別な待ち合わせ場所があるのか? いつ何処で何をすればいい?」
「受けるのか?」
怪訝な顔をして栄啓は聞き返した。虎魁は依頼を選り好みする事で有名なのだ。虎魁ほどの腕があって指名が少ないのも虎魁が断り続けた結果といってもいい。ただ仕事をしないわけではない。虎魁が取る仕事の量は少なくは無い。あまり遠出をする事や、事情の込み入った物、あまり危険が伴うものを意識的に避けているのだ。昔の彼は自分の腕に自信があったこともあって、そういう仕事を好んでこなす面もあったのだが、今は違う。
そして、今でも虎魁を指名してくる客はそういう依頼を持ち込みがちだったので、よほどの事が無い限り、虎魁を指名してすんなり首を縦に振らせられない。それでだんだんと依頼の量も減っていった。もちろん、虎魁が仕事を選るのは娘のためであるのだが、栄啓などにはそれにしても勿体ない事に見えるのだった。
「詳しい話を聞くぐらいはするさ。それからだよ、受けるかどうかは。当たり前の話だろ。お前が話してくれれば俺ぁわざわざ足を運ばなくてもいいんだよ。この場で答えられる。でもここで話せる話ではないんだろ? 違うか 」
いつもはその場で詳しい話が出来ないような依頼は、話も聞かずに断っている虎魁にしては珍しい事が起こっていた。この時点で虎魁は仕事を請ける気になっていた。
「そうだ、ここでは出来ない話だ。詳しい話は会館で聞けるはずだ。明日の昼に会館に来いとの事だ。長老どものじきじきのお言葉がある。その場では正装する事。ただ、着替えは会館でと言う話だ 」
虎魁はうむと頷いた。その様子を見ながら栄啓は胸にこみ上げる愉快な気分が増すのを感じていた。必ずこれで近々面白い事が起こるという確信が彼にその気持ちを起こさせていた。彼はこの役目を申しつかったときからなにか強烈な引力とでも言うものを感じていた。
波乱の予感だ。
栄啓は異常に勘の鋭い人間だった。いわゆる第六感に近いようなものだ。それは、本人の好むと好まざるとに関らず感じるものだった。特別な勘である。見えないものを感じるその力だ。鬼子と呼ばれたのもそういう力が幼い頃から備わっていたからだ。そして栄啓は己の勘にはかなりの自信を持っていた。その間がどうにも疼いてしょうがないのだった。
余談だが、栄啓は虎魁やそれに自分に準じるような強者にもそうした勘が備わっていると思っていたのだ。彼が喧嘩をするのにはそういう仲間を求める意識がどこかにあるのかもしれなかった。
「では確かに伝えた。ながながとドゥに足をつけた、速やかに行こう 」
そういうと、栄啓は立ち上がり、手を捧げあげて礼をした。
「エグよ疾く帰りたまえ。そなたの主の下へ」
虎魁は返礼を返し言う。これ以降は見送らず、お互い声もかけない。二人の仲が良くないからでは無くこれも狄鏢のしきたりなのだった。
ふうと一息ついて虎魁は天井を見上げた。面倒な奴が帰ったという安堵と面倒な事になりそうだという実感がぐっと虎魁の体にのしかかっていた。ともかく、飯でも喰ってとっとと準備をするかと思った。自分でも何故その気になったのかは解らない。ただ、今回の仕事は当然請けるもののように感じられていたのだ。虎魁には栄啓のような特別なものは無かった。しかし、それでも何か不思議な力にひきつけられていくのを感じるのだった。