第十五章
目の前を知っている人影が過ぎ去った。その人物は今こうやって市中を往来できるはずのない人物だった。ずいぶん様変わりしたようでもあったが、そもそも彼がその人物とまみえたのは一度きり、その時は名前すら知らなかった。
だがしかし、一度しか見ていないがそれでも鮮明に記憶していた。何か面白いと感じたからだ。後々、この騒ぎが元で彼の名前は一部その筋の間でお訊ね者として広がる事になった。周閨だった。今まではその行方が遥として知れなかったものの二黒幣との争いの直接の原因になったのは間違いなく周閨だった。その行方のどうしても知れなかった男が目前を歩いている。栄啓は路地に消える影を静かに追い始めた。
予想に反して周閨はまったく無防備といってよかった。何かに気をつけている感じがほとんどない。追われている立場の者には全く見えない。怪しんでごくごく遠巻きから様子を伺う。もちろんこちらは隠行して誰にも悟られぬようにだ。何度も述べているが、栄啓はこの手のことがまるで生まれてからそうだったように自然に身についている。身ごなしは軽く自然であり、人混みにあっては人に気取られず、その身を隠してはまるで静かな蛇のようである。人でごった返す道をすいすいと泳ぐようにわたる。人影に寄り添うようにして進み、物影に潜むように進む。相手が感得する気配はない。
相手方、つまり、追われる側の男、周閨は正しくその存在を感得しえていない。追われているなど微塵も思ってはいない。彼は機械として正確無比にあたりを察知して、事の起こりに敏感に対応する。そうプログラムされているはずの人形が、感得しえていない。
この事実はすなわちどういうことか?
彼の言いつけはもっと早くに達成できるものだった。主人は今別の問題に腐心して、己が作品に信頼を寄せ、眠りをむさぼっている。その間に彼は覚醒する。僅かなほころび、その小さなほころびから心を取り戻しつつあった。新たに、そして十分に自分に備わった力と環境を駆使して彼は探っていた。ほころびは隠し、全ては誤差の範囲内に収め、主人を起こすことなく。そう! その思考こそが、そして考慮の外の能力を身につけたことによる油断が追跡者への警戒を怠らせていた。――それもそのはず、そもそも誰の気にもかからないはずで、もし目にしても暫く経てばそれは記憶から消えてしまう、そういう仕組みを施されていたのだ。そして、それを自覚しているのだ――ほころびはほころびを呼び、異物は混入する。意思は埒外を作り出してしまう。何にでも例外は存在するのだ。だから、彼を追った栄啓はそんな異物にして想像の外に飛躍しえる存在だったのだ。
そして、栄啓は全てを見た。霧に消えていく周閨の姿を、そのあとに立ちふさがる壁を。塞がれた道の先には特別なものなど何もない。ただ彼の目にはその継ぎ目は目視できるのだった。その触れえぬ境が消えていったその後、すぐさま飛びつくような愚は犯さずに視認していた。それから、境目を軽く確認した後に街を歩いてみた。注視すると街のそこここにその痕跡は残されている。神出鬼没のその訳はそれがどんな仕組みであるかに寄らずとも理解できよう。それは扉なのだ。真実は少なくとも、扉の役割も果たす、というのが本当であったが、それは彼にはわからない。それは仕組みを知っているもの、経験したことのあるものにしかわからないのだ。栄啓は推理する。
そして、周閨はそんな事は露知らず、ある人物を求めていた。思惑は目的を、目的は行動を、行動は痕跡を、そしてまた歯車が回る。人は歯車として街を、そして時間を機械に仕上げていく。
栄啓の徘徊は続く、彼の興味を満たすために。周閨はそれと知らず、執念を燃やし人形を装う。その合間に考えるのはある男のことだ。何が彼にそれほどの執着をもたらしたのかは今の本人にもわからなかった。でも、周閨は虎魁を求めていた。そのために自分を支配している手綱を切る準備を重ねていたのだ。彼には記憶が途切れた時間がある。正確には記憶が断片的過ぎてまとまっていない時間があった。それ以前の記憶の最後は奇怪な老人のニヤリと口角を吊り上げた笑いだった。それ以来、まるで白昼夢のような光景の繰り返し、霧にまぎれて人に尋ね、闘い、追い散らし、捕まえ、殺し、また尋ねる。それがようやっと終わったのは再び虎魁と巡り会った時だった。
あの時、口をついて出た自分の名前が夢からの脱出を叶えたのだった。そして、曹懐がクトウに傷つけられた時にその支配は明らかに途絶えたのだ。そこからの対処は早かった。速やかに人形に戻り、言いつけを守り、己の機能に従った。唖然とするような光景も、まるで不思議に感ずる事はなかった。
その後、主人は暫く眠りの床に就く。ようやく彼は動き出した。彼は自分を把握する。彼は虎魁を求める。彼は曹懐から逃げ出さない。もろもろを胸に街を彷徨う。あくまで彼の手足のように、だが、そこに自らの意思を溶かし込みながら。
そして、同時に虎魁もそれと知らず周閨を追っていた。三者が三者とも惹かれあうように求めあっている。虎魁は噂を集めて歩いた。どこでどういうことがあったか? どれもまた聞きのような取るに足らない噂のように思えた。しかし、自分が遭遇したモノを思えば、そして、それがいくらか確かな事のように思えた。くだらない噂でも信じる気も起きた。同僚がうまくやってくれたようで誰かが連れ戻しに来る事もなく虎魁は心置きなく探索できた。その途中、一度、張士象の元に足を運んだ。
「士象はいるかい? 」
「ああ、虎魁か。どうした? 帰っていると話は聞いたが全然こちらに来なかったじゃないか 」
「帰って早々、出頭を命じられてね。そのまま今までずっと局舎に閉じ込められていたんだ 」
連絡もできなくてすまないと言いながら娘の事を訊ねた。エイリクはちょうど出かけていていなかった。娘の顔を見ておきたいとは思ったが、長居をする気はなかったのだ。エイリクには寂しい思いをさせてばかりだと気が重かった。士象には事のあらましを伝えて出て行った。そして、虎魁はこの時はじめてクトウが行方をくらましたのを知った。クトウはなにやら一筆書き付けて、家の者に気づかれぬうちに姿を消したそうだ。虎魁はこの時になって始めてクトウに妙な薄気味の悪さを感じた。そして、目の届かぬところにクトウがいることに不安を覚えた。
やがて、虎魁は街に出た。家とは別の滞在場所を東郭に構えた。奔走する日々、虎魁が捕らえたのは目的の人物ではなかった。
それは栄啓だった。
先に述べたように栄啓は周閨を追っていた。彼は周閨の残した痕跡を見つけることが出来た。栄啓はその痕跡になにか一定の法則がないかと調べていた。相手は街の広い範囲に渡って痕跡を残していた。正確には彼の主人が街のさまざまなところに通用口を設けていたという事だった。栄啓にとっては何で今まで気がつかなかったのかと思うようなところにまでそれはあった。調べ事態は全く持って気軽なもので、ふらふらと街中を歩いては確認した事を地図に書き込み、たまに近づいては仕組みを見て回ったりするようなものだった。結局、ゆらゆらした煙の尻尾のようなものがつかみ所もなく境を知らせているだけで、栄啓には手で触れることすら出来ぬとわかったくらいのものだった。網を張ろうにも、部下には任せられない事ははっきりしていた。なぜなら、彼の部下がつい先ごろ、街の周辺でこってりやられたのがこいつに違いない事はわかっていたし、そもそもこの境目が見えるのは自分くらいのようだったからだ。そんなさなか、同じものを追っていた二人が出くわさない訳がなかった。
「よう、あんた、まだ局にいるのかと思ってたぜ 」
後ろからの気配に栄啓は振り向きもせずに話しかけた。辺りに他に人気はない。狭い路地の事だ。虎魁は何も言わない。狭い路地に長身の男が二人。一人は明らかに大男といっていい体躯。別段緊張するでも無く虎魁は歩を進め、どんづまりにいる栄啓のすぐ後ろまで近づいた。
「何か知っているのか?」
それが虎魁は問うた。知っていたら教えろと釘をさすような言い方だった。あいも変わらず栄啓は後ろを見せたままだったが、その裏ではニヤニヤとした笑みが浮んで仕方がなかった。
「お前がいない間、こっちも色々あった。面倒ばかりだよ、まったく余計なやつらは色気ずくし、親戚どもはもうとっくに移動し始めているらしい 」
「それがどうした。興味はないな。それより今はお前が何をやっているのかが気になる 」
虎魁は僅かに声を低く、抑えたように言う。
「おまえにはわからん 」
簡単に言い放って、栄啓はようやく振り返る。路地裏の暗がりに白く怪しくその顔が浮んで見えた。妙に上機嫌で親しげであった。虎魁は口の端を僅かにゆがめた。
「そんな顔をするなよ、本当にお前にはわからないだろうって話だ。教えないとも言わないし、その代わりに言うことを聞けとも言うつもりもない 」
そういってから、栄啓はおやっと思った。以前の虎魁とどこか印象が違う。そこで思い出す――虎魁たちが奥壁の地下を抜けた事を――そして、それがどう言うことかを。
栄啓は特別だ。生まれた時から違ったのだ。それが為に幼い頃、遊牧ティキに預けられ古来の生活を送り、長じては長老達に教育を受け古代の秘儀をいくつも修めたのだ。鬼子として生れ落ち、エリートとして育て上げられた。一部の人間しか詳しいことは知っていなかったが、みな彼は何かが違うと思っていた。もともとの素養に加え、そうした環境が彼の孤独と性格を作り上げていった。そんな中で彼は虎魁を自分に近い位置にあると思っていた。それは本当に些細な話で、虎魁のかつての勇猛さとその評判を彼が都合よく受け止めただけだったのだが、虎魁が皆壌に帰ってきてからの行動がそれが幻想だったと彼に教えた。しかし、今度は幻ではないと彼は思った。また、そんなものは個人の感傷なのだとしても、彼は始めて街で同胞ができた思いだった。それを感じた時に彼の中の虎魁への感情に、またもっと全体的なそれに変化が現れ始めた。
「俺一人でも埒も開かないようだし、一つ手を組まないか?」
意外な返答に戸惑ったのは虎魁だ。まさかこの男がこんなことを言うなど、思いもしなかったのだ。どこか疑わしげな気分がして、なぜだと問う虎魁に栄啓は答えた。
「さっきも言ったが、どうも俺一人じゃあ駄目のようだからな。でも、お前は一度会った事がある相手のようだ。なにか起こった時に経験者にいてもらえるのは心強い。しかも虎魁ならなお安心できる 」
もちろん、違う事意味でも期待していると心の中で付け加えた。栄啓は虎魁がこの毛に関してなにやら重要な位置にあると睨んでいた。彼がいればきっと向こうからやってくると……
数日の間、彼らは街をうろつきまわり、周閨の痕跡を探した。とはいえ、周閨の残した気配がわかるのは栄啓だけだった。だから、虎魁は姿を変えて、栄啓に付き従っていただけであった。
そんな二人が例の通り抜けられない出入り口を何度目かの調査をした時のことだった。不意に壁がぬかるんだような感触になり腕がはまり込んだ。それは二人に同時に起こった現象で、あまり気持ちのいいものではなかった。気がつくと眼前に霧が壁のようにたって現れており、そこから溶け出すかのように白く霞が伸びてきて手足にまとわりついてきたのだった。慌てて飛びのこうとしても既に遅かった。地面がぬかるんだようになって足が上手く抜けないのだ。その間に壁はさらに迫ってくる。いや自分たちが引き寄せられていたのだろうか? どちらか判別がつかなかった。栄啓はその瞬間、虎魁の方を見てこれがそうだと確信した。
そして、全てが止まった。重かった手足の枷が不意に解ける。景色はもう街の中ではない。深い霧の中で男が一人たたずんでいる。他には何もない、即席の闘技場のようだった。どうやってこんな空間が現れるのか皆目わからないが、二人はあの狭い路地裏からこの闘技場に引き込まれたのだった。栄啓はこのしつらえが、どこか馬鹿馬鹿しいような気もしたが意識を切り替えた。相手の殺気は間違いがなかったからだ。
目の前の男が以前とはだいぶ面影を異にしているが、かつて会った事があるのがわかった。それに対して虎魁は当惑していた。以前とほぼ同じように連れてこられ、以前とほぼ同じような状況にもかかわらず、いま目の前にいる人物は以前の空しさがない。それはもっと個人的な人格を持っていると言う事が伝わってくる。怨念だけが形をなしたものではないのだった。その逡巡の中でも、すでに二人と周閨との距離はぐっと縮まっていた。二人はもはや猶予もなく武器を抜き放ち破れた均衡を補わなければならなかった。そして周閨はそれに答えるかのように後ろ腰に差した短剣を二本引き抜いた。周閨ははなから虎魁のみを見つめていた。虎魁はそれに気がついて短く短剣をさしだした。一瞬消えた周閨の体がまるで示し合わせたように虎魁の短剣の前に現れた。いや、虎魁が間髪で防ぎとめたのだった。栄啓は一瞬出遅れ、闘いは二人のものとなった。周閨が虎魁に突っかける瞬間をねらって、横合いから踏み込もうと思ったのだが、抜き払われた短剣の一方が彼に向かって飛来してきたのだ。
邪魔を避けるのにはそれだけで十分だった。虎魁と周閨はもはや余人の侵入を許さないような緊張感と集中の中に埋没し始めていたからだ。栄啓は面白くもなかったが、そこに割って入る気にはなれなかった。
それはある種の誇りであった。あの瞬間に周閨は敬意を払うべき戦いであると言外に告げたのだった。栄啓の見ている前で二人は数十となく刃を打ち合い拳足を交し合った。
しかし、ますます機敏に動く周閨に対して、虎魁は徐々に押し込まれていった。周閨はまるで疲れを知らないかのようだった。ついに先回りされて動きに詰まった虎魁は短剣を自ら手放した。相手の武器を持った腕を片手で取り、もう一方の腕で帯を引き寄せる。相手を投げて一気に流れを変えようとしたのだった。しかし、はっと虎魁の動きが止まった。しくじったなと感じた。そして、それを見ていた栄啓にもそれは見えた。脇腹に耐え難い衝撃を感じ、虎魁の手が緩む。白刃が煌いてその背に一撃を与えようとする。だが、その一撃はかなわなかった。
虎魁に何か出来たわけではなかった。その瞬間、足は地面に張り付いたように離れず、完全に死に体だったからだ。最後の一撃を妨げたのは栄啓の放った投擲の一撃のおかげだ。そして、その投擲とともに滑り込み、虎魁に体当たりをするようにして入れ代わった栄啓の機転のおかげだった。
放たれたのは短剣の鞘だった。それが顔面に飛来した。その絶妙なタイミングは短剣を持った手にそれを防がしめ、敵の侵入を許した。そのまま下から栄啓の刃が短剣を持った側の手首をすくい斬りに斬った。カチリと固い感触がする。ばっさりと落ちているはずの手首は繋がったまままだ。彼に施された術の結果、周閨の体は刃を受け付けないものになっていた。
しかし、断ち切りは出来なかったものの十二分な衝撃は伝わっていた。相手の手を痺れさせたのだ。栄啓は取り落とした短剣をすばやく蹴飛ばした。そして、返す刃で相手の脇を強く突いた。すると周閨は衝撃で数歩退き、栄啓は離れた間合いにあわせて構えた。腋の下を冷たい汗が流れる。おおよそ人間とも思えない頑丈さではあったが、身ごなしは自分のほうが上であるとも感じられた。傍らで虎魁が唖然としていた。腋下に突き立ったはずの短剣がたやすく弾かれてしまった事にも、その無尽蔵の体力にも、そして、かつて闘った時よりさらに安定して力強いその技にも。
いったん間合いを取った二人だったが、すぐに二人の間は縮まった。手と手が交差して、足と足がはじけあう。袖を引けば身を沈め、足をとろうとすれば跳躍する。虎魁と栄啓の格闘能力自体にはさほどの差はない様に思っていたが、実際にはこれだけの差があると虎魁は思い知った。栄啓の長い手足はまるで蛇のように絡み、時には鞭、時には槍のように千変万化して襲い、技は途切れるところがない。栄啓は存分にその業を振るう事など絶えて久しく、思いも寄らぬ行幸に身を振るわせ、虎魁はその隠された実力に舌を巻いた。だがやがて、この栄啓にとっての幸福の時間も終わりを迎える時がやってきた。先刻の虎魁の時と同様、最初は互角か優勢であったものが、そのあまりの頑丈さと無尽蔵の体力によって均衡が打ち崩されてきていた。未だ一発も敵の攻撃をまともに受けていない栄啓だったが、尽くす手がなくなりそうだった。ついに肩口に一撃をくらい、栄啓は戦略を変えた。最初に一撃を入れてダメージがあった箇所を執拗に狙った。ほかに大きく崩れたところが見出せなかった。感覚を研ぎ澄まし、何がどう伝わっているのかを確かめる。このあたりの機転はさすがというしかない。周閨が体力と頑健さ、高い学習能力で相手を追い詰めているのに対して彼は未だに貪欲に自らの可能性と興味を追いかけていた。やがて強烈な肘うちに栄啓がよろめいたその時に遊ぶのをやめた。栄啓は相手を細部までしっかり把握していた。よろめきながら、相手のバランスを崩して地面に押さえ込んだ。
「虎魁!!」
すかさず叫ぶと、周閨の服を引き裂く。その露出した部分に異様なふくらみがあった。呼び声に応じて虎魁は周閨を鉄ごしらえの短刀の鞘で打った。ガキンと硬い感触がして跳ね返される。それでも何度も執拗に打ち続けた。鉄の鞘が一打ごとに軋むのがわかる。さらに打ち続けると、やがてぐしゃりと何かがつぶれた感触がして周閨の口から真紅の玉が一つ飛び出した。
カラカラと音を立てて地面を転がる小さな玉。栄啓はすかさず手を伸ばして破れた服の切れ端で注意深く包むようにその玉を拾い上げた。一方の周閨はぶるぶると痙攣して浅黒かった肌が青みを帯びていった。目がくるくると回り、口の端から薄っすら血の混じる唾液が垂れる。突如跳ね起きるとまだ上にのしかかっていた栄啓と虎魁を跳ねのけて、よろめくように駆け出した。急激に当たりは白く塗りつぶされていく。すっと意識が揺らぎ、めまいのような感覚が五感と意識を深い井戸のそこに引き込んでいった。




