第十章
ある晴れた晩のことだ。栄啓は黒装束に身を包み、まんまと敵のアジトに潜入していた。あの日以来、どうしても、ここを調べねばと北郭の建物へとおのれ一人で潜入を繰り返していた。人数を使うよりは自分一人でならば決して見つからないという一種の傲慢さは、あながち間違っているわけでもなかった。栄啓は結局それをやってのけてしまったからだ。
“まさか、こんなものを作っているとは ”
栄啓が潜入した建物の中、その床板を入り口にした地面の下にそれはあった。見つからないはずだ。それも中はかなり広い。ただ、人が長く住むには些か辛い環境だろう。長雨で湿気が降りてきているのもいただけない。“やれやれ、馬鹿な苦労を背負い込んで無駄な手間をかけやがって ”栄啓は内心で毒づいた。明かりのための火がどうしても空気を汚してわずらわしい。服の下に嫌な汗を掻きながら息を潜めて進む。施設の全容を知るべく細かく調べる。中々どうして骨の折れる作業だ。他人に任せるより自分で行動してしまうつけみたいなものだから、仕方なくもあるのだが、内心イラつきを感じないと言えば嘘になる。しかし、栄啓はこういう時により冷静になる性質だった。影のように静かに速やかに作業を行った。時折聞こえてくる話し声は世話話のようなものがほとんどで、重要なことがあまりなかった。ただ、何をどのように準備しているかは大体把握できた。それを暗号のような書付にしていちいちまとめ、さらに部屋の数や方角、距離、規模などを大まかに記録していく。これらの情報を持ち帰り、地上の地図と照合するのだ。まさか、こんな地下のアジトが誰にも知られずに作られているとは思いもよらなかった。そのうち栄啓はもう一つの入り口を見つけた。どうやら、いくつかの出入り口を作っており、その上には必ず建物があり、直接に人の目に触れることがない様になっていた。そして、その建物を押さえておけば少なからず相手の出方が分かるということでもある。基幹になっている横穴はわりと古いもののようだが、そこから作られた部屋や回廊はつい最近になって作られたようだった。土の臭いが新しい。
「おい貴様、何をしている 」
ふいに後ろから声がかかった。栄啓は何も言わずに壁を駆け上りふりかえると、そこにいた人物を蹴り殺した。たいした早業だった。転がった死体は醜悪な面をした小人だった。“やってしまったか? ”わずかに軽率だった様に感じたがすぐに忘れた。この方法がてっとり早かったのも事実だ。幸い相手の大きさが普通より小さかったこともあったので、手近な甕に放り込んで蓋をして、人の目に付かない場所に片付けてしまった。実に寸刻のことであった。
実は今倒した小男こそ二黒幇の幹部の一人、彦靖であると栄啓には知る由もなかった。そして、これが吉と出るか凶と出るかも、この時点では知る由もないのだった。その時、誰かの視線を感じて身を隠しながら辺りを見まわした。人影がすぐ手前の角へ走り去るのがを見た。栄啓は速やかに後を追いかけた。
角の向こうでは女が一人、こちらを見ていた。女は艶やかな赤い衣装をまとっている。相手は先ほどの顛末を間近に目撃していたはずだが、なぜか栄啓は女にすぐに手を出さなかった。なにか変な気後れがあった。そればかりか、一瞬、目を奪われさえした。
「おい 」
低く押し殺すように女に声をかけた。女はさらに小さく身を縮めた。その様があまりに滑稽であった為、栄啓は密かに覆面の内で笑った。
――しかし
しかし、美しい。そう思った。しなやかな体に白い肌、残酷そうな口元は一見恐怖を浮べていたが、それが芯からのものかは判断がつきかねた。
「他言無用だ 」
それはよほど馬鹿馬鹿しい台詞が口をついて出たと思った。それから、ついでに片付けてしまえばよかったとも。
――さて、奇妙なことだ。こういうときは退くに限る
自分が予想外の行動をとった。こういう時の行動は徹底して退き上げるにかぎる。それが彼の動きかたの一つの形だった。一人で動くうちに付いた癖なのかもしれない。退くと決めたら後は見ない。
○ ○
李如はその日、久方ぶりに外に出た。空には晴れ間がのぞいていたが、これも久しぶりのことだった。童女と童子を連れて皆壌の街並みをぶらぶらしていた。もちろんある用事を済ましにという名目ではあった。しばらく、地下に閉じこもりっぱなしだった彼女の気分はだいぶ和らいだといっていい。ただし、若干、いや、かなり嫌なこともあった。童子のふりをして付いてきた彦靖がいたからだ。半分用があって、半分は彼女の護衛代わりとして付いてきていたのだが、目深に頭巾をかぶったこの男の所作がまた本物の子供のようでかえって気味が悪かった。この男がこういった所作で何をしてきたかも心底気分が悪くなる理由の一つだった。彼女は歪んではいたが、子供の美しさやかわいらしさといったものをとても好んでいた。それを穢された様な気分にさせられてひどく不愉快になるのだった。しかし、それはそうとして、せっかくの外出を楽しむことは忘れてはいなかった。そういった切り替えが彼女の持ち味でもあった。長雨続きの煩わしさが嘘のように消えた街はそこここに水溜りを残しながらも、抜けるような空の青さと重苦しい湿気から解放された人たちの活気が美しかった。まるで今、街のどこかで起こっている争いなど全然関係ないかのようだった。子供たちを侍らせて、貴人のように歩いてまわる。用事を終えて若干の買い物を済ませると辺りはすっかり日が暮れていた。彦あたりに言わせると若干ではないといいたいだろうが、彼女の本領はこんなものではないらしく、これでも若干なのだろう。
さて、いよいよアジトに帰ろうと北郭近くの店の裏手から、客を装い地下への入り口に入っていく。最初は二つだけだった出入り口も、今は五つに増えて便利になった。長雨の中で掘った土を泥水に見せて処分した。雨であちこちにぬかるみが多かったのが作業の進行が早かった理由の一つだ。上の手配については湘阮がやっていたようで彼女からすれば、どうやって手配したのかひどく不思議だったけれども、彼のこういう仕事には間違いがないので気には留めていなかった。元々この地に移る事を言い出したのも彼なのだし、なにか縁故でもあるのだろうくらいに思っていた。アジトの内部は必要な人員だけが収容されており、そうでないものは各個べつのねぐらで生活して、上の生活を装ったり近郷に潜伏していたが、敵の目におびえる日々だ。敵の網は狭まり追い詰められているのは事実だったが、このアジトに隠れて手を変え品を変えて商いを続けるのだった。ただ、強盗、強奪の類はすっかり警戒されて、また、あまり派手にやって官吏にまで目をつけられると大変なので、今は静かに力を蓄えていた。彼女がこれからのことを考えながら、地下に降りると、彦靖がなにやら険しい眼で地面をにらんでいた。
「曲者がいる」
腹立たしげに言った。
「ねずみめ!!」
はき捨てるように言って李如を振り返った。ついて来い、八つ裂きにして見せてやろう。そう言ってにやりと笑った。どこの間者か知らないがただでは済まさん、と、目が告げていた。やれやれ、なぜ私がついていかなければならないのかと思いながら、仕方なく後に続く。敵は程なく見つかった。その時、李如は隣の部屋を見ていた。
「おい貴様何している!!」
彦靖のいつもの手だ。野太い声色でよばわると相手は振り向くが、そこには人影が見えず狼狽した隙に片をつける。しかし、今回は上手く行かなかった。その相手の黒ずくめの長身の男は声がかかると同時に消えた。少なくとも彦にはそう見えた。哀れ彦のすべてはそこで終わった。首に強烈な一撃を食らって踏み潰されたのだ。きっと苦しむこともなく逝ったのだろう。わずかに指先が痙攣していた。すべてが終わったと見て、顔を出した李如が目にしたのは踏み砕かれた小人が甕に放り込まれるところだった。わが目を疑うと同時に空恐ろしくなった。“まさか、あの彦が音もたてずに殺されるとは ” 咄嗟にもと来た部屋にとって返した。その男の持つ激しく攻撃的な気配に、感覚が凍りつき無様に縮こまっているとその男がやってきた。
「おい 」
男は低くよばわった。ぞくりとして思わず小さくなる。男は影のように目の前に立って動かない。不思議に思って顔を上げようとすると、李如を突き飛ばすように姿を消した。我に返った李如は部下に命じて甕を処分させた。その晩彼女はすがすがしい気分で床についた。
○ ○
「最近どうも府中が騒がしいようです 」
部下の報告に馬ニ元は耳を傾けていた。皆壌は一名を極北府といい、奥壁以北を極北郡という。郡とは一番大きな地理区分で行政の区域である。その郡府が皆壌であるためだ。馬はその長官でその役職を郡守という。郡の下に県があるが皆壌府はこの地域の県庁もかねていた。ほかの県では中央から派遣された県令が行政の長の担当だが、ここでは郡守がいるため、その補佐としての役職として吏長と呼ばれる地方の現地人から登用された役人が県令の変わりに働き、丞とよばれる副郡守とともに郡守の補佐をする。特に極と付く群は関外と呼ばれる嵩文化の外の土地であるから、吏員の活用は重要な事だった。
さて、府中でやくざ者と狄鏢の抗争が激化していると目の前の吏員は告げた。
「この時期にか?」
馬は憤然としていった。前任者からの引継ぎで今年のこの時期に何が起こるかをしつこく聞かされていた彼にとってみれば最悪な気分だった。これはこの土地が嵩の版図に入って以来の言い伝えでもあった。それはティキ族との約束のことだ。皆壌は本来ティキの土地だ。分かりやすく言うなら聖地であるといっていい。しかし、その土地はよそ者に牛耳られて久しい。それでも、彼らが大規模な抵抗を試みたことはほとんどない。その裏にこの聖地での儀式の確約というものがあった。これはそんなもののうちの一つだった。ただし、この儀式がほかと違うのは、生きて二度見る人間というのはいないと言われていることだ。間隔が長いのだ。しかし、重要な祭りだ。マルドバシュ帝国が滅亡した年にもこれが行われるはずであったのだそうだが、マードゥ人たちはそれを許さなかった。その結果、神の怒りをかい滅んだという伝説があるが実際のところはどうなのだろう。少なくとも、馬は信じていなかった。この時に起こった戦いで対帝国側にティキ族が加担しており、祭祀を行わせなかったことで反旗を翻したのが原因だったと思っている。現に記録として残っている――狄ノ馬土ニ対シテ起ツ事、甚ダシ。馬土ノ狄ニ約スル処ヲ違エンガ為ナリ――と。そして、今もその性向は変わっていないことはこの職についてから幾度もティキの指導者たちと話す機会を持って分かっている。ならば、そうして反乱を未然に防ぎ、円滑に都城の管理を行うことこそ使命だと考えているのだった。そんな折に悶着がある。それもティキがその問題の渦中にいる。どういうことなのか問いただしたい気分だった。
「は、それがティキどもとなにやら事を構えた連中がいるようでして……」
「なおのこと聞き捨てならんではないか!! 騒動を抱えたままではまずいぞ。なにせ約束の場所は庁内にあるのだからな 」
それから「しかし、なんだなぁ、貴様もティキの出自だし、県令も確かそうであったろう? ども(・・)などという物言いはよろしくなかろうが 」
目の前の下級吏員に苛立ちをぶつけつつ暫く考えた。一つ話をしてみぬわけにはいかなそうだと早速会談の用意をさせることにした。仕事には忠実な男だった。それが誇りであったし、清廉であることをよしとして、それを買われて上司に引き立てれらたがそれが元でこんな辺境にくることになったのだった。そもそも、野心家というほどでもなく、さらに言えば、まあまあ優秀ではあったが群を抜いているわけでもない。運悪く派閥争いに巻き込まれて、こんなところまで来たのだ。だが、そんな彼がここに赴任して、いろいろの引継ぎを済ませた頃に一つの興味がわいていた。この土地が表面は嵩になっていても、少し表を剥げば広がっているのは別の世界だった。また、過去を見るともっと違う。そんなことを感じながら、現地登用の吏員や各部族の族長などに会い、さまざまな話を聞くにおよび、いつしか皆壌の記録を残す事を考えるようになった。彼に仕事とは別の使命を与えた土地、それがまさにこの北の天地であった。そのことが今まで以上に仕事のやりがいを与えていた。さればこそ、この度の儀式の様相をしかと記憶せんと思いを馳せ、その為にも万事協力は惜しまない覚悟であった。
数日後、ティキ族の大老たちとの会談が持たれた。内容はこれから起こるであろう事の申告をせよというものと、現在、街に蔓延る不穏な気色についての事だった。祭りの期間中は多くのティキ族がここへ向けてやってくる。街の外、特に遊牧ティキと呼ばれる、昔ながらの生活を営む部族が西方の荒野から大挙して寄せてくる。もっとも、ティキ族としての総数から言えば彼らはずいぶん少数なのだが、しかしそれにつれて家畜どもも群れとなってやってくるのだ。それが街に入るのだというからとんでもないことだ。はっきり言って人数は数千人を優に超える。そのすべてを受け入れきれるのだろうか? 郡守以下、官吏たちは以降この事態の対処に忙殺されることになった。朝廷に上申して特別の対策を立ててもらうことも検討され、受け入れには万全の体制が立てられた。ひとえに馬ニ元の尽力あっての事といえる。ティキ長老もいたく感激していた。県の常備軍は混乱収集のための使命を与えられた。もちろん街の警察機構とも言うべき都尉も東奔西走の有様であったことは言うまでもない。城下の騒ぎについては目下のところ、狄鏢で問題解決に当たり、お上の力を借りる必要はない、と強く訴えられたために無用の争いを起こさぬためにも、また余剰人員を裂くほどの余力のなさからもティキ族の領分となった。また、監査役として数人の若者をティキ側に置くことを決めた。もっともこれは建前上のものであるといって差し支えない。なぜならなにがしか起こっても、たった数人の文官に何ができようはずもない。そして、これが大事なことなのだが、祭りの様子や経過、その他記録できることはすべて記録するべし、というのが馬の彼らに与えた使命だった。本当は馬自信が記録者となり、この目で見て触れてみたかったのだが、職務上それができない以上、それを託すに足る人間を送り込むというのが彼の考えだった。この数百年に一度の大祭を逃してはならないと思ったのだ。
そして、今なお強固に保たれるティキ族の精神の中心を捕らえ、後世に書として残すことこそ、この拡大していく嵩に飲み込まれる縁辺に送られた自らの命であると確信していた。そして、彼は自分の職務に改めて張り切るのだった。これより後の世に希代の旅行家、民族誌家として名を成す男の第一歩は実はこの時に始まったのだが、彼の著作が世に知れるのはずっと先のことである。
○ ○
計画の進行中に湘阮は不可解な感覚に襲われた。なぜだか分からないが上手く近づけない場所があるのを見つけたのだった。最初は些細な違和感だった。狄鏢が街を知り尽くしているように、といっても、今回の彼らの隠れ場所のようなこともあるのだが、ニ黒幣の側でも街の細かな情報を集めてまとめることを怠っていたわけではない。なのにどうしてだか報告が抜け落ちている場所があった。まったくないわけではないが、なぜだか話が食い違った。妙な予感がしたので一人赴いてみると、行けども行けども道が絶えず、気がつけば元の場所に戻るのである。そこはある時は壁であり、ある時はくねくねと曲がる曲がり角、またある時はまるで何もないかのような空き地でありさえした。それが何か強烈な暗示でもって、昔からそうであるような風に思い込まされる。またはまったく初めての場所に来たと錯覚させられてしまい、逆に違和感を与えないのだった。そして、気がつけば元の場所にいた。もとより人のあまり用のない一角であるのは確かで、たまたま、話をまとめて受け取った湘阮が、これまた、たまたま道術の類、実際には嵩のものの源とおなじそれから枝分かれした術、をよく知る者だからこそわかり得たのだ。
湘阮が指の股から遠目にゆっくり観察してみるとうっすらと霧のかかった一帯が見えた。その奥の様子はちょっと見て取れそうもない。古より伝わる技を習得し、ついに得た不老長生の術によって二百歳に手が届こうかという湘阮を持ってして見破ることのできない隠れ家がある。それはとりもなおさず強大な障害になりうる存在であると言下に告げている。いつも浮かべている笑みもどこへやら、歯噛みして悔しがった。しかし、藪をつついて蛇を出すようなまねはしなかった。わずかに偵察の使鬼を作り上げ、遠巻きに待機させると自らの棲家へと帰っていった。
そして、この時の湘阮は気がついていないのだが、事の発端となった周閨が傷つき倒れて迷い込んだ場所こそ、この霧の包む怪しげな一角であったのだ。
そして、この館にいるのは周閨だけかと言えばそうではなかった。この館の主人こそはとある高名な道士の成れの果てであり、古い言い伝えに出てくる魔人だった。もはや地仙といっていいその彼の名は曹懐と言った。
彼はここ百年ほどはその身を隠しながらも(もっとも、人前に頻繁に現れる仙人などあまり類例もないが)自らの探求を止めなかった。根っからの修行者というべき男であった。湘阮が古の魔物とでも言える存在ならば、彼は常に最先端と言えた。自らの技術によって自らの理想を追い求めて先を行く者。その理想は永年月を経て形を変えた。一言で言えば妄執というやつだろう。“憑りついた妄想 ”追いかけた理想はしかし、いつしか彼の目を眩ませ、高邁だったはずの修行はやがて彼を何かの歯車のようにしていったのだ。彼は自由にして不自由。すでに本来の名も忘れられ、ここに落ち着いた理由も技を求める以外にない。そして、その技に生かされているという点で二人の魔物は同類だった。
さて、とうに正気を失った曹懐だったが、その嗅覚だけで、自らの目的のために必要なものをここに発見した。それがある“英雄の遺体 ”だった。彼の既に術は古に迫り、長生を得ること久しく、正しき技を持って高みに上りついたその時の姿で、長く生きながらえていた。彼の目的はほぼ達成されて最終段階に入っていた。すでに、彼の情熱の作品はついに城下でその威力を誇る時を得ていた。だが、それはあくまで試作に過ぎなかった。その最後の作品の素材が、蛮族の手によってこの街に運ばれようとしていた。そのことを知るものはわずかにただ二人だった。
街は長雨とその間に現れた俄か晴れの陽光によって緑の輝きを得て確実に生まれ変わろうとしている。
二人の魔物の邂逅は未だ果たされず、しかし、連日降り続いた雨のように、また地を流れる水の作る渦のように、運命は、あるいは大きくあるいは小さく、あるいは長い時間をかけて、あるいは驚くほどに短く、さまざまな道筋を経てその中心に向かって収束し始めていた。
○ ○
栄啓は困惑を感じている。目の前の女に対してだ。彼女との初めての出会いを果たした僅かに二日後の事だ。再会は早かった。彼は再び忍び込み、そして無意識に探していた。
息を殺し、足音を忍ばせての二度目の潜入はしかし、一度目のそれとはが違っていた。どうしたわけだか、中の印象がまったくもって違うものに変質していた。感覚が狂い道も前とは違う気がした。それもそのはず、湘阮の不思議の術がここにしかれていたのだから。まるで眩暈を起こさせるような気配の中で、栄啓は頭の中に入れたはずの地図を何度も紐解き、神経を研ぎ澄ましながらあるいた。探すものは一つ。あの時の女だった。そんな時だった。
“あの女だ ”
彼は一つの気配を掴んだ。妙な執着心がずっと芽生えていた。それはこの地下にもぐりこんでからさらに強くなっていった。そして、その執着は彼の中の暴力性と嗜虐性に結びつき彼に新たな力を与えていた。いや、与えつつあったと言おうか。なんだか妙に鼻が利くのだった。それは今まで窮地を脱し、あるいは獲物を探り当ててきた第六感のその先にあたる。霊妙といっても良いだろう嗅覚は、あの時すれ違いざまに感じた匂いを捕らえた。この北の狼は確かに育っていた。人間としても戦士としても……
再びの邂逅は何を意味するのだろうか? 彼には理解できなかった。では、彼女には? 彼女は頚木を見ていた。自らの首に括られた縄がある。それがこの男を通して理解できた。男は圧倒的に自由な何かを持っていた。それこそ、敵地のこんな奥に踏み入り、単独荒らしまわるこの大胆さを見れば解る。 だのに、その首には何かが絡み付いているように思えた。連日感じていた妙な高揚感が霧のように消えていた。彼の首に有る縄、それよりも太いものが自分の首にも付いている。そして、私はこの男ほど強くも自由でもないのに。悔しさと危機感が滲んで手が熱を帯びてくる。
男は困惑している。先に述べたとおり困惑していたのだ。前回はただ怯えるばかりだった女がこちらを正面から見据えていた。そして、何より再び会ってどうしようというのかまったく見当もついていなかったからだ。
「貴様、名は?」
栄啓はかろうじて問うた。女は名を答える代わりに帯を解いた。栄啓はその瞬間三歩後ずさった。別に男女の事に弱い訳ではなかった。その時の李如に女の匂いを感じたわけではなかった。また、元来ティキは性におおらかでもあった。だから、飛び退ったのはそういうことではない。李如は帯を解いたのではなく、抜剣していたのだ。瞬間三歩を動く早業が命を救った。その動きが帰って栄啓を落ち着けた。その怜悧な秋水が空に泳ぎ、そして止まった。まるで鎌首をもたげた蛇のように。二人とも表情は微動だにしていない。当然、李如は勝つつもりで剣を振るったのではない。傷つける気がまったくなかった訳ではなかったが半ば試すに近い。
「獣かと思えば少年のようで、少年かと思えば獣ね 」
言下に言い放つ、寄るなと。
「問えば答えると思っているとは自惚れの強いこと……名乗りも上げぬとは無礼ですね 」
にんまりと笑った。
「思ったよりもできるのだな 」
外に音を漏らさない独特のしゃべり方で告げる。
「よそでならいざ知れず、こんなところで自ら名乗ってみせる道理もあるまい 」
喜びで声が弾んでいた。幸い場所は彼女の部屋。扉は閉まり、その内側は覗かれる恐れもない。話すのに支障はない。そんなことを考える自分が滑稽だと栄啓は思った。そして、どうしてだ?と。もっと意外な言葉がその口から出る。
「俺と来い。ここは潰す。そうしなければ貴様は殺す事になる 」
話す言葉に嘘はなかった。内心は動揺していなかったといえば嘘になる。自分の言葉と行動をかみ締める時間が必要であるのは疑いがなかった。ずれた何かを探している。それは相手も同じかもしれない。
彼女は組織を裏切る準備を始めている。“どこかがおかしい ”と気がついていた。ならばこの男についてみるのも面白いかもしれない。
そう、ここから出るのだ。
契機は向こうからやってきた。後はどうするか? 彼女は黙っていた。彼がどうしたいのか図りかねたところもある。
「待つのは五日後までだ 」
栄啓は少しつまり気味にそう言った。
彼が去った後、彼女は自分の持ち物はすべて壊した。後に残ったのは無残な残骸だけ、騒がしさは一種の癇癪だと思われた。その気晴らしに外に出たと。いつもの寵童たちはいなかった。しかし、供の子供たちを連れずに出たことを疑問に思う者はそこにはいなかった。部下の一人が、瓦礫の山に入り、そこに散らばった幾つもの小さな手足を見て、彼女が二度と帰って来ないことを知った。
それを栄啓はじっと待っていた。二人は所定の場所で落ち合った。すべては彼が用意した。彼女は新たな住処に案内され、そこでようやく二人はお互いの名を知った。その日から雌雄の獣が激しく求め合うのだった。
そして、李如の脱走は湘阮の自信に微かな傷を与えたのだった。今まで自分の術にはまり込んでいた人間、それも心得の無い者が逃げ切るなどありえなかったからだ。それは意識できないほどに細やかなひび割れだったし、ただ彼には今そんなことを感じるなぞ許されなかった。だが、確実な変容が彼を犯していた。自らに術と共に刻まれた怨念、力におぼれた傲慢な術の底の底に残っていた古い一族の怨念が彼のひび割れをさらに蝕んでいた。




