第九章
クトウたちは緊張していた。今回の荷は街を通すわけにはいかない代物だった。公然と運ぶにはいささか問題があった。秘密裏に運ぶのが約定だったのだ。また、用心のため、夜には手入れが欠かせない。街の中でそんなことをするわけにはいかないのだ。そのために、奥壁を通ることができない。そこで、どうにかしてあの高峰を抜ける道を探さなくてはならない。そして、それについてティキ族には秘密の手段があった。
「ここが、例の……」
目の前には蔦に覆われた深い亀裂があり、破れた丸太の扉がそびえている。時折、不気味な風が吹きつけてそのはるか向こう側がどこかにつながって開いているのを感じさせた。そこは深い森を抜けた奥壁山脈の西方にあった。そこまでの道などもちろん道などないに等しい。はるかな昔そこは勇者の道と呼ばれていた。試練の場所だったのだ。今ではそんな伝統など遠くに過ぎ去り、ただ場所とその道中の地図が言い伝えとして形式のみ残っているのだった。奥壁は北方世界と嵩の壁だ。その内部にこのようなものが存在するのを知っているのはごく限られた人々だけだ。その少ない者の中に狄鏢の年長組以上の人間たちは存在していた。彼らは組み入りするとこの話を聞かされる。それ以前の入局の試練が実は遥か昔の勇者の試練の代価物であり、これからもそれをなぞらえた儀式が行われるのを知るのもその時である。だから、一応年配の虎魁と包突の二人はそれほど問題なくこの道を通り抜けられるだろう。ただし、この抜け穴自体使われなくなって久しく、一体言い伝え通りに道が続いているのかの確証は持てない。ともかくも、ほかに可能性が高そうな道がない以上、ここを進むしかない。はっきり言って棺を引きながら山に登ることは無理だった。
「行くぞ、中に入ったら明かりは一つを順番に使うんだ。食料も気をつけろよ。迷ったら最後出られる保証はない。明かりから離れるなよ 」
虎魁は言った。みながうなずく。そして、荷の確認をすると、破れた扉を片付けて虎魁が先頭を進んでいった。続いて、俄かにおびえて進もうとしない馬たちを黄たちがなだめてしぶしぶ動き始める。特殊な訓練を受けた馬らしく嫌がりながらも黄たちの言うことに従っていく。その後を二頭の馬に引かせた棺が続き、そして、その棺を囲むように耶尭申、玄、兎朴、庚楊の四人が、その後ろにクトウがつき、しんがりに包突がついた。このまま何事もなければ抜けるのに二日といったところだ。実際にかかる時間は奥壁を通るよりも若干早いくらいだと伝えられている。
入り口は蔦によって隠され、扉によって閉ざされていたが、中に入ってみれば細い亀裂が谷間のように続く。入り口付近は三角錘状になっており底辺に当たる部分は幅も広く比較的平坦で進みやすい。さらさらとした砂が床を薄く埋めて、朽ちた木製の遺構がそこら辺に転がっていた。細く差し込む光を浴びて植物が芽吹いているものもあった。まるで社の参道のような錯覚を覚え、入り口の不気味さとは打って変わった雰囲気だった。そこは、往路の試練を終えて戦士が祝福される場所であった。ここで力を整えて再びもとの世界に帰還するのだ。一行は復路の道を行く事になる。若干緊張がほぐれた一行は、はるか昔、ここに到達した者のことに思いを馳せずにはいられなかった。
暫く行くと亀裂が繋がり、光が届かなくなった。その先から急に道幅が狭くなり天井は見る見る低くなっていく。迫ってくる岩の壁は、だんだん光が届かなくなって周りが見えなくなっていくのにあいまって、もしかするとこのまま押しつぶされてしまうのではないか? という、不安を呼び起こす圧迫感があった。ここから、線香に荷火をつけ虎魁、玄、耶尭申の三人が持つ。徐々に湿り気を感じるようになり、これから奥壁という巨大な岩塊の中にはいっていくのだと嫌でも意識させられた。
幸い救いだったのは人が這って進まねばならぬ程の狭さになる様子はなく、連れている馬は人の背丈よりも小柄な奥壁馬である点だった。すでにもう並んで歩けるような広さはなくなって、一列になって進んでいたが、馬は何か観念したように大人しく黙々と荷を運んでいる。もしここで馬が耐え切れなくなって暴れだせば大変なことになるだろうが、その心配はなさそうだった。この狭い天然の回廊が、ほどなく切れることを虎魁と包突の話から知ってはいたので人間たちは沸きあがる不安を堪えて、ただ前に進んでいた。年長の二人はそれこそ一人前になって以来、折に触れて聞かされてある程度の心得を知っていたのでそれを繰り返し思い出して心を落ち着けた。
この狭い道は往路ではその入り口が見つからない。なぜなら、ここに繋がる場所は大きく開かれた場所で、複雑な岩の柱とひだがその周りに並び立ち、入り口を隠しているのだ。それが往路の試練である。復路では地下の暗さと恐ろしさを再び思い起こさせ、閉じ込められる絶望感とそれに向かっていく勇気が試される場所だった。明かりのために用意した松明にはまだ火を点けない。一直線の道であるから大げさな明かりは点けないことにして、線香のか細い火だけでものを見ることにしたのだった。みな夜目が利くのでそれほど困ることもなかった。そして、ふと、音がまったくなくなったような静寂が訪れた。“来た ”虎魁と包突は思った。ぬめっとした何者かの気配がすぐ背後に感ぜられた。
「今から起きる事は気にするなよ! それは気のせいだ。気にすると心を持っていかれるぞ!!」
先頭を行く虎魁が後ろに向かって叫んだ。その叫びは、これだけ狭い空間にもかかわらず、どこか虚ろなものに飲み込まれてしまったかのように消えていっきか細くみなの耳を掠めただけだった。ある者はぎゅっと全身を摑まれる様な感触がして息が詰まりそうになった。ある者は首筋に荒い吐息の生暖かさを感じた。またある者はまるで足元が抜け落ち、空中に放り出されているかのごとく錯覚した。馬の不安げな嘶きが聞こえる。馬の轡を引いていた黄と白はとても馬のほうを振り向ける状態ではなかったが、馬を不安がらせないように力強く手綱を握った。みな耳には何も聞こえず、目もあいているのかわからなくなりそうだった。ただ、ここから逃げたい感覚だけが増してくる。修行を積んだものたちは心を平静にするよう勤めて進めばよかったが、そうでないものはただひたすらに虎魁の言葉を信じるよりほかはなかった。中でも、耶尭申はもはや天地すら定まらなくなっていた。ただただ、足を動かせと念じるばかりである。冷や汗とめまいの中で気が焦って気分がうわずってくる。胃が吐き出されそうなほど圧迫されている。もはや宇宙に自分ひとり以外いないかのような錯覚が沸き起こり、永久に地中深くうずめられるような気がした。恐怖に悲鳴を上げそうになるのを堪えているつもりだったが、本当に堪えられているのかは自分でもわからなかった。
この中で比較的影響の軽微なものはクトウ、包突、虎魁に玄だった。彼らはこれに似た感覚を何度か味わっていた。クトウ以外の者は年齢からくる余裕というものもあったのかもしれない。そういう意味で、若年なうえにのんびりと田舎貴族で過ごしてきた耶尭申にはこの上ない試練だった。耶尭申にとって運がよかったのはすぐ後ろを歩いていたのが玄だったからだ。玄は重い傷を追っているにもかかわらず、みなについて旅を続けられる程の男だったし、体を嘗め回すようないやらしい気配の中でもきちんと自分を捕らえていたばかりか、周囲の気配にもうっすら意識が行き始めていた。まさに目前で上を向き下を向き、もがくように手を伸ばしながらじりじり歩みの遅れて行く耶尭申の姿が目に入ってくる。これはいけないと近づき、何も言わずに残された腕で耶尭申を抱きとめた。しばらく、ゆっくりと歩を進めながら、突然の感覚に暴れる耶尭申と呼吸を合わせると耳元で落ち着け落ち着けと繰り返しつぶやいた。そのなだめるかのような口調と呼吸によって徐々に感覚を取り戻し、耶尭申の混乱と恐怖は少しずつ薄れていくのだった。玄は最後に指で腹を圧迫して耶尭申の呼吸を吐き出させきると、それから怖いものは何もない事を諭して、耶尭申に大きく息を吸わせた。耶尭申はその呼吸と同時に冷静さを取り戻していくのだった。
「大丈夫だ、大丈夫 」
そう言いながら玄はいまだに震える耶尭申の胸をなでる。それから“もう大丈夫 ”ともう一度付け加えてゆっくりと離れた。まだ少しの不安が耶尭申の中にあったが、それはもう一人で乗り越えられるくらいの矮小なものに過ぎなかった。気がついてみればあの恐ろしい圧迫やめまい(・・・)など、自分の気のせいに過ぎないのがわかったからだ。そして、自分の周りには自分を支えてくれる人もいるのだとも思った。虎魁の離れるなよという声が聞こえて、不意に周囲からボコッと壁の圧迫感が消えた。最初の小道を抜けたのだった。
そこはまさに吸い込まれるような闇だった。わずかに空気が流れて渦を巻いていた。どこか遠くで水の滴る音が聞こえている。みなさっきまでの圧迫から解放されて知らずに笑みが浮かんでいた。どうも馬がだいぶ参っていたようで、滝のような汗を流している。ひとまず馬も人も一息つこうということで、いったん休憩する事となった。
話し声や物音がはるか遠くまでこだましている。だいぶどころか、とほうもなく広い空間のようであった。庚楊が線香を見てみるとまだ半日も過ぎてはいなかった。さっきまでのあの場所は本当に短かったのだ。心得のある者はすぐさま意識を落ち着けて体を緩めて休息していた。そして、黄と白は馬の体を拭いたり、馬になにやら不思議な草を与えたりしていた。馬に与えた草ははどうも特殊な作用があるらしく、馬の目はどこかとろんとしたようになって、心なしか落ち着いて、より従順になっていた。もしも、馬が動転してここでどこかに走り去ってしまったりしては一大事だから、この処置をすばやく行ったのはさすがだった。そして、ここはあまりに広く、先ほどまでと違い、おおい迷う可能性があるため、そろそろ明かりを点けようと虎魁は言った。みな反対する理由もないので松明にゆっくりと火を点した。ポツリと明かりが灯ると、一瞬ゆらゆらと火が揺れて辺りがぼんやりと浮かび上がった。辺りに無数の影が伸び、ちろちろとした橙色の明かりが、そこらじゅうに乱立する岩の林の肌を舐める様に照らし出した。そして、その隙間に先ほどの闇と同質の空間が、まるで獣の牙のように並んでいた。明かりのせいで突如できた濃淡はまるでモザイク画を見ているようにも見える。まさに幻惑されそうな美しくも恐ろしい世界だった。
庚楊がぼんやり闇を眺めていると、横で包突が言った。
「あまりそちらを見るものじゃないぞ。連れて行かれて帰って来られなく 」
そういってにやりと笑った包突は心なしかとても機嫌がよさそうだった。ふいっとまた顔をそむけたかと思うと再び振り返ってにやりと笑いなおした。その笑顔に庚楊はゾッとした。なにか人間離れしたものを感じたからだった。
ここは迷いの世界だった。要求されることは知と暗闇を静かに睨む目だった。その両方ともがある深い洞察力、つまり流れを見る力のことであった。誰もが本来持っているべき、命の強い繋がりを深く感じる力だった。これが中々曲者で第六感的なそれに起因した静かで深いものの感じ方はみなどこかに備えていてもそれを会得するのは簡単ではなかった。そして、その命の完成の鈍いものにはこの地下の試練は偉大な迷宮として彼らを帰してはくれないのだった。しかし、もし流れを見る力を備えたものならば、ここは道しるべを与えられた通路に過ぎないのだった。もちろん罠がないわけではなかった。その力があるからこそ、この地底で出会う化け物がいたからだ。おなじ命の匂いを嗅ぎ分けて寄ってくる魔物である。この地の底にある冥界は、地下の世界に深くかかわる夜の呪術者である包突にとって馴染み深い匂いのする場所であった。地下に祈る彼にとって、今この場所は超人的な力を得られるといって過言ではなかった。そして彼はそれと同時にこの世界に潜む魔物の正体に気がつき始めていた。石の林の影から手を伸ばすものたちは常に人を迷いに誘おうとしている。そんな小物とは比較にならない何かがあの遥か奥にいて油断と慢心につけこんで自分のとりこにしようと待ち構えているのだ。力は彼の嗜好に地割と漬け込んで変な高揚感を覚えさせるのだった。
そんな闇の世界に近寄っていこうとする包突を見て庚楊が不気味に感じたのも無理からぬ事だった。彼はつまりこの暗い冥界に没入してその一因のように笑ったのだ。そしてあるいは闇を眺めていた庚楊に包突が声をかけたのは彼にもその才能が若干はあるのかもしれない。
「はぐれるなよ! 決して一人になるな!、常に明かりを持つ者をめざして、回りの人を確認しろ。もし明かりから遠ざかったらば、すぐに声を出して知らせろ。すぐに見つけてやるから 」
包突は出発する前にみなに確認した。明かりは包突が持つことに決まったからだ。ここから次までは彼が先頭を行くのだ。各々がそれとは別にいざという時の明かりを携えたのを確認すると、一行は深い闇に静々と進んでいく。その様子はこの広い地下の迷宮から見るとまるで一匹の蛍が迷い込んだように見えた。
包突の動きはまるですべてを知っているように果断で力強く、ついていく者に安心感を与えた。複雑な地形の道を右に折れ左に折れして、時に段差を超え、時に立ち止まり、それからみなを休ませて自分は明かりもなしに斥候にでた。まるで上から一行を見ているようにしんがりの者までしっかり把握して、怪しげなことがあれば声を上げ、疲れた者には檄を飛ばした。
その道のりは決して楽なものではなかったが、絶対に迷ってはいないとみんな心を強くした。しかし、時折、庚楊がぼんやりと後ろに広がる闇を見つめては遅れがちになった。包突はその度に立ち止まり、庚楊に呼びかけなければならなかった。
「しかし、ここは深いな。今は山のどの辺りなのだろうか?」
青が誰に言うともなくつぶやくとそれを背中に受けて兎朴が答えた。
「どこなのかなんて見当もつかないよ。ただ確かに恐ろしいほど深いところだろうさ。前の道のような息の詰まる感じじゃないけれどさ 」
当然といったふうだった。青と兎朴や庚楊は歳が意外に近いことがわかり、この旅の間に比較的よく話をするようになっていた。もちろん、この三人が日ごろ鍛えられていたから、この状況でもしゃべる元気があるという頼もしさとそのことから来る共感も原因だった。それに引き換え耶尭申も年は近いが、すっかり参ってしまっていて会話どころではなかったし、どこか足手まといになっているのではないかという負い目を感じて萎縮していた。ただ、そんな彼もこの険しい道のりになんとかついていけた。不思議なことに黙々と歩き続けるうちに、歩行のリズムがみなに元気を与えていた。
一見、まるで変わり映えがしないような地下の林も慣れるにつれて、刻々とその姿を変えていることに気がつきはじめ、そうこうしているうちに、さわさわと水音が近くに聞こえ始めた。ふっと鼻を水の匂いが掠めた。一行はここにやってきてから始めて自分たち以外に動くものを目にした。川幅はさほどでもなくて向こう岸まではおおよそ十歩程度だったが、水の流れは思ったよりも速く水底は見えず、明かりを掲げてみれば所々白く角を立てていた。この川を見て歩きはじめてから包突が初めて困惑したような表情を見せたが一瞬だったので玄以外は気がつかなかった。玄はうすうすここの秘密に気がつき始めていた。彼もまた呪術師の領分に片足を入れた男だったのでなんとなくは気がついていたが、この川を見て、また包突の表情の変化を見てそのことに気がついたのだ。
――川は象徴だ。
それはさらに深く根の国へと降りていくことを知らせる境界であり、つまりあちら側がより濃厚な人ならざるもの、死者と精霊と地祇の世界だと知らせてくれるものだった。人間はそこでは陸に揚がった魚のようなものでひどく体力を消耗し、いったん消耗すると自然には回復しない。包突の表情に迷いはなかった。この川を渡らなければならないのだ。包突はみなに休憩を呼びかけたあと、暫く上流下流を見て、近くに渡れそうな所がないかを探した。上流は上手のほうで洞窟のようになっていて、しかもその穴が極めて狭く、傾斜のきつい岩壁と一体を成していてとても荷を引いてわたれるものではなかった。下流はちょっと行った程度では変わり映えがなかったが、ところどころ、川中に石の頭がのぞく場所があった。今は明かりがなくとも闇が見える包突の眼でも水深はよくわからなかった。ただ、上流のようにどうやろうとも仕方がないような様子ではなかったので暫く川沿いに下流へと向かうことになった。川沿いを川から若干離れたり川辺に下りたりを繰り返しながら進むことしばし、若干川幅が広くなってはいたが、明らかに浅瀬が続いている箇所を発見した。とりあえず、今までに渡れそうな所はなかったのでここから渡るとして考えたところで、すでに二本の線香が燃え尽き、三本目の半ばに入っていた。もうそろそろ地下に入ってから一日がたとうとしていた。一行はいったん大きな休息を取り準備して、それからもう一度、方法を考えることにした。
最後に睡眠をとった庚楊が起きると、なにやら雰囲気が変わっていた。黄、白、青らは馬の足を入念に揉み解して、棺を乗せた荷車は解体されていた。先ほど虎魁とクトウで川の中を探ってみたところ、所々に深みはあるもののおおよそ深いところで腰の辺り、浅いところは膝の下程度の深さであることがわかった。ただし川床は磨かれたように滑らかで滑りやすく注意が必要だということだった。深くなっているところは急に深くなり、そこに水が周りから流れ込むのでより危険だ。まずは虎魁が渡り、綱を向こう岸の石の柱に結び、補助を作った後に、川中の深みに虎魁、クトウ、庚楊が立ち、補助をしながら黄、白、青と兎朴が棺を担いで渡ることになった。その後、玄を解体した荷台で虎魁とクトウが担いで渡す。玄の体力を考慮してのことだった。馬は流されないように手綱を綱に結び付けて一頭ずつ黄たちが連れて行った。最後に全体の監視と指示を出していた包突が渡っておしまいだった。棺の扱いには細心の注意を要した。流してしまうのは論外だが、何がきっかけでまた暴れだすとも限らず、濡らす事も避けたかった。流れの中を慎重に一歩一歩踏みしめるようにして進み、ちょっとでもぐらつくと心臓が止まる思いであった。ともかくこの時点ではなんら問題がなく事が過ぎているように思えた。その後の作業も順調で、一度、馬が足を滑らせて、流されかけたが何とか手綱を引いて助けることができた。渡り終えるとようやくほっと一息つけた。そんな中、みなは荷の渡しに集中していたために重大な見落としをしていることに気がつくことなく旅を続けたのだった。そこは川向こうとほぼ同じ景色が続いていたが、いっそう重苦しく沈み込み、生命の匂いのしないくらい暗い場所だった。一行はそんな中を長く進み続けた。やがて、庚楊の様子がおかしいことにはじめに気がついたのは、やはり包突だった。あれからまた黙々と暗い地下を彷徨い続けることになったのだが、庚楊は青や、兎朴が話しかけてもどこか上の空で、遠くの闇を眺めている時間が多くなった。休憩中も体が休みきらないのか無理やり弱弱しい微笑を浮かべ、体を伸ばすこともできずにぐったりしている。起き上がっても足取りがふらふらし始めて、顔がわずかに紅潮していた。
そんな様子を見ながら、包突は俄かに焦っていた。もうそろそろ、ここを抜けなければいけない。抜け出さねば何の対処もできないのがこの試練の恐ろしさだった。そして遠くからかすかに聞こえる水音で、出口は確かに近くにあるということもわかってきていた。再び川を渡れば今度はもといた世界に帰れる。水音はこの道なき迷宮の試練の終わりに近づいている証拠であった。なのに“どうもよくない ”と包突の焦りは募っていた。そしてそれにつれて消耗が激しくなっていくのが分かった。今まであれほど見えていた目が閉ざされ始めていた。あたりは夕暮れのように細部がぼやけてきて、力の兆しというものが、細くつたなくしか感じられない。疲れがどっと襲ってきた。仲間を連れての旅に思ってよりも自分自身が消耗していたのだ。心を落ち着ける必要があった。
やがて、ある丘のだらだらと緩やかな登り坂を登りきったところで前方に視界が開けた。そこは左に曲るように道が続く曲がり角で前方は急激に切り取られた崖になっていた。勿論、暗闇の中のことで、みなの足元にある崖のその先は包突以外には明かりに照らされた薄暗い風景しか見えていない。しかし、包突に見えたのは急転直下の崖下に乱立する奇岩の群れの向こうに蛇行する流れが見えた。
「聞け、みんな。むこうに川の音が聞こえるだろ?この崖の先、そう遠くないところに川があるのだ。それを越えれば、この迷宮からはおさらばだ。みんな、流石に飽きてきているだろうが、あと少しの辛抱だぞ 」
にわかにみなの顔が明るくなった。そら、よく見てみろとばかりに明かりをかかげて見せる。それに促されるようにみなが崖の向こうをのぞくと確かに遠くにちらちらとうねる黒い流れがうっすらと見えた。振り返り、みな顔を見合わせて、安堵の表情を浮かべた。
――その時だ。
庚楊が笑顔のまま顔をひどく紅潮させて仰向けに倒れた。口からは泡を吹き、体は陸に揚げられた魚のように跳ねている。
「はははははははは……!!」
そして、その口から泡とともに吹き出された、大音声の笑い声に一同があっけにとられているうちに、まるで獣のように身を翻し、一個の矢のごとくはじけだした。とっさにその目的に気がついた虎魁は杖をかざして庚楊の進む先に踊りだした。ガツンとものすごい音がして杖がたたき折れて、屈強で鳴らした虎魁があとずさった。反動で相手は跳ね返るように身を翻すと一行から距離をとった。庚楊は一直線に棺を狙っていた。
「なぜそいつを連れて行く? それは死者だ。黄泉の仲間だ 」
吠えたその声は人とは違う響きをもって空洞にこだました。真っ赤に茹で上がったような顔が暗闇の中に浮き上がっていた。再び跳躍するとまるでリスのように飛び回り、素早く棺に迫る。その瞬間、信じられないような速さで包突が動いた。あとわずか棺に手がかかろうという庚楊を羽交い絞めに引き倒すと口に何かを含ませようとした。しかし、庚楊は包突を跳ね飛ばし崖際に立った。そして大きく息を吸うと、高笑いをあげ、頭からのけぞるように崖下へと墜落していった。あっという間の出来事で、誰一人制止する事が出来なかった。兎朴がガックリと肩を落とし、抜け殻のような顔でへたり込んだ。
「あいつはまた来る。まだ死んではいない 」
包突が荒い息を整えながら言った。それから、兎朴の肩を叩き、
「次に来たら捕まえる、そしたら俺がもとに戻してやる 」
そういうと、みなに出発の号令をかけた。仲間が唐突に消えても悲しむ時間は無かった。今は進まねばならない。このままここにいては、みんな、ああなってしまうかもしれない。後ろ髪を惹かれるような思いを噛み殺しながら、その場を離れた。一件以来どうにも重苦しい沈黙が帳のように心に垂れ込めていた。しかし、一行の思いとは裏腹に、もはや、一刻の猶予もならない。強行軍で進んだ。重い足取りを無理に元気付けるように早足で進み続けたのだった。進みに進む中で、みなはいったん仲間のことを頭の片隅に追いやったのだった。そうしないと暗闇の中から何かが這い出してきて、連れて行かれそうな思いが彼らを蝕んでいた。それが庚楊が彼らに与えたものであり、奪ったものだった。やがて、皆、疲労の度合いも甚だしく、黙りこくって、棺を守るように並んで歩いた。武器を手に持って、短く激しく息をつきながら。やがて、再び流れの匂いがして空気に湿り気が感ぜられるようになると、それを元気に変え進む。渡河地点にたどり着いた時、皆汗みずくで目は血走っていた。肩で息つきながら歓声が上がった。緩やかに広がる流れが流れている。前回の流れと違い、川幅は広く、流れには表立った激しさは無いものの何度か危うく流されかけるほどに力強かった。また、深さは深いところでは大人の胸ほどもある。大河というほどではないが、十分に難所と言えるだろう。前と同じく虎魁とクトウが流れを探った。今度はお互いに相手の綱を腰に巻き、交互に歩を進める。勿論、岸からも命綱を張ってはいる。岸辺では包突と兎朴、黄が守りを固めた。残りの者は渡河の準備を担当した。事は慎重に進められた。みなそれぞれに緊張しながら各々の作業を行った。冷たい水の流れは触れる度に体から命を洗い流して行ってしまうように黒々とした彼方へと消えていき、とりわけ水に浸かっていた二人に挑みかかるのだった。
やがて虎魁らがちょうど川を渡りきる頃、大きな笑い声を上げて灰色の影が闇の中から躍りだした。影は棺を守る人の間を滑るように駆け抜けた。みな、ただぼうっとしていた訳ではない。万全に待ち構えていたのにもかかわらず彼はあっという間に棺にせまった。
「ははははは!!! いただいて行くぞ!! 」
魔人の勝ち誇った声が響き渡った。しかし、それは間をおかない轟音にさえぎられるのだった。爆風に吹き飛ばされて、真っ赤な顔を驚きで一杯にした庚楊だったモノがドサリと地に落ちた。
「かかった!! 押さえろ!! 」
包突の号令が早いか兎朴と黄が駆け寄って押さえつけた。跳ね除けようともがく庚楊を上から押さえつけながら包突は彼の口に赤い木の実を飲み込ませた。ぐぇと低い悲鳴を上げて敵は苦しみはじめた。
「起きろ! 庚楊!! 」
馬乗りになり、胸倉を押さえつけてゆすぶりながら呼びかける。庚楊はゆすぶられるがままに体を任せ、がんがんと頭が大地を打った。口の端からなにやら赤いものが一筋垂れて出た。その瞬間、目に正気の色が戻った。
「包突さん? ここはどこだ? 苦しい、放してくれ 」
口の端をゆがませながら哀願するさまは哀れを誘ったが包突は手を緩めなかった。
「お前ではない!! 早く庚楊を出せ! 出さぬならこの体ごと河に沈めるぞ!!」
「何を言っているんだ? 助けてくれよ、ああ苦しいよ! みんなも見ていないのか?」
包突の恫喝にますます哀れっぽい声を上げ、抵抗をやめて苦悶の態で押さえつけられている。
「馬鹿め! そんな安い台詞で俺を騙せるものか! さあ、いかに死んでいようとこの河に流されたら帰ってはこれぬぞ! 」
まったく取り合おうとはしない包突に苛立っているのか、それとも本当に苦しんでいるのか定かではない様子で苦しい苦しいと呻きまわった。
「黄さん、兎朴・・・・・・ 助けてくれよ、放してくれよ 」
やがて、包突に何を言っても無駄だと思ったのか、今度は両の手足を押さえる二人に苦痛を訴え始めた。
「二人とも、正念場だぞ! 今、気を緩めては元の木阿弥だぞ 」
包突はそういって締め上げる力をいっそう強めた。しかし、兎朴の手がわずかに緩んだ。肉親の情からだった。
「馬鹿者!」
包突は叫んだが遅かった。
この行為を敵は見逃しはしなかった。
「お前は優しいやつだよ、兎朴 」
にっこり微笑みかけたが早いか、兎朴の顔めがけて血を吐きかけた。兎朴は視界を奪われ混乱していたところを一息に跳ね除けられた。庚楊は自由になった腕で包突を引き剥がし、黄を蹴り飛ばした。
「糞爺!! こいつは俺のものだ!!」
さすがにと言うべきか、相手も無傷ではなかったようだった。苦々しくゆがめられた口元がわずかに鈍った身ごなしがそれを教えてくれた。
「黄、影を縛れ!!」
怒号が響き、それに反応して黄は針を投げて大地と松明でできた庚楊の長い影を縫いとめた。
「ご先祖様、我に力を……」
包突は小鹿のように跳ねあがり、太鼓を打ちながら祈りをささげるのだった。
「うぬ!?」
影が縛られて足元の動かない庚楊は怒りもあらわに松明をにらみつけた。あれさえ消えれば影は消えて自由になるのだ。咄嗟に手首を噛み千切るとその吹き出した血で松明を消してしまった。明かりが消えると戒めはは速やかに解かれ、庚楊は悪態をつきながら去っていった。彼は逃げるしかなった。棺はすでに今の彼に触れられないように戒められていたのだ。
「畜生!!」
包突が怒鳴った。松明を新たに点けなおすと兎朴を片手でもち上げて一通りのののしり言葉を吐き捨てた。そして水の中を進む二人がこちらに帰ってきたのを確認してからこう言った。「ああなりたくなかったらとっとと渡り終えてしまえ」それから自分は何も言わずに闇に消えてしまった。彼は庚楊を連れ戻すつもりなのだ。
自信はあった。一人ならば先ほどの呪法で力も蓄えてきたし、十分に動けた。ただし、彼にとってもここに長くいるのはいいことではなかった。いかに慣れがあろうとも、ここはやはり死者の世界であって生者のいる世界ではなかったからだ。そして、己の口に先ほどの木の実を含み、きつく噛み締めた。ピリッと刺激が舌を刺す。それから、辺りの匂いをかいだ。血の匂いが筋を作っているのがわかる。
どこか近くに身を潜めているのだ。あれの正体がなんであれ、相手も生身の体に依った以上は、あの傷ではうまく動けないのだろう。もしかしたらあれはあの世の番人のようなものなのかもしれない。死者をこの世界から出すのは仕事がら見過ごすわけにはいかないといったところかだったのだろうか? それにしては少し手荒かった。
後を追いかけるうちに、包突は気がつけば石柱の林の中に身をおいていた。あちこちから血の匂いと落ち着かない気配がする。どうも誘い込まれたようだった。いったんそれが分かると、背後が気になってくる。あちこちから絡みつくような感触が不気味だったが一本の石柱を背にし、落ち着いて杖を構えた。時折、からからと石を蹴立てるような音が聞こえ、大き目の砂利ほどの小石の礫が四方から飛んでくる。相手はどうやってか今の包突にも見えぬように移動しているようだ。しかし、積極的に打って出ても来なければ逃げ出しもしない。ただ、包突の周りをパタパタと移動しているだけだった。
「貴様、なぜ逃げない? あきらめているのか?」
包突の呼び声に答える声はない。ただ、あいも変わらずぱらぱらと礫が振ってくるだけだ。こんなにらめっこを続けるわけには行かなかった。このまま時間が経てば庚楊は死んでしまう。包突はまた木の実を口に入れて噛み潰した。それから、それを掌に吐き出し、杖に擦り付けた。ひょいひょいと動く相手の気配に見当をつけてその杖を投げつけるとカランと乾いた音がなり、それと同時に悲鳴が聞こえた。包突はゆっくりと慎重に杖を投げた方向に向かった。杖の転がっている石柱の根元に芋虫のように庚楊が転がっていた。手首は止血した形跡があったが、手足は捻じ曲がりちぐはぐな方向を向いていた。その庚楊がうつぶせの体で首だけをこちらに向けて、憮然とした眼差しでこちらをねめつけていた。
「貴様、なぜ邪魔をした 」
それは恨みがましく響いた。
「貴様こそ、なぜ邪魔をした。それになぜ逃げなかったのだ?」
包突は聞き返した。それは、考えるより前に浮かんだ疑問だった。
「体のせいだ 」
縛られていたのだと答えた。そうは思えなかった。捨てようと思えば体など捨てられたはずだ。
「違う 」
この体だけではないと告げる。そして、視線で示したところに一体の白骨が散らばっていた。それはかつて試練を受けたであろうティキ族の戦士の骨だった。よく見てみればすっかり灰色の砂に覆われてしまっていてまるでこの世界に解けてしまったようになった遺品も散らばっていた。
「俺は待っていた。長い間ずっと―― 」
しかし誰も来なかったのだ。それもそのはずだ。もうすでにこの道は閉ざされていた。待っても待っても人が来る事はなかった。かといって、冥府の奥深くに進むこともできなかった。すでに道を見失ってここで倒れたのだ。この迷宮から出ることはできなかった。行くことも帰ることもかなわずに、この暗闇を影になって長く彷徨う間に、体が朽ち果て、ただの骸骨になっていくのを見た。それでもこれが鎖のように彼を引き止めていたのだろう。彼が彼であったことの一つの証拠として、彼をここに縛り続けた。
「俺は一人だった 」
だから、仲間が来たと思ったのだ。あの棺の中は俺の同類だったのだ。この体も欲しかった。こいつは俺に気がついたのだ。一緒にいられると思ったのだ。
包突は哀れに感じ同時にあまりに若い気もしたが非難がましく感じたわけではなかった。
「弱い“戦士 ”よ」
そう告げた。残酷だった。しかしそれが彼にできた、たった一つの慰めだった。そして、散らばった骨の中から髑髏を拾い上げると長い間に積もった塵を払い叩き割った。
「うまくやりやがったな 」
頭蓋骨の天辺の一枚を懐に入れて、後の骨は粉々に砕いた。庚楊の顔が不思議と安らいでいった。包突は庚楊の傷を手当てし、手足を固定すると彼を背にしょって、みなのもとへと向かった。駆けることは風のごとく、石の林をまるでハイタカが潜り抜けるようにして走りに走った。包突の時間もやがて失われていく。徐々にではあるが後ろから闇が迫っていた。遠くに松明の明かりがポツンと見えた。もうちょっとでこの試練も終わる。これが終わればあとは一つだ。にわかに安堵の息が漏れた。やがて、河原で松明を掲げる虎魁が手を振っているのが見えた。ほかの者はどうやら渡りきって対岸にいるらしい。不意に自分の力が抜けていくのが分かった。想像していたよりも早く時間が来てしまったのだ。それにつられるように後ろの闇が加速していく。今まではまるで重さを感じなかった背中の庚楊が急にズシリとのしかかってきた。包突が河原に出た時、背後の暗闇はまさに踵を掴まんところまで迫っていた。虎魁が何事か叫んでいる。もはや、異常な状態であることが常人にも確認できるほどになっているのだ。どうも、そもそもの刻限だったのかも知れぬ。踏みしめる一足ごとに大地に力を奪われる。目がくらみ、意識が遠のく。何かが足を引っ張った。と同時にすさまじい力が包突をどこかへと運んでいく。その感触を最後にすべてが途切れた。
○ ○
体がある……
気がついた包突は最初にそう思った。どうやって助かったのかは思い出せなかったがどうやら助かったようだ。横には庚楊が横たわっている。その様は見るも無残に青ざめてあちこちの傷だけが妙な赤みを帯びたり、黄色味がかったりしていた。それに比べて自分のなんと無事な事か。確認せずともそれと知れる。体を横たえたまま、かさかさとかすれた声を出した。
「おい、時間は大丈夫か?」
この長いトンネルの中では補給は見込めない。ここを出るのが遅れれば行動に支障が出る。手持ちの物は限られている。それはさっきまでの体力のもしくは生命力のおかれた状態と似たような事情だった。
「ああ、大丈夫だ。あんたが早めに目を覚ましてくれたおかげでな 」
答えたのは虎魁だった。みな、包突が目を覚まし安心したようだった。そちらこそ大事ないか? と黄が尋ねたので包突は問題ないとだけ答え、起き上がろうとして右肩に強い痛みを感じた。どうも肩が外れかけていたようだった。
「痛っ……」
肩を抑える包突に黄が説明した。あの瞬間黒い靄のようなものに足をとられ転倒した包突の右腕に虎魁が命綱に使っていた縄を投げ縄の要領で投げかけ、満身の力で引き上げると、そのまま河まで担ぎこんだのだった。不思議なことに黒い靄は河の水の前に、壁でもできたように停滞してそこから先へは進めなかった。もちろん、それが何か知っているものからすれば、不思議でもなんでもないことだった。しかし、危険な状態だったのは確かだ。包突が足を確認してみると、くっきりと何者かの手の跡が残っていた。
「庚楊の様子はどうだ?」
虎魁が首を振りうつむいた。
「まだ、生きてはいるがこの旅を続けるのは無理だろう。ここに置き去りにするわけにもいかないが、いつまで持つかも怪しい 」
包突が懐に手を入れると、そこにはつるつるとした硬い欠片があった。あの亡者の骨だ。そして、ここに置き去りにするのだけは避けようと思った。
「どうしようもないか?」
玄らにむかって尋ねた。玄は言った。
「さすがにここではなんともならん。できる限りのことはしたが……」
そうか、とだけ返事をすると、包突はその事について考えることをやめた。兎朴が少しはなれたところでうなだれていた。
「仕方ないか……」
この場は俺が背負おう。そう虎魁は言った。
「玄や耶尭申は論外、おっさんもその様子じゃあ厳しい。黄、青、白は棺の世話をしなけりゃならない。残りは俺、クトウ、兎朴だが……」
「俺が背負います 」
俺がやると、再び言おうとした虎魁をさえぎって兎朴が言った。やらせてくださいと訴え出た。もちろん幼友達で親戚同士の庚楊に対する思いもあったが、兎朴は庚楊のことに責任を感じているようだった。ただ荷を増やすのとはわけが違うぞ? と言ったが兎朴の決心は固かった。ならばと言って、背負子をつくりそれに庚楊を乗せ、折れた手足が邪魔にならぬように固定した。最後の試練を越えれば、このトンネルも終わりだ。
道は徐々に登っていった。あの迷宮はそれと意図させずに人を地下深くへと潜り込ませていた。出口は奥壁から西へかなり行った辺りの山麓の森になるはずだ。とぼとぼと傾斜を進み続けると、先ほどまでの石柱郡が列を成して回廊のごとく、それがやがて壁のごとくになり、あれほど広大だった空間は仕切られて天井は徐々に低くなってきている。気がつけば迷宮は隧道になっている。その気分はここに入っていったときに似ている。そして何とはなしに出口が近づいてきていると思わせられる。ただ、最初の道のようにまったく横並びになるのもつらいような狭さではなく、割と大きなトンネルだった。その大きな隧道を行くと馬の足音が響いた。それはかっぽかっぽとどこか間抜けだった。地下の沈滞した空気を揺り動かして風が足元を流れていた。それが向かう方向から起こっているのがわかる。みな疲労して足取りは軽やかにとはいかないが、その風には希望が乗っていた。
やがて、先頭を行く虎魁が立ち止まった。
「ここから先は俺の後を慎重について来るんだ……」
そう言った虎魁の前方はくびれたように穴が小さくなっていた。この試練は簡単だ。決まった所作で決まった場所を通る。それだけだった。その穴をくぐるように入る
「見ろ 」
薄暗い空間はまた天井を低くし横長の楕円を輪切りに切り取ったような印象だった。火をかざすと、おおよそ、百歩ほど先に入り口同様の穴が口をあけているのが見える。そこをさらさらと音がする。虎魁がそこら辺に落ちていた小石を投げ入れるとドッと音を立て落ちた小石が音もなく沈んでいく。流砂だ。
「小石だからあの程度だが、人が落ちたらあっという間だ 」
底がどうなっているのかは誰も知らない。ただ、見ただけではよくわからない通路が延びている。一行は準備に取り掛かった。まずは虎魁は昔の話を思い出しながら順路の確認を急いだ。実際のところ、道幅がどうなっているのか? などはまったく見当がついていない。ここに来て実はそれが大きな問題だということがおぼろげながら分かってきた。もしかしたら、人はともかく、馬や荷を運ぶのはとても難しいのではなかろうかということだった。
ともかく、はっきりしたことが分かるのは道が分かってからだということで、虎魁が杖で探り探りして先頭を行くことになった。
まず、方角を調べる。よくできたもので、通路の出口が真北になっていた。
最初は真ん中から北東に十五歩。ちなみにこの時の歩は決められた歩幅だ。よほどの体格の違いでもない限り、狄鏢の局員はみな強制されて学ぶものだ。
十五歩行くと壁の手前で止まった。その間、道幅を杖で調べている。道幅はおおよそ虎魁の肩幅である。馬には多少窮屈だ。
真西に三歩進み、四歩ぶん北西へ飛ぶ。幾分滑るものの問題はなかった。着地点もそれほど小さくはないようである。
さらにそこから東へ五歩ぶん飛ぶ。かなりの距離だ。着地と同時に北へ二歩飛ぶ。
虎魁は分かりにくいところには足元に目印として線香を置きながら進んだ。
虎魁が先に進めば進むほど、明かりが小さくなっていった。そのため、残りの松明を各々が一つずつ点けて、どんどん先へと進んでいく虎魁を眺めていた。
「これなら大丈夫そうだな――」
黄がつぶやいた。黄は急ぎ棺の荷台を組みなおし始めた。馬の背に横倒しに担がせるように乗せるのだという。マードゥの者達は何をしたいか心得たようであった。
「なに、こいつらもただの馬ではないんだ」
そう言って、にやりと笑った。
虎魁がふと足を止めて振り向くと後ろではなにやら数人が作業をしている。
「おい、なにやってんるんだ! ちゃんと見ろよ!!」
虎魁はつい頭にきて怒鳴りつけた。なるべく心がけているから温和に見えるが意外と気は短いのだ。怒鳴り声が反響していく。
「大丈夫だ! 見ているよ。荷運びの準備だ 」
黄が怒鳴り返した。心なしかうきうきとしているように見える。彼らは馬とないかする時はいつもそうだった。
「なら、いいがな! 失敗したらただじゃすまないんだぞ!!」
それから、虎魁は暫く作業の終わりを待つことにした。どうも気抜けしてしまって、馬鹿らしくなってしまう。作業は半刻ほどで終わった。終わると同時に兎朴とクトウ、それから、耶尭申が一組になって移動を開始した。三人一組なのは、もしもの場合に備えてだった。もっとも、前からは虎魁の指示が出るし、後ろからは残った者のアドバイスがあった。
「気をつけろよ、兎朴! お前は人を背負ってるんだ。普通の飛び方ではやるな。技を使え 」
虎魁が言ったのは狄鏢に伝わる技のことで、狄鏢では古代ティキ族がよくしたといわれる技がいくつか伝わっているのだが、その中に三跳二奔というものがある。三跳とは三つの飛び方、二奔と二つの走り方の事で、これを組み合わせることでさらに特殊な動き方ができる。通常より速く力強く、また静かに動ける。使いこなせれば、山野を獣より巧みに走ることができるというが、今はそれほど巧みなものは数えるほどしかいない。幸い兎朴は達人といわなくとも、若者の中ではかなりその技術に長けていた。兎朴は細心の注意を払いながらも、すばやく器用に進んでいく。クトウも身軽にその後を追った。耶尭申はだいぶ苦労しているようだったが、クトウがよく助けた。
やがて、兎朴が虎魁に追いつく頃、虎魁も先に進み始めた。その頃になると、包突が動き出し、それに玄と黄が続いた。後ろの二人はまだ動く気配がない。
「なぜ、後に続いてないんだ?」
虎魁は訊ねたがいいから行けと言うばかりだった。玄が改めて“心配は要らないから ”というのでならば大丈夫だろうと、さっさとむこう側に向かって進んだ。
先行組みが渡りきったのを確認すると、青は棺を載せた馬の鼻面をやさしく撫でて何事か言い含めた。そして、出口のほうに鼻を向けるとピーと指笛を鳴らし、馬の尻を叩いた。馬は体を軽く震わせるとまるで犬のように先ほどみんなが通った道を駆け抜けた。完璧と呼ぶしかないような動きだった。どうしても、四本の足が収まりきらない様な所もあったにもかかわらず、そこを速度と跳躍のタイミングで走りぬけると、瞬く間に向こうに着いた。見ていた虎魁たちティキは唖然としたが、マードゥたちは耶尭申ですら驚いていなかった。
「我らはもともと馬の民だからな。そして、この馬は特別の訓練を施してある。別段、驚くにはあたらない。ただ、この馬たちは小さすぎて長い距離を移動するのには向いていないんだ。器用だがね 」
玄が満足げに言って、たった今、眼前に到着した馬の鬣を撫でた。そして後から青がやってきた。
青が渡り終えると、白は残った馬の背にまたがってあっという間にこちらに到着した。
結局最後の試練は緊張したのが馬鹿らしいほどにあっさりと片がついてしまった。目の前の穴をくぐると道はごつごつと岩がちだったが空気が新鮮だった。障害物を避けながら最後の回廊を登っていった。突き当たると新鮮な風の匂いが低くなった天井から吹き込んできた。それはもう岩の天井ではなく垂れ下がった蔦の固まりだった。日差しが目を焼いた。地下に入って三日目の朝だった。たった二日とちょっとの間だったが、穴の中は相当に堪えていた。日の光のもとにさらされたその顔はみんなしわくちゃだった。それ以上に驚いたのが、体中が灰色一色になっていたことだ。体から払っても払っても灰色は中々落ちなかった。
外に出て急激に庚楊の様子が変わった。もともと体はほとんど動かなかったが、にわかに発熱し痙攣していた。
「ここはもう外なのですか……」
今まで戻らなかった意識が戻った。うっすらと目を開けてか細い声でつぶやいた。
「ああ 」
庚楊はもう目が見えていないようだった。
「そうですか……でもこれで終わりだなぁ 」
兎朴が手を握り返したがその手は握り返してはこなかった。
「……死にたくない……」
それだけポツリとつぶやき、一筋涙を流すと、それと一緒に流れるように熱が体から抜けていった。涙の流れた後だけが埃を押し流し、鮮やかに肌を輝かせた。
兎朴が泣いていた。押しとどめても次から次へと流れる涙に抗うすべはなかった。みなは底から少し離れ目をそむけた。兎朴は誰彼はばかることなく声を上げて泣いた。
庚楊は再び地に帰って行った。
兎朴は涙を拭うと、必ず迎えに来ると言い残して前を向いたのだった。




