プロローグ 第一章
時がある限り、誰にでも歩みがある。老人も若者もみな道半ばにあり、物語はどこからか始まり、何処かへとながれていく。すべて飲み込まれて渦の中にある。
世界の片隅で今日も物語はつむがれている――
プロローグ
強く横殴りの突風を受けた雨粒は、光を含みながらダイヤモンドの飛礫のごとく宙を舞った。ゆっくりと押し出された小船は滑らかに水面を滑り、尻の下にやさしく大きな力の流れを感じさせるのだった。遠ざかってゆく岸を眺めながら、クトウは考えていた。
「師匠は何処へ行ってしまったのだろうか?」
かつて、居場所を失ったクトウに新たな生き方を教えてくれた師はある日、忽然と姿を消した。一言、その時が来たらまた会うだろうと残して。クトウはいわゆる呪術師だった。まだ半人前の上、拾われてきた他族の者だったので、彼を認めようとはしないものも多かったが、それでも師と共に過ごし、その技を伝えられたただ一人の男として名を馳せていた。
師が去ったあとは、季節ごとに森を移動をする仲間とは別れて、冬の棲家で三年の間、一人で暮らしていた。しかし、それもつい一月前までで今は流離の身だ。師の導きのないまま、もうこのままでは先に進めないと、心が折れかかっていた。そのために再び歩き出すための試練が必要だった。
それは、きっと己のうちに住まう何かだろう。かつて師はよくその話をしていた。けして、片時も離れず自らのそばにいるそれは一人前の呪術師なら必ず連れているものだといっていた。
「呪術師はそれを友とし語りかける」
師の言葉だった。呪術師はその腕をとり共に歩む。皆その中にあってそれを知らないのだ、とも言っていた。
それを見つめ直すための一人の暮らしだったが、そこには特別の変化を見出しえなかった。
――何かとても大事なことを忘れている
師の話を思い出しながらクトウは思った。それが修行に関することなのか、それとも、もっと別の何かなのかは解らなかった。ただ、師匠に会えば自ずと知れようと思えた。そして、それこそが試練なのではないかとも考えられた。探し物は二つ、師匠と忘れた何かだ。しかし、それは余分だ。余分を振り払うべく体を動かした。
澄み切った水の底、きらきらとした光が岩石と桂砂の上に薄い影の帯びを投げかけ、その櫂の滴はまだらの模様に一層の煩雑さを投げかけて目もくらむようである。時節は既に春も半ば、辺りには若葉が生い茂り先ほどの雨の恵みを一身に集め今は日を求めて天に手を伸ばしている。先ほどまで雨を避け接岸していたクトウも再び櫂を取り、河を行っている。
まさにものが動き出す季節なのだ。俺も動き出そう! まずはこの河を下って南の地へと……
1
嵩国は古くはいくつもの民族が暮らしていた土地だった。それが長い年月のうちに時に争い、時に手を結び、人が行き来しているうちに溶けて混ざり合い一つの文化と国を持った強大な国だ。伝説では嵩王はその権威の及ぶところ九族をまとめて国の礎としたと言う。
その国の北方に位置する都市 “皆壌 “ここは永くこの大陸の北方諸民族の交易拠点として栄えた街である。元来は嵩の街ではなかった。そして、近隣にあるこの規模の都市はここより十日の距離にある奥壁だけだ。
故に嵩人はこの皆壌を文明の及ぶ土地のもっとも果ての地の一つとして考えている。ここより先は異民族と古代の亡霊の住まう土地としてまっとうな嵩人は足を踏み入れないのだ。
だが、その境界であるこの街は、嵩国の外からの物品を手に入れられ、しかも、外国の様子を知る事の出来る場所であるため、嵩の商人や流れ者の集まる街だ。そして、交易品を求めているのは何も嵩の人々だけではない。自然と、北方の一大拠点となったのだ。
クトウは今この皆壌にいる。あの河(クトウの属していたコルキセ族の言葉でブユルメク、嵩の言葉で大藍)を南へと下ること十日、嵩国の領土の手前で陸路をとった。ブユルメクを下って嵩に入っても、その辺りは嵩人の漁村と農村が多く、とても異民族の呪術師など受け入れてくれないであろうからだ。舟は獣の皮と木で出来た軽いものであった。当初、おおよそ五日の道のりならもっていけるかもしれぬと思ったが、雪の無い季節にあれを持って移動する事は難しく、また、利点も無かった。元々川辺の部族に無理を言って譲ってもらったものだ。なので川岸の良く見えるところに置いてきた。
皆壌の街は石で出来た壁に囲われており、東西南北の大門と、北東、南東、南西、北西、の通用門がある。街の北東方面から東方面は森林地帯が広がり北から北西までは草原地帯が、また南は嵩人の農地が城壁の外に広がっていた。クトウはこのうち、森林地帯を抜けて北東門から入った。
街に近づくと、森は切り払われ草もまばらな平地が広がっていた。この大地を区切るように小さな崖のような石の壁が延々連なっており、分厚い木の板で作られた門は高さが大人の男の背の五、六人分はあった。その間口は幅がおおよそ二十歩といった所である。そして、後で気づくのだが門の表は真っ白に塗られ、黒と朱の染料で恐ろしい目玉と口を持った怪物の顔が描かれていた。人に聞いた話では東西南北の大門はそれぞれ通用門の倍近い大きさで、頑丈なつくりの外門と華麗な造りで楼閣のついた高い、扉の無い内門で出来ているらしい。
クトウは、とりあえず、皆壌に着けば何かあるだろう。もしかしたら、師匠の話も聞けるかもしれない等と、だいぶ楽観的に考えてここまで来たのだが、嵩の言葉はまるでわからず、皆壌で嵩語についで用いられる北方諸族の通用語は辛うじてわかったもののクトウのいたコルキセ族は比較的僻地の民だった為、クトウの言葉は訛りが強く変な顔をされる。
ここに着いてから既に五日経ったが、最初の感動は次第に困惑へと変わって、もとより金などというものを持っていないクトウは寝る場所も無く、夜になると街を出て皆壌近郊の森にそのねぐらを求める有様だった。
さすがに、このままでは埒が明かないので何かを売って金を造らなければなるまい。持って来た食料もそろそろなくなってしまう。今はいい季節であるとはいえ、都市の近くでは食べるものを採ろうとしても十分な量があつまらなかった。
しかし、クトウには、何を売ればいいのかすら解らなかった。何故なら街にはクトウが必要とする以上のものに溢れていたからだ。
この街に着いて二日目の頃、クトウはここがどういった所なのか、今まで見たことの無い街というものについて見て回っていた。よく観察する事は師の教えでもあったし、初めて見る人の多さや石で出来た建物などクトウにとって珍しいものだらけの街は興味を引いた。まるで想像もつかなかったふかふかした食べ物や見たことも無い木の実、沢山の宝石や金銀、織物が並んでおり、今まで自分が見たことのあるものでさえ、考えた事の無い扱われ方をしていたのだ。
すっかり面食らってしまったクトウはきょろきょろと街を歩くだけで三日もかかってしまっていた。
そして三日目の夜に至ってついに、ここでまず何をすべきであるかを考える余裕が出来たのだった。それがつまり、ここでは何をするにも金というものが必要で、自分はそれを得なければならないという事であったのだ。
さてどうしたものだろうか?まず、いま自分は何を持っているか整理しなければならない。背負っていた背嚢と短弓と矢の入った矢筒それから革張りの盾のような太鼓を降ろし、腰に着けたポーチを外し、そして、ベルトの背部に差し込んでいた小刀と肩掛けにしていた大鹿の胃袋で作った水筒を降ろした。
チョロチョロとした嘗めるような焚き火を前に、それらの荷物を並べ必要なものから再び身につけていく。まず小刀を抜き様子を見る。重く黒光りするその刃物はやはり必要だ。本体の刃は鉄で出来ており柄にはなめした鹿の皮が巻いてある。この小刀はかつて師匠からもらったもので呪具の一つでもあった。特徴的なのは、柄尻に小さな石英の刃がついており特別な草を刈る時は鉄の力で相手を汚さないためにこちらを用いるのだ。普段は料理からちょっとした細工まで何にでも使うためこれは手放せはしない。改めてベルトの鞘にしまいなおす。
次にポーチの中身を見る。火熾しの穂口(ジブ松の葉を刻んだものと糸杉苔を乾かした物の混合物)が一袋、火錐杵の芯が使いかけのものも入れて八つ、火錐臼が四枚、そのまま口にできるナッツの類をまとめておいたものが一袋、同様の袋の中にベリーの類が少しといったところだ。これもやはり、手放せないものばかりだ。
さらに、それを片付けると、背嚢の中身を広げる。こちらはまず、火錐杵一本(だいたい手の平をいっぱいに広げた長さより少し長い程度)、丈夫な縄が二つ、食事用の木の小鉢、小鍋、それから木の匙、頑丈な木でできたすり鉢、すり棒、調合済みの傷薬が少々と、各種の薬種(主に薬草)が小袋ですべてあわせて九袋、それから、ポーチと同じナッツ類が、木の皮で編んだ蓋付きの平べったい円筒形の籠に一つ毛皮の袋に入った鹿の燻し肉が数枚、そして、呪術師の正装である鉄片と皮ひもの沢山さがったジャラジャラ鳴るひだ(・・)たれ(・・)、腕輪、帯、足輪、鉢巻の一揃い、化粧用の顔料に呪術用の干し茸だ。
この中で手放しても大丈夫そうなものはいくつかの薬草と傷薬を半分くらいだろうか。それにしたってまとまった量のあるものではなかった。その他、水筒や弓矢一式も旅を続けるためには手放せないし、今、頭を覆っている渦巻きの赤い刺繍の布はコルキセ族の証であり誇りだから論外だ。
すっかり途方に暮れて、こんな事ならば、あの舟を解体して持ってくれば何かの足しにはなったかもしれないなどと考えていると、目の前の焚き火がずいぶん小さくなってしまっていた。
その火を消すまいとして、手近にあった、薪で灰を返してから弱まった火勢に合わせて細い枝に切れ目を入れていくつか放り込んだ。もうすっかりしょぼくれていた火はテラテラと嬉しそうに小枝を嘗め、チリチリと音を立てながら燃え上がった。
その様子をぼんやり眺めていたクトウは、はたと思った。皆壌でも人は火を使うではないか!薪くらいならすぐ集められる。
翌日、クトウは皆壌には入らずに、森の中で薪を拾っていた。どれが燃えやすいかを吟味しながら、昼までには一抱えもある束が四つ集まった。それを午後いっぱい火で乾かし、1束ずつ森で生えていた蔦で纏め上げると持っていた縄で背負えるようにくくり、明日の朝早くに街に売りに行こうと心に決めて床に就いたのだった。
翌朝、日が昇りきる前に寝床を出たクトウは一路皆壌へと向かった。かなり早く出てきたつもりだったが、クトウが森を抜け北東の常用門に向かう林道に合流すると、既にかなりの人が街に向かって進んでいくのが見える。その人々の格好や規模は様々で、クトウのように毛皮の外套に木の皮から編んだ筒状の下穿きをはいた者、嵩人の農夫や漁民が着る丈夫な木綿の下穿きに継ぎの入った丈夫なやはり木綿の上着を着ている者、ひらひらした布きれにすっぽり体を覆い毛皮の帽子を被った者等が、ある者は不思議な獣、“馬”というらしいに乗り、またある者は大きな車輪のある車を引かせていた。また、二十人ほどもいる集団もあればクトウのように一人のものもいる。なかにはクトウの見た事のある部族の者もあった
なかでも、クトウの目を引いたのはまるで祭りのように輿の上に載せられている人がいる集団だった。どうも嵩人のようだが着ている服も艶々した不思議な布でできた丈の長いゆったりしたものを着ている者が多くきらびやかだった。
通用門に着くと、もう門は開いていた。城壁に沿ってまだ幾つかの天幕が張られており、昨日の閉門までに街に入れなかったものが過ごしていた跡が見えた。クトウはこんなに沢山の見知らぬ人と近い距離で寝泊りするのを嫌ってわざわざ森に入っていったが、通常、時間に間に合わなかった者やあまりに大所帯でいっぺんには街の中では泊まれなかった者、あるいは金がなくて宿が取れなかった者は城壁の前に寝泊りするのが普通だった。
門を入るとクトウは簡単な鎧を身に纏い、刺叉を手にした二人組みの男に声を掛けられた。
はて、何の事だろうと立ち止まって話を聞くが嵩語で言っているためよく解らない。しょうがなくおろおろしていると横から野次が飛ぶ、やはり嵩語なので解らないが、ここにいては邪魔らしいのはかろうじて理解できた。ところが場所を移ろうとすると鎧の男が押しとどめる。
鎧の男の一人がどうも話が通じていないということに気付き、相方と二言三言交わすと門の反対側で同じように人を捕まえていた人物のうち一人に声をかけて連れて来た。
その男はクトウを見ると北方の通用語で言った。
「あんた、商売だろう。売り物はこれだけか? 」
初めて、わかる言葉で訊かれてクトウは心底安心した。
「そオダ、コれダケだ」
きつい訛りで答えたので、相手は一瞬顔をしかめたが、それから、後ろで見ている二人に嵩語で話しかけて、それから、クトウに訊いた。
「これは薪かい? ちょっと、確認させてくれ」
といったので、見れば解るだろうと思いながら
「いイよぅ」
と答えると二人の男に手で合図をした。
例の二人組みはざっと薪の束を見渡して腰に提げていた札の束の一枚に印をいれて通訳の男に渡した。
通訳の男は、その札を受け取ってから、クトウにこういった。
「すまないね、気を悪くしたかね? 商いをするものは向こうに並んでここで検閲してこの札を貰わなければならんのだよ。荷物の量の多いものからはこの街のために税を貰っている事もあってね。まあ、はじめてなら知らなくてもしょうがない。通用門は商いの人も多くは無いし、通訳も少ないので、だいぶ心配させてしまったみたいだな。君の場合は高価なものを商っている訳で無し、量も多くないからそのまま通れる。場所割の決まっていない市ならばあっちにある」
クトウは頷くと、再び薪の束を背負い街の中へと歩いていった。
並んでいた人やさっきの三人に少し申し訳ない気持ちになりながら、クトウは広い通りを示された雑貨市場へと向かった。とにかく、大路を行けば見えてくるのは判っていた。町は慣れない者には恐ろしく煩雑であるが、クトウは呪術師の卵だからそのぐらいはなんて事もなかった。
街にはもう既に仕事を始めているものも多く、まだ日も昇って間もないというのに活気に溢れていた。黒光りする陶器の瓦に漆喰で固めた家々の屋根は二段になっていて上が急勾配で軒がわずかに緩くなっており、降った雪が高いところに留まらない造りになっていた。
ここは、クトウの住んでいたところと違って、恒常的に大雪が降る地域ではないが、それでも、二年に一回くらいは大雪が降るのだ。
その瓦が、朝日を受けてきらきらと輝いている。中には数階建ての建物もあり、それなどは、まるで、まぶしい川面を見ているように見えるほどだった。
道は各門から町の中心部に向かって伸びており、その突き当りには外の壁を小さくしたような壁で覆われた丘が一つある。それが丸ごと行政機関となっているのだが、クトウには意味も解らず、又、興味も無いものだった。クトウの用事のあったのは、あくまでその手前に広がる市場で、はるばる中心部まで向かう必要もなければ、張り出した立派な庇のある商店も気にはならなかった。表通りとそれに面した道は大体石畳に覆われており、クトウの見た限り、剥き出しの地面は特別な広場や路地裏に、たまに見かけるぐらいだった。
やがて、三日前に見た、市場のある広場にたどり着いた。そこは、北門の道から北東門の道にかけて作られた道の両脇に作られた広場で、端までが見えない程の道に沿って延々と続いている。ここには共用の井戸が幾つもあり、旅人の飲み水や屋台の料理などに使われる他、馬やその他の使役動物専用のものもあった。
この市場の入口付近は飲食物の屋台が多く、その奥に食材、さらに奥に日用雑貨、最深部では、少し高価な外国の品が並んでいるのだった。つまりここは安いものなら何でもあるところで、こことは違う場所に専門的に物を扱う市場もあれば、しっかりした商店もあったが、クトウにとってはここが一番ふさわしかったのだ。
クトウがよろよろと山のような薪を背負い、市場の中に入ると、中には邪魔そうにこちらを見る者や、わざと大袈裟に避けたりする者もいたが、大体の人はそんなに気にせずに通り過ぎていった。
どこに店を出せばよいだろうとクトウがきょろきょろと辺りを見回していると、小さな麺の屋台の横に僅かばかりの場所が見つかった。これで一息つけるとそこに荷を降ろすと、屋台からカンカンになった小太りの中年の男が飛び出してきた。
「そこは俺が毎朝机を並べるんだ! 荷を広げるんじゃないよ!」
薄い肌着に前掛けをかけた屋台の主人は包丁を振り上げ怒鳴り倒したが、クトウには解らなかった。
「なんだ、お前、狄か? 言葉がわからないのか! そこは駄目だ。 向こうにも場所はあるだろうが! ほら、あっちだ、あそこ 」
男はクトウの格好と様子を見て、包丁を帯に手挟むと、まだ怒った様子だったが、幾分勢いを和らげて道沿いから少し、広場の中に入った辺りを指差した。
向こうに場所があると言う事なのだろうか?包丁を振り上げられたときはすっかり面食らったが、刃物をしまった事で、少し安心したクトウは思った。なんだか解らないがどうもここは駄目のようだ。親父の様子を見ると、前掛けで手を拭い、折りたたみの机を指差しながら何かを言っている。
「キミ、いいね、解るね。一応、狄語だろう。キミ!」
男は嵩語訛りの通用語でキミキミと言いながらさらに指差す。
「オレ、アッチ行くノカ?」
クトウは自分を指差すと、通用語で答えながら、奥の方を指差す。
「そう、キミ、あっちだよ。 そうだ! ほら、荷を背負うの手伝ってやるから! 」
やあ、やっと通じたとばかりに主人は破顔して、薪を背負うのを手伝ってくれた。ついでに懐から、マントゥを一つ取り出してクトウに渡した。
「まあ、これも何かの縁だ! 若いの、朝飯に持ってきな! 」
嵩語だったのでちんぷんかんぷんだったが、男は手を口にやって食べるまねをした。クトウは、にこりと笑顔を返すと、マントゥをポーチにしまい、奥のほうへと進んだ。一度、屋台のほうを振り返ると、もう主人は机と椅子を並べていた。
それを見て “ああなるほど邪魔だったわけだ ”と納得して奥に向かう。確かに奥の出店の後ろ辺りはまだ店もまばらで使えそうな場所がいくつか見えた。
“なんだ、結構余裕があるじゃないか。よし、あの木の下辺りにしよう ”
そう思って、クトウは薪の束を降ろした。そして、軽くそこにある木に挨拶してから、荷を解いた。さすがにそろそろ毛皮の外套は暑くなったので脱ぎ払い、荷物一式を包んでまとめ、ひといき着くと今度は他の店のように売り物を自分の前に並べてみた。あとはさっぱり勝手がわからないのでぼんやりと座って人の群を見ていた。ざわざわという人の話し声や馬のいななき、カラカラと輪が付いた橇を引く音など路地は人で溢れ、音でも溢れている。
「しかし、言葉は何とかしなければならないなぁ」
コルキセ語で小さく呟く。ふっと目の前を小さな虎がよぎる。あれ? 今のは精霊の一種じゃないか! こんな所にもいるんだなと思いよく見てみると小さな人のようなものや、ふわふわした綿毛のようなのが偶にうろうろしている。なんだか嬉しい気持ちになってさっき貰ったマントゥを食べながら眺めていた。
さて、その頃、先ほどの屋台では客がだんだん出てきて忙しくなってきていた。
「おい、張の親父、こっち、汁麺四つな! 」
「へーい、了解! 」
額に汗を浮かせ、麺を茹で、ドロッとした肉味噌をドンブリに入れざっと切った葱と茸を加え、茹で上がった麺とお湯を注ぎ、あっという間に仕上げた。
「はい、お待ちどう」
机に運ぶ。
「はい、これ勘定な。親父」
どうも、と言って受け取り、腰につけた広口の袋に押し込む。
「そういや、さっき親父さん北方人と喋ってたよな?」
「ん、さっきの薪売りの若いのかい?」
「ああ、そうだよ、あれなんだったんだ?」
「いや、商いの場所探しみたいだったぜ、ここは使うからあの奥の方に空きが有るって言ってやったのさ」
「ふ~ん」
それがどうかしたかい?と忙しげに張は首をかしげる。
「なんか、引っかかるんだよな~ まあ、親父は仕事に戻ってよ。もう客が並んでるぜ」
なんと!と親父はすぐ注文を取り始めた。
「なんだよ、呂? 早く食わないと伸びちまうぜ。不思議な顔してないで食えよ」
「いや、呂が引っかかるのもわかるぜ。俺もなんかやばい気がするんだよな~」
「なんだ、高もか?」
「まあ、いい俺達は喰おうぜ。黄よ 」
ブツブツ言いながら食べていると突然一人が声を上げた
「あ! あいつやばいぜ! あの裏は最近、二黒幇の奴らの縄張りになったんだよ! 」
クトウが座っていると、あんた、どこから来たんだね? とか、何を売っているんだい? だとか、さっきから、数人の人が話しかけてきたので、キタダ、ブユルメクのキタ、マキダ、などと片言の北方語で説明していた。どうも、さっきから話しかけてくる人はほとんどが嵩の格好をしていたが嵩の言葉でなく片言でも北方語を使ってくれているので助かる。こうしてみると、ここは嵩と言うにはあまりに外国なのだが、クトウにはわかるはずも無かった。
しかし、ものは買ってくれない。というのも、クトウが値段はいくらか訊かれても、どうにも要領を得ないせいで、上手くいかないのだ。しかも、クトウはほとんど黙って座っているだけなので、最初は好奇心から覗きに来た客もだんだん来なくなる。当の本人は何故売れないのかさっぱりわかってはいない。太陽が地平よりも真上に近づき始めた頃には、もう、いい加減飽きてきていた。
そんな時、三人組の嵩人の男がニヤニヤしながらやって来きた。男たちは皆、左手に飾りも模様も無いすっきりした鉄の腕輪をはめていた。そして、クトウの前に来るとリーダーらしき長身の痩せた男が北方語で話しかけてきた。
「きみ、商売しているのか? 」
「ソオダ 」
クトウは答えた。
男たちは、クトウの答えを聞くと大笑いした。
「ソウダ、だってよ、ひどい訛りだぜ! 」
「信じられねぇな!何処から来たんだ? オレの狄語より酷いんじゃねえか、わはははは! 」
「しかもよう、薪を目の前において座ってるだけしかできねぇんだぜ! とんだ能無しだな! 」
嵩語ではあったが、さすがに、クトウにもなんだか馬鹿にされているらしい事がわかりムッとした。その表情を見て、また、リーダーらしき男が言った。
「いや、悪いね。こいつらはあんたが珍しいみたいだ。それでだ、じゃあ、きみはここで薪を売ってる、それで間違いないな?」
クトウは答えたくなかった。しかし黙っているともう一度訊いてきた。
「なあ、さっきは答えてくれたじゃあないか? これは重要な事なんだよ、きみのためにも、俺たちにもな 」
親切な口ぶりで訊いてくる。そして、後ろの奴らにも黙るように告げると、さらに、訊ねてきた。
「答えてくれよ? 」
「ああ、ココデ、これぇウッテル 」
仕方なくクトウが答えると、男は続けた。
「そっか、商売しているんだな。君、ここが誰の場所か知らないのか? 」
言うが早いか男は積んであった薪を蹴飛ばすと、クトウを蹴り倒してその胸を踏み付けて嵩語でいった。
「ごめんなぁ、小さな商いだって見逃してりゃあこっちの面子に関わるんでな 」
ぐりぐりと体重をかけられ、口から空気が漏れる。一体何が起きたのか?ごちゃごちゃする頭を整理しようとするが、上に乗っかった男はさらに激昂した様子だ。いったん、足を持ち上げて今度はかかとを強くみぞおちめがけて踏み降ろした。
「ガフ! かはっ……」
頭が真っ白になる、重く染み透るような痛みが胸と腹の境目から広がり、何とかその足をどけようともがくが、力が入らないせいだろうか? びくともしない。
周りの人々もあまりの男の剣幕に固まっている。
「おい、お前、あの荷物貰っとけ 」
男は指示を出す。
「へい、兄貴!」
あれは大切なものだ、盗られてしまったら俺はどうしようもない。クトウはとっさに手を伸ばし、荷物を置いた木の根っこを軽く指先で撫ぜて木の精に頼んだ。“あれを守ってくれ! ”と
「うわっと!」
すると荷物に手をかけようとした男は突然、出足を払われたようにすっ転んだ。ついでに先程ばら撒かれた薪で手を貫いてのた打ち回っている。
クトウには、木の精が男の足を勢い良くひっくり返したのが見えたが、他の人には何が起きたかわかってない。ただ、男が一人で転んだようにしか見えなかった。
「おい、なにやってんだ? おまえは役に立たねぇな」
やれやれと、もう一人のほうが、歩き出すが今度は風も無いのに木の葉が舞って男の顔に張り付いた。
「な、何だ!?」
さすがに兄貴と呼ばれた男も、一瞬クトウから目を離した。
その一瞬の隙に、クトウは足をどけると荷物に飛びついた。“こいつ何かしやがったのか? ”男は薄気味悪い思いを感じ、すかさず落ちた薪を拾い上げて、クトウの頭めがけて振り下ろした。
「この野郎! 調子にのりやがって!」
じわりと嫌な汗が噴出したのを押し殺すように何度もクトウを打った。
「ぎゃ!」
クトウは痛みに体を縮め、荷物に覆いかぶさるように地に倒れるが、相手は続けざまに殴る蹴るを繰り返した。口には血の味が広がり、手や顔は血まみれになった。ひぃ! と悲鳴を上げて堪えるクトウを誰も助けようとはしなかった。
やがて、ふっと、痛みが消え、光がさえぎられたかと思うと、クトウはそれきり意識を失った。